日本大学藝術学部文芸学科     2014年(平成26年)5月19日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.238
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 6/30 7/7
  
2014年、読書と創作の旅への誘い

5・19下原ゼミ

5月19日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室

1. 2014年のゼミ  → 5・12ゼミ報告・連絡

2.  自分観察 → テレビ観賞「オンボロ道場再建」・創作ルポ連載

3.  読むこと → テキスト『菜の花』・『空中ブランコ』

4.  書くこと → 提出課題「第9条について」「車内観察」 

車窓観察   NHKBS「世界の街角」プノンペンを歩くに想う

5月×日 何気なくテレビを見ていたら「世界の街角」という番組がはじまった。人の目線に固定したカメラが街の観光名所や通り、街の人たちの生活ぶりを映しながら、ときには話しかけたりして、歩調速度で進んでいく。居ながらにして世界の街を歩いた気分にさせる人気番組である。が、近ごろこういった番組は、多くなった。マンネリ化もしている。で、見るのは気分しだいだ。このときはチャンネルを変えようとした。が、手をとめた。
「きょうはプノンペンの街を歩きます」と言ったからだ。この街の名を聞くと、なつかしくもあるが、どこか重苦しい気持ちになる。そうして、この街がいまはどんなになったか、怖いもの見たさで見てみたくもなる。
もう46年も前になろうか。1968年から69年にかけて私は、プノンペンにいた。そのころのカンボジアは、シアヌーク殿下の統治下にあった。王制独裁社会主義国家で鎖国政策をとる奇妙な国体だったが、東西冷戦のさなかにあって綱渡り的外交と揶揄されながらも、一応の評価は得ていた。1968年といえば隣国ベトナムでは、アメリカ軍と北ベトナム、そしてベトコンが熾烈な戦いをしていた時期である。(アメリカはこの戦いで大勢の若者を死なせたことから、それまでの徴兵制度を廃止した。それにより敗戦も加速した)
だが、プノンペンは平和そのものだった。早朝からにぎわう市場、大通りを走るオートバイやシクロの流れ。象がゆっくり歩いていた。フランス風の街は、掃除が行き届いていてきれいだった。午後のメコンの岸辺。日本橋に吹き寄せる涼しい河風。夕涼みの人々。おしゃべりと笑いが尽きない静かな夜は、永遠につづきそうだった。あのとき、誰が予想できただろうか。その後、この国に怒ったあの恐ろしい出来事を...。一夜にして100万人都市が消え、僅か三年余りに200万余の国民が惨殺された。あの忌まわしいホロコーストが繰り返された。あの微笑みの国が「なぜ」その謎は、永遠に解けない。そんな気がしていた。ところが先日、市立図書館で、こんな本を見つけた。舟越美夏著『人はなぜ 人を殺したのか』(毎日新聞社2013)、「ポル・ポト派、語る」で、少し謎は解けた。(編集室)
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5・12ゼミ報告   参加希望者は4名(5月12日現在)

5・12参加者 → 西尾智音さん (ゼミ誌ガイダンスの件)

ゼミ説明 → 目標の再確認

確認、「読むこと」「書くこと」の習慣化、日常化を身につけ「観察力」を培う。

新聞評「集団的自衛権」について → 朝日・読売「社説」の比較

読売新聞 → 集団的自衛権で抑止力高めよ 解釈変更は立憲主義に反しない
 
「日本を巡る状況は様変わりした。とくに近年、安全保障環境は悪化するばかりだ。米国の力が相対的に低下する中、北朝鮮は核兵器や弾道ミサイルの開発を継続し、中国が急速に軍備を増強して海洋進出を図っている。領土・領海・領空と国民の生命、財産を守るため、防衛力を整備し、米国との同盟関係を強化することが急務である。」

朝日新聞(社説) → 平和主義の要を壊すな
     本質は他子九の防衛  行政府への抑止なく 憲法を取り上げるな 

「いまの議論が、日本の安全を書く実にしたいという思いからきていることはわかる。ならば一足飛びに憲法にふれるのではなく、個々の条件に必要な法整備は何かという点から議論を重ねるべきではないか。仮に政策的、軍事的合理性があったとしても、解釈変更で憲法をねじ曲げていいという理由にはならない。」

5・19ゼミ 
■5月15日(木)夕方6時、安倍首相は、集団的自衛権を合法化するため、記者会見を開き説明した。安部首相の言い分はこうだ。

・世界には1800万人の日本人がいる。予期せぬ有事の場合、今の法律では、彼らを守ることができない。
・同盟国が攻撃されても、手助けができない。

5月16日の朝刊各紙の見出しはこのようである。対立する意見

朝日新聞 → 集団的自衛権行使へ検討 首相が「基本的方向性」
       専守防衛、大きく転換
他国のために自衛隊の武力を使う集団的自衛権の行使に向けて踏み出した。
【社説】→ 戦争に最小限はない

読売新聞 → 集団自衛権 限定容認へ協議 憲法解釈見直し
       来月閣議決定目指す
【社説】 → 日本存立へ講師「限定容認」せよ
       グレーゾーン事態法制も重要だ

■DVD観賞 2002年6月~7月3回 日本テレビ放映0:30~0:55 「パワーバンク」番組「オンボロ道場再建」朝日新聞『声』欄の投書がきっかけ
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日本テレビ放映「オンボロ道場再建」まで

 創作ルポ 回想とドキュメントを混ぜて物語風ルポタージュにする

オンボロ道場太平記

 近年、町道場は激減している。この物語は、オンボロながら三十年近く町道場の灯を守りつづけた記録である。
大雪被害で風前の灯

一月×日

目を覚ますと、私はすぐに窓を開けて外をみた。昨夜、テレビの天気予報が関東地方に大雪注意報をだしていた。はたして団地の五階から見る外の風景は、白一色の雪景色だった。昨夜遅く降り出したのか、相当に積っていた。そうして、いまも視界がきかぬほど、こんこんと降りしきっている。大きな牡丹雪だった。一気に不安になった。
「まずい、道場がつぶれる ! 」
私は、思わず叫んで飛び起きた。
そして、急いで着替えると、ジャンパーをひっかけ雪の中に飛び出していった。家族のものは、布団の中から何事かと寝ぼけ顔で見送っていた。
町道場は、自転車で、七、八分、徒歩で十数分の距離にある。いつもは自転車だが、雪が二十㌢近く積もっていて、歩いて行く他なかった。
休日で早朝の、しかも大雪の住宅街は、森閑として無人の街のようだった。雪だけが、あとからあとから降りつづいていた。本当に大雪のようだ。
私は、人も車も通った形跡のない路地を、傘の雪を払いながら夢中で進んだ。慣れぬ雪に歩くのが困難で、一足一足がもどかしかった。
歩きながら私は、「こんなに降っては、もうダメかも」と、絶望的な気持ちになっていた。私の町道場は、このところ老朽化がすすみ、雨が降っても風が吹いても心配ばかりしていた。角を曲がると二階建て民家の間に挟まれた木造平屋建ての町道場が見えてきた。道場は、降りしきる雪のなかで懸命に建っていた。その姿に、思わず感動した。
「大丈夫だった。つぶれていなかった!」私は、足を速めた。
だが、道場の中に入って愕然とした。道場内は、廃屋同然だった。天井が、トタン屋根に降り積もった雪の重みで破損し垂れ下がり、あちこちから雪解け水がまるで雨のように降り落ちていた。壁のベニヤ板は膨らんだり、ねじれたりしていて破損カ所から雪が吹きこんでいた。道場は、まさに風前の灯だった。
惨憺たる光景に私は、なすすべもなく佇んでいた。暫くして、私は、我に返った。これ以上積もったら、確実に道場はつぶれる。不意にそんな恐怖に襲われた。こうしてはいられない。なにか手を打たなければ――私は、急いた気持ちになった。が、なにをしてよいかわからなかった。とりあえずバケツを雨漏りの下に置いて回っていたが
「そうだ、屋根の雪をおろそう」そんな考えがひらめいて外に飛び出した。
しかし、梯子を引き出したが、どこにかけていいのかわからなかった。道場は敷地いっぱいに建てられていて、隣家の裏庭からでないと梯子をかけられなかった。老夫婦が住んでいたが、挨拶ていどの付き合いしかなかった。主人は、昔、工事現場監督をしていたという、うるさそうなオヤジだった。が、背に腹は代えられない。逡巡しながら、
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隣家に行ってチャイムを押した。でてきた主人は、開口一番
「雪だろ」と、乱暴に言った。そして「かまわねえ、入って早くおろしな。つぶれたら、稽古できなくなる。そしたらこどもらが困る」
すべてお見通しといった顔だった。私は、何度も礼を言って庭に入った。人情に触れた思いがしてうれしかった。はしごをかけて一番上まで登ってみると、トタン屋根の上は厚い雪原となっていた。すでに中ほどは重さでか凹んでいた。屋根に上がったら最後、ペシャンといくに違いないと思った。仕方なく、物干し竿で作った雪かきで梯子にのぼったまま屋根の雪をかきおろすことにした。
案外、うまくいった。全部は無理だが、屋根の負担を軽減することはできた。私は、梯子を横にずらしながら屋根の雪をおろしていった。しかし雪は、一向にやみそうになかった。後から後から降ってくる。雪おろしは、まったく無駄な抵抗のように思えた。軍手の中の手は、感覚なかった。が、私は、やめなかった。他に雪から道場をまもる方法を思いつかなかった。私は、ただひたすら黙々と機械的に腕を動かしていた。どれだけ過ぎたろうか。
不意に下で呼ぶ声がした。見下ろすと息子の良太が立っていた。
「おう、手伝いにきたのか」
私は、うれしそうに言った。二人でやれば、もっと雪が下ろせるかも知れないと思った。
「母さんが、もうやめろと言ってた」良太は、怒り口調で言った。「やるなら、雪がやむのを待てってやれって」
「バカいえ!待ってたらぶっつぶれちまう」私は、怒鳴った。「ちょつと、はしご抑えてろ」私は、言って体をのばしてより遠くの雪をかき寄せた。
「オヤジ、危ないよ」良太は、言いながら渋々、はしごを押さえた。
そのあと私と良太は、交代で屋根の雪を黙々とかきつづけた。手が疲れてくると私がおりて、良太が昇って雪をかいた。
しばらくして、今日は、息子にとって重大な日だったことにはたと気がついた。大雪騒動ですっかり忘れていた。
「そうだ!今日は、成人式じゃないか !」私は、大声で言った。
「そうなんだけど・・・知らんかった」良太は、あきれ声で言った。
「忘れてた」私は、あわてて言った。「もういい時間、まだ間に合うんだろ」
「うん、まあ、昼からだから」
「そんなら早く行け」
「うん、じゃあ、おれ、行くから」良太は、あっさりそう言うと、雪の中に消えていった。遠くからもう一度
「ほんと、もうやめとけ」と、声がした。
成人式は、市の綜合体育館アリーナで開かれると聞いていた。息子にとって記念すべき日だが、えらい日になってしまった。普通なら今晩は、家族でお祝いを――そんなことを考えるところだが、このときは、そんな考え一つも思い浮かばなかった。
 一人になった私は、なおも屋根の雪をおろしつづけた。雪は、容赦なく降り続いていた。もう道場は潰れるしかない。わたしは半ばあきらめて手を止めた。そうしてぼんやり目の前の雪をながめた。なんだって、こんなことをやっているんだろう・・・そんなことを思いながら脳裏に道場での今日までのことが、次々浮かんでは消えた。


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息子の入門
四月×日

たとえば野球好きの父親が、子どもに野球をやらせるように。サッカー好きの父親が、子どもにサッカーをやらせるように、父親は、自分がやったスポーツを息子にやらせたがる。私もその例にもれなかった。
この日、息子の良太が小学一年生になった。入学式が終った後、家族全員四人で柔道の道場に向かった。
我が家は半年前、郊外のこの町に東京から越してきた。先日、家族全員で散歩がてら近くにある市役所支所に行った。帰り道、まったくの偶然に町道場を見つけた。私鉄のガード下をくぐって坂道を下ると四つ辻の路地。角の二階建ての民家の向こうに物置小屋同然の平屋建てがあった。色あせた青色の古びたトタンで囲っただけのみすぼらしい木造の建物だった。周囲の住宅とあまりに違うので怪しく思い
「こんなところに、なんだろう」 
と、近づいてみた。
埃にまみれたガラス戸の玄関脇に、ほとんどかすれているが
【講道館柔道練習所】〈望月道場〉
と書かれた二つの板看板が掛っていた。
「へーこんなところに、柔道の道場がある」
私は、感激して、埃っぽいガラス窓を覗きこんだ。
中は薄暗く空っぽの倉庫のようだった。右手の中壁に小さな明かりとり窓があり、そこから光が差し込んでいた。窓は、そこだけのようだ。床に三十畳ばかり畳が敷き詰めてあった。それで、たしかに柔道場とわかった。町道場を目にするのは、珍しかった。
「うん、ほんとうに柔道の道場だ」
私は、おもわず叫んだ。柔道は、大学時代にやっていたし、講道館にもときどき通っていたのでなつかしかった。それで思わず良太に
「柔道、やってみるか」と、聞いた。
「うん」良太は、すぐに返事した。そして確認するように「そのかわりスイミングには行かないよ」と、言った。
良太は、運動が苦手で、とくに水泳が大の苦手としていたので小学校に入ったら駅前にあるスイミングスクールに通わせようと話していた。すぐに返事したのは、どうせ通ううなら水より畳の方がまし、と思ったようだ。
そんなわけで、入学式が終わると、気の変わらぬうちに入門させようと、家族総出で連れてきたのである。道場に着くと、妹のモモが、真っ先にのぞきこんで知らせた。
「だれもいないみたい。なか、くらいよ」
「稽古は夕方からだ」私は、言って玄関脇に貼ってある紙を指差した。
【御用のある方は、自宅まで】
と書いてあった。下に略図もあった。
「この前、みておいた」私は、自慢そうに言って、先頭に立って歩き出した。「自宅は、すぐそこにある」
どうしても良太に運動をさせたい理由があった。良太は、生まれてすぐ白血球減少症という病名を告げられた。担当の女医は、「病気にかかったら、まず助からない」とま
で言った。風邪はむろんケガをしても命にかかわるという。私と妻の康子は、覚悟を決め日々の健康状態に一喜一憂した。ケガをしないように気をつけた。
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幸いにして良太は、その後たいした病気もせず成長した。白血球も、調べるたびに増えいって、いつのまにか正常値を保つようになっていた。それで、小学校に入ったら何か運動を、そう思っていたのだ。
 道場主の家は近くにあった。表札に望月由太郎とあった。いかにも柔道家らしい名前だった。玄関を開けると、小柄なお婆さんが前かがみで出てきた。道場主の母親。そんなふうにみえた。
「柔道のことで」と用件を告げると老婆は家の中に向かって
「先生、先生」と、呼んだ。
「おーい」という返事がした。
わりと大きな声だった。がっしりした柔道家を想像した。
老婆と入れ替わりに現れたのは、小柄なお年寄りだった。白髪で、耳だけがやけに大きかった。多分、老婆の夫で道場主の父親だろうと思った。ところが老人は、玄関にどっかと座り込むと大きなギョロ目で見据えて
「入門ですか」と、聞いた。
(後で知ったことだが、左目は戦争で負傷してギョロ目は、義眼だった。)
老人は道場主の望月由太郎先生だった。かなりのお歳にみえた。これも後で知ったことだが、このとき先生は七十七歳だった。柔道は、できるのだろうか。失礼ながら会ったはじめにそんな心配がよぎった。が、現在、小学生は十人くらい通っているとのこと。
望月先生は、小柄ながら言語明瞭でお元気そうだった。しかし、どうみても現役の柔道家の印象はなかった。
が、とにかく入門の手続きをすませ、先生宅を後にした。帰りに、もう一度、道場をのぞきこんだ。
「ほんとうに大丈夫かしら」
康子は、笑いながら言った。柔道のことは、まったく知らないが、望月先生がお年寄りだったので安心したようだった。
私は、なんと答えてよいかわからず、
「年寄りだって、できるさ...」と、口ごもった。
本当に柔道を指導できているのだろうか。そんな疑念もわいたが、とにかく通わせてみようと思った。
決まったらなんだか妙に腹が空いてきた。私たち一家は、昼を食べにラーメン店に向かった。

