文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.231

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日本大学藝術学部文芸学科     2013年(平成25年)12月1日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.231
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
9/30 10/7 10/21 10/28 11/11 11/18 11/25 12/2 12/9 12/16 
1/20  1/27 
                 「2013年、読書と創作の旅」の皆さん

12・1ゼミ


 1. 12・16の3ゼミ合同発表会に向けての、模擬裁判稽古
 2. 社会観察から創作へ 3.児童虐待防止推進月間「にんじん」感想
         

11・25ゼミ報告 (参加2名)

 木枯らしに落ち葉が舞う。文芸棟に向かう桜の街路樹が、日に日に寂しくなっている。
学生が、まるで落ち葉に合わせるように所沢校舎から姿を消し去っている感じがする。広い
校内が森閑としている。202教室も、まさかの空室 -― !? と思いきや齊藤さん嶋津
さんが現れて安堵する。が、寸劇稽古は見送り。全員の参加が待たれる。

【11月は児童虐待防止推進月間】

新聞をひろげれば、どこかに子供虐待か、いじめの記事がある。なぜ両親は、幼きものを
イジメ尽くすのか。

【世界名作文学『にんじん』の読みと感想】児童虐待作品かどうか

にんじん(10)姉エルネスチーヌ(12)兄フェリックス(15)母親ルピック夫人(40)父親
ルピックス氏(45)女中オノリーヌ(60)  ()は推定年齢
郊外に住むにんじん一家は、父親がセールスマン、畑があり家畜はニワトリやうさぎを飼っ
ている。犬もいる。食事をつくる女中さんも一人雇っている。中流よりやや上の家庭。近く
に祖父もいてにんじんを可愛がっている。まったく平凡な、普通の家庭、家族なのだが...
・「めんどり」・「しゃこ」・「犬」・いやな夢」・「失礼ながら」・「もぐら」・「鶴嘴」・「ねこ」・「湯
呑」など約9作品の読みと感想。「変な、危ない家族]が主な感想。

【世界文学詩篇吟唱】フランスの詩人ベルレーヌの秋の歌2編。翻訳の違いを知る。

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.231 ―――――――― 2 ――――――――――――

社会観察から創作へ 観察をどう作品に転換できるか

赤ちゃん取り違い事件

「事実は小説より奇なり」というが、先週のニュースもそれを思わせる。赤ちゃん取り違え事件裁判で東京地裁は11月26日、告訴のあった取り違えられた「男性の本来の家庭は裕福だったのに、高等教育を受ける機会を失わせて精神的な苦痛を与えた」と認定、病院に計3800万円の支払いを命じる判決を言い渡した。
 病院での赤ちゃんの取り違い。あってはならぬことだが、決して珍しい話でもない。実際にあった取り違い話の映画化もある。この映画、まだ観ていないが、取り違えにあった赤ん坊が小学生になったときわかって親たちが翻弄される。そんな話らしい。
先週の裁判が衆目を集めたのは、これまでの取り違い発覚は(当事者が48歳といのもあったが)、たいていは子供時代に判明していた。が、このたびの取り違いは、当事者がなんと60歳になっていて記者会見もあった。しかも、取り違えられた家庭は、金持ちの家と貧乏な家。小説『王子と乞食』ではないが、取り違えられた二人の環境に雲泥の差があった。
新聞で知る取り違え事件はこのように発生した。1953年(昭和28年)東京のある病院で13分違いで男の子が生まれた。この時代、団塊世代のベビーラッシュは過ぎたものの、病院は大忙しだったらしい。ほぼ同時刻に生まれた二人の男の子は、病院のなんらかの人為的ミスで違った母親に届けられた。Aさんは、父親が病弱な貧乏な家庭の子になった。上に3人の男の子がいたので4男として育てられた。Bさんは、裕福な自営業の家の長男となった。
金持ちと貧乏 まったく違う人生レール

