日本大学藝術学部文芸学科 2013年(平成25年)6月3日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.217
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
編集発行人 下原敏彦
4/15 4/22 5/6 5/13 5/20 5/27 6/3 6/10 6/17 6/24 7/1 7/22
「2013年、読書と創作の旅」の皆さん
6・3下原ゼミ
1.連絡事項 ゼミ合宿日程について
2.テキスト読み『網走まで』
3. 課題報告&合評
5・27ゼミ報告 課題報告&熊谷元一研究順調に
5月最後のゼミは、全員参加でした。目下、「書くこと」の課題提出は、順調です。
齋藤真由香さん 嶋津きよらさん 南海洋輔さん 加藤末奈さん
27日ゼミの司会進行は、加藤末奈さんでした。お疲れさま。
ゼミ誌ガイダンスの報告 齋藤真由香さん
先週5月23日(水)に行われたゼミ誌ガイダンスを齋藤編集長が報告しました。ゼミ誌発行は全員一致で可決。
納品は、12月6日(金)厳守
内容と計画案は、観察の提出原稿&熊谷元一研究(写真観察と思い出)と創作作品(自由)夏休み明けに原稿まとめて編集と印刷会社決め。11月入稿。
ゼミ合宿・軽井沢施設に希望 南海洋輔さん
ゼミ合宿は、実施方向で一致。目標「読むこと」の集大成マラソン朗読会開催を目指して。
第一希望日 8月2日(金) ~ 3日(土)
第二希望日 8月9日(金) ~ 10日(土) ※詳しい日程は、決定後お知らせします。
☆文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.217 ―――――――― 2 ――――――――――――
【社会観察】 最近の柔道界不祥事に想う 日大は明るいが
2013・5・20 日本大学新聞
日大にとって、柔道は明るい話題だ。法学部3年の原沢久喜選手の活躍が昨年来から目ざましい。グランドスラム東京大会(嘉納治五郎杯)優勝につづいての先日の全日本選手権準優勝。このところ箱根駅伝は、ふるわないが、柔道において日大は、輝いている。
しかし、柔道界は、暗い陰鬱なニュースばかりだ。競技選手や各大会運営組織の頂点にある全日本柔道連盟。ここで、不祥事がつづいている。それはあたかも立派な木の幹の皮をはがしたら中はボロボロに腐っていた。そんな光景のようだ。パワハラ、セクハラ、補助金不正流用、都最高責任者のワイセツ事件。昨年には、金メダリスト準強姦で実刑5年の判決もあった。礼にはじまり、礼に終わる、が泣いている。
昨年から、義務教育での武道必修化がはじまった。柔道を選択する生徒が多いと予想され、ケガ対策に追われている最中である。が、ケガどころか精神対策が必要だったのだ。柔道の理念は、自他共栄、精力善用である。が、今回のことは、この二つの理念を泥まみれにした所業。なぜ、柔道は、柔道を極めた人間たちは、こんな情けないことになってしまったのか。柔道を観察してみたら、その原因が分かるかも知れない。柔道は、どんなふうにして生れ、どんなふうにして育ってきて今日があるのか。案外、知っているようで知らない人が多い。
その前に四年前のある出来事を紹介しておきたい。四年前、柔道の総本山、嘉納家は、家庭の事情から127年つづいた講道館を全日本柔道連盟に渡した。このへんのところは、柔道に縁のないひとたちには、わからないところだが、説明は後にしたい。私は、このニュースを知ったときなにか不吉な予感がした。いうなれば、講道館と全日本柔道連盟は、祭りごとと政治。天皇家と武士たちの関係に似ている。武士が朝廷を兼ねたらどうなるか。明治維新を思い出せば明白だ。日本は、皇軍の名の下、ひたすら戦いの道を、侵略の道を突き進み人類初の原爆被爆国になった。そしていまなお「慰安婦問題」「領土問題」で揺れている。
講道館が目指すものについて新聞に投稿した私の拙文を紹介したい。
