文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.234

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日本大学藝術学部文芸学科     2014年(平成26年)1月27日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.234
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
9/30 10/7 10/21 10/28 11/11 11/18 11/25 12/2 12/9 12/16 
1/20  1/27 
                 「2013年、読書と創作の旅」の皆さん

さようなら2013の旅


 1. 世界名作読み『最後の授業』 (紙芝居・口演『少年王者』)
 2.  2013年度下原ゼミ回顧  2014年抱負
         

2013年度文芸研究Ⅱ下原ゼミ回顧

 気がつけば、今日が最後のゼミ授業である。この一年あっと言うのに過ぎた。楽しき日は
速し、とすれば、有意義な旅であったともいえる。が、はたしてそうか・・・ ? いずれに
せよゼミの皆さんの2年次は過ぎました。
 ゼミ担当者としては、一人の落伍者もなく、旅を終えることができたことに、安堵してい
る。思えば、桜散るあの季節、ゼミ2教室に入ってきたのは男子学生一人、女子学生
二人だった。はじめての小人数、ちょつと心細かった。が、遅れて聴講生一人が参加したこ
とで、活気がでた。参加者三人のときもあったが、いつのときも賑やかで明るかった。
 この一年、このゼミで、真に学ぶことができたかどうかは知らない。が、楽しくできた。
下原ゼミは、「2013年、読書と創作の旅」と銘打って、前・後期の内容は以下のようだった。

読むこと、書くことの習慣化・日常化を目指して

「読むこと」の習慣化は、主に小説の神様、志賀直哉の車内観察作品をテキストにして音読
と感想発表を行った。『網走まで』『出来ごと』『正義派』『灰色の月』など。
「書くこと」の習慣化は、車内観察、時評、テキスト感想を書いて発表。

事件作品から模擬裁判、創作力・表現力を養う

 後期は、事件作品から模擬裁判を行った。作品は、志賀直哉の『剃刀』『范の犯罪』モーパッサンの『狂人』など。模擬裁判は、『范の犯罪』を脚色、3ゼミ合同発表会で寸劇を発表した。新聞の三面記事を創作して発表するのは、時間的にできなかった。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.234 ―――――――― 2 ―――――――――――――

ゼミでの収穫   2013年のゼミで記憶に残ったのはゼミ合宿

 ゼミで一番に印象に残ったのは、8月はじめに軽井沢で行われたゼミ合宿である。ドストエフスキー『貧しき人々』を7時間かけて音読した。これによってゼミ生と講師と一体感がもてるようになった。

1・20ゼミ報告    小倉百人一首カルタ大会

 正月といえば現代はゲーム遊びだが、昭和30年頃までは小倉百人一首だった。はじめに百人一首で坊主めくりとカルタ拾いをした。次に百人一首のカルタとりを行った。
 坊主めくりの結果は、1回戦 優勝・嶋津きよら  2回戦 優勝 齋藤真由香 なぜか下原は、坊主に魅入られ、連続の最下位。  
百人一首カルタとりの結果、僅差で、嶋津きよらさん優勝、

厄 日  1月24日の夜は厄日だった。4連続の不運。

 この日、今年度で大学を去る講師の先生、新年度から赴任する先生たちの歓送迎会が江古田の居酒屋であった。盛り上がって遅くなった。が、終電にはキリキリ間に合う時間だった。この時間は、秋葉原で総武線に乗り換えることにしていた。
第一の不運、幕張で車両故障の為総武線各駅は30分以上遅れるとのアナウンス。
第二の不運、断念して東京駅から快速に載ることにして山手線に再度乗車するが、神田駅を発車した途端、急停車、だれかが非常ボタンを押したとのこと。
第三の不運、こんどは待ち切れない乗客が手動コックを開いてしまった、との放送。
第四の不運、30分ぐらい遅れて東京駅に着く。快速ホームに降りてみると人で溢れていた。何事かと思えば「線路内に人が入った」との放送。やっと発車したのは12時15分、新津田沼の新京成は12時35分が終電。10分遅れで乗れず。タクシー乗り場は長蛇の列。結局徒歩で帰路に。深夜1時半の帰宅となった。乗った電車、乗った電車に不備が...珍しい。
不運からの解放、翌朝は6時に起きて7時我孫子に向かう。病院で昨年の検査結果を聞く日だった。こちらは以上無しで、やっと不運から解放された。