五月×日
          ふたたび柔道をはじめた日

息子が入門して一カ月が過ぎた。私は、迎えがてら子どもたちの稽古風景を見物するのを日課にしていた。望月先生は、厳しく教えていた。礼儀もうるさいほどだった。が、よくみていると子どもたちは、先生の目を盗んでふざけあっていた。言葉だけの指導がおもしろくないようだ。息子も
「注意ばっかりしてるよ」と、不満そうに話す。
 他の迎えの親たちは、ご高齢だからとあきらめ顔でながめていた。
そんなことから、私は一緒にやってみようと、思った。大人が入れば子どもたちも違ってくるかも。それになによりも、私も見ているだけでは、あきたらなくなっていた。健康のためにも、柔道をはじめてみよう。そんな気になっていた。しかし、一度やめた柔道。なかなか腰があがらなかった。が、今日、思い切って自分の柔道着を押し
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入れからだしてきた。道場に入って着替えていると、子どもたちが、珍しそうに集まってきて口ぐちに質問した。
「おじさん、柔道できるの」
「わざは知ってるの」
「投げたことあるの」
「強いの」
 柔道着の袖に腕を通した。最後に講道館で稽古してから五年ぶりだった。黒帯を締めると、子どもたちは珍しそうに、触ったり引っ張ったりした。望月先生は赤白帯だったので、黒帯を見たことがなかったようだ。望月先生がきたので
「子どもたちと一緒にやりますから」と、言った。
「あ、そうですか。経験あったんですか」先生は、ちょつと驚いたふうに言ってから「よろしくお願いします」と丁寧に白髪頭を下げた。ほっとしたようにみえた。
準備体操のあと、受け身練習がはじまった。私は、子どもたちの列に並んで望月先生の号令に合わせてドン、バタンと後受け身や横受け身をした。子どもたちは、気になるらしく、こうやって畳をたたくのだとか、足は、こうやるのだとか、寄ってきて教えてくれた。大人と一緒にやるのがよほどうれしいようだ。
身体が慣れてきたので、私は、回り受け身をやってみせた。何年ぶりだったが、うまくできた。子どもたちは、歓声をあげた。気をよくした私は、昔取った杵柄で、飛び込み受身をやってみせた。こんどもうまくできた。畳をたたく音が大きく響いて、子どもたちは、目を白黒させた。はじめて見る大胆な受け身に子どもたちは、大満足のようだった。帰り際、望月先生は、近づいてきて
「まだまだ、やれそうだね」と、笑顔で言った。「これからも、お願いします月謝はいりませんから」
「そうですか、じゃあ、できるときには」私は、頷いた。なにかすっきりした気持ちだった。私は、もう一度柔道をはじめることにした。昭和59年の5月のことである。        

私と柔道
 ×月×日

 高齢の道場主に代わって柔道を――いらぬ節介から、私は息子が入門した柔道の町道場で子どもたちと一緒に柔道をはじめることになった。
しかし、私の柔道歴は、心もとないものだった。私は、内気で運動が苦手な子どもだった。が、ヒーローは、忍者の猿飛佐助だった。
私が、はじめて柔道という言葉を知ったのは、そのころ国民的に人気のあったプロレス中継からだったと思う。熱狂のアナウンサーが、「この選手は柔道経験があります」とか、「これは、柔道技です」などと叫んでいるのを見ていて興味を覚えた。小さい人が大きな外国人レスラーを投げる。柔道を習ってみたくなった。
しかし、私の郷里は、木曽山脈の山ふところにある山村。柔道を知る人は、私が知る限りたった一人しかいなかった。噂だが昔、柔道家だったというのは、宿場町の豆腐屋の主人だった。彼は、毎朝夕、自転車でラッパを鳴らして村の端からはしに豆腐を売って回っていた。お相撲さんのように大きな体をしていたが、温和な人柄で「なしの屋の鉄さ」と呼ばれ村人から親しまれていた。後で知ったことだが、彼は、戦前は、満蒙開拓団として満州に行っていた。帰国後は、村にある梨の山に開拓者として入植していた。それで「なしの屋」と呼ばれていたようだ。
このなしの屋の鉄さが、むかし東京にいたとき講道館で柔道をやっていたという。い
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つもにこにこしていたが、名古屋で暴漢を投げ飛ばしたという武勇伝もあって、私は、ひそかに尊敬していた。そんなことから、豆腐売りのラッパを聞くたびに、いつか柔道を、習ってみたいと思うようになっていた。だが、信州の山奥では、その夢は叶わなかった。村には、柔道の道場はなかったし、中学校にも、高校にも柔道部はなかった。
 私は昭和四十年、日本大学農獣医学部(現生物資源科学部)に入学した。そのとき同学部の柔道部に入部した。柔道は、長年の夢だったが、初心者だったので私を知るだれもが驚いた。心配する声もあった。と、いうのは、前年に、東京農業大学のワンダーホーゲル部でしごき殺人事件があり、大学の運動部は恐ろしいところと思われていた。が、私には、どこ吹く風だった。そのころ冨田常雄の『姿三四郎』に憧れていたこともあったが、実際に背中を強く押したのは、題名は忘れたが前年テレビ放映されていた青春熱血ドラマの影響もあった。大学の柔道部員たちが主人公だった。

昨日、見つけた机の端に、
誰が書いたか三つの言葉、
真理、人生、ああ青春・・・

たしかこんな歌詞だった。私は、この主題歌が気にいっていて、大学に入ったら、絶対、柔道部に入ろうと思っていた。長年の夢叶ったわけだが、入部した新入生は、柔道経験者ばかりだった。私は、一からはじめるために藤沢市内にあった町道場、石井道場に入門した。教養課程は、藤沢校舎だったので、私は、その町に住んでいた。夜間日本石油のガソリンスタンドでバイトをしながら受身を練習した。そんなわけで最初に柔道を習ったのは、町道場ということになる。私と町道場は縁がある。奇縁である。
大学の道場では、同じ一年生にぽんぽん投げられた。彼らは、高校の柔道部で鍛えられたものばかりだった。
「きみなら、目をつむってても、片手でも投げれるよ」
と、からかわれたものだ。そして、実際に人形のように簡単に投げられた。そのかわり、ちょつとでも手こずらしたら、私が強くなった証拠。彼らの本気度が私の柔道の上達度だった。
一番最初の試合は、水道橋にある経済学部の道場で行われた学部対抗試合だった。歯学部四年生と当り、寝技で一本負けした。最初の勝ち試合は、西部新宿線にある野方警察学校との試合だった。背負いで一本勝ちした。大学で稽古しながら竹橋にある毎日新聞社でバイトした。守衛さんに誘われて新聞社の柔道クラブに所属して丸の内警察の道場で稽古した。いろんな大会に出たが、七割方、負け試合だった。
大学三年の夏、学園紛争で、校舎は占拠され授業ができなくなった。私は、柔道着ひとつ持って日本を飛び出した。柔道が盛んなフランスに行ってみようという計画だった。ナホトカからシベリヤ鉄道の経過もあったが、船にした。当時、外国旅行は、まだ船が主流だった。『なんでもみてやろう』にはじまって『アデウス日本』『西域潜行八年』など日本脱出本がベストセラーになっていた。
一九六八年の夏、私は、横浜メリケン波止場からマルセーユ、横浜間の定期貨客船「ラオス号」一万三千㌧に乗船した。船には、いろんな国の若者が乗船していた。
柔道修業から帰国するスイス人青年、アメリカ人のヒッピー、自転車で世界一周を目指す日本人の若者などなど。ほとんどが着の身着のままの無銭旅行だった。この時代、1ドル365円で国外持ち出し金は10万円までと決まっていた。
途中、大学の先生から紹介された人を、カンボジアのプノンペンに訪ねた。当時、カンボジアはシアヌーク殿下が統治する独裁社会主義国で鎖国政策をとっていて、入国は
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飛行機でしか手段がなかった。が、その珍しさから寄ってみたい気持ちになった。
紹介された人は、元高崎経済大学長の田中精一先生で、カンボジアの政府機関で経済顧問をしていた。私たちは予期せぬ珍客だったが先生夫妻からは、歓待された。カンボジアに住むことをすすめられた。縁は異なもの予定は未定で、私と友人は、プノンペンで暮らすことにした。
当時、王制社会主義で鎖国政策をとっていたカンボジアは、東西冷戦を巧みに利用して国内の安定をはかっていた。しかし、その平和もベトナム戦争激化で、風前の灯だった。が、魅力ある国に見えた。私と友人は、田中先生の紹介で、この国で農業の手伝いをすることにした。行き先はボコールという高原で、日本人家族が入植して農業を営んでいた。驚くことにこの時代、カンボジアは日本人の移民を受け入れていたのだ。
長期ビザの許可を待つあいだ、のんびりプノンペンで過ごした。プノンペンには、講道館から派遣された柔道家が一人いた。警察、軍隊、フランス人相手に柔道を教えていた。柔道家のO師範は、豪放磊落な人だったが、大酒飲みが玉に傷だった。メコン岸辺のダンスホールで大トラになって警官を何人も河に投げ込んだという武勇伝をもっていた。南方暮らしにすっかり退屈していて、私が柔道をやるとわかってたいそう喜んだ。夕方になると、私の宿舎にオートバイで迎えにきた。私は、後ろに乗って二人で各道場を回った。プノンペンには、立派な道場が三ヶ所あって、大勢稽古していた。彼らはエリート層でこの国の将来を担う若者たちだった。一緒に稽古した彼らだったが、ポル・ポト時代、ほとんど殺されてしまったと聞く。クーデター騒ぎで私は、一時帰国した。在日カンボジア大使館で、長期ビザもとり、再度のカンボジア入りを待っていた。が、インドシナ情勢は悪化するばかりだった。プノンペンの田中先生宅に爆弾が投げ込まれるなど、不穏な状況になり、先生夫妻は、帰国した。
外国熱も冷めた。気が付くと大学は学費未納だった。戻るか、やめるか迷っているうちに退学となった。しかし,柔道部だけは、卒業扱いで籍を残してくれた。柔道だけが、私を見捨てなかった。
所属をなくしてわかったのは、柔道をつづけるのはむずかしさだった。フリーの人は、講道館で稽古するしかなかった。それで、講道館に通うことにした。週に何日か通ううちに顔見知りもできた。が、はじめのうちは嫌なこともあった。新参者だというので、古参から、稽古を申し込まれた。古参連中は、若いときたいていそれなりの大会の出場経験者でめっぽう強かった。
私が入っていくと、いつものように寄ってきて稽古を申し込まれた。ボス格の、四十歳前後の大きな人だった。胸に刺繍があり実業団の出身者らしかった。私は、ほとんど子ども扱いだった。ポンポン投げられていたが、あるとき不意に汗で足がすべった。
次の瞬間、私の体は、畳の上に仰向けにあった。天井の電気がまぶしかった。一瞬、何が起こったのか、わからなかった。頭を起こしてみると、どうしたことか相手も倒れていた。周囲の皆は、ア然とした顔で佇んでいる。なんだろうと思っていると、相手は、立ちあがって、猛烈な怒り顔で私に突進してきた。私は、なんだろうと立ちあがった。相手は、ものも言わずいきなり足払いをかけてきた。私が倒れても、怒りは収まらず、足をあげて顔面を踏みつけようとする。私は何が何だか分からず、立ちあがって、たずねようとすると、憎々しげに怒鳴った。
「バカ野郎、捨て身わざなんかかけるんじゃねえ」
 捨て身技――?! 技で投げられたと思っているんだ。
「かけてませんー」私は、いいかけたが、とっさに説明してもわかってもらえないと思って詫びた。「すみません」
「気をつけろ! 」
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彼は興奮から冷めると、急に投げられたのが恥ずかしくなったのか、稽古相手を探しにぶいといってしまった。
あとで考えると、あれは横掛けか浮き技のような技だったのではないかと思う。ただ汗で足がすべって偶然、横すべりになっだだけだが、きれいにかかったようだ。
相手の人は、怒ったことが気になったようだ。あとで
「金曜会にはいらないか」と、誘いがきた。彼らは毎週金曜日にくる者同士、そんな会をつくっていた。私も一人で稽古するよりか仲間になってと思った。が、その後、家庭をもったことで、柔道は、だんだん遠のいていった。
このように私の柔道経験は、頼りないものだった。が、息子の入門で、また柔道着を着ることになって、ふたたび柔道人生がはじまった。

7月×日    観音様とカニ  はじめて「センセイ」と呼ばれる

 アパートの前に、大きな黒い乗用車が停まっていた。狭い道路なのに堂々と真ん中にとめてある。新しく越してきた103号室の住人の車だ。どこかに駐車場があって、ときどき乗りつけるのだが、どうもヤーさんぽかったので、皆、敬遠していた。
本当にやくざかどうかは知らないが、よく大声で夫婦げんかしていた。物が割れる音、壁をたたく音が、ときどきアパート中に響き渡って住人を怯えさせた。いつだったか、路地に入ってきた車が、103号室の車が邪魔でクラックションをピーピー鳴らしたことがある。103号室の住人は、部屋にいて、ゆっくりでてきた。四十前後の髪の長い中年男だった。が、なぜか上半身裸だった。へんな奴とおもいながら、みていると、背中が見えた。なんと大きな観音様の刺青が青一色で背中いっぱいに描かれていた。やっぱりやくざ者かと確信した。103号室は、なにをするわけでもなく、ゆっくり歩いていって自分の黒い車のドアをあけただけだった。が、背中をばっちり運転手に向けていた。クラックションを鳴らした車は、逃げるようにバックで、後戻りして行った。
 やっぱりやくざだ。アパートの住人たちは、不安がった。私は、ちょうど近くの団地に空き部屋が補欠であたり、引っ越すことになっていたので、ほっとした。が、なるべく廊下や前庭でぱったりあわないように気をつけていた。
 それが、今日、道場に行こうとして、外にでたら黒い乗用車が目に入った。まずい、出ていってからにしよう。私は、部屋に戻った。が、なかなか車は発車しない。良太の宿題も、終わりそうだ。しかたなく、自転車置き場から自転車をだした。幸いまだ出てきていない。このスキにと、家にいる良太を呼ばろうとした。
 そのとき、背後で車のドアの閉じる音がした。イヤな予感がした。そっと振り向いて見ると、黒い背広姿の103号が、こちらに向かって歩いてくるではないか。何かインネンを !
 とっさにそんな恐怖が走った。私は、良太を呼ぶふりをして自宅に向かって早足で歩きだした。とたん背後に駆ける足音を聞いた。マズイ、ほんとうだ。
 私は、小走りになった。
「センセイ、せんせい」
背中に、そんな声を聞いた。
 しかたなく足をとめて振り返った。103号が追いついて立っていた。細面の目が鋭い、みるからにヤーさんぽい。自転車で車体をこすられた。子どもが石をぶっつけた。そんないいがかりかも、一瞬、トリ肌になって体がこわばった。が、観念した。
私は、勇気をふりしぼって
「なんでしょう」と、言いかけた。
ところが、その前に103号は、何か入ったビニール袋をぐいと私の前に差し出して、言った。
―――――――――――――――――― 11 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.238

「せんせい。これカニじゃけ、いっぱいもらったけん。食べてみてくれ」そう言って渡すとさっさと車の方に帰っていった。そして、すぐにエンジンをかけて行ってしまった。
私は。ぽかんとして見送っていたが、あとで考えると103号室は、車のなかで私がでてくるのを待っていたのかも知れない、と思った。
 103号室は、私が、高齢の望月先生に代わって師範代になったことを知っていた。どこで知ったか、私は知らない。が、道場以外で、「せんせい」と呼ばれた最初の日だった。
 何年かして、駅の改札で、偶然103号室に会ったことがある。そのとき103は夫婦連れで、小さな男の子どもを連れていた。そして、うれしそうに
「先生、これわしの子どもじゃけん」と、紹介した。
 幸せそうに人混みのなかに去っていく3人の後姿を見送りながら、私は、不意に思った。103号も、子どものころ、きっと柔道をやっていたのだ。それに違いない、と。
 人の心をなつかしがらせるもの、つなげるもの。柔道には、そんなところがある。師範代を引き受けてよかった、なんでもないきっかけだが、そんなことを思った。