――――――――――――――――― 3 ――――― ☆文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.216
2009年3月10日 火曜日 朝日新聞「声」欄 下原敏彦
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この3月末で柔道の講道館第4代館長嘉納氏が、勇退するという。世界のなかで弱体化した日本柔道や後継者不足といったことが要因らしい。嘉納家は127年間にわたり柔道総本家の象徴として親しまれてきた。が、この勇退によってその名は、柔道の組織から消えることになる。時の流れとはいえ創始者嘉納治五郎を敬愛する者にとっては、一抹の寂しさがある。
私は柔道をはじめて四十四年になる。そのうち今日までの二十年間は、町道場で地域の子供たちに柔道を教えている。町道場は、経済的、時間的など様々な面で困難がある。が、地域の子供たちが通うあいだは、とつづけてきた。柔道を愛するが故でもあるが、本当の理由は、ひとえに創始者嘉納治五郎の理念「自他共栄」「精力善用」に魅せられての継続。教育者として、コスモポリタンとして世界平和に奔走した嘉納治五郎を尊敬するからである。
世界柔道人口一千万。柔道において嘉納家は、立派に使命を果たしたと思う。その功績を称えたい。が、一方、嘉納治五郎が真に目指したのは人類の平和と幸福である。今日、世界は混沌としている。いまこそ、その崇高な理念を世界に発信するときである。
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嘉納治五郎(1860-1932)と柔道
嘉納治五郎は、1860年神戸の造り酒屋(菊正宗別家)に生まれる。10歳のとき母を亡くす。父親と上京、14歳、15歳のとき英語塾、16歳で開成学校(後の東京大学)に入学する。この頃の学校は、大名の子弟が生徒で、家柄を鼻にかける者が多かった。嘉納家は、商家で、父親は役人ということもあって、差別され、加えて体も小さかったのでイジメの対象となった。嘉納治五郎が、年長の乱暴者たちに殴られているところをみたという証言もある。
この頃、嘉納治五郎の夢は天文学者になることだった。が、もともと気の強い性格から、イジメをなんとも克服したかった。ちなみに、神戸の祖父の家は千帆閣という豪邸で、近くに幕府の海軍練習所があり、父親が船奉行の関係から、海軍奉行勝海舟や塾長坂本竜馬が休息に寄っていたという。そのころ嘉納治五郎は3歳。勝や竜馬に遊んでもらった可能性もある。それだけにイジメにあう無念さは人一倍あったのではと推量する。
なんとかして強くなりたい。剣の時代は終わった。素手で強くなれるものは何か。治五郎は柔術を習おうとした。しかし、時は明治10年、古いものはどんどん置き去りにされ廃れていた。柔術を教えるところなどほとんどなかった。治五郎は連日、東京市内を歩き回って、やっと探した。1877年、治五郎は天神真楊流福田道場に入門。念願の柔術を習い始める。
治五郎は強くなったのか。1879年来日した前アメリカ大統領グラント将軍の前で、柔術の技を披露する治五郎の姿があった。強くなりたい、イジメから自分を守りたい。その一心で学んだ柔術だったが、稽古するうちに、治五郎は、柔術のなかに伝統美を感じはじめた。歌舞伎や能のように柔術にも技の美がある。しかし、それは、誰からも顧みられようとしないで、滅び忘れ去られようとしている。治五郎は、柔術の近代化への改良を目指した。国民の老若男女だれもが習える武術を。西洋のレスリングの技も取り入れた。そして、1882年、嘉納治五郎23歳のとき下谷北稲荷町永昌寺に講道館柔道を創立した。弟子は、一人だった。(小説『姿三四郎』の作者と富田常雄の父)が、理に叶った稽古をする柔道の進歩は目覚ましかった。たちまちに日本中に世界にひろまっていった。