一月の歌

静と動を見事に詠む

もののふの 矢並(やなみ)つくろう小手の上に 霰たばしる 那須の篠原

鎌倉右大臣實朝郷家集 岩波文庫『金槐和歌集』斉藤茂吉校訂 1972年7月20日発行

 凛とした寒さが張りつめる雪原の那須の野。時が静止したような静寂があたりをおしつつんでいる。時折り、霰がたばしるなか武士が一人黙々と矢並をつくろっている。
 実朝は12歳のとき、兄頼家の後を継いで鎌倉三代の将軍になる。が、1219年28歳で北条の手によって暗殺される。母親に裏切られた薄幸な生涯だった。

―――――――――――――――――― 3 ――――― ☆文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.234

最後の名作読み 100冊の現代文学より1つの古典名作を。課して読みましょう。

アルフォンス・ドーデー『最後の授業』

 「2013年、読書と創作の旅」この旅も本日が最後です。というわけで、最後の読書のススメは、いつも文字通り『最後の授業』ドーテーの作品を紹介しています。
この作品は、たんに文字通り最後の授業ということでとりあげたもので、政治的・歴史的意図はありません。日本も戦前は、似たようなことをしてきました。が、ここでは、あくまでも世界名作作品として。

【 以前、こんな感想もいただいています 】
...ドーテの『最後の授業』は、私も「文学表現演習」の授業で取り上げたことがありますが、アルザスの歴史を背後に見ながら小説を読むとき、これを「敗戦国の悲哀と愛国心を描いた名作」と評してよいのか疑問に感じます。仮にアルザスを朝鮮に、フランス語を日本語に置き換えてみると、作品の複雑さが見えてくるように思えるのですが、いかがでしょうか。...

 率直な感想ありがとうございました。たしかに、領土問題を考えると上記のような疑問もでてきます。が、この作品には、そうした国家間の怨念としての領土問題を乗り越える力があります。だからこそ世界文学線上にあるのです...(地球はだれのもの、この世界から領土問題をなくしたい)そのような思いが、反面教師として込められています。
 ともあれ、あなたはどう感じるか。
 
     最後の授業 ~アルザスの一少年の物語~

      A・ドーデー(桜田佐訳)
 その朝は学校へ行くのがたいへんおそくなったし、それにアメル先生が分詞法の質問をすると言われたのに、私は丸っきり覚えていなかったので、しかられるのが恐ろしかった。一時は、学校を休んで、どこでもいいから駆けまわろうかしら、とも考えた。
 空はよく晴れて暖かかった!
 森の端でつぐみが鳴いている。りベールの原っぱでは、木挽き工場の後でプロシア兵が調練しているのが聞こえる。どれも分詞法の規則よりは心を引きつける。けれどやっと誘惑に打ち勝って、大急ぎで学校へ走って行った。
 役場の前を通った時、金網を張った小さな掲示板の傍に、大勢の人が立ちどまっていた。二年前から、敗戦とか徴発とか司令部の命令というようないやな知らせはみんなここからやってきたのだ。私は歩きながら考えた。
「今度は何が起こったんだろう?」
 そして、小走りに広場を横ぎろうとすると、そこで、内弟子と一緒に掲示を読んでいたかじ屋のワシュテルが、大声で私に言った。
「おい、坊主、そんなに急ぐなよ、どうせ学校には遅れっこないんだから!」
 かじ屋のやつ、私をからかっているんだと思ったので、私は息をはずませてアメル先生の小さな庭の中へ入っていった。
 ふだんは、授業の始まりは大騒ぎで、机を開けたり閉めたり、日課をよく覚えようと耳をふさいでみんな一緒に大声で繰り返したり、先生が大きな定規で机をたたいて、
「も少し静かに!」と叫ぶのが、往来まで聞こえていたものだった。
 私は気づかれずに席につくために、この騒ぎを当てにしていた。しかし、あいにくその日は、何もかもひっそりとして、まるで日曜の朝のようだった。友だちはめいめいの席に並ん
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でいて、アメル先生が、恐ろしい鉄の定規を抱えて行ったり来たりしているのが開いた窓越しに見える。戸を開けて、この静まり返ったまっただなかへ入らなければならない。どんなに恥ずかしく、どんなに恐ろしく思ったことか!
 ところが、大違い。アメル先生は怒らずに私を見て、ごく優しく、こう言った。
「早く席へ着いて、フランツ。君がいないでも始めるところだった。」
 私は腰掛をまたいで、すぐに私の席に着いた。ようやくその時になって、少し恐ろしさがおさまると、私は先生が、督学官の来る日か賞品授与式の日でなければ着ない、立派な、緑色のフロックコートを着て、細かくひだの付いた幅広のネクタイをつけ、刺しゅうをした黒い絹の縁なし帽をかぶっているのに気がついた。それに、教室全体に、何か異様なおごそかさがあった。いちばん驚かされたのは、教室の奥のふだんは空いている席に、村の人たちが、私たちのように黙って腰をおろしていることだった。三角帽を持ったオゼールじいさん、村の村長、元の郵便配達夫、なお、その他、大勢の人たち。そして、この人たちはみんな悲しそうだった。オゼールじいさんは、縁のいたんだ古い初等読本を持って来ていて、ひざの上
にひろげ、大きなめがねを、開いたページの上に置いていた。