同じ病院だったのに家庭環境は、月とスッポンほどに違った。Aさんの家は、彼が2歳のとき父親が病死して生活はますます苦しくなった。高度成長期の時代にあって、家には電化製品が一つもなかった。母親一人での4人の子どもの子育て。生活保護をうけながらの生活だった。Aさんは、中卒で町工場に働きに出て、職を転々として現在はトラック運転手。事情もあっていまだ独身だという。
一方、金持ちの家の子となったBさんは、長男として育てられた。3人の弟たちもできたが、両親は教育熱心で、4兄弟全員、大学卒。長男は家業を継ぎ社長となり、3人の弟たちは一流会社に就職した。絵に描いたように違った二人の環境と人生レール。自分の人生は自分で開け。人生は努力と才能で、どうにでもなる。よくこんな言葉を聞くが、普通の人の人生は、やはり環境が左右する。2×2が4の人生結果だと。
だが、Aさんの記者会見を聞いて、ちょつと違った印象を受けた。人生は、決して2×2が4ばかりではない。「本当だったら金持ちの家で育ったのに」暗い悔いの残るAさんの人生だが、希望の光は彼にある。そんな気がした。そもそも、この取り違い事件、なぜ裁判になったのか。判明の動機は何か。
 新聞によると裁判のきっかけは、金持ちのBさん家族に発生した。Bさんと弟3人は、日頃から仲は良くなかったようだ。両親の介護をめぐって対立したとき、3人の弟たちは様姿が違う兄を疑い、探偵などあらゆる調査機関を使って身元を洗った。その結果、行きついたのがAさんだった。既に母親はいないが、Aさん兄弟は、いまだ貧乏という底なし沼から抜けだしてはいなかった。3男は死亡し、2男は病気で寝たきり。Aさんは、その2男の介護をしながら結婚もせずに生活を支えていた。介護の理由は、幼いとき2男から可愛がってもらったから。「本当の両親が生きているうちに会いたかった」無念そうに語るAさんだが、「終わり良ければすべてよし」そんな言葉が浮かんだ。
モーパッサンなら、きっとすばらしい名作を1編仕上げたに違いない。
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【名作読み】短編の名手ギ・ド・モーパッサン(1850-1893)
 短編といえば、モーパッサンです。人生の機微を、悲哀を、奇妙を見事に描いた小説家。

子供の人生の幸福とは何か。貧乏でも両親のもとで暮らせれば幸せか。それとも、違った親でも将来がよければ、金持ちなら子どもにとって幸せか。貧しい両親に迫る究極な選択。『田園悲話』を読んでみます。

前号の【社会観察】で映画「約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯」をとりあげました。この映画を観ただけでは冤罪かどうかはわかりません。が、こんな疑問が浮かびました。有罪・無罪を自由に操る裁判官の頭には実際どんな考えがあるのか。モーパッサンも、そんなようなことを思ったようです。『狂人』を読んでみます。
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【文明観察】    なぜドストエフスキーか

 ゼミ合宿では、ドストエフスキー作品をマラソン朗読した。朗読なら、どの作家の作品でも、朗読に相応しい作品もある。これまで、そんな声もあった。が、下原ゼミでは、一晩かけむて読むならドストエフスキーと思っている。なぜドストエフスキーか。この小説家の作品にあるのは、いまの面白さではない。普遍の人間心理と100年、200年先の科学文明社会をみているからだ。19世紀末世界発展の原動力となった産業革命。パリ、ロンドン万博の盛況。人類の未来は希望が溢れていた。だが、それらを目にしたドストエフスキーの思いは、地球環境への不安と、人類未来への懸念だった。

産業都市文明は「死に至る文明」

 福島原発核汚染の不安と絶望、中国の空を覆う煤煙。記録的豪雨、酷暑、竜巻、干ばつ
などなど温暖化(文明化)による地球規模の危機。今日ほどドストエフスキーの『夏象冬記』
を、現実的に、予見的に感じる地代はない。その意味で、この作品を読む意義は大きい。
 まさに「今 ! でしょう」である。ドストエフスキーの恐れは一世紀半を過ぎたいま、
一時度きにドンと地球各地に現れている。
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 ドストエフスキーの西欧観は、40年代人の、すなわち全人類的友愛社会の理想に憧れたユートピア社会主義者の目で見られた西欧であるが、そこには、19世紀後半の西欧産業都市文明の有害性に関する鋭い指摘がある。産業都市文明は「死に至る文明」であると、ドストエフスキーは考えていたのだ。 (「ドストエフスキー年代記」)