二人の高校生
 6月×日

このあいだ久しぶりに背広を着て電車に乗った。乗車時間だけを考えていて徒歩が抜けていた。で、時間がない。新宿駅に降りると都庁に向かって走った。新しい都知事青島幸男の記者会見がはじまってしまう。ぎりぎりだ。青島幸男が都知事になったので、友人が応援の月刊誌を創刊した。徒手空拳で組織政党に勝ったところが気にいっての勝手連だという。私は編集委員として手伝うことにした。手始めの取材だった。なんとか間に合った。その後、ゴミ問題、新宿駅西口のホームレス騒動などで走り回った。
 そんなわけで、道場からは、足が遠くなっていた。望月先生は、相変わらず怒っていた。私に、ずっと師範代をやって欲しかったようだが、そうもゆかなかった。
雑誌の特集記事も終わり落ち着いたので、久しぶりに道場に顔を出した。柔道着をふたたび着て、子どもたちと柔道をはじめてから十一年の歳月が流れていた。息子の良太は、高校の柔道部に入ったため、道場には、たまにしか来なくなっていた。半年留守したら通う子どもが、すっかり減っていた。
 日本の柔道人口は二十万人、フランスは七十万人。この数字が示すように、いまや日本の柔道は世界において後進国になりつつある。町道場の衰退も比例しているようだ。
がらんとした道場で二人の若者がプロレスごっこをしていた。私が休んでいるとき入門した高校生らしかった。二人は、私をみると照れくさそうに
「清水です」
「宮澤です」
と、挨拶した。
清水君は、一八十センチ以上はありそうなノッポ。宮澤君は、中背だが、鍛えた体だ。
二人は、高校二年生で、清水君は野球部だったが退部した。理由は、先輩との人間関係で、相手を殴ってやめた。宮澤君は、学校は違う幼友達。空手の道場に通っていたが、清水君が柔道をやってみたいというので、一緒にやることにしたという。
この二人をこれまで高齢の望月由太郎先生が指導していたわけだが、高校生は無理だったようだ。仕方なく二人は、プロレスごっこをしていた。やっと大人がきて相手をしてもらえるとうれしそうだった。逆立ちやバックテンして私が着替えるのを待っていた。私が準備体操をすませると
「お願いします」と、いきなり前に立った。すぐに乱取をやりたいというのだ。
「柔道の経験は、」
私は、苦笑して聞いた。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.238 ―――――――― 12 ――――――――――――――

「あります」と元気にこたえた。「体育の時間ですけど」
「授業で ?! 」
私は戸惑って聞いた。
「はい、でもふつうにできます」
ノッポ君は、プロレスごっこができるから柔道もできる。そんなふうに思っているようだった。
私は、一瞬どうしようか迷ったが、勇んでいるノッポ君に受け身だの打込みだのといってもはじまらない。ここは、柔道がどんなものか、みせてやるほかない、と思った。ノッポ君は、一六四㌢の私より二十㌢も大きくて力もありそうだった。
が、相手をするのに初心者ほど楽なものはない。
二人を代わる代わるぽんぽんと投げてやった。二人は、体が大きい自分たちが小柄なおっさんに、苦もなく投げられるのが納得いかなかったようだ。なんどもきたが、そのうち息がきれて動けなくなってしまった。
「受け身が上手になると、しぜん柔道もうまくなるよ」
私は、笑って言った。そうして、複雑そうな顔で立っている
練習を終えて、玄関をでると、二人が外で待っていて、
「柔道、教えてください」
ノッポの清水君は、野球部を退部して他にすることがないからと入門してきた。ヤセの宮澤君は、通っていた空手道場が面白くないからと入門してきた。
「お願いします」
と頭を下げる。
私は、困惑した。雑誌の編集手伝いもあったが、それよりもっと大きな問題があった。康子が、病気になってしまったのだ。乳がんである。
つづく

掲示板

◇募集 平成26年度「児童虐待防止推進月間」標語募集
 電子メール又は〒はがきに1作品。
メール:jidou.hyougo@city.wakayama.lg.jp 「票語の応募」
郵送 〒640-8043 和歌山市福町40 
       「和歌山市こども総合支援センター」標語募集担当 宛 6月10日締切

お知らせ  ドストエフスキー全作品を読む読書会
6月28日(土)池袋 東京芸術劇場小会議室7 午後1時半~5時迄。
作品『地下生活者の手記』2回目 参加学生500円(ゼミ生は無料)詳細は、編集室まで。

・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・

○創作、エッセイ、評論、など書けた人は「下原ゼミ通信」にお寄せください。いつでも歓迎です。〒かメール、手渡しでも。

□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net 09027646052


               2014・5・12
課題1. 「第9条について」       名前

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課題2.テキスト感想「菜の花と小娘」
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課題3.「車内観察」
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第一回テキスト読み『菜の花と小娘』

  本作品は『志賀直哉全集』岩波書店を編集室にて全文現代よみに変換しました。

菜の花と小娘
 志賀直哉
 或る晴れた静かな春の日の午後でした。一人の小娘が山で枯れ枝を拾っていました。
 やがて、夕日が新緑の薄い木の葉を透かして赤々と見られる頃になると、小娘は集めた小枝を小さい草原に持ち出して、そこで自分の背負ってきた荒い目籠に詰めはじめました。
 ふと、小娘は誰かに自分が呼ばれたような気がしました。
「ええ?」
小娘は思わずそう言って、立ってそのへんを見回しましたが、そこには誰の姿も見えませんでした。
「私を呼ぶのは誰?」
小娘はもう一度大きい声でこう言ってみましたが、矢張り答えるものはありませんでした。
 小娘は二三度そんな気がして、初めて気がつくと、それは雑草の中からただ一本わずかに首を出している小さな菜の花でした。
 小娘は頭にかぶっていた手ぬぐいで、顔の汗を拭きながら、
「お前、こんなところで、よくさびしくないのね」
と言いました。
「さびしいわ」
と菜の花は親しげに答えました。
「そんならならなぜ来たのさ」
小娘は叱りでもするような調子で言いました。
菜の花は、
「ひばりの胸毛に着いてきた種がここでこぼれたのよ。困るわ」と悲しげに答えました。
そして、どうか私をお仲間の多い麓の村へ連れていってくださいと頼みました。
 小娘は可哀そうに思いました。小娘は菜の花の願いをかなえてやろうと考えました。そして静かにそれを根から抜いてやりました。そしてそれを手に持って、山路を村の方へと下って行きました。
 路にそって清い小さな流れが、水音をたてて流れていました。しばらくすると、
「あなたの手は随分、ほてるのね」と菜の花は言いました。「あつい手で持たれると、首がだるくなって仕方がないわ、まっすぐにしていられなくなるわ」と言って、うなだれた首を小娘の歩調に合せ、力なく振っていました。
小娘は、ちょっと当惑しました。
 しかし小娘には図らず、いい考えが浮かびました。小娘は身軽く道端にしゃがんで、黙って菜の花の根を流れへ浸してやりました。
「まあ!」
菜の花は生き返ったような元気な声を出して小娘を見上げました。すると、小娘は宣告するように、
「このまま流れて行くのよ」と言いました。
菜の花は不安そうに首を振りました。そして、
「先に流れてしまうと恐いわ」と言いました。
「心配しなくてもいいのよ」そう言いながら、早くも小娘は流れの表面で、持っていた菜の花を離してしまいました。菜の花は、
「恐いは、恐いわ」と流れの水にさらわれながら見る見る小娘から遠くなるのを恐ろしそうに叫びました。が、小娘は黙って両手を後へ回し、背で跳ねる目カゴをえながら、駆けてきます。
 菜の花は安心しました。そして、さもうれしそうに水面から小娘を見上げて、何かと話かけるのでした。
 どこからともなく気軽なきいろ蝶が飛んできました。そして、うるさく菜の花の上をついて飛んできました。菜の花はそれも大変うれしがりました。しかしきいろ蝶は、せっかちで、
移り気でしたから、いつかまたどこかえ飛んでいってしまいました。
 菜の花は小娘の鼻の頭にポツポツと玉のような汗が浮かび出しているのに気がつきました。
「今度はあなたが苦しいわ」
と菜の花は心配そうに言いました。が、小娘はかえって不愛想に、
「心配しなくてもいいのよ」と答えました。
 菜の花は、叱られたのかと思って、黙ってしまいました。
 間もなく小娘は菜の花の悲鳴に驚かされました。菜の花は流れに波打っている髪の毛のような水草に根をからまれて、さも苦しげに首をふっていました。
「まあ、少しそうしてお休み」
小娘は息をはずませながら、そう言って傍らの石に腰をおろしました。
「こんなものに足をからまれて休むのは、気持が悪いわ」菜の花は尚しきりにイヤイヤをしていました。
「それで、いいのよ」小娘は言いました。
「いやなの。休むのはいいけど、こうしているのは気持が悪いの、どうか一寸あげてください。どうか」と菜の花は頼みましたが、小娘は、
「いいのよ」
と笑って取り合いません。
が、そのうち水のいきおいで菜の花の根は自然に水草から、すり抜けて行きました。小娘も急いで立ち上がると、それを追って駆け出しました。
 少しきたところで、
「やはりあなたが苦しいわ」
と菜の花はこわごわ言いました。
「何でもないのよ」と小娘はやさしく答えて、そうして、菜の花に気をもませまいと、わざと菜の花より二三間先を駆けて行くことにしました。
 麓の村が見えてきました。小娘は、
「もうすぐよ」と声をかけました。
「そう」と、後ろで菜の花が答えました。
 しばらく話は絶えました。ただ流れの音にまじって、バタバタ、バタバタ、と小娘の草履で走る足音が聞こえていました。
 チャポーンという水音が小娘の足元でしました。菜の花は死にそうな悲鳴をあげました。小娘は驚いて立ち止まりました。見ると菜の花は、花も葉も色がさめたようになって、
「早く速く」と延びあがっています。小娘は急いで引き上げてやりました。
「どうしたのよ」
小娘はその胸に菜の花を抱くようにして、後の流れを見回しました。
「あなたの足元から何か飛び込んだの」と菜の花は動悸がするので、言葉をきりました。
「いぼ蛙なのよ。一度もぐって不意に私の顔の前に浮かび上がったのよ。口の尖った意地の悪そうな、あの河童のような顔に、もう少しで、私は頬っぺたをぶつけるところでしたわ」と言いました。
 小娘は大きな声をして笑いました。
「笑い事じゃあ、ないわ」と菜の花はうらめしそうに言いました。「でも、私が思わず大きな声をしたら、今度は蛙の方でびっくりして、あわててもぐってしまいましたわ」こう言って菜の花も笑いました。間もなく村へ着きました。
 小娘は早速自分の家の菜畑に一緒にそれを植えてやりました。
 そこは山の雑草の中とはちがって土がよく肥えておりました。菜の花はドンドン延びました。そうして、今は多勢の仲間と仕合せに暮す身となりました。

 この作品は、明治39年(1906)4月2日、作者が千葉県鹿野山にて執筆した草稿「花ちゃん」を我孫子時代に改題、改稿し、大正9年(1920)1月1日発行の『金の船』に掲載。
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志賀直哉(1883-1973)の主な観察作品の紹介
(編集室にて現代漢字に変更)
□『菜の花と小娘』23歳
□『網走まで』1910年(明治43年)4月『白樺』創刊号に発表。27歳。
□『正義派』1912年(大正1年・明治45年)9月『白樺』第2巻9号に発表。29歳。
□『出来事』1913年(大正2年)9月『白樺』第4巻9号に発表。30歳。
○犯罪心理観察作品として『児を盗む話』1914年(大正3年)4月『白樺』第5巻4
 号にて発表。31歳。
○電車関連作品として『城の崎にて』1917年(大正6年)5月『白樺』第8巻第5号。
 34歳。
□『鳥取』1929年(昭和4年)1月『改造』第11巻第1号。46歳。
□『灰色の月』1946年(昭和21年)1月『世界』創刊号。64歳。
□『夫婦』1955年(昭和30年)7月1日「朝日新聞」学芸欄。72歳。

 


日本大学藝術学部文芸学科     2014年(平成26年)5月12日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.237
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 6/30 7/7
  
2014年、読書と創作の旅への誘い

5・12下原ゼミ

5月12日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室

1. 2014年のゼミ  → 4・28ゼミ報告・連絡

2.  自己紹介 → 愛読書紹介、自分の憲法問題   

3.  読むこと →「個人の完成」(「青年訓」)・憲法記事・テキスト

4.  書くこと → 憲法問題について テキスト感想 

車窓観察   「LGBT最前線と課題」(5月10日朝NHKから) 
 「今日はLGBT最前線と課題についてです」5月10日の朝、NHK朝ドラ『花子とアン』の後、新聞を読もうとしていたらテレビから、こんな声が聞こえてきた。見ると、女性アナウンサーが、コメンティターの人たちに「こうした人は、何人くらいいるでしょう」と質問していた。先頃、ハリウッドの有名女優が同性婚したというニュースがあった。話題は、そのことらしかった。5・2%(7万人中2012電通)は数千人に一人か。
同性同士が好きになって生活を共にする。世界では、結婚もする。選挙の公約にあげて当選した政治家もいる。それだけに、この話、近年、よく耳にする。が、身近というと、そうでもない。はじめてそんな世界があると知ったのは、たしか手塚治虫の『リボンの騎士』ではなかったか。フランス革命時に体は女、心は男。そんな貴族のお姫様の冒険物語だ。手塚治虫は医学を学んだ漫画家だから関心があって材料にしたのだろう。が、当時は注目されなかった。個人的には、20年前、ある雑誌編集者から性転換手術を希望する人の気持ちになってと手記のゴーストライターを依頼されたことがあった。(結局、本人がやはり自分で書くということで立ち消えたが)彼ら彼女らが名のってもよい時代になったようだ。
HPから「LGBTとは何か」
性的少数者を限定的に指す言葉。レズビアン(女性同性愛者)、ゲイ(男性同性愛者)、バイセクシュアル(両性愛者)、トランスジェンダー(心と体の性の不一致)の頭文字をとった総称であり、他の性的少数者は含まない。1970年代には主にゲイが法的権利獲得や差別撤廃などを求めて「プライド」などと称されるパレード他の活動を始め、次第に4者が合流して全世界に活動が広まった。世界最大規模のブラジル「サンパウロ・ゲイ・プライドパレード」では、2009年に推計320万人が参加しており、日本でも各都市で大規模なパレードが開催されている。13年現在、同性結婚を認めた国は約20カ国にのぼり、14年4月15日にはインドで「第三の性」(トランスジェンダー)を法的に認める最高裁の判決が出された。
( 2014-4-23 ) 『知恵蔵』
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.237 ―――――――― 2 ―――――――――――――

4・28ゼミ報告    少数精鋭で

 下原ゼミの参加者希望者は、4月28日までに3名。目下、ゼミの最少者数を更新中。が、ゼミ人数的には、最適の人数です。
 ちなみに2013年は、4名だった。が、出席率は、限りなく100%に近かった。全員ほぼ皆勤だった。ゼミ合宿、校外授業は、楽しくできた。その延長で、ゼミⅢも、同じメンバーでやっている。2014年のみなさんも、有意義な旅ができればと願う。

目標の再確認

 下原ゼミⅡは、実際的には、どんな授業をするのか。再確認します。

「読むこと」「書くこと」の習慣化、日常化を身につけ「観察力」を。
 
テキストは、志賀直哉の観察作品

 かつて川端康成は、志賀直哉を「文学の源泉」と評した。「小説の神様」といわれる志賀直哉作品は、文学、ジャーナリズムを目指すものにとっては、よき手本となる。
「読むこと」の習慣化を目指してゼミで取り上げる作品は、次の作品の予定です。