※分詞法=動詞が変形し、形容詞の機能を持つもの。インド・ヨーロッパ語族の諸国語に見られ、英語では現在分詞、過去分詞の二つがある。(『広辞苑』)

 私がこんなことにびっくりしている間に、アメル先生は教壇に上がり、私を迎えたと同じ
優しい重味のある声で、私たちに話した。
「みなさん、私が授業するのはこれが最後(おしまい)です。アルザスとロレーヌの学校では、ドイツ語しか教えてはいけないという命令が、ベルリンから来ました・・・・新しい先生が明日見えます。今日はフランス語の最後のおけいこです。どうかよく注意してください。」
 この言葉は私の気を転倒させた。ああ、ひどい人たちだ。役場に掲示してあったのはこれだったのだ。
 フランス語の最後の授業!・・・・・
 それだのに私はやっと書けるぐらい!ではもう習うことはできないのだろうか!このままでいなければならないのか!むだに過ごした時間、鳥の巣を探しまわったり、ザール川で氷滑りをするために学校をずるけたことを、今となってはどんなにうらめしく思っただろう!さっきまであんなに邪魔で荷厄介に思われた本、文法書や聖書などが、今では別れることのつらい、昔なじみのように思われた。アメル先生にしても同様であった。じきに行ってしまう、もう会うこともあるまい、と考えると、罰を受けたことも、定規で打たれたことも、忘れてしまった。
 きのどくな人!
 彼はこの最後の授業のために晴着を着たのだ。そして、私はなぜこのむらの老人たちが教室のすみに来てすわっていたかが今分かった。どうやらこの学校にあまりたびたび来なかったことを悔やんでいるらしい。また、それは先生に対して、四十年間よく尽くしてくれたことを感謝し、去り行く祖国に対して敬意を表するためでもあった・・・・
 こうして私が感慨にふけっている時、私の名前が呼ばれた。私の暗しょうの番だった。このむずかしい分詞法の規則を大きな声ではっきりと、一つも間違えずに、すっかり言うことができるなら、どんなことでもしただろう。しかし最初からまごついてしまって、立ったまま、悲しい気持で、頭もあげられず、腰掛の間で身体をゆすぶっていた。アメル先生の言葉が聞こえた。
「フランツ、私は君をしかりません。充分罰せられたはずです・・・そんなふうにね。私たちは毎日考えます。なーに、暇は充分ある。明日勉強しょうつて。そしてそのあげくどうなったかお分かりでしょう・・・・ああ!いつも勉強を翌日に延ばすのがアルザスの大きな不
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幸でした。今あのドイツ人たちにこう言われても仕方がありません。どうしたんだ、君たちはフランス人だと言いはっていた。それなのに自分の言葉を話すことも書くこともできないのか!・・・この点で、フランツ、君がいちばん悪いというわけではない。私たちはみんな大いに非難されなければならないのです。」
「君たちの両親は、君たちが教育を受けることをあまり望まなかった。わずかなお金でもよけい得るように、畑や紡績工場に働きに出すほうを望んだ。私自身にしたところで、何か非難されることはないだろうか?勉強するかわりに、君たちに、たびたび花園に水をやらせはしなかったか?私があゆを釣りに行きたかった時、君たちに休みを与えることをちゅうちょしたろうか?・・・・」