■ドストエーフスキイのロンドン(中村健之介訳『ドストエフスキー写真と記録』の「夏の印象をめぐる冬の随想」から)
自意識喪失の過程

外観からしてからが、パリとは大変な違いです。この昼も夜も小止みなく活動している果てのない、まるで海のような町。機械の高く叫ぶ声、低くうなる声。建物の群れの頭上を走る鉄道路線(それはまもなく建物の下も走るのです)、この大胆不敵な企業精神、本当は最高のブルジョア的秩序であるところのこの外見上の無秩序、この毒に犯されたテムーズ河、この煤煙のしみこんだ空気、この壮麗なと言いたいほどの数々の広場や公園、半裸で飢えて荒れた住民の住む、たとえばホワイトチャペルのような、都会のこの数々の暗い地区。百万の冨と全世界の商業を握るシティ...皆さんは、全世界各地からやって来たこれら無数の人々をそこで結びつけて一つの群れにしてしまっている恐るべき力を感じるでしょう...
ロンドンでは、世界中ここ以外では決して現実にはお目にかかれないようなすざまじい状態におかれた、ものすごい数の群集を見ることが出来ます。たとえば、私の聞いた話では、毎週土曜の夜になると、50万人もの男女の労働者が、子供も連れて、まるで海のように市全体にあふれ出て来て、あるいくつかの地区にとりわけ密集して、夜通し、朝の5時までも休みの日の来たお祝いをやるのだといいます。つまり、まるで家畜のように、まるまる一週間分、腹いっぱい喰って飲んでおこうというわけです...みんな酔っ払っているのに、楽しさはなく、暗鬱で、重苦しくて、みんな奇妙に黙りこくっています...ここでみなさんがごらんになるのは、民衆というものでさえなく、組織化され、奨励され、反抗もなく進んでいる自意識喪失の過程であります...
(『夏象冬記』参照)1862年7月ロンドンにて

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年譜  『夏象冬記』誕生まで(米川正夫訳『ドスト全集』から)

・1861年(40歳)1月『時代』誌創刊。『虐げられし人々』を7月号まで連載。完結
     2月19日 農奴解放令発布。
     4月 『時代』に『死の家の記録』を再連載。断続で翌年まで。
     7月 聖ペテルブルグ検閲委員会より『時代』刊行許可下りる。
    9月 ドブロリューボフ『現代人』9月号に『打ちのめされた人々』(『虐げられし人々』論)が発表。『時代』誌にアポリナーヤ・スースロヴァの短編
12月  ツルゲーネフ、『死の家の記録』を賞讃。アントーノヴィチ、『現代人』で『時代』を批判。医大生ナジェージダ・スースロヴァ(妹)と交際。
・1862年(41歳)
1月 1月号より『死の家の記録』第二部連載開始(2,3,5、12月号)
     5月 ペテルブルグ大火。後年『悪霊』に生かされる。
     6月7日 最初の外国旅行に出立。
     6月15日 パリ着。
     6月27日 ロンドンに出発。
     7月4日 ゲルツェンを訪問。ロンドンでバクーニンと知己になる。
          ケルン → スイス → イタリアなどを経て帰国の途に。
     8月末 ペテルブルグに帰る。
     12月 『時代』11月号に『いやな話』を発表。アポリナーリヤ・スースロヴァとの交際深まる。
・1863年(42歳)
     2月~3月 『夏象冬記』を『時代』2月号、3月号に掲載。
     8月 アポリナーヤ・スースロヴァと再度の外国旅行。一人下車したヴィース
バーデンの賭場で5千フラン儲ける。このとき以来、賭博熱にとらわれる。

1863年2月、3月『夏象冬記』発表

最初のヨーロッパ旅行(1862年6月~8月末)

ドストエフスキー『夏象冬記』

 私が訪ねたのは、ベルリン、ドレスデン、ヴィスバーデン、バーデンバーデン、ケルン、パリ、ロンドン、リュツェルン、ジュネーヴ、ジェノヴァ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネチア、ウィーン、そのうちのいくつかは2度ずつ行きました。これだけの町を、なんと、ちょうど2ヶ月半で回ったのです !