【車内観察作品】以下のなかから

『網走まで』『正義派』『夫婦』『出来ごと』『灰色の月』

【生き物観察作品】以下のなかから

『菜の花と小娘』『濠端の住まい』『蜻蛉』『城の崎にて』『犬』『玄人素人』
『クマ』『雪の遠足』『馬と木賊』等

※志賀直哉1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日没88歳

「書くこと」の習慣化を目指して取り組む課題は、何か。

課題1.「自分の愛読書観察」「日本国憲法」(第9条)感想

課題2.「車内観察」電車車内で見たこと、考えたことなど、エッセイ、創作、ルポ

課題3 テキスト感想   例・「網走まで」以前の生活の創作。「網走まで」
 
ゼミ合宿について 読むことの集大成

 毎年、実施しているのは「マラソン朗読会」です。ドストエフスキーの中編小説を読み切ります。好評。いままで一人の棄権者、落伍者はいませんでした。
 だいたい6~7時間。

ゼミ誌 提出課題と創作を掲載
―――――――――――――――――― 3 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.237

大学の目的    大学で学ぶことの新の目的は何か

個人の完成

大学生活で真に目指すものは何か。専門の学識やゼミにおいての実践的体験もあるが、大局的には、「個人の完成」に他ならない。個人の完成、即ち人間の完成があってこそ、大学生活を成功させたといえる。
 では個人の完成とは何か。どうすれば個人を完成させることができるのか。そのことについて語った人がいます。明治初年の混乱期にあって日本における教育制度の確立に尽力した嘉納治五郎(柔道の創始者としてよく知られている人1860-1938)です。この人は、「個人の完成」とは何かについて、このように述べている。
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「いったい人というものは何かと問われれば、遠い祖先からこの世に生まれてきて周囲の影響と他人の力とで成長し、ある時期から後は自己の力もこれに加わって発達してきたもの」で「個人の完成とは、現在その個人が棲息している社会において可能なる肉体及び精神の最も発達したる状態と、その力によって獲得し得る最も大なる有形無形の力である」
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 つまるところ人間の完成には、環境もあるが、その人自身の努力と勉学への意志が大きい。そのように説いているのです。自分の努力と、学ぶ意志を併せて実施できるのはゼミ授業です。それ故に、ゼミ授業は、重要です。この一年、自身を磨き、個人の完成に近づけるよう期待します。
 ちなみに完成された個人とは、他者から信用され、頼りにされ尊敬される人間像です。

読むことについて  
なぜ読書のススメか
 
 たとえば健全の身体には健全の精神が宿る、という言葉があります。文字通り取って一生懸命に体を鍛えて健康な身体にすれば、健全の心を持つことができるのか。漫才のコントにでもなりそうですが、そうはいかないのが人間です。
 では、「健全な精神」をつくるためには、どうすればよいのか。ここでは「読書する」ことをススメます。文芸研究ということで、少々我田引水的になるかもしれませんが、下原ゼミではそう理解しています。「読書する身体には健全な精神が宿る」ということです。
 では「健全な精神」とは何か。端的に云えば教養と正義です。正義は、潜在的なものですが、真の教養は育てなければ成長しません。
 日芸にくる学生は、わかりませんが、昨今、大学は入学するためだけの、よりよい就職先を見つけるためだけの場所となっている傾向があります。本来の大学の目的は、健全な精神が宿る立派な人間を育てる場所です。健全な精神を持った人間を社会に送り出し、この星に生きる誰もが幸せに暮らせるよりよい社会を築いてもらう。その人材を作るために大学は存在するのです。決して冨や名声を得るためのところでも、学歴を自慢するところでもありません。森羅万象の調和を目指すことを学ぶ場。大学の使命は、常にそこにあります。書くことも研究することも全てその一点にあるわけです。
 しかし残念なことに社会をみると、政治家、役人、経営者、教育者たちは私欲・不正にまみれています。「健全な精神」を持たない我欲だらけの人間。そうした人たちは、おそらく健全な精神を育てるということをしなかったのでしょう。つまり読書をしなかった。
 大学生活は、よりたくさん読書ができる空間です。バイトやサークルが忙しくても読書は、いつでもできます。食事と同じと思えばいいのです。どうして、そんなに読書が大切なのか。青春時代に読んだ本は、いつまでも宝石のように人生のなかに残っているからです。大人に
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.237 ―――――――― 4 ―――――――――――――

なってから感銘を受ける本もありますが、若いときとはどこか違います。
 しかし、ただ本を読めばいい、というものではありません。巷には書物はあふれています。

悪書は何冊読んでも浪費の体験にはなるが、プラスにはなりません。良書も、ただ読んだだけでは、健全な精神を育てる肥料にはならなりません。読書は簡単だが難しいのです。
 では、どんなふうに読んだらよいのか。迷い、悩むところです。読書ついて、近代日本人をつくった明治の教育者・嘉納治五郎(1860-1938)は、こう説いているので紹介します。

※嘉納治五郎 : 柔道の創始者としてよく知られていますが、他の功績は知られていません。彼は、明治維新の激動のなかで学校の教育制度を確立し、空手、合気道などの古来武道を擁護し、野球、ボートなど今ある西洋スポーツを取り入れた人でもあります。また、小泉八雲や夏目漱石はじめ魯迅など多くの文人を育てた人でもあります。夏目漱石の『坊っちゃん』は、作者が自分と彼をモデルにした。そんな推測もできます。下原ゼミでテキストにしている志賀直哉とも、深い関係があります。志賀直哉は、柔道では孫弟子になります。
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新聞  嘉納家勇退 2009・3・10 火曜日 朝日新聞『声』欄 下原

 この3月末で柔道の講道館第4代館長嘉納氏が、勇退するという。世界のなかで弱体化した日本柔道や後継者不足といったことが要因らしい。嘉納家は127年間にわたり柔道総本家の象徴として親しまれてきた。が、この勇退によってその名は、柔道の組織から消えることになる。時の流れとはいえ創始者嘉納治五郎を敬愛する者にとっては、一抹の寂しさがある。が、反面、これでよかったのだ、と思えた。
 私は柔道をはじめて四十年になる。そのうち今日までの二十年間は、町道場で地域の子供たちに柔道を教えている。町道場は、経済的、時間的など様々な面で困難がある。が、地域の子供たちが通うあいだは、とつづけてきた。柔道を愛するが故でもあるが、本当の理由は、ひとえに創始者嘉納治五郎の理念「自他共栄」「精力善用」に魅せられての継続。教育者として、コスモポリタンとして世界平和に奔走した嘉納治五郎を尊敬する故である。
 世界柔道人口一千万。柔道において嘉納家は、立派に使命を果たしたと思う。その功績を称えたい。が、嘉納治五郎の名を柔道のみに終始させてはいけない。治五郎が真に目指したもの、それは人類の平和と幸福である。今日、世界は混沌としている。国際を円満にし、人類の幸せを図る。いまこそ、その崇高な運動を世界に発信するときである。
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嘉納治五郎の「青年修養訓」から

読書は、なぜ必要か、どんな本を読んだらよいのか

 それを知るために、嘉納治五郎(1860-1938)の「青年修養訓」のなかの「精読と多読」を読むことにします。が、その前に嘉納治五郎の教育について少しばかり紹介します。
嘉納治五郎の教育は、明治15年23歳のときからはじまり、大正9年(1920)年61歳まで日本の学校教育に尽くした。師範は、日本人の教育だけでなく、中国人留学生のために宏文学院を開校し、中国の近代的教育にも貢献した。学んだ7192人のなかには後に世界的作家になった魯迅(1881-1936)もいた。※魯迅『阿Q正伝』『狂人日記』
 「青年修養訓」は、明治43年(1910)12月 同文館から出版したものである。いまからじつに99年前の文章である。今はない漢字や言い回しがあって読むのに困難はあったが、過去朗読したゼミ生は、苦労して読み終えた。その努力が勉強になる。
 さて、人間形成のため、社会で役に立つために心をこめて多くの書を読めとすすめる師範は、この「精読と多読」のなかで、どんな本をどのように読めといっているのか。
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① はじめに読む本の選び方である。現在、ベストセラーの本。売れている有名な本。そういう本は1、2年待ってから読んだ方がよい、としている。
② まずは、古典を読む。時代のなかで残っているということは良い本の証拠。読むに価する本だからという。よい本は人(評論家)ではなく、時間が選別してくれる。
③ 識者・作家・読書家といわれる人がすすめる本。例えば、川端康成が好きだとする。『雪国』『伊豆の踊り子』といったこの作家の作品を読むのもよいが、その前にこの作家は、自分を慕ってくる若い人たちにどんな本を読めとすすめていたのか。自分は、どんな本を読んでいたのか。それを調べてみる。ノーベル文学賞作家川端康成が、誰より気にかけ可愛がった若い人といえば、『いのちの初夜』を書いた北篠民雄(1914-1937)である。川端は病床の北篠に、なにを読めとすすめていたのか。どの作家を。まずは、それを知ることである。
④ 読む本が決まれば、その本をどんなふうに読むか。早く、ざっと読んだのでは、本当に読んだとはいえない。しっかりと理解しながら読むことが大切と教える。
⑤ つぎにどんな本を、ということだが、師範の教えは、範囲を決めない。一つのものを決めると、理解度は、その範疇だけになってしまう。違った分野の本を多く読むことをすすめる。心をこめて多くの本を読みなさい。つまり「精読と多読」のススメである。

読書はなぜ必要か  嘉納治五郎の「青年修養訓」紹介 

第15 精読と多読
 
    『嘉納治五郎著作集 教育篇』(五月書房)
 精神の健全な発達を遂げようとするには、これに相当の栄養を与えなければならぬのであるが、その栄養を精神に与えるのは読書である。人は誰でも精神の健全な発達を望まないものはないにもかかわらず、実際その栄養法たる読書を好まない者も少なくないのは甚だ怪訝(けげん)に堪えぬ。かくの如きは、その人にとっても国家にとっても実に歎(タン)ずべき事である。読書の習慣は学生にあっては成功の段階となり、実務に従事しいるものにあっては競争場裡の劣敗者たるを免(まぬが)れしむる保障となるものである。看よ、古来名を青史に留めたるところの文武の偉人は多くは読書を好み、それぞれの愛読書を有しておったのである。試みにその二、三の例をあげてみれば、徳川家康は常に東鑑(あずまかがみ)等を愛読し、頼山陽は史記を友とし、近くは伊藤博文は繁劇な公務の間にいても読書を廃さなかった。またカーライル(イギリスの歴史家・評論家)は一年に一回ホーマー(ホメロス)を読み、シルレルはシェクスピーアーを読んだ。ナポレオンは常にゲーテの詩集を手にし、ウエリントン(イギリスの将軍・政治家)はバットラーの著書(『万人の道』「生活と習慣」など)やアダムスミスの国富論に目を曝(さら)しておったということである。なすことあらんとする青年が、学生時代において読書を怠(おこた)らない
ようにし、これを確乎とした一の習慣として、中年老年まで続けるようにするということの必要なるは多言を俟(ま)たないのである。

※東鑑(吾妻鏡・鎌倉時代の史書。日本最初の武士記録)
※頼山陽(1780-1832 江戸時代後期の儒者・史家 著『日本外史』『日本政記』など)
※ホメロス(前9世紀頃ギリシャの詩人著書『イリアス』『オデュッセイア』など)
※カーライル(1795-1881 著『衣裳哲学』『英雄及び英雄崇拝』など)
※ウエリントン1769-1852 (ナポレオンをワーテルローで破った)

 健全な精神をつくるには、相当な栄養が必要だという。その栄養は読書である、として、歴史上の偉人たちの読書をあげて、その必要性を説いている。そして、どんな本を読むかは、その選び方について以下のように述べている。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.237 ―――――――― 6 ―――――――――――――

 読書はこのように必要であるけれども、もしその読む書物が適当でないか、その読書の方法がよろしきを得なければ、ただに益を受けることが出来ないのみならず、かえって害を受けるのである。吾人(われわれ)の読む書物のどんなものであるべきかに関しては、ここにはただ一言を述べて余は他の章に譲っておこう。すべて新刊書ならば先輩識者が認めて価値があるというものを選ぶか、または古人のいったように世に出てから一年も立たないようなものは、必要がない以上はこれを後廻しとするがよい。また、昔より名著として世人に尊重せられているものは、その中から若干を選んで常にこれを繙(ひもと)き見るようにするがよいのである。

 どんな本を読んだらよいか。本によっては栄養になるどころか害になるという。嘉納治五郎が言うのは、先輩識者が認めた価値のあるもの。つまり世に名作といわれている本である。他は、現在、たとえどんなに評判がよくても、百万冊のベストセラーであっても後回しにせよということである。そうして古典になっているものは、常に手にしていなさいと教えている。本のよしあし、作家のよしあしは時間という評者が選んでくれる。
 さて、このようにして読む本を選んだら、次にどのようにして読むか。いらぬ節介ではあるが、全身教育者である嘉納治五郎は、その方法をも懇切丁寧に述べている。

 次に方法の点に移れば、読書の方法は、とりもなおさず精読多読などの事を意味するのである。精読とは読んで字の如くくわしく丁寧に読むこと、多読とは多く広く読むのをいうのである。真正に完全の読書をするには、この二つが備わらなければならぬ。

 つまり書物は偏らず、多くの書を読め、ということである。そうして読むからには、飛ばし飛ばし読むものには耳が痛いが、決していい加減にではなく、丁寧に読むべし、ということである。いずれももっともなことではあるが、人間、こうして指導されないと、なかなか読むに至らない。次に、折角の読書に陥りがたい短所があることを指摘し、注意している。

 世に鵜呑みの知識というものがある。これは教師なり書物なりから得た知識をば、別に思考もせず会得もしないで、そのまま精神中に取込んだものをいうのである。かようなものがどうしてその人の真の知識となって役に立つであろうか。総じて知識が真の知識となるについては、まず第一にそれが十分に理解されておらねばならぬ。次にはそれが固く記憶されておらねばならぬ。

 鵜呑みの知識。よく読書のスピードを自慢する人がいるが、いくら早く読んでも、理解していなければ、ただ知っている、ということだけになる。試験勉強で暗記したものは、真に教養とはいえない。

 理解のされていない知識は他に自在に応用される事が出来ないし、固く記憶されていない知識は何時でも役に立つというわけにはいかない。したがってこれらの知識は、あるもないも同じ事である。かような理由であるから、何人たりとも真の知識を有しようと思うならば、それを十分咀嚼(そしゃく)消化して理解会得し、また十分確固明白に記憶しおくようにせねばならぬ。

 そのためには・・・・・

 さてこの理解記憶を全くしようとするにはどうしたらよいかというには、他に道は無い。その知識を受け入れる時に用意を密にする。すなわち書物をば精しく読まねばならぬのである。幾度か幾度か繰返し読んで主要点をたしかに捉えると同時に、詳細の事項をも落とさず隅々まで精確に理解をし、かつ記憶を固くするのである。こうして得た知識こそは真の栄養を精神に与え、また始めて吾人に満足を与える事が出来るのである。試みに想像し
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てみれば分かる。何らかの書物をば百遍も精読し、その極その中に書いてある事は十分会得していて、どんな場合にも応用が出来、その知識は真のわが知識になって、わが血液に変じ筋肉と化しておったならば、その心持はどのようであろうか。真に程子(テイシ兄弟)のいったように、手の舞い足の踏むところを知らないであろう。書物の与える満足には種々あろうが、これらはその中の主なるものであって、また最も高尚なものである。

※テイシ兄弟(北宋の大儒 著『定性書』1032-1085)

 書物を理解するには、繰り返し読むことが重要と説く。一に精読、二に精読である。さすれば応用ができ真の知識となる、と説いている。また、この精読するということについても、こう語っている。
 かつまた一冊の書物の上に全力を傾注するという事は、吾人の精神修養の上から観ても大切である。何となれば人間が社会に立っているからには、大かり小なりの一事をば必ず成し遂げるという習慣がきわめて必要であるが、書物を精読し了するというのは、ちょうどこの一事を成し遂げるという事に当たるからである。今日でこそやや薄らいだようであ