 それから、アメル先生は、フランス語について、つぎからつぎへと話を始めた。フランス語は世界じゅうでいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばん力強い言葉であることや、ある民族がどれいとなっても、その国語を保っているかぎりは、そのろう獄のかぎを握っているようなものだから、私たちのあいだでフランス語をよく守って、決して忘れてはならないことを話した。それから先生は文法の本を取り上げて、今日のけいこのところを読んだ。あまりよく分かるのでびっくりした。先生が言ったことは私には非常にやさしく思われた。私がこれほどよく聞いたことは一度だってなかったし、先生がこれほど辛抱強く説明したこともなかったと思う。行ってしまう前に、きのどくな先生は、知っているだけのことを
すっかり教えて、一どきに私たちの頭の中に入れようとしている、とも思われた。
 日課が終わると、習字に移った。この日のために、アメル先生は新しいお手本を用意して
おかれた。それには、みごとな丸い書体で、「フランス、アルザス、フランス、アルザス。」と書いてあった。小さな旗が、机のくぎにかかって、教室じゅうにひるがえっているようだった。みんなどんなに一生懸命だったろう!それになんというし静けさ!ただ紙の上をペンのきしるのが聞こえるばかりだ。途中で一度こがね虫が入ってきたが、だれも気をとられない。小さな子どもまでが、一心に棒を引いていた。まるでそれもフランス語であるかのように、まじめに、心をこめて・・・学校の屋根の上では、はとが静かに鳴いていた。私はその声を聞いて、
「今にはとまでドイツ語で鳴かなければならないのじゃないかしら?」と思った。
 ときどきページから目をあげると、アメル先生が教壇にじっとすわって、周囲のものを見つめている。まるで小さな校舎を全部目の中に納めようとしているようだ・・・無理もない!四十年来この同じ場所に、庭を前にして、少しも変わらない彼の教室にいたのだった。ただ、腰掛と机が、使われているあいだに、こすられ、みがかれただけだ。庭のくるみの木が大きくなり彼の手植えのウブロンが、今は窓の葉飾りになって、屋根まで伸びている。かわいそうに、こういうすべての物と別れるということは、彼にとってはどんなに悲しいことであったろう。そして、荷造りしている妹が二階を行来する足音を聞くのは、どんなに苦しかったろう!明日はでかけなくてはならないのだ、永遠にこの土地を去らなければならないのだ。
 それでも彼は勇を鼓して、最後まで授業を続けた。習字の次は歴史の勉強だった。それから、小さな生徒たちがみんな一緒にバブビボビュを歌った。うしろの、教室の奥では、オゼール老人がめがねを掛け、初等読本を両手で持って、彼らと一緒に文字を拾い読みしていた。彼も一生懸命なのが分かった。彼の声は感激に震えていた。それを聞くとあまりこっけいで痛ましくて、私たちはみんな、笑いたくなり、泣きたくもなった。ほんとうに、この最後の授業のことは忘れられない・・・
 とつぜん教会の時計が12時を打ち、続いてアンジェリスの鐘が鳴った。と同時に、調練から帰るプロシャ兵のラッパが私たちのいる窓の下で鳴り響いた・・・アメル先生は青い顔をして教壇に立ち上がった。これほど先生が大きく見えたことはなかった。
「みなさん」と彼は言った。「みなさん、私は・・・私は・・・」
 しかし何かが彼の息を詰まらせた。彼は言葉を終わることができなかった。
 そこで彼は黒板の方へ向きなおると、白墨を一つ手にとって、ありったけの力でしっかり
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と、できるだけ大きな字で書いた。
「フランスばんざい!」
 そうして、頭を壁に押し当てたまま、そこを動かなかった。そして、手で合図した。
「もうおしまいだ・・・お帰り。」