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ドストエフスキーのN・N・ストラーホフ宛の手紙 1862年6月26日

 パリは、退屈極まりない都会です。この都会には、実際あまりに見事すぎると言いたくなるものが大和ありますが、それがなかったら、まったくの話、退屈のあまり死んでしまいそうです !


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N・N・ストラーホフ「ドストエフスキーの思い出」

 当時、彼(ドストエフスキー)は、ゲルツェンに対して大変穏やかな態度をとっていた。ドストエフスキーの『夏象冬記』には、幾分ゲルツェンの影響がみられる。

ゲルツェンのN・P・オガリョーフ宛ての手紙 1862年7月17日

 昨日、ドストエフスキーが訪ねてきた。ナイーヴな男で、言うことはあまりはっきりしないがも大変感じのいい男だ。ロシアの民衆を熱狂的に信仰している。

 ※オガリョーフ(1813-1877)ロシアの革命運動家。ゲルツェンの親友。1867年、ドストエフスキーが妻アンナと西欧旅行に出かけてジュネーヴにしばらく住んでいた頃、同地にいたオガリョーフはしばしばドストエフスキー夫妻を訪ねて、本や新聞を届けてくれ、また金も貸してくれた。

ドストエフスキー、ヨーロッパ旅行の行程


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【社会観察】 11月【児童虐待防止推進月間】

厚生労働省では、児童虐待の防止等に関する法律が施行された11月を「児童虐待防止推進月間」と位置づけ、期間中に児童虐待防止のための広報・啓発活動などの取り組みが集中
的に実施されます。
2013年の児童虐待防止の標語

さしのべた その手がこどもの 命綱

人間の謎を探る

11月は「児童虐待防止推進月間」。ジュナールの『にんじん』を読んで児童虐待について考えてみました。無意識下での虐待行為。そんな家族のなかで「にんじん」は、どんな少年に成長していくのか。「もぐら」「ねこ」を読んで、どんなことを感じましたか。

 新聞には、毎日のように悲惨な事件・事故の記事が載っています。なかでも胸が痛いのは、子ども虐待のニュースです。実の両親に殺される子どもが後を絶ちません。なぜ母親と父親は、一番可愛い盛りの我が子を死ぬまで虐待してしまうのか。表面上には、いろんな理由、事情があると思います。が、人間の大きな謎です。
 作者ジュール・ジューナール(1864-1910)と『にんじん』作品について
1864年 フランスに生まれる
1881年 文学を志して大学進学を断念
1886年 歩兵連隊を歩兵伍長として除隊
1889年 フィガロ紙の記者になる
1894年 フィガロ紙を退社。小説『にんじん』を出版
『にんじん』の前扉に「ファンテックとバイイへ」とある。この二人は誰?
作者ルナールの長男と、長女である。
従って、この作品は、我が子二人に捧げられたということになる。
なぜ、残酷物語のようなこんな作品を我が子に・・・
これも大きな謎の一つである。
1897年 父、自殺する
1900年 戯曲『にんじん』初演
1909年 母、井戸に落ちて死ぬ。自殺の疑いも
1910年 5月22日未明、パリで死ぬ。46歳

神戸のある家族と「にんじん」一家

 「にんじん」は、どんな少年に成長していくのか。そんなことを重いながら「にんじん」家族を読んでいると、神戸のあの家族を思い出してしまう。神戸郊外にある、高級住宅地。一家は、大卒ではないが、一流企業に勤める父親、躾にきびしいしっかりものの専業主婦の母親。3人の息子の5人暮らし。一見どこにでもある平均的なサラリーマン家庭。
 この家の長男、少年A。「にんじん」は末っ子で、彼は長男という違いはあるが、その行動はどこか似ていなくもない。
 日本中、どこにでもあるような家族。だが、悪魔は、人知れずもぐりこみ力を蓄えていた。だが、そのことを知る人も、察知して防ぐ人もいなかった。悪魔は、成長し、やがて牙をむいた。

文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・231 ――――――― 8――――――――――――――――