るが、維新前におけるわが国士人の中には、四書(儒教の経典)の中の一部もしくは数部をば精読し熟読し、その極はほとんどこれを暗誦して常住座臥その行動を律する規矩(きく・コンパス)としておったものが多いのである。伊藤仁斎(江戸初期の朱子学儒者)は18,9歳の頃『延平問答』という書物を手に入れて反復熟読した結果、紙が破れるまでになったが、その精読から得た知識が大いに修養の助けとなり、他日大成の基をなしたという事である。また荻生徂徠は、13年のわびしい田舎住居の間、単に一部の大学諺解(ゲンカイ口語による漢文解釈)のみを友としておったという事である。程子は「余は17,8より論語を読み当時すでに文義(文章の意味)を暁りしが、これを読むこといよいよ久しうしてただ意味の深長なるを覚ゆ」と言っている。古昔の人がいかに精読に重きをおいたかは、これら2,3の事例に徴するも分明である。学問教育が多岐に渉る結果として、遺憾な事にはこのような美風も今日ではさほど行われないようである。

 ひとつのものを徹底して読む。この美風、すなわち習慣は、現代においては、ますます為
されていない。が、学生は、すすんで挑戦しようという気まがえがなくてはならぬ。と、いっている。その一方で、多読の大切さも説く。

 しかし現に学生生活を送り近い未来において独立すべき青年らには、各率先してこの美風を伝播しようと今より覚悟し実行するように切望せねばならぬ。
 読書ということは、このような効能の点からいっても満足の点からいっても、また精神
修養の点からいってもまことによいものであるが、しかしまた不利益な点を有せぬでもな
い。すなわち精読は常に多くの時間を要するということと、したがって多くの書物が読めないようになるから自然その人の限界が狭隘(キョウヤク)になるを免れないということである。例えていえば、文字において一作家の文章のみを精読しておったならば、その作家については精通しようが思想の豊富修辞の巧妙がそれで十分に学べるということは出来ない。どんなに優秀な作家とても、その長所を有すると同時に多少の欠点を有するものであるから、一作家の文章が万有を網羅し天地を籠蓋(ロウガイ)するというわけにはいかぬ。そこで精読によって益を受けるにしても、またその不備な点が判明したならば、これを他の作家の作物によって学び習うという必要が起きる。すなわち他の作物にたよるということは、多読をするという事に帰するのである。

 一作家のものが万有を網羅することはない。

 またこの外の人文学科、たとえば歴史修身等においても、もしくは物理化学等の自然学
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科においても、一の著者の記述説明に熟すると同時に、他の著者はそれをどんなに記述し説明しているかを参照してみる必要がある。このように参照してみることは知識を確実にする上にきわめて多大の効能があるから、決して煩雑無用のことではない。精読はもとより希うべきであるが、また一面には事情の許す限り多読をして、その限界を狭隘にせぬようにするがよい。精読でもって基礎を作り、多読でもってこれを豊富にするは学問の要訣(ヨウケツ)であってこのようにして得られた知識こそ真に有用なものとなるのである。
 さらに精読と多読との仕方の関係を具体的に述べてみれば、、まず精読する書物の中にある一つの事項に対して付箋または朱黄を施し、かくてその個所が他の参照用として多く渉猟(しょうりょう)(読みあさる)する書中にはどんなに記述説明されているかを付記するのである。換言すれば精読書を中心として綱領として、多読所をことごとくこれに関連付随させるのである。また学問の進歩の程度についていうならば、初歩の間は精読を主とし
相当に進んだ後に多読を心掛くべきである。けれどもどんな場合においても精読が主であって多読が副である。そうしてこの両者のうちいずれにも偏してはならないことは無論であるが、もしいずれに偏するがよいかといえば、精読に変する方がむしろ弊害が少ないのである。精読に伴わない多読は、これは支離散漫なる知識の収得法であって、濫読妄読と
なるに至ってその幣が極まるのである。
 また鼠噛の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれをも読みとおさずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛(ソコウ)の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれも読み通さずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛の陋(ロウ)に陥ったものも多いのである。実に慎み謹んで遠ざくべき悪癖である。

以上、嘉納治五郎の説く読書の必要性を紹介した。どんな本を読めばいいのか。どんなふうに読めばよいのか。人それぞれに好き嫌いもある。それに、世に古典といわれる良書は山ほどある。となると読書も簡単ではない。このゼミでは、この青年訓の嘉納治五郎とも関係が深く、かつ小説の神様といわれる志賀直哉の作品をテキストとするしだいである。
(編集室)

掲示板

熊谷元一研究 作品展見学・郊外授業として。

お知らせ  ドストエフスキー全作品を読む読書会

6月28日(土)池袋 東京芸術劇場小会議室7 午後1時半~5時迄。
作品『地下生活者の手記』2回目 参加学生500円(ゼミ生は無料)詳細は、編集室まで。

・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・

○創作、エッセイ、評論、など書けた人は「下原ゼミ通信」にお寄せください。いつでも歓迎です。〒かメール、手渡しでも。

□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net 09027646052
               2014・5・12
課題1. 読書紹介「私の愛読書」       名前

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課題2. 日本国憲法「第9条」、集団的自衛権について
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改憲は必要か否か  →
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理由 →
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第9条について  →
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集団的自衛権 →
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課題3. テキスト作品感想

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「2014年、読書と創作の旅」テキスト読み

 社会観察       日本国憲法について

☆ 憲法改正問題について (現行憲法、特に九条を再読してみる)
 1947年5月3日日本国憲法施行される。前年11月3日公布されたもの。世界に類をみない平和憲法だが、現代の世界情勢には翻弄されるばかりで2007年4月12日、ついに憲法改正がより現実化した。国民投票法案の与党修正案が、衆院憲法調査特別委員会で可決され目下、安倍政権の下で着々とすすめられている。この先、憲法はどうなるのか。日本国民にとって最大の課題である。
下記は、現行憲法の前文と、注目される第九条です。

前文【現行憲法】

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれら子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に在することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われわれはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

現憲法の第二章【戦争の放棄】

 第九条 ① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

     ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

第一回テキスト読み『菜の花と小娘』

  本作品は『志賀直哉全集』岩波書店を編集室にて全文現代よみに変換しました。

菜の花と小娘
 志賀直哉
 或る晴れた静かな春の日の午後でした。一人の小娘が山で枯れ枝を拾っていました。
 やがて、夕日が新緑の薄い木の葉を透かして赤々と見られる頃になると、小娘は集めた小枝を小さい草原に持ち出して、そこで自分の背負ってきた荒い目籠に詰めはじめました。
 ふと、小娘は誰かに自分が呼ばれたような気がしました。
「ええ?」
小娘は思わずそう言って、立ってそのへんを見回しましたが、そこには誰の姿も見えませんでした。
「私を呼ぶのは誰?」
小娘はもう一度大きい声でこう言ってみましたが、矢張り答えるものはありませんでした。
 小娘は二三度そんな気がして、初めて気がつくと、それは雑草の中からただ一本わずかに首を出している小さな菜の花でした。
 小娘は頭にかぶっていた手ぬぐいで、顔の汗を拭きながら、
「お前、こんなところで、よくさびしくないのね」
と言いました。
「さびしいわ」
と菜の花は親しげに答えました。
「そんならならなぜ来たのさ」
小娘は叱りでもするような調子で言いました。
菜の花は、
「ひばりの胸毛に着いてきた種がここでこぼれたのよ。困るわ」と悲しげに答えました。
そして、どうか私をお仲間の多い麓の村へ連れていってくださいと頼みました。
 小娘は可哀そうに思いました。小娘は菜の花の願いをかなえてやろうと考えました。そして静かにそれを根から抜いてやりました。そしてそれを手に持って、山路を村の方へと下って行きました。
 路にそって清い小さな流れが、水音をたてて流れていました。しばらくすると、
「あなたの手は随分、ほてるのね」と菜の花は言いました。「あつい手で持たれると、首がだるくなって仕方がないわ、まっすぐにしていられなくなるわ」と言って、うなだれた首を小娘の歩調に合せ、力なく振っていました。
小娘は、ちょっと当惑しました。
 しかし小娘には図らず、いい考えが浮かびました。小娘は身軽く道端にしゃがんで、黙って菜の花の根を流れへ浸してやりました。
「まあ!」
菜の花は生き返ったような元気な声を出して小娘を見上げました。すると、小娘は宣告するように、
「このまま流れて行くのよ」と言いました。
菜の花は不安そうに首を振りました。そして、
「先に流れてしまうと恐いわ」と言いました。
「心配しなくてもいいのよ」そう言いながら、早くも小娘は流れの表面で、持っていた菜の花を離してしまいました。菜の花は、
「恐いは、恐いわ」と流れの水にさらわれながら見る見る小娘から遠くなるのを恐ろしそうに叫びました。が、小娘は黙って両手を後へ回し、背で跳ねる目カゴをえながら、駆けてきます。
 菜の花は安心しました。そして、さもうれしそうに水面から小娘を見上げて、何かと話かけるのでした。
 どこからともなく気軽なきいろ蝶が飛んできました。そして、うるさく菜の花の上をついて飛んできました。菜の花はそれも大変うれしがりました。しかしきいろ蝶は、せっかちで、
移り気でしたから、いつかまたどこかえ飛んでいってしまいました。
 菜の花は小娘の鼻の頭にポツポツと玉のような汗が浮かび出しているのに気がつきました。
「今度はあなたが苦しいわ」
と菜の花は心配そうに言いました。が、小娘はかえって不愛想に、
「心配しなくてもいいのよ」と答えました。
 菜の花は、叱られたのかと思って、黙ってしまいました。
 間もなく小娘は菜の花の悲鳴に驚かされました。菜の花は流れに波打っている髪の毛のような水草に根をからまれて、さも苦しげに首をふっていました。
「まあ、少しそうしてお休み」
小娘は息をはずませながら、そう言って傍らの石に腰をおろしました。
「こんなものに足をからまれて休むのは、気持が悪いわ」菜の花は尚しきりにイヤイヤをしていました。
「それで、いいのよ」小娘は言いました。
「いやなの。休むのはいいけど、こうしているのは気持が悪いの、どうか一寸あげてください。どうか」と菜の花は頼みましたが、小娘は、
「いいのよ」
と笑って取り合いません。
が、そのうち水のいきおいで菜の花の根は自然に水草から、すり抜けて行きました。小娘も急いで立ち上がると、それを追って駆け出しました。
 少しきたところで、
「やはりあなたが苦しいわ」
と菜の花はこわごわ言いました。
「何でもないのよ」と小娘はやさしく答えて、そうして、菜の花に気をもませまいと、わざと菜の花より二三間先を駆けて行くことにしました。
 麓の村が見えてきました。小娘は、
「もうすぐよ」と声をかけました。
「そう」と、後ろで菜の花が答えました。
 しばらく話は絶えました。ただ流れの音にまじって、バタバタ、バタバタ、と小娘の草履で走る足音が聞こえていました。
 チャポーンという水音が小娘の足元でしました。菜の花は死にそうな悲鳴をあげました。小娘は驚いて立ち止まりました。見ると菜の花は、花も葉も色がさめたようになって、
「早く速く」と延びあがっています。小娘は急いで引き上げてやりました。
「どうしたのよ」
小娘はその胸に菜の花を抱くようにして、後の流れを見回しました。
「あなたの足元から何か飛び込んだの」と菜の花は動悸がするので、言葉をきりました。
「いぼ蛙なのよ。一度もぐって不意に私の顔の前に浮かび上がったのよ。口の尖った意地の悪そうな、あの河童のような顔に、もう少しで、私は頬っぺたをぶつけるところでしたわ」と言いました。
 小娘は大きな声をして笑いました。
「笑い事じゃあ、ないわ」と菜の花はうらめしそうに言いました。「でも、私が思わず大きな声をしたら、今度は蛙の方でびっくりして、あわててもぐってしまいましたわ」こう言って菜の花も笑いました。間もなく村へ着きました。
 小娘は早速自分の家の菜畑に一緒にそれを植えてやりました。
 そこは山の雑草の中とはちがって土がよく肥えておりました。菜の花はドンドン延びました。そうして、今は多勢の仲間と仕合せに暮す身となりました。

 この作品は、明治39年(1906)4月2日、作者が千葉県鹿野山にて執筆した草稿「花ちゃん」を我孫子時代に改題、改稿し、大正9年(1920)1月1日発行の『金の船』に掲載。
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志賀直哉(1883-1973)の主な観察作品の紹介
(編集室にて現代漢字に変更)
□『菜の花と小娘』23歳
□『網走まで』1910年(明治43年)4月『白樺』創刊号に発表。27歳。
□『正義派』1912年(大正1年・明治45年)9月『白樺』第2巻9号に発表。29歳。
□『出来事』1913年(大正2年)9月『白樺』第4巻9号に発表。30歳。
○犯罪心理観察作品として『児を盗む話』1914年(大正3年)4月『白樺』第5巻4
 号にて発表。31歳。
○電車関連作品として『城の崎にて』1917年(大正6年)5月『白樺』第8巻第5号。
 34歳。
□『鳥取』1929年(昭和4年)1月『改造』第11巻第1号。46歳。
□『灰色の月』1946年(昭和21年)1月『世界』創刊号。64歳。
□『夫婦』1955年(昭和30年)7月1日「朝日新聞」学芸欄。72歳。

 


日本大学藝術学部文芸学科     2014年(平成26年)4月28日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.236
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 6/30 7/7
  
2014年、読書と創作の旅への誘い

4・28下原ゼミ


子ども時代を観察して創作したものに『伊那谷少年記』『やまなみ山脈』がある。

    

『伊那谷少年記』(鳥影社)は短編集(伊那谷童話賞)。第8回椋鳩十記念『山脈はるかに』(D文学研究)は中編小説。他に『ドストエフスキーを読みながら』(鳥影社)
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.236 ―――――――― 2 ―――――――――――――

ゼミガイダンスの補足

「2012年読書と創作の旅」とは何か

 スタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」(1968年)にあやかって名付けた。(アーサー・C・クラーク『前哨』1950)この映画のファンというだけだが、理由をつければ、この宇宙の旅の目的は、人間の謎を知るため。下原ゼミでの読書と創作も、同じ目的「人間の謎」を知るためだからです。大銀河の辺境にあるちっぽけな惑星。そこに棲む人間という奇妙な生き物。彼らは、何のために生きているのか・・・・・。
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【興味あるニュース】地球に似た惑星発見 !? 米航空宇宙局(NASA)発表
ほぼ同じ大きさ、水・岩石存在?