※この話、舞台はフランスですが、戦争になれば世界中どこでも起きることです。

A・ドーテについて
  アルフォンス・ドーデー(1840-1897)は、南フランスの古都ニームに生まれた。若いとき兄がいるパリにきて詩集『恋する女たち』、短編集『風車小屋だより』、自伝小説『プチ・ショーズ』によって作家となった。普仏戦争(1870)が始まると国民兵を志願した。ここで紹介する短編『最後の授業』は、そのときの体験と想像をまじえて創作したもの。フランスは負けてアルザス地方を割譲されるが、作者の憤怒と嘆き愛国心が投影され名作となった。 このときの戦争を「歴史新聞」(日本文芸社)は、下記のように大々的に報じている。

ナポレオン三世プロイセンに降伏

【パリ=1870年9月4日】フランス再び共和制に 敗北知ってパリ市民が暴動
「皇帝、プロイセンに降伏」の報が届いたパリで、四日、帝政廃止を求める暴動が起きた。
 市民の圧力で第二帝政は崩壊、臨時政府による第三共和制がスタートした。しかしプロイセン軍はパリに向かって進軍を続けており、フランスの混乱はさらに広まっていくと予想される。ドイツ統一はプロイセンの首相オットー・フォン・ビスマルクの悲願である。1866年の対オーストリア戦の勝利で、ビスマルクの夢はほぼ達成された。残るのはフランスとの国境地帯(アルザス、ロレーヌ)の併合だ。一方フランスの皇帝ナポレオン三世にとって、ルクセンブルグ買収を妨害するプロイセンとは、いずれは雌雄を決しなければならない。
 それぞれの領土拡張の思惑がぶつかりあって、両国は1870年7月14日、戦端を開いた。しかし、勝負はあっけなかった。兵力、兵器の性能、実戦経験、いずれの面でもまさっているプロイセンの敵ではなかった。短期間のうちに敗戦をつづけたナポレオン三世は、9月2日、セダン城で降伏した。

※ この戦争の後、和平条約でフランスは、アルザス、ロレーヌ地方をプロイセンに割譲した。が、これに怒ったパリ市民は、武器をとてって蜂起した。

パリ・コミューン成立(1871・3・28)
政府軍ヴェルサイユに逃亡 民衆による「直接民主制開始へ」

作品観察 この作品は、アルフォス・ドーデー(1840-1897)が1873年に出した短編集『月曜物語』のなかの一編。パリの新聞に掲載(1871-1873)されたなかの一つです。内容は、敗戦国の悲哀と愛国心を描いた作品です。が、普遍性があります。また、普段は退屈な授業でも、もし最後となれば、もっと真面目にやればよかった。そんな悔いがわきあがる。
 
