日本大学芸術学部文芸学科 2009年(平成21年)6月29日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.130
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
編集発行人 下原敏彦
2009前期4/20 4/27 5/11 5/18 5/25 6/1 6/8 6/15 6/22 6/29 7/13
2009年、読書と創作の旅
6・29下原ゼミ
6月29日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2
1.出欠・ゼミ通信配布 (国語問題答え合わせ)
2.司会進行指名(司会担当者は3頁のプログラムに沿って進めてください)
3. テキスト読み&課題・観察作品発表(未発表作品)と評
4.名作紹介:詩編・書簡小説『あしながおじさん』ウェブスター
第一回芥川賞観察・後半
新聞、テレビ等で知る太宰治の生誕百年記念は、近年にない盛り上がりだったようだ。故郷青森と晩年を過ごした三鷹市では漢字検定ならぬ「太宰治検定」まで実施され、併せて400人超ものファンが挑戦とのニュースがあった。日芸の大和田講師も、独自取材のため三鷹での桜桃忌に参加したあと千葉県船橋市で太宰の足跡を訪ねたという。ちなみに命日6月19日の行事を報じた新聞各紙の記事見出しはこのようであった。(朝日20日)「太宰をしのぶ 生誕100年で催し」、(読売20日)「太宰にささぐサクランボ」などである。
太宰治といえば、その人生においては心中おたく、デカダンス作家といったイメージだが、駄々っ子のように芥川賞をねだった、露骨に執拗に受賞したがった作家ということでも有名である。しかしそのことについて、これまで、なぜかあまり言及されなかった。欲しがった理由は、いくつかわかっている。が、受賞できなかった理由は、はっきりしていない。
昭和10年、亡き芥川竜之介を記念して芥川賞が設置された。すでに文壇にその名をしられていた26歳の太宰は、積極的に受賞運動をした。直接、選考委員へ手紙を出し再三頼み込んでいた。しかし、その努力もむなしく終わった。第一回芥川賞に選ばれたのは、ブラジル帰りの30歳の無名の文学青年だった。作品は昭和5年3月8日氷雨の神戸港からブラジル目指して出航した移民船を徹底観察したもの。小説『蒼氓』だった。一方、候補にあがった太宰の作品は、『逆行』と題された4編「盗賊」などと『道化の華』。『蒼氓』は、新天地を求めての移民団の話といえば聞こえはよいが、その実、無策の日本国から捨てられた貧しい農民たちを描いたもの。方や、大地主の放蕩息子の心の葛藤、そして18歳にもならない女の子をまきこんでの心中作品。ただ文学の世界においてのみならば、普遍性、芸術性において太宰の作品が勝っていたかも知れない。いや、実際、勝っている。今現在、こうして太宰と、その作品は熱く語り継がれている。引き替え、『蒼氓』を知る人は少ない。が、文学は偏狭であってはならない。同時代の人々に今を知らせる使命もある。選者たちは、文学の枠を乗り越えた目をもっていた。それは「なんとなく不安」の言葉を残して逝った芥川の憂いでもあった。満州事変、犬養首相射殺、小林多喜二虐殺、国際連盟脱退などなど。破滅