 地球から500光年ほど離れた恒星「ケプラー186」を1周約130日で周回している。
半径は、地球の約1・1倍。重さは不明だが、重力が地球とほぼ同じとすれば、岩石でできている可能性があるという。(朝日新聞 夕刊 2014年4月18日 金曜日)
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ゼミの大局的な目的 個人の完成について

このゼミの実際的の目的は先に述べたが、大学生活で真に目指すものは何かは、別にある。それは、むろん専門の学識もあるが、大局的には、「個人の完成」に他ならない。個人の完成がなければ、社会でいかに権力を得ようが、富を得ようが、個人を完成させたとはいえない。古今東西歴史に名を刻む英雄・独裁者たちは、その例である。近くはシリアのアサド大統領しかり、遠くはナポレオンしかり、である。
 では個人の完成とは何か。どうすれば個人を完成させることができるのか。そのことについて言汲した人がいます。明治初年の混乱期にあって日本における教育制度の確立に尽力した嘉納治五郎(柔道の創始者としてよく知られている人1860-1938)です。この人は、「個人の完成」について、このように述べている。
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「いったい人というものは何かと問われれば、遠い祖先からこの世に生まれてきて周囲の影響と他人の力とで成長し、ある時期から後は自己の力もこれに加わって発達してきたもの」で「個人の完成とは、現在その個人が棲息している社会において可能なる肉体及び精神の最も発達したる状態と、その力によって獲得し得る最も大なる有形無形の力である」
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 つまるところ人間の完成には、環境もあるが、その人自身の努力と勉学への意志が大きい。そのように説いているのです。自分の努力と、学ぶ意志を併せて実施できるのはゼミ授業です。それ故に、ゼミ授業は、重要です。特に2年目は、大学にも慣れ環境的に集中できる年です。この一年、自身を磨き、個人の完成に近づけるよう期待します。
 ちなみに完成された個人とは、他者から信用され、頼りにされ尊敬される人間です。

読むことについて
なぜ読書のススメか
 
 たとえば健全の身体には健全の精神が宿る、という言葉があります。文字通り取って一生懸命に体を鍛えて健康な身体にすれば、健全の心を持つことができるのか。漫才のコントにでもなりそうですが、そうはいかないのが人間です。
―――――――――――――――――― 3 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.236

 では、「健全な精神」をつくるためには、どうすればよいのか。ここでは「読書する」ことをススメます。文芸研究ということで、少々我田引水的になるかもしれませんが、下原ゼミではそう理解しています。「読書する身体には健全な精神が宿る」ということです。
 では「健全な精神」とは何か。端的に云えば教養と正義です。正義は、潜在的なものですが、真の教養は育てなければ成長しません。
 日芸にくる学生は、わかりませんが、昨今、大学は入学するためだけの、よりよい就職先を見つけるためだけの場所となっている傾向があります。本来の大学の目的は、健全な精神が宿る立派な人間を育てる場所です。健全な精神を持った人間を社会に送り出し、この星に生きる誰もが幸せに暮らせるよりよい社会を築いてもらう。その人材を作るために大学は存在するのです。決して冨や名声を得るためのところでも、学歴を自慢するところでもありません。森羅万象の調和を目指すことを学ぶ場。大学の使命は、常にそこにあります。書くことも研究することも全てその一点にあるわけです。
 しかし残念なことに社会をみると、政治家、役人、経営者、教育者たちは私欲・不正にまみれています。「健全な精神」を持たない我欲だらけの人間。そうした人たちは、おそらく健全な精神を育てるということをしなかったのでしょう。つまり読書をしなかった。
 大学生活は、よりたくさん読書ができる空間です。バイトやサークルが忙しくても読書は、いつでもできます。食事と同じと思えばいいのです。どうして、そんなに読書が大切なのか。青春時代に読んだ本は、いつまでも宝石のように人生のなかに残っているからです。大人になってから感銘を受ける本もありますが、若いときとはどこか違います。
 しかし、ただ本を読めばいい、というものではありません。巷には書物はあふれています。悪書は何冊読んでも浪費の体験にはなるが、プラスにはなりません。良書も、ただ読んだだけでは、健全な精神を育てる肥料にはならなりません。読書は簡単だが難しいのです。
 では、どんなふうに読んだらよいのか。迷い、悩むところです。読書ついて、近代日本人をつくった明治の教育者・嘉納治五郎(1860-1938)は、こう説いているので紹介します。

※嘉納治五郎 : 柔道の創始者としてよく知られていますが、他の功績は知られていません。彼は、明治維新の激動のなかで学校の教育制度を確立し、空手、合気道などの古来武道を擁護し、野球、ボートなど今ある西洋スポーツを取り入れた人でもあります。また、小泉八雲や夏目漱石はじめ魯迅など多くの文人を育てた人でもあります。夏目漱石の『坊っちゃん』は、作者が自分と彼をモデルにした。そんな推量、空想もできます。下原ゼミでテキストにしている志賀直哉とも、深い関係があります。志賀直哉は、柔道では孫弟子。
 
嘉納治五郎の「青年修養訓」から

読書は、なぜ必要か、どんな本を読んだらよいのか

 それを知るために、嘉納治五郎(1860-1938)の「青年修養訓」のなかの「精読と多読」を読むことにします。が、その前に嘉納治五郎の教育について少しばかり紹介します。
嘉納治五郎の教育は、明治15年23歳のときからはじまり、大正9年(1920)年61歳まで日本の学校教育に尽くした。師範は、日本人の教育だけでなく、中国人留学生のために宏文学院を開校し、中国の近代的教育にも貢献した。学んだ7192人のなかには後に世界的作家になった魯迅(1881-1936)もいた。※魯迅『阿Q正伝』『狂人日記』
 「青年修養訓」は、明治43年(1910)12月 同文館から出版したものである。いまからじつに99年前の文章である。今はない漢字や言い回しがあって読むのに困難はあったが、過去朗読したゼミ生は、苦労して読み終えた。その努力が勉強になる。
 さて、人間形成のため、社会で役に立つために心をこめて多くの書を読めとすすめる師範は、この「精読と多読」のなかで、どんな本をどのように読めといっているのか。
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① はじめに読む本の選び方である。現在、ベストセラーの本。売れている有名な本。そういう本は1、2年待ってから読んだ方がよい、としている。
② まずは、古典を読む。時代のなかで残っているということは良い本の証拠。読むに価する本だからという。よい本は人(評論家)ではなく、時間が選別してくれる。
③ 識者・作家・読書家といわれる人がすすめる本。例えば、川端康成が好きだとする。『雪国』『伊豆の踊り子』といったこの作家の作品を読むのもよいが、その前にこの作家は、自分を慕ってくる若い人たちにどんな本を読めとすすめていたのか。自分は、どんな本を読んでいたのか。それを調べてみる。ノーベル文学賞作家川端康成が、誰より気にかけ可愛がった若い人といえば、『いのちの初夜』を書いた北篠民雄(1914-1937)である。川端は病床の北篠に、なにを読めとすすめていたのか。どの作家を。まずは、それを知ることである。
④ 読む本が決まれば、その本をどんなふうに読むか。早く、ざっと読んだのでは、本当に読んだとはいえない。しっかりと理解しながら読むことが大切と教える。
⑤ つぎにどんな本を、ということだが、師範の教えは、範囲を決めない。一つのものを決めると、理解度は、その範疇だけになってしまう。違った分野の本を多く読むことをすすめる。心をこめて多くの本を読みなさい。つまり「精読と多読」のススメである。

読書はなぜ必要か  嘉納治五郎の「青年修養訓」紹介 

第15 精読と多読
 
    『嘉納治五郎著作集 教育篇』(五月書房)
 精神の健全な発達を遂げようとするには、これに相当の栄養を与えなければならぬのであるが、その栄養を精神に与えるのは読書である。人は誰でも精神の健全な発達を望まないものはないにもかかわらず、実際その栄養法たる読書を好まない者も少なくないのは甚だ怪訝(けげん)に堪えぬ。かくの如きは、その人にとっても国家にとっても実に歎(タン)ずべき事である。読書の習慣は学生にあっては成功の段階となり、実務に従事しいるものにあっては競争場裡の劣敗者たるを免(まぬが)れしむる保障となるものである。看よ、古来名を青史に留めたるところの文武の偉人は多くは読書を好み、それぞれの愛読書を有しておったのである。試みにその二、三の例をあげてみれば、徳川家康は常に東鑑(あずまかがみ)等を愛読し、頼山陽は史記を友とし、近くは伊藤博文は繁劇な公務の間にいても読書を廃さなかった。またカーライル(イギリスの歴史家・評論家)は一年に一回ホーマー(ホメロス)を読み、シルレルはシェクスピーアーを読んだ。ナポレオンは常にゲーテの詩集を手にし、ウエリントン(イギリスの将軍・政治家)はバットラーの著書(『万人の道』「生活と習慣」など)やアダムスミスの国富論に目を曝(さら)しておったということである。なすことあらんとする青年が、学生時代において読書を怠(おこた)らない
ようにし、これを確乎とした一の習慣として、中年老年まで続けるようにするということの必要なるは多言を俟(ま)たないのである。

※東鑑(吾妻鏡・鎌倉時代の史書。日本最初の武士記録)
※頼山陽(1780-1832 江戸時代後期の儒者・史家 著『日本外史』『日本政記』など)
※ホメロス(前9世紀頃ギリシャの詩人著書『イリアス』『オデュッセイア』など)
※カーライル(1795-1881 著『衣裳哲学』『英雄及び英雄崇拝』など)
※ウエリントン1769-1852 (ナポレオンをワーテルローで破った)

 健全な精神をつくるには、相当な栄養が必要だという。その栄養は読書である、として、歴史上の偉人たちの読書をあげて、その必要性を説いている。そして、どんな本を読むかは、その選び方について以下のように述べている。

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 読書はこのように必要であるけれども、もしその読む書物が適当でないか、その読書の方法がよろしきを得なければ、ただに益を受けることが出来ないのみならず、かえって害を受けるのである。吾人(われわれ)の読む書物のどんなものであるべきかに関しては、ここにはただ一言を述べて余は他の章に譲っておこう。すべて新刊書ならば先輩識者が認めて価値があるというものを選ぶか、または古人のいったように世に出てから一年も立たないようなものは、必要がない以上はこれを後廻しとするがよい。また、昔より名著として世人に尊重せられているものは、その中から若干を選んで常にこれを繙(ひもと)き見るようにするがよいのである。

 どんな本を読んだらよいか。本によっては栄養になるどころか害になるという。嘉納治五郎が言うのは、先輩識者が認めた価値のあるもの。つまり世に名作といわれている本である。他は、現在、たとえどんなに評判がよくても、百万冊のベストセラーであっても後回しにせよということである。そうして古典になっているものは、常に手にしていなさいと教えている。本のよしあし、作家のよしあしは時間という評者が選んでくれる。

 さて、このようにして読む本を選んだら、次にどのようにして読むか。いらぬ節介ではあるが、全身教育者である嘉納治五郎は、その方法をも懇切丁寧に述べている。

 次に方法の点に移れば、読書の方法は、とりもなおさず精読多読などの事を意味するのである。精読とは読んで字の如くくわしく丁寧に読むこと、多読とは多く広く読むのをいうのである。真正に完全の読書をするには、この二つが備わらなければならぬ。

 つまり書物は偏らず、多くの書を読め、ということである。そうして読むからには、飛ばし飛ばし読むものには耳が痛いが、決していい加減にではなく、丁寧に読むべし、ということである。いずれももっともなことではあるが、人間、こうして指導されないと、なかなか読むに至らない。次に、折角の読書に陥りがたい短所があることを指摘し、注意している。

 世に鵜呑みの知識というものがある。これは教師なり書物なりから得た知識をば、別に思考もせず会得もしないで、そのまま精神中に取込んだものをいうのである。かようなものがどうしてその人の真の知識となって役に立つであろうか。総じて知識が真の知識となるについては、まず第一にそれが十分に理解されておらねばならぬ。次にはそれが固く記憶されておらねばならぬ。

 鵜呑みの知識。よく読書のスピードを自慢する人がいるが、いくら早く読んでも、理解していなければ、ただ知っている、ということだけになる。試験勉強で暗記したものは、真に教養とはいえない。

 理解のされていない知識は他に自在に応用される事が出来ないし、固く記憶されていない知識は何時でも役に立つというわけにはいかない。したがってこれらの知識は、あるもないも同じ事である。かような理由であるから、何人たりとも真の知識を有しようと思うならば、それを十分咀嚼(そしゃく)消化して理解会得し、また十分確固明白に記憶しおくようにせねばならぬ。

 そのためには・・・・・

 さてこの理解記憶を全くしようとするにはどうしたらよいかというには、他に道は無い。その知識を受け入れる時に用意を密にする。すなわち書物をば精しく読まねばならぬのである。幾度か幾度か繰返し読んで主要点をたしかに捉えると同時に、詳細の事項をも落とさず隅々まで精確に理解をし、かつ記憶を固くするのである。こうして得た知識こそは真の栄養を精神に与え、また始めて吾人に満足を与える事が出来るのである。試みに想像し
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てみれば分かる。何らかの書物をば百遍も精読し、その極その中に書いてある事は十分会得していて、どんな場合にも応用が出来、その知識は真のわが知識になって、わが血液に変じ筋肉と化しておったならば、その心持はどのようであろうか。真に程子(テイシ兄弟)のいったように、手の舞い足の踏むところを知らないであろう。書物の与える満足には種々あろうが、これらはその中の主なるものであって、また最も高尚なものである。

※テイシ兄弟(北宋の大儒 著『定性書』1032-1085)

 書物を理解するには、繰り返し読むことが重要と説く。一に精読、二に精読である。さすれば応用ができ真の知識となる、と説いている。また、この精読するということについても、こう語っている。
 かつまた一冊の書物の上に全力を傾注するという事は、吾人の精神修養の上から観ても大切である。何となれば人間が社会に立っているからには、大かり小なりの一事をば必ず成し遂げるという習慣がきわめて必要であるが、書物を精読し了するというのは、ちょうどこの一事を成し遂げるという事に当たるからである。今日でこそやや薄らいだようであるが、維新前におけるわが国士人の中には、四書(儒教の経典)の中の一部もしくは数部をば精読し熟読し、その極はほとんどこれを暗誦して常住座臥その行動を律する規矩(きく・コンパス)としておったものが多いのである。伊藤仁斎(江戸初期の朱子学儒者)は18,9歳の頃『延平問答』という書物を手に入れて反復熟読した結果、紙が破れるまでになったが、その精読から得た知識が大いに修養の助けとなり、他日大成の基をなしたという事である。また荻生徂徠は、13年のわびしい田舎住居の間、単に一部の大学諺解(ゲンカイ口語による漢文解釈)のみを友としておったという事である。程子は「余は17,8より論語を読み当時すでに文義(文章の意味)を暁りしが、これを読むこといよいよ久しうしてただ意味の深長なるを覚ゆ」と言っている。古昔の人がいかに精読に重きをおいたかは、これら2,3の事例に徴するも分明である。学問教育が多岐に渉る結果として、遺憾な事にはこのような美風も今日ではさほど行われないようである。

 ひとつのものを徹底して読む。この美風、すなわち習慣は、現代においては、ますます為
されていない。が、学生は、すすんで挑戦しようという気まがえがなくてはならぬ。と、いっている。その一方で、多読の大切さも説く。

 しかし現に学生生活を送り近い未来において独立すべき青年らには、各率先してこの美風を伝播しようと今より覚悟し実行するように切望せねばならぬ。
 読書ということは、このような効能の点からいっても満足の点からいっても、また精神
修養の点からいってもまことによいものであるが、しかしまた不利益な点を有せぬでもな
い。すなわち精読は常に多くの時間を要するということと、したがって多くの書物が読めないようになるから自然その人の限界が狭隘(キョウヤク)になるを免れないということである。例えていえば、文字において一作家の文章のみを精読しておったならば、その作家については精通しようが思想の豊富修辞の巧妙がそれで十分に学べるということは出来ない。どんなに優秀な作家とても、その長所を有すると同時に多少の欠点を有するものであるから、一作家の文章が万有を網羅し天地を籠蓋(ロウガイ)するというわけにはいかぬ。そこで精読によって益を受けるにしても、またその不備な点が判明したならば、これを他の作家の作物によって学び習うという必要が起きる。すなわち他の作物にたよるということは、多読をするという事に帰するのである。

 一作家のものが万有を網羅することはない。

 またこの外の人文学科、たとえば歴史修身等においても、もしくは物理化学等の自然学
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科においても、一の著者の記述説明に熟すると同時に、他の著者はそれをどんなに記述し説明しているかを参照してみる必要がある。このように参照してみることは知識を確実にする上にきわめて多大の効能があるから、決して煩雑無用のことではない。精読はもとより希うべきであるが、また一面には事情の許す限り多読をして、その限界を狭隘にせぬようにするがよい。精読でもって基礎を作り、多読でもってこれを豊富にするは学問の要訣(ヨウケツ)であってこのようにして得られた知識こそ真に有用なものとなるのである。
 さらに精読と多読との仕方の関係を具体的に述べてみれば、、まず精読する書物の中にある一つの事項に対して付箋または朱黄を施し、かくてその個所が他の参照用として多く渉猟(しょうりょう)(読みあさる)する書中にはどんなに記述説明されているかを付記するのである。換言すれば精読書を中心として綱領として、多読所をことごとくこれに関連付随させるのである。また学問の進歩の程度についていうならば、初歩の間は精読を主とし
相当に進んだ後に多読を心掛くべきである。けれどもどんな場合においても精読が主であって多読が副である。そうしてこの両者のうちいずれにも偏してはならないことは無論であるが、もしいずれに偏するがよいかといえば、精読に変する方がむしろ弊害が少ないのである。精読に伴わない多読は、これは支離散漫なる知識の収得法であって、濫読妄読となるに至ってその幣が極まるのである。
 また鼠噛の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれをも読みとおさずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛(ソコウ)の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれも読み通さずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛の陋(ロウ)に陥ったものも多いのである。実に慎み謹んで遠ざくべき悪癖である。