世界に広まった柔道は、柔道理念を伴ったものだが、残念だが、日本で普及した柔道は、武道の垢をおとしきれなかった。そればかりか、柔道をもとの柔術の世界に押し戻そうとした。ファシズム化した日本軍は、柔道を武器なき武器として利用することを考えた。そうしてなかで嘉納治五郎は、老体に鞭打って戦争阻止に努力した。1938年、その努力は遂に報われた。第12回東京オリンピックがカイロ会議で決定した。だが、戦争への道を突き進む日本にとって、余計な事だった。知ってか知らずか嘉納は帰国途上船上で急逝。79歳。
☆文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.216 ―――――――― 4 ――――――――――――
6・3ゼミプログラム
1.テキスト読み『網走まで』1908年作者25歳のとき作品。
105年前の車内観察です。
2.課題報告・感想 課題3、7、8、9 10
「車内観察」 → 嶋津(課題7)
テキスト『夫婦』 → 南海(課題10)
熊谷元一研究 → 加藤(3)、嶋津(8)、齋藤(9)、嶋津(9)、南海(9)
3.世界名作紹介
独善で広く浅く紹介します。気になった作品は、独自で読んでみてください。
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6・3ゼミ 1.テキスト読み 『網走まで』
105年前の作品です。漢字読み、音読みに現代読みでないところがありますが、気にしないで現代読みで読んでください。
6・3ゼミ 2. 課題報告
【車内観察】(課題7.)
嶋津きよら 最寄駅まで
電車に乗り込み、空いている席に座る。座席が全てボックスになっているこのモノレールは三両編成と短い。乗客は、皆、各々の降りる駅の出口に一番近い車両に乗る。私もそのうちの一人で、四駅目が家からの最寄り駅だった。
前の座席に初老の夫婦が座った。はてと首をひねる。近所に住んでいる人たちではないか。あいさつを二三度かわしたことがあるくらいで、あまり話したことはない人たちだったが、確かにそうだった。することもないので二人をながめていると、奥さんの方が、かばんからみかんを取り出した。ていねいに皮をむくと、一房ずつ旦那さんに渡していく。それを頬張って、皮だけを吐きだすと、奥さんの差し出したテッシュペーパーにのせる。そんなことを繰り返し、全部なくなった頃、ちょうど四駅目にさしかかった。ごみ袋にまとめ、二人は仲良く降りていく。ぼんやりそれを見つめていたが、はっと気付き急いで車両を出る。後ろで扉が閉まる音が聞こえ、ほっと胸をなでおろした。
□よそごとを考えていたり、何かに気をとられたりしていると、よくありますね。短い時間のなか情景描写しっかり書けました。夫婦は、私には、気付かなかったんですね ?
―――――――――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.217
【テキスト『夫婦』感想】
南海洋輔 行間を読ませる作家
人間の本質は、ちょつとした無意識の行動に表れる。
志賀直哉は、よく理解した上で描いている様に感じた。
外国人夫婦と自分たちとのエピソードの対比や、その句読点多用する文体から、志賀直哉は行間を読ませる作家なのだと改めて気づかされた。
まるで漫画の一コマに一動作一情景、見えづらくなる要素はいれない、といったシンプルさを追求する志賀直哉の姿勢が『夫婦』の文章から垣間見えた。
その無駄のない語で構成された句は、節になることで動きを持ち、段落にまでなると意味を持ち始める。
しかし、それはわかってやろうとしても、なかなか出来るものではない。ここに志賀直哉が「小説の神様」たる所以があるのだろう。内容については、現代に十分通用するものであるが、「バールフレンド」など、時代のせいか、やや言葉が古く感じられる点も見受けられた。