余談        ドーデーとシーボルト、そして日本

 アルフォンス・ドーデー(Alphonse Daudet 1840-1897)この作家を知らなくても、シーボルトの名は、たいていの日本人は知っている。1823年、オランダ商館の医員として長崎に着任。日本の動植物・地理・歴史・言語を研究。鳴滝塾を開いて高野長英らに医術を教授。1828年帰国、59年再来航、62年に帰国。日本の医学、開国に大いに貢献したドイツ人。著書に『日本』『日本動物誌』『日本植物誌』などがある。(1796-1866)
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 1866年の春、ドーデーはシーボルトと知り合った。作家の言葉を借りれば「私たちはすぐに大の仲良しとなった」。場所は、パリ、テュイルリー宮。オランダ国勤務のバヴァリヤのシーボルト大佐は、ナポレオン三世に不思議国ジャポン開拓の国際的協会創立計画の嘆願に訪れていた。若い作家は、著名な冒険家の話を喜んで聞いた。気に入ってシーボルトは、16世紀の日本の悲劇「盲目の皇帝」の校閲を頼んだ。が、ドイツに戦争が起きて頓挫。若い作家は、あきらめずにミュンヘンに追った。「・・・そりゃあ君すばらしいぜ」大佐はその晩ばかに元気だった。が、翌朝、自宅に行くと彼は亡くなっていた。72歳だった。「盲目の皇帝」は題だけで終わった。
 ドーテーが観察したシーボルト大佐「72歳というのにかくしゃくたるこの背の高い老人の顔かたち、白く長いひげ、引きずるような長い外套、あらゆる科学会の色とりどりのリボンで飾られたぼたん穴、気の弱さとずうずうしさとを同時に示す外国人らしい様子が、彼が入ってくるたびにいつも人々を振り返らせるのだ。」

シーボルトと日本

 シーボルトが日本医学に与えた功績は大きい。が、帰国船が台風の被害を受けたことから、思わぬ大事件になった。事件を「歴史新聞」は以下のように報じている。

積み荷から禁制品
シーボルトスパイ容疑で事情聴取へ

 1828年8月10日、来月オランダに帰国予定だったドイツ人医師フォン・シーボルトの荷物から、幕府が海外への持ち出しを禁止している日本地図など数点が発見され、シーボルトは長崎奉行から取り調べを受けることになった。シーボルトは蘭学の普及などに尽力していたが、今回の調査の結果いかんではスパイ容疑で国外追放などの厳しい処分もあるとみられる。(「歴史新聞」)

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熊谷元一研究
熊谷元一と『黒板絵』

 熊谷元一には、多くの出版物がある。平成10年に亡くなった熊谷は、101歳の生涯で、自分が目にして興味をもったものは、すべてカメラに収めた。童画として描いた。そしてそれらのほとんどは出版されたといっても過言ではない。『一年生』や『会地村』の写真集はじめ『子ども世界の原風景』『じいちゃんが子どもだったころ』などの童画集がそれである。
 そうしたなかで、唯一、熊谷が、本にできなかったものがある。黒板絵の記録である。『黒板絵』出版計画は、『一年生』を撮り始めたときからあった。子供たちが黒板に描いた絵を3年間カメラに収めつづけた。
しかし、なぜか出版には至らなかった。いつか本にしたい。その思いは常にあったようだ。その意を継いで、熊谷が目指した『黒板絵』を是非つくろうと決心した。
 昨年から編纂作業をすすめてきた『熊谷元一』カタログは、『黒板絵』をだした後にする。


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書くこと 日常の生活のなかのことを文にしてみる。ガンバレ「ばっちゃん !」
       最後の「書くこと」の習慣化です。またバッタが棲みついた。


カーテンをねぐらにしている「ばっちゃん」
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熊谷元一研究

今春、刊行をメドに編纂作業急ぐ !

観察記録写真集『黒板絵は残った』

2013年度の文芸研究Ⅳ・下原ゼミでは、昨年度からひきつづき熊谷元一研究を行ってきた。本年度は、その一環として観察写真記録集『黒板絵は残った』の編纂をすすめていたが、このたび一応のメドがついたことから今春の発刊を目指して仕上作業に入った。


 この春、刊行予定の『黒板絵は残った』の構成は、このようである。


『熊谷元一』カタログは、目下、編集中

 昨年度から『熊谷元一』カタログの編纂をすすめていたが、熊谷先生との約束から『黒板絵』を先に刊行することにした。


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熊谷元一研究 岩波写真文庫『一年生』被写体の一人が亡くなった。