ゼミⅡの記録

□ 9月30日(月)郊外授業 写真賞審査会見学 ホテル市ヶ谷 参加1(ゼミⅣ)
□10月 7日(月)ゼミ誌編集作業報告、作成会議 表紙の紙質選定 参加3名
□10月21日(月)司会・南海洋輔 ゼミ誌編集報告 テキスト読み『范の犯罪』疑似法廷
         劇の配役を決める。4名全員参加
□10月28日(月)参加者3名、ゼミ雑誌編集報告、模擬裁判・稽古、南海さん演出・監
 督、齋藤、嶋津。『兒を盗む話』南海さん課題報告、人生相談「大学を
やめたい」私のアドバイス。
□11月11日(月)ゼミ誌編集報告、「竹取り物語事件」、「尾道幼女誘拐事件」「継子殺人未遂事件」についての考察と刑量について、参加者3名
□11月18日(月)3名参加、嶋津、斉藤、南海 『剃刀』読みと脚本読み
□11月25日(月)2名参加、齊藤、嶋津で『にんじん』読み。「めんどり」「もぐら」など。
         「にんじん」家族の肖像。
ゼミ雑誌『読書と創作の旅』
1. 12月6日(金)はゼミ誌納品期限です。
2. 12月12日までに見本誌を出版編集室に提出してください。
3. 12月下旬までに印刷会社からの【③請求書】を出版編集室に提出してください。

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掲示板

お知らせ

◇12月7日(土)、ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」

会 場 東京芸術劇場小5会議室   時 間 午後2時 ~ 4時45分迄 
作 品 『夏象冬記』     報告者 大野智之さん

◇2014年2月1日(土)、ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」

会 場 東京芸術劇場小5会議室   時 間 午後2時 ~ 4時45分迄 
作 品 『鰐』     報告者


・・・・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・・・
□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
 メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
       携帯 090-2764-6052

熊谷元一研究

11月24日(日)「一年生展」見学・昼神温泉郷「熊谷元一写真童画館」
「一年生」特別企画展

会場 長野県昼神温泉郷 熊谷元一写真童画館・常設展示場

第1回展 :  9月18日(水) ~ 12月16日(月) 12月18日に作品の入れ替え
第2回展 : 12月19日(水) ~ 2014年2月中旬迄
入館料、一般350円 火曜日休館

常設作品の他、普段は展示されない作品、計95点が

 2010年11月に101歳で亡くなった写真家熊谷元一(1909-2010)の代表作といえば、1955年に出版された写真集『一年生―ある小学教師の記録』(岩波写真文庫)である。この作品展が、熊谷の郷里にある熊谷元一写真童画館で開かれる。今年は、没後3年に当たることから特別企画展として2014年2月中旬まで開催される。

【『一年生』出版まで】

1949年4月 (40歳)母校会地小学校に転勤になる。
1951年 (43歳)岩波写真文庫の仕事として蚕の写真を撮る。『かいこの村』
1953年4月1日 (44歳)小学1年生を担任。写真撮影を開始する。
1954年3月30日、小学1年生写真撮影終了
1955年3月 (46歳)、岩波写真文庫『一年生』出版。

これまでの郊外授業 (熊谷元一研究)

下原ゼミでは、熊谷元一研究の一環として郊外授業を実施していきます。写真展、童画展写真童画館見学や熊谷元一研究発表(28会主催)などが主な授業内容です。研究の目的は、熊谷元一という一人の写真家・童画家の生涯と作品検証です。研究は、継続的になります。熊谷の写真、童画、学校教育に関心ある人は、ご参加ください。
これまで実施した郊外授業は、以下の通りです。見学は28会含む()はゼミ生
□2011年9月23日~24日 山形県酒田市美術館「近くて懐かしい昭和展」見学4名
□2012年7月8日(日)~9日(月)秋田角館ぷかぷ館「熊谷元一写真展」見学5名(1)
□2013年7月5日(日)銀座・教文館「岩波書店創業百年展」見学9名(2)
□2013年9月30日(月)市ヶ谷「熊谷元一写真コンクール選考会」見学5名(1)
□2013年11月9日(土)長野県昼神温泉郷 熊谷元一写真童画館「一年生展」
□2013年11月24日(日)熊谷元一写真童画館「一年生展」見学 28会(8名)

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募 集 第17回【熊谷元一写真賞コンクール】

応募テーマ「かんどう」
締切平成26年9月20日まで。応募先・〒395-0304 長野県下伊那郡阿智村智里331-1 熊谷元一写真童画館内「写真賞コンクール事務局」0265-43-4422 

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