□的確な分析と感心しました。志賀直哉はの作品は、短いものが多いですが、どの作品も前後や行間に、いろんな物語を感じさせてくれます。
夫婦の機微は、いまも昔も変わりませんが、外国人にたいする意識は、当時と今では、かなり違うものがあったと思います。朝鮮戦争が終わってすぐの時代。基地周辺には、アメリカ兵が起こす事件が多々あった。それだけに、アメリカ人は恐い。そんな意識があった。が、この作品は、その意識を払拭させてくれるものがある。子どもに対する愛情、夫婦の機微、それは、どこの人間でも同じ。それを感じさせてくれる作品でもある。
【熊谷元一研究】60年前(1953年)の写真観察から
加藤未奈 『一年生』に想う(課題3)
真っ暗な視界の中で遠いような近いような声がうっすら聞こえていた。
小学生ですー
ホームに落ちてー
予備校で配られる鞄を背負い、私は自転車に跨がった。冷房の効いた自室から外に出るとものの数分で体が汗ばんできたが、またすぐに冷房の効いた部屋に数時間閉じ込められることになる。
予備校に行くのは憂鬱だった。しかしサボって家にいるとか、何処か別の場所に行ってしまうなどとという選択肢を持たない小学生の私は重いペダルを踏みつけるように自転車を漕ぎ続けるしかないのであった。
そういえば昨日の復習も今日の予習も結局しなかったなー
そんなことを考えながら、まだ握り心地の良い自転車のハンドルの感触を半ば無意識に楽しんでいた。
夏休みの最終日、今日で夏期講習も終わると思うと嬉しかったが、小学生の私には当然夏休みの宿題というものがあった。大体のものは終わらせてあったが、「夏休みの思い出」という作文だけまだ残っていた。夏休み中何度か原稿用紙を広げ机に向かいはしたが、結局最後まで書ききることが出来ずに後回しにしてしまっていた。作文に書けるような内容を私は
☆文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・217―――――――― 6―――――――――――――――
持っていなかったのである。自宅と予備校を行き来する毎日だったので当然だが。
何も思うことがない。
ああ、自分は本当に空っぽなんだな。
汗ばんだハンドルが急に冷たくなった気がした。
いつもなら何も考えずに通り過ぎる駅の前で私は転校する友達と別れるような気持ちで自転車から降りた。
ふと頭に浮かんだのは、勉強しろと怒った口調で言う両親の顔だった。
近くでいい。此処ではない何処かに行きたかった。もし此処から離れることが出来たら私は空っぽではなくなる気がした。
そんな投げやりな期待を半ば強引に胸に抱き、適当に切符を買い、周りを歩く大人達の流れに乗って階段を上った。
□ずいぶんと大変な子ども時代だったのですね。いまはどうですか。
嶋津きよら 私の担任(課題8)
稲倉先生は、とにかく派手な人だった。普段着も一人だけとても明るい色だったし、何よりも花柄を好んだ。ずいぶんと母親気質な人手、だからこそ低学年の担任をする姿が、よく似合った。自分の子どもと同じように生徒を扱い、やさしく接していたように思う。不登校の生徒の家には毎朝通っていた。小学校からだいぶ離れた所に住んでいたはずだが、そんなことは、苦ではなかったようだった。元気な声で「おはよう」と云う姿は、今でもはっきり思い出せる。
□明るく元気な先生だったんですね。いまに、もっと思い出してきます。
齋藤真由香 居眠りは大人への一歩か(課題9)
小学生のときは、授業中に眠るということをしなかった、と思う。私が授業中に居眠りを覚えたのは、小学校5年生のときに通いはじめた学習塾だった。こっくりこっくり舟をこぐ上級生の姿に、はじめこそ驚いたが、気付けば、私もその仲間入りをしていたのだから情けない。どうして小さな子どもは居眠りをしないのだろう。一年生に一時間は長い。だけど飽きてきた子供は何故か、眠るのではなくぐずりだすのである。耳目を集めたという気持ちのあらわれなのだろうか。居眠りは決して立派ではないが、大人への一歩のひとつなんだろうか ?