追悼 さよなら「さっちゃ」

さっちゃは、東組のマドンナだった。彼女は、宿場町にある薬屋の娘だった。村のはずれにある部落で、しかも農家のわたしにはまぶしく遠い存在だった。商家の子は、いつもきれいにしていた。だから、30名の同じ組だったが、言葉を交わした記憶はない。そんなわけで村をでてからは、全くの疎遠になっていた。でも、『一年生』のころを思い出すと、さっちゃの印象は、ちょうど西組の子たちが転校してきた美少女鷲尾純子さんのことを強く覚えているように、やはり可愛らしかった彼女のことが鮮明に思いだされた。
 そのさっちゃと話ができたのは、40余年もあとだった。平成8年、NHKがテレビ撮影した母校での同級会だった。一年生のときと変わらずマドンナのままだった。このときはじめて会話した。家族の話か何か、挨拶程度だった。
平成12年、わたしの作品が地元紙の熊谷元一賞に決まり、飯田のホテルで授賞式があった。そのとき地元にいる同級生がお祝いに駆けつけてくれた。岡庭久雄君、原陽子さん、勝野栄子さん、原知一君、片桐重信君ら6人だった。本当にうれしかった。そのなかに代田幸子さん「さっちゃ」の顔もった。たしか2006年の春だった。わたしが主催している読書会で、東京外国語大学の学長になった亀山郁夫さんに講演をお願いしたことがあった。謝礼代わりにと、前日に写真集『五十歳になった一年生』をお送りした。亀山さんは、電車の中で見てきたと言って、会場にくるなり礼を述べた。つぎに笑って
「この子、可愛かったでしょう」そう言って写真集をひろげた。
 さっちゃと久保田君が笑って写っている写真だった。
「さすが女の子をみる目、たかいですね」わたしは、冗談いったつもりだったが、冗談にならなかった。
 やっぱり「さっちゃ」は、マドンナだった。そんな思いがした。
佐代子さんから、訃報を聞いたとき、不意にあのときの亀山さんとの会話が思いだされた。そうして、胸のなかで告げた。
 さようなら、さっちゃ、永遠のマドンナ
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2013年読書と創作の旅・前期旅日誌

4月15日 下原ゼミガイダンス10数名参加。「2013年、読書と創作の旅」を説明。
目標→「読むこと」「書くこと」の習慣化。テキストは、志賀直哉作品と併せて岩波写真文庫『一年生』(熊谷元一研究)。感触イマイチ。
旅参加希望者3名有り  齋藤真由香さん  加藤末奈さん  南海洋輔さん
(過去10年のゼミでは、最少。ちなみに昨年は11名いたが、皆勤・精勤は5名。不人気度、毎年加速を増している)
4月22日 旅立ち。参加=加藤、齋藤、南海 読むこと=嘉納治五郎「読書のススメ」「憲法九条」と「前文」、書くこと=第九条の感想。
ゼミ誌編集長=齋藤    ゼミ班長=南海
聴講生として、嶋津きよらさん参加を希望。旅姿4人衆、誕生。
5月 6日 参加=齋藤、嶋津 司会=齋藤 報告=尾道と志賀直哉 議論=憲法改正問題・アンケート 観察発表&合評=「車内観察」齋藤 
読み=テキスト『菜の花と小娘』 書く=『菜の花』感想 課題
 5月13日 参加=加藤、齋藤、嶋津、南海 司会進行=嶋津 課題発表「社会観察」「車内観察」「テキスト感想」
 5月20日 参加=齋藤、嶋津、南海 司会進行=南海 社会観察「従軍慰安婦問題」
       課題発表「熊谷元一研究 思い出」読み『空中』、テキスト『夫婦』
 5月27日 参加=加藤、齋藤、嶋津、南海 司会進行=加藤 社会観察「母さん助けて詐欺」 課題提出評・南海「車内観察」齋藤「うたたね」
      【熊谷元一研究】子供時代=南海「はじめての一人登校」南海「コッペパン」
       齋藤「レイコ先生」南海「クラティ―」
      ※ゼミ誌ガイダンス報告=齋藤
 6月3日 参加=齋藤、嶋津、南海 司会進行=南海 「社会観察」柔道について、振り込め詐欺の記事 
課題=「車内観察」嶋津、南海。テキスト読み『網走まで』
  6月10日 参加=齋藤、嶋津、加藤 司会進行=嶋津 「社会観察」6月の事件簿
        課題合評、『網走まで』研究解説報告。
  6月17日 参加=加藤、齋藤、嶋津、南海 司会進行=加藤 ゼミ合宿結果報告
        少年A事件簿、校外授業について、標語応募について、新聞投書について
        課題報告合評(南海さん作品4点)『出来事』
  6月24日 参加=齋藤、嶋津、南海 司会進行=齋藤 郊外授業について、課題合評、文集「ひのてるほうへ」の感想、土壌館投書のススメ
  7月 1日 参加=加藤、齋藤、嶋津、南海 司会進行=南海 7・7郊外授業について
        課題合評、53年文集観察、テキスト『正義派』読み
  7月 5日 郊外授業 岩波写真文庫ギャラリートーク傍聴、芥川先生、下原 
          7月 7日 郊外授業 銀座・教文館9F岩波書店創業百年展見学 参加=齋藤、嶋津
        熊谷元一研究28会参加=戸塚、加古、田中、小川、原
  7月 8日 参加=齋藤、嶋津、南海 司会進行=嶋津、課題合評、課題読み、ゼミ合宿前哨「ドストエフスキーとギャンブル」読み
  7月22日 参加=齋藤、嶋津、南海 ゼミ合宿に向けて