以上、嘉納治五郎の説く読書の必要性を紹介した。どんな本を読めばいいのか。どんなふうに読めばよいのか。人それぞれに好き嫌いもある。それに、世に古典といわれる良書は山ほどある。となると読書も簡単ではない。このゼミでは、この青年訓の嘉納治五郎とも関係が深く、かつ小説の神様といわれる志賀直哉の作品をテキストとするしだいである。
(編集室)

嘉納治五郎と志賀直哉、志賀直哉は孫弟子

 ゼミでは、嘉納治五郎の「青年訓」をとりあげる。柔道では、テキストの志賀直哉は、嘉納治五郎の孫弟子に当たる。明治15年(1882)治五郎は、講道館柔道を創始するが、一番弟子は、冨田常次郎(冨田常雄『姿三四郎』の父親)。志賀直哉は、学習院時代、柔道に明け暮れたが、師範は、冨田常次郎だった。志賀を我孫子に呼んだのは、嘉納である。

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 ※志賀直哉1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日没88歳

志賀直哉について
土壌館・編集室
 
 小説の神様といわれる志賀直哉の作品といえば唯一の長編『暗夜行路』をはじめ『和解』『灰色の月』『城の崎にて』といった名作が思い浮ぶ。浮かばない人でも『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『菜の花と小娘』と聞けば、学生時代をなつかしく思い出すに違いない。
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もっとも最近は、そうでもないようだ。4月16日のゼミ説明で聞いたが応答はなかった。が、これらの作品はかつて教科書の定番であった。また、物語好きな人なら『范の犯罪』や『赤西蠣太』は忘れられぬ一品である。他にも『正義派』『兒を盗む話』など珠玉の短編がある。いずれも日本文学を代表する作品群である。こうしたなかで、処女作三部作といわれる三作品は一見、創作作品とも思えぬ小品である。唯一『菜の花と小娘』は創作らしい内容だが、他の二作『網走まで』『或る朝』は、なんの変哲もない、とても小説とは思えない作品である。しかし、これら三作に志賀文学の基盤がある。素がある。そのように思える。そんなわけで手始めに「菜の花と小娘」をとりあげてみたい。
 かつて川端康成は、志賀直哉を「文学の源泉」と評した。その意味について正直、若いとき私はよくわからなかった。ただ漠然と、文学を極めた川端康成がそう言うから、そうなのだろう・・・ぐらいの安易な理解度だった。しかし、初老になってあらためて志賀文学を読みすすめるなかで、その意味することがなんとなくわかってきたような気がした。
 そうして、川端康成が評した文学の「源泉」とは、処女作『網走まで』『菜の花と小娘』『或る朝』の三部作にある。そのように確信した。


掲示板

ゼミ目標 「読むこと」「書くこと」の習慣化を身につける。

テキスト 志賀直哉作品(車内観察・生き物観察・事件)

ゼミ雑誌  ゼミ誌編集委員、希望の人は、自薦・推薦で。

○編集は、実践勉強です。ぜひ挑戦してみてください。編集委員は2名です。が、基本的には、ゼミ生全員が編集委員となります。皆で協力してつくりましょう。

熊谷元一研究 作品展見学・郊外授業として。

お知らせ  ドストエフスキー全作品を読む読書会

6月28日(土)池袋 東京芸術劇場小会議室7 午後1時半~5時迄。
作品『地下生活者の手記』2回目 参加学生500円(ゼミ生は無料)詳細は、編集室まで。

・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・

○創作、エッセイ、評論、など書けた人は「下原ゼミ通信」にお寄せください。いつでも歓迎です。〒かメール、手渡しでも。

□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net 09027646052


日本大学藝術学部文芸学科     2014年(平成26年)4月14日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.235
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 6/30 7/7
  
2014年、読書と創作の旅への誘い

4・14下原ゼミ


 2014年文芸研究Ⅱを目指す皆さん

貴重な一年間

みなさん、こんにちは ! いよいよ新学期がはじまりました。所沢校舎での授業はこの一年で最後になります。2年生という学年は、(そうでない人もいるかもしれませんが)、大学生活のなかで一番に安定した学年です。その意味で、皆さんにとって26年度は貴重な一年間といえます。悔いのない、実りある学生生活を目指してスタートしてください。

目標への一歩は、ゼミ選びにあり !!

悔いのない、実りある学生生活とは何か。それはこの一年、自分は何をしたいのか。しっかり目標を立て、それに向かって歩き出すことです。
しかし、大学で自分は、何を学びたいのか。いまだ定まっていない人。漠然としてか決まってない人。さまざまと思います。各ゼミには、それぞれ特徴があります。説明をよく聞いて自分にあったゼミを選んでください。目標への一歩は、ゼミ選びにありです。

「2014年、読書と創作の旅」について

下原ゼミは毎年「――年、読書と創作の旅」と銘打ってゼミをすすめています。旅の目的 は、人間とは何かを知ることです。題名は、映画「2001年宇宙の旅」からとりました。
この世には、さまざまな謎があります。が、最大の謎は、なんといっても人間です。人間がいなければ、世界も宇宙もありません。この森羅万象を意識する人間とは何か。
映画は、その謎に挑むストーリーです。人間は、どこから来て、どこに行くのか。ボーマン船長が旅した宇宙。謎は、解けたのか。リヒャルト・シュトラウス作曲の「ツァラトストラかく語りき」の音楽と果てのない宇宙空間。その退屈さに多くの観客は、睡魔の泉なかに引き込まれていく。そうして目覚めたときは、銀幕は下りている。人間の謎は、なにもわからない。それが大半のひとの正直な感想だろう。
もっとも、しっかり見ていた人もわからない。わかるとすれば、人間の謎は、人類の永遠のテーマと知ることぐらいである。読書と創作の旅で挑戦したい。
※「2001年宇宙の旅」。SF作家アーサー・クラークの『前哨』を映画監督スタンリー・キューブリックが脚本、作家と映画監督協力で1968年2月完成。4月に米国、日本で公開。
上映時間2時間19分 このあいだ会話は僅か40分足らず。「あれの哲学的な意味や象徴的な意味は、観客が自由に考えればよい」キューブリック監督。
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講師紹介

「人間とは何か」を知るために下原ゼミでは、どのように授業をすすめていくか。シラバスにも載せてありますが、あらためて説明したいと思います。
が、その前に、この旅の添乗員は、どんな人か。まずは、それからはじめたいと思います。人間観察は、履歴をみることがその人を知る早道です。
ということで私の略歴と社会での出来ごとを記してみました。以下のようです。

私は、下原敏彦(しもはらとしひこ)といいます。

■ 1947年 昭和22年に生まれた。
この年の一番大きな出来事。 5月3日に日本国憲法が施行された。現政権では改憲を目標にしている。「第九条」を削除して集団的自衛権の行使を容認する
生れ育った所は、長野県伊那谷にある山村 伊那谷は、南アルプスと中央アルプスの間にある細長い谷。その谷の南端。現在、観光地「昼神温泉郷」として駅などでポスターを見かける。新宿から高速バスで4時間半。
地理的特徴、世界で2番目に長い(8㌔)中央高速道恵那山トンネルがある。日本で一番星がきれいに見えるということで、星を見るツアーがある。
下の地図は、南信州部分「昼神温泉」

―――――――――――――――――― 3 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.235

子どものころは、どんな生活をしていたか

 子ども時代の暮らしは、家が農家だから野良仕事の手伝いがほとんど。この地方の主力産業は養蚕。子どもも大人もカイコの世話が中心。村の80パーセントが養蚕農家。  
 子ども時代の遊び、春は、山菜とり(わらび、ぜんまい、きくらげ、木汁)、杉の葉拾い
夏は、カブト虫、蜂の巣探し 秋は、きのこ狩り、 冬は、田んぼスケート、うさぎ追い

子ども時代を観察して創作したものに『伊那谷少年記』『やまなみ山脈』がある。

    

ちなみに
『伊那谷少年記』は短編集(伊那谷童話賞)。『山脈はるかに』(第8回椋鳩十記念)は中編小説。『伊那谷』のなかの「ひがんさの山」は四谷大塚模擬試験問題に。
「コロスケのいた森」は、20年大阪府公立高校入試国語問題に出題。19年埼玉県第二次県立高校入試国語問題に出題されている。
子ども時代の思い出は、後で役に立つので記憶していることは書いておくことをすすめる。
1.手紙 2.写真など
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子ども時代の思い出として、形に残されているものとして、以下の写真集がある。

岩波写真文庫『一年生』

1953年(昭和28年)に長野県の山村に入学した一年生の担任になった写真家・熊谷元一が1年間、学校での子どもの様子を撮った。下原は、そのときの一年生。

この『一年生』は、1955年に土門拳ら著名な写真家たちを押え第一回毎日写真賞受賞。写真界の金字塔。各地で開催の「近くて懐かしい昭和展」に展示されている。
 このなかの、コッペパンを食べる少年は、写真日本一になった。目にした人もいると思うが展覧会のたびに、ポスターとして書店やマスメディアで宣伝されている。

1965年 昭和40年 東京にでてくる。前年、第18回オリンピック東京大会。
日本大学農獣医学部に入学。現在の生物自然科学部国際地域開発学科。1年生のときは神奈川県藤沢。2年から世田谷区下馬校舎。平和部隊。現在、海外技術協力隊に入って低開発国に行くことが目標だった。

このころの東京は、現在の北京並みスモッグ。ソ連、人類初の宇宙遊泳。
1966年 昭和41年 竹橋にある新聞社に住み込み新聞発送のバイト。
 1968年 昭和43年 日大闘争起きる

■ 1968年夏、フランスの定期貨客船「ラオス号」でマルセーユを目指す。
カンボジア、プノンペンで暮らす。政変騒動で帰国。
―――――――――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.235

下原ゼミについて
1.ゼミの目標

「書くこと」「読むこと」の習慣化・日常化を身につける。

前期ゼミの目標は、「書くこと」「読むこと」の習慣化・日常化です。文芸学科の学生に、この目標は、釈迦に説法かも知れません。が、下原ゼミではあえてこの目標をたてています。
入試面接で、たいていの受験生は、志望理由を「本が好き」「小説を書きたい」からと言います。しかし、実際、入ってきた学生から感じるのは、「書くこと」「読むこと」の苦手な人が多いということです。そこで、このゼミでは文芸の初心に帰って「読むこと」と「書くことの」の習慣化、日常化を身につけることを目標にします。

2.「書くこと」の習慣化・日常化について

テキスト感想、車内観察、社会観察、自分観察(日記)を書いて発表する。

テキストとして、志賀直哉の車内観察作品をとりあげます。毎日乗車する交通機関の中で見たこと、考えたこと、空想したことなど...。提出後、合評します。
 
3.「読むこと」の習慣化・日常化について

テキストは、主に志賀直哉の車内観察作品、生き物観察作品、(家族観察としてジュナールの作品も)、毎回1~2作品の朗読。
なぜ、志賀直哉かは、この作家は、日本文学において「小説の神様」といわれているからです。どこが、なぜ、そう呼ばれる所以か。この謎も併せて考えていきたい。

4. 後期ゼミは「創作力「批評力」「表現力」を培う
 
後期ゼミは、前期ゼミの目標が達成したと仮定して、新聞記事などをヒントに創作をしていきます。また、社会問題を議論して批評力を高めます。
後期は、ゼミ誌作成もあるので、計画通りにはいかないところもあります。了承ください。また、年末の合同発表会における出しものとして、「表現力」をつけるためテキストから模擬裁判を脚本して稽古していきます。

※後期、三ゼミ合同発表会での模擬裁判は、志賀直哉の事件作品の脚本化。

なお、「読むこと」は、前期・後期、ひきつづき実施します。

5.ゼミ合宿について

 ゼミ合宿は、実施します。主に軽井沢の日本大学施設です。
「読むこと」の集大成として、毎回マラソン朗読会を実施しています。
 はじめ、驚き逡巡されるが、終わってみると好評です。大学生活のよい思い出になったと喜ばれています。作品は、・・・・・(決まっています)
例年 午後3時スタート → (夕食・風呂)→ 午後1時30分頃までに完走

6.郊外授業について ゼミⅢ『熊谷元一研究』に併せて写真展などの見学。
 秋田・写真展見学  銀座・岩波書店百年展  新宿・写真賞選考会見学  
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.235 ―――――――― 6 ―――――――――――――

ゼミ番外

 ゼミの授業の他に、下原が日頃、研究対象としていること。

1.ドストエフスキーについて
 
 一般の人を対象に2カ月に一度、全作品を読む会「読書会」を開いています。会場は池袋西口にある東京芸術劇場小会議室。10年1サイクル、現在は5サイクル半ば。
 ドストエフスキーは、ゼミではとりあげませんが、ゼミ合宿のマラソン朗読会ではテキストにします。乞うご期待!!
著書とし『ドストエフスキーを読みながら』(鳥影社)『ドストエフスキーを読みつづけて』(D文学研究)他がある。
読書会のお知らせとして、以下のミニコミ誌を各月に発行している。興味ある人は、どうぞ。

ドストエーフスキイ 2014年(平成26年) 4月15日発行 
   全作品を読む会 読書会通信143   
   ホームページ  http://dokushokai.shimohara.net/

☆読書会連絡先:福井勝也℡03-3320-6488・横尾和博℡03-3902-8457・下原敏彦047-475-1582

2014年(平成26年)開催月日2・1/4・26/6・28/8・未定/10・未定/12・未定 /2・未

第262回4月26日読書会のお知らせ

第4土曜日・「東京芸術劇場」小7会議室です
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2.嘉納治五郎について

 地元、船橋で町道場を開いている。小学生が主体だが(中学生、高校生、一般の人もいる)
2002年、大雪で倒壊寸前だったが、朝日新聞「声」への投書から日本テレビが番組で改築
オンボロ道場ながら現在にいたっている。30年近くつづいている。
柔道は、日大の柔道部時代からつづけているが、創始者の嘉納治五郎については、柔道より、教育者、コスモポリタンとしての側面に光をあてたい。
文学上は、夏目漱石の上司(漱石を教師として採用)、ラフカディオ・ハーンを教師として採用。魯迅を留学生として受け入れるなど文学者との関係も深い。

志賀直哉は、孫弟子にあたる

 ゼミでは、嘉納治五郎の「青年訓」をとりあげる。柔道では、テキストの志賀直哉は、嘉納治五郎の孫弟子に当たる。明治15年(1882)治五郎は、講道館柔道を創始するが、一番弟子は、冨田常次郎(冨田常雄『姿三四郎』の父親)。志賀直哉は、学習院時代、柔道に明け暮れたが、師範は、冨田常次郎だった。

治五郎をモデルにした創作ルポに『千帆閣の海』がある。
―――――――――――――――――― 7 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.235

3.熊谷元一について 写真家・童画家・教師

 2010年に101歳で亡くなった熊谷元一については、前頁で『一年生』を紹介した。が、その功績をもっと評価したい目的でとりあげる。研究分野では、まだ未開(現在、名城大、静岡大の2先生のみ)。下原の小学校時代の担任であり恩師であることから下原のライフワークとなる研究事案。実際にはゼミⅢ、ゼミⅣにて研究活動をするが、ゼミⅡにおいても、前哨として、写真・童画展に郊外授業として参加できればと思っている。
 熊谷元一対象作品
写真集編纂『五十歳になった一年生』 記念文集作成『還暦になった一年生』
43年後、担任の熊谷は、50歳になった「一年生」を写真に撮るために全国へ写真行脚の旅にでた。NHKテレビはそのあとを追ってドキュメンタリー番組を作った。1996年11月24日放映された。あの「一年生」は、どんな大人になっていたか。以下の写真集にまとめた。編纂・熊谷元一と下原&28会

43年後、担任の熊谷は、50歳になった「一年生」を写真に撮るために全国へ写真行脚の旅にでた。NHKテレビはそのあとを追ってドキュメンタリー番組を作った。1996年11月24日放映された。
あの「一年生」は、どんな大人になっていたか。以下の写真集にまとめた。編纂・熊谷元一と下原&28会



下原と熊谷元一
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.235 ―――――――― 8 ―――――――――――――――

岩波写真文庫『一年生』には、多くの愛読者がいる

2007年に復刻版がでた際、作家の赤瀬川原平さんは、『一年生』を赤瀬川原平セレクションとしてとりあげ「選者からのメッセージ」を寄せた。
 現在、日芸講師で読売新聞の編集委員を勤める芥川喜好さんも愛読者だった。が、最近まで下原が被写体だと知らなかった。
昨年暮れ12月18日、NHKBSで再放送されたアーカイブスの「教え子たちの歳月」を話題にした際、写真で知っている記憶の少年が下原とわかって驚かれた。
そのときのことを2013年3月23日読売新聞朝刊の「時の余白」欄に書かれた。
以下の写真は、芥川先生が記憶にあった写真。

上、数を計算する下原
士、校長先生の話にあきてきた子どもたち

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けんか、教師は、とめることなく、まず写真に撮った。

文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.235―――――――― 10 ――――――――――――――――

これは、日芸講師・芥川先生(読売編集委員)が、下原を取材して書かれた記事。

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人との繋がの不思議を思います。この記事が関係するかどうかは知りませんが、岩波書店は、今年6月下旬、銀座・教文館ホールにて岩波写真文庫の展覧会を開催を計画。その際、『一年生』を重版し販売予定と連絡あり。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・235―――――――― 12――――――――――――――――

              日本大学学祖・山田顕義(やまだあきよし)
1844年 山田市之允(やまだいちのじょう)長州藩(山口県萩市)に生まれる。
1853年 6月ペリー来航
1854年 1月ペリー再来日 ミシシッピー号、レキシントン号など7隻 日米和親条約
     吉田松陰、黒船密航に失敗。 
1857年 安政4年 吉田寅次郎(松蔭)の松下村塾に入塾。14歳。11月看板。
    ※松下村塾の塾生は、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、山県有朋らがいた。
    最近のニュースで、坂本竜馬が久坂の手紙を土佐(武市半平太)に持って帰ったと
    の記事。最近、発見された。
1858年 安政5年、12月26日、松陰に野山獄入りが命じられる。安政の大獄。
    別れに際して松陰は、15歳の市之允に漢詩を書いた扇を渡す。松下村塾消滅。
    日米修好通商条約締結=地位協定、関税などの不平等条約
1859年 10月27日 吉田松陰斬首。30歳
    遺訓「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」
1863年 下関にて攘夷。米商船を攻撃。市之允初陣。
1864年 蛤御門の変。参戦。久坂玄瑞死す。第一次長州征伐。長州降参。
    アメリカ、イギリス、フランス、オランダ四カ国連合艦隊長州攻撃。
    市之允、御盾隊として奮戦も敗戦。高杉晋作の決起に参加。
1866年 慶應2年、第二次長州征伐。小型砲艦の砲艦長として活躍。
1867年 慶應3年、高杉晋作が死んだ。六十余州を揺り動かした風雲児だけに皆は後任を
    心配した。高杉は、病床でこう告げたといわれる。「大村益次郎に頼め。その次は、
    山田市之允だ」市之允24歳であった。 
1868年 慶應4年、新政府討幕軍の参謀として官軍を率いて鳥羽・伏見。東北各藩、函館
    戦争を勝利に導く。長岡、会津、五稜郭。いずれも困難な戦だったが、「用兵の奇
    才」ぶりを十分に発揮した。
1872年 1月欧米視察団でアメリカ、ヨーロッパへ。吉田松陰の密航失敗から17年後。
    旅行中は、木戸孝允(桂小五郎)と同行。2月パリへ。ワーテルロー見学。
1873年 6月帰国。1年8ヶ月の旅。    
1877年 西南戦争に鎮圧出征。活躍して終結させる。
1885年 第一次伊藤博文内閣で初代司法大臣に。
1890年 日本大学の前身・日本法律学校を創設。
1891年 大津事件(ニコライ皇太子傷害事件)の責任をとって司法大臣を辞任。
1892年 11月、兵庫県にある生駒銀山視察中に不審死。49歳。
1988年 12月20日、日本大学による墓地発掘。調査によると
    「頭蓋骨の形状などから、突き落とされたのではないか」との見解。

・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・

お知らせ ゼミ誌編集委員、希望の人は、自薦・推薦で。

○編集は、実践勉強です。ぜひ挑戦してみてください。編集委員は2名です。が、基本的には、ゼミ生全員が編集委員となります。皆で協力してつくりましょう。
○創作、エッセイ、評論、など書けた人は「下原ゼミ通信」にお寄せください。いつでも歓迎です。〒かメール、手渡しでも。

□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net


日本大学藝術学部文芸学科     2014年(平成26年)1月27日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.234
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
9/30 10/7 10/21 10/28 11/11 11/18 11/25 12/2 12/9 12/16 
1/20  1/27 
                 「2013年、読書と創作の旅」の皆さん

さようなら2013の旅


 1. 世界名作読み『最後の授業』 (紙芝居・口演『少年王者』)
 2.  2013年度下原ゼミ回顧  2014年抱負
         

2013年度文芸研究Ⅱ下原ゼミ回顧

 気がつけば、今日が最後のゼミ授業である。この一年あっと言うのに過ぎた。楽しき日は
速し、とすれば、有意義な旅であったともいえる。が、はたしてそうか・・・ ? いずれに
せよゼミの皆さんの2年次は過ぎました。
 ゼミ担当者としては、一人の落伍者もなく、旅を終えることができたことに、安堵してい
る。思えば、桜散るあの季節、ゼミ2教室に入ってきたのは男子学生一人、女子学生
二人だった。はじめての小人数、ちょつと心細かった。が、遅れて聴講生一人が参加したこ
とで、活気がでた。参加者三人のときもあったが、いつのときも賑やかで明るかった。
 この一年、このゼミで、真に学ぶことができたかどうかは知らない。が、楽しくできた。
下原ゼミは、「2013年、読書と創作の旅」と銘打って、前・後期の内容は以下のようだった。

読むこと、書くことの習慣化・日常化を目指して

「読むこと」の習慣化は、主に小説の神様、志賀直哉の車内観察作品をテキストにして音読
と感想発表を行った。『網走まで』『出来ごと』『正義派』『灰色の月』など。
「書くこと」の習慣化は、車内観察、時評、テキスト感想を書いて発表。

事件作品から模擬裁判、創作力・表現力を養う

 後期は、事件作品から模擬裁判を行った。作品は、志賀直哉の『剃刀』『范の犯罪』モーパッサンの『狂人』など。模擬裁判は、『范の犯罪』を脚色、3ゼミ合同発表会で寸劇を発表した。新聞の三面記事を創作して発表するのは、時間的にできなかった。


日本大学藝術学部文芸学科     2014年(平成26年)1月20日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.233
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
9/30 10/7 10/21 10/28 11/11 11/18 11/25 12/2 12/9 12/16 
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                 「2013年、読書と創作の旅」の皆さん

1・20ゼミ


 1. ゼミ誌と掲載作品紹介  
 2. 小倉百人一首大会  坊主めくり  カルタとり
         
12・16合同発表会報告(参加3ゼミ)

後期前半最終日12月16日は恒例の3ゼミ合同発表会 写真・下原ゼミ模擬法廷
 

 第9回になる3ゼミ合同発表会は、清水ゼミ、山下ゼミ、下原ゼミ参加で行われた。清水ゼミは、ドストエフスキー、チェーホフ、宮沢賢治研究から感想、寸劇を発表した。山下ゼミは、宮沢賢治研究の考察。主に「ブランドン農場の豚」についての感想。
・清水教授「いい発表だった。とくに『フランドン農場のブタ」は、人間生活についての根源的な問題。これからもを続けていってほしい』
・下原講師「ゼミ誌は形の成果だが、合同発表は、目に見えない成果。毎年、楽しみ」


日本大学藝術学部文芸学科     2013年(平成25年)12月9日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.232
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
9/30 10/7 10/21 10/28 11/11 11/18 11/25 12/2 12/9 12/16 
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                 「2013年、読書と創作の旅」の皆さん

12・9ゼミ


 1. 12・16の3ゼミ合同発表会、模擬裁判稽古&ゼミ誌刊行お祝い
 2. サバイバル・生き残れるのは 3.世界文学紹介・詩篇「ミラボー橋」
         

12・1ゼミ報告 (参加3名)

後期前半最終日は12月16日
 前回、勘違えしました。後期前半の最終日は16日でした。従って、この日が合同発表会
です。ということは模擬裁判稽古、もう二日できるということで、ほっとした。9日は、全
員で稽古ができれば・・・。

【3名で模擬裁判稽古】
課題、事件再現の打ち合わせ。弁護と検察の台詞。
【社会観察「赤ちゃん取り違え」60年後発覚についての感想】
 先週、報道された「60年後にわかった赤ちゃん取り違え事件」についての感想。もし自分だったら、どちらの家庭に育った方がよかったか。
 Aさん...本当は、金持ちの家の長男だが、取り違えられて育った家は貧乏な家の4男、上に3人兄がいた。2歳のとき父親は死亡。母親は生活保護をうけながら子供たちを育てる。全員中卒。現在独身でトラック運転手。病気の次男を介護しながら暮らしている。
Bさん...本当は貧乏な家の4男だが、金持ちの家の長男として育った。後に弟が3人できる。4人全員4大卒、弟3人は一流企業。Bさんは家業を継いで社長。が、親の介護をめぐって3人の弟たちと対立。3人の弟たちは、血筋を怪しんで探偵に依頼。本当の兄Aさんを探し当てる。
【観察から創作作品へ、文豪モーパッサンの短編を読む】
『狂人』立派な裁判官だと思っていた人は、本当は...もしこんな裁判官がいたら――
『田園悲話』貧乏でも両親に育てられた子。金持ちの養子になって育った子。残酷な結末。


日本大学藝術学部文芸学科     2013年(平成25年)12月1日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.231
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
9/30 10/7 10/21 10/28 11/11 11/18 11/25 12/2 12/9 12/16 
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                 「2013年、読書と創作の旅」の皆さん

12・1ゼミ


 1. 12・16の3ゼミ合同発表会に向けての、模擬裁判稽古
 2. 社会観察から創作へ 3.児童虐待防止推進月間「にんじん」感想
         

11・25ゼミ報告 (参加2名)

 木枯らしに落ち葉が舞う。文芸棟に向かう桜の街路樹が、日に日に寂しくなっている。
学生が、まるで落ち葉に合わせるように所沢校舎から姿を消し去っている感じがする。広い
校内が森閑としている。202教室も、まさかの空室 -― !? と思いきや齊藤さん嶋津
さんが現れて安堵する。が、寸劇稽古は見送り。全員の参加が待たれる。

【11月は児童虐待防止推進月間】

新聞をひろげれば、どこかに子供虐待か、いじめの記事がある。なぜ両親は、幼きものを
イジメ尽くすのか。

【世界名作文学『にんじん』の読みと感想】児童虐待作品かどうか

にんじん(10)姉エルネスチーヌ(12)兄フェリックス(15)母親ルピック夫人(40)父親
ルピックス氏(45)女中オノリーヌ(60)  ()は推定年齢
郊外に住むにんじん一家は、父親がセールスマン、畑があり家畜はニワトリやうさぎを飼っ
ている。犬もいる。食事をつくる女中さんも一人雇っている。中流よりやや上の家庭。近く
に祖父もいてにんじんを可愛がっている。まったく平凡な、普通の家庭、家族なのだが...
・「めんどり」・「しゃこ」・「犬」・いやな夢」・「失礼ながら」・「もぐら」・「鶴嘴」・「ねこ」・「湯
呑」など約9作品の読みと感想。「変な、危ない家族]が主な感想。

【世界文学詩篇吟唱】フランスの詩人ベルレーヌの秋の歌2編。翻訳の違いを知る。


日本大学藝術学部文芸学科     2013年(平成25年)11月25日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.230
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
9/30 10/7 10/21 10/28 11/11 11/18 11/25 12/2 12/9 12/16 
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                 「2013年、読書と創作の旅」の皆さん

11・25ゼミ


 1. 12・16の3ゼミ合同発表会に向けての、模擬裁判稽古
 2. 児童虐待防止推進月間「にんじん」について3.世界名作・詩篇
         

11・18ゼミ報告 (参加3名)

 授業前、O先生が、冗談まじりに「ゼミ誌入稿したら、学生は今年は終わったと思って
いるようです。休む人が多くなりました」と、話していた。教室に行くと南海さん1人。も
しかして・・・と、懸念しつつ南海さんと最近のテレビドラマ(刑事もの、検察ものが多い
のはなぜか)、について、村上春樹の作品(なぜ人気)について話す。つるべ落としの夕刻、
今日は、もう誰も、と思っていたら齋藤さん、嶋津さんみえる。

【ゼミ雑誌刊行は近日中】

ゼミ誌『読書と創作の旅』は、目下、12月6日の納入日に向けて印刷作業中。

【12・16公演の模擬裁判稽古】  模擬裁判 寸劇稽古  時間の都合で中止

【テキスト『剃刀』の読み】

志賀直哉のテキスト読みとして『剃刀』を読む。床辰の主人の罪について話す。

【練習・麻布新兵殺害事件模擬裁判】

裁判官・・・・南海洋輔     被告・・・・嶋津きよら
検察・・・・・斎藤真由香    弁護・・・・南海

11月24日(日)「一年生展」見学・昼神温泉郷「熊谷元一写真童画館」


日本大学藝術学部文芸学科     2013年(平成25年)11月18日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.229
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
9/30 10/7 10/21 10/28 11/11 11/18 11/25 12/2 12/9 12/16 
1/20  1/27 
                 「2013年、読書と創作の旅」の皆さん

11・18ゼミ


 1.ゼミ誌編集経過報告、12・16の3ゼミ合同発表会、模擬裁判稽古
 2. テキスト『剃刀』脚本読み、3.児童虐待防止月間「にんじん」
         

11・11ゼミ報告 (参加3名)

【ゼミ雑誌編集作業状況】本日、入稿 ! お疲れさまでした

ゼミ開始後、齋藤真由香編集長、「本日、ゼミ誌『読書と創作の旅』入稿しました」を報
告。これにより12月6日ゼミ誌納入日には間に合うことが予想される。ご苦労さまでした。

【12・16模擬裁判の稽古】  模擬裁判 寸劇稽古  時間の都合で中止

【竹取り物語・赤ん坊誘拐事件】HPにあった事件簿の行方は 2頁詳細

HPの判決  未成年者略取及び誘拐罪、刑法224条に該当、よって
 有罪の場合 =  竹取り爺さん(主犯) → 懲役3年
             妻のお婆さん  → 懲役2年
 無罪の場合 = 大事に育てていたので224状には当たらない。養子縁組として無罪。

【テキスト『兒を盗む話』、尾道幼女誘拐・監禁事件】

動機 → 寂しさ  ワイセツ目的 出刃包丁を用意、たまたま抵抗しなかった。検察側なら、懲役5~10年を求刑。弁護側なら無罪を主張。心神耗弱。
作者は、精神的理由で無罪。2013年ゼミ生は納得できない。控訴。

【継子殺人未遂事件】監獄4年の後シベリア送りが再審で無罪。

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