□赤ちゃんは、眠くなると機嫌が悪くなります。心地よいのは赤ちゃんでない証明かも。
嶋津きよら 興味が一番の活力剤(課題9)
一生懸命に授業を受けていたのは、この頃までだったように思う。緊張もあったが、一限目は真剣に授業に取り組み、二限目を過ぎると次第にうつらうつらしていき、給食の頃になってはっと目覚めていた記憶がある。一時間も勉強をして、しかもそれを何度も繰り返すのは、あの頃の自分にとって非常に苦であった。しかし、算数や生活など、好きな教材の時はしっかり起きていたのだから、この時期のこどもには興味が一番の活力剤であったに違いない。
□写真は、学校前の道路をカバ屋の宣伝をするカバの恰好をした車が走ったときです。
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南海洋輔 記憶にないのは、幸せだった証拠
一年生のとき私は教室で何をしていたのだろうか。もちろん席に座って先生の授業を聞いていたのだろうが、何一つ思い出せない。
「意識していないものは、思い出せない」と言うから、一年生の頃の私は、教室で何かを意識するということは全くなかったのだろう。
お腹すいた、早く昼休みにならないかな、家に帰って友だちと遊びたい。おそらくそんな思いが、頭の中をぐるぐる回っていて、あとは目の前の課題をこなしていくうちに一日が過ぎていく。と、いった感じだろう。
私は、実に幸せな一年生だったのではないだろうか。
□そうですね。嫌な事はなかなか忘れませんが、楽しいことは、たちまちに忘れます。周囲を意識せずの成長。幸せな子供時代だったんでしょうね。
以下は、下原が一年生のときの文集ですが、下原はまったくおぼえていません。
『一年生』の声 1953年の小学一年生は、毎日どんなふうにして過ごしてい
たのでしょう。当時の文集を紹介します。担任の熊谷元一先生が作ってくれた文集です。
60年前の子どもたちの遊び、家での様子、自分の気持ちが書かれています。言葉づかいも、どうでしょう。いまのこどもと比べてみてください。
文集 こどもかけろよ ひのてるほうへ
作成 熊谷元一(くまがいもといち)昭和29年(1954年)3月
はじめに
みんながはじめて がっこうへ来た
ときは まだ じはあまりかけなかった
それが 一がつき 二がっきと たつうちに
じもかけるようになり ぶんもつづれるようになった
ここにあつめたのは みんなが一ねんのときにかいた
さくぶんです しずかに
おうちの人といっしょによんでみてください
1594年(昭和29)熊谷元一
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えんのこ 女の子
きのう たあちゃと わたしと
まつやのちずちゃと おきみちゃんと
四人で かあらへ えんのこを とりに いきました。
そして まつやのちずちゃが いちばんたくさんとりました
たあちゃが いちばんすくなくありました。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.217―――――――― 8 ―――――――――――――
かなりや 男の子
かなりやは ぼくのうちの とりです。
ぼくが 学校から かえって いくと とりのすの下に あわを こぼしています。
かなりやは ふつうの とりと ちがいます。
かなりやき ころころと なきます。ふつうのとりは ちんちんと なきます。
このごろは ふつうのとりの まねをして ちゅんちゅんと なきます。
かなりやは あたまをふります。かなりやは あしに わをはめています。
いろいろな わをはめています。ばんごうを はめたのもいます。
かなりやは うまれたときは、まっくろです。かなりやは じぶんで
すを つくりません。つくってやらないと
たまごを うみません。
うちの かなりやのすは 四つついています。
そり 男の子
おとうさんが そりをつくって くれました。
ゆきがたくさん つもっていました。そこの つもったゆきの なかに
はいって たけを きってきて くれました。
そのたけを むらってきてくれました。
そのたけは あらやのうちのたけです。
そのたけをはんぶんに わって そりにつけました。
あしたのるんだと おとうさんがいいました。
あしたになりました
そりにのっとったら