  8月 1日 軽井沢ゼミ合宿  マラソン朗読会
     2日 ゼミ合宿

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ゼミⅡの記録・後期

□ 9月30日(月)郊外授業 写真賞審査会見学 ホテル市ヶ谷 参加1(ゼミⅣ)
□10月 7日(月)ゼミ誌編集作業報告、作成会議 表紙の紙質選定 参加3名
□10月21日(月)司会・南海洋輔 ゼミ誌編集報告 テキスト読み『范の犯罪』疑似法廷
         劇の配役を決める。4名全員参加
□10月28日(月)参加者3名、ゼミ雑誌編集報告、模擬裁判・稽古、南海さん演出・監
 督、齋藤、嶋津。『兒を盗む話』南海さん課題報告、人生相談「大学を
やめたい」私のアドバイス。
□11月11日(月)ゼミ誌編集報告、「竹取り物語事件」、「尾道幼女誘拐事件」「継子殺人未遂事件」についての考察と刑量について、参加者3名
□11月18日(月)3名参加、嶋津、齋藤、南海 『剃刀』読みと脚本読み
□11月25日(月)2名参加、齋藤、嶋津で『にんじん』読み。「めんどり」「もぐら」など。
         「にんじん」家族の肖像。
□12月 2日(月)3名参加、嶋津、齋藤、南海、「ナイフ投げ美人妻殺害事件」裁判稽古、
取り違え60年の話。モーパッサンの『狂人』を読む。
□12月 9日(月)3ゼミ合同発表会 清水ゼミ・山下ゼミ・下原ゼミ
□ 1月20日(月)百人一首カルタ大会
□ 1月27日(月)最後の授業

「2013年、読書と創作の旅」ご同行のみなさん。この1年、楽しい旅でした。
ありがとうございました。3年からは、いよいよ社会に羽ばたく準備です。
からだに気をつけて、いっそうの勉学、「書くこと」「読むこと」の習慣化に励んでください。さようなら。

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志ある人を求む !

ちなみに下原ゼミⅢは金曜日4時限目に開きます。2014年からは、熊谷元一研究に本格的に取り組みます。主な授業は、「読むこと」としては、下原の『伊那谷少年記』、椋鳩十の子ども時代(動物もの)を描いた作品。「書くこと」は自分の子ども時代の創作、エッセイ。郊外授業は、熊谷元一写真童画展見学です。熊谷元一研究は、回想法としての研究もありますが、取り組んでいる研究者はまだ僅かです。やってみたい人は、お越しください。
 成果としては、ゼミ誌『熊谷元一 創刊号』を発行する。
ゼミ誌構成は、岩波写真文庫『一年生』の感想・自分の子ども時代の思い出、子ども時代に書いた・描いたものを発表して掲載する。

・・・・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・・・

□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net携帯 090-2764-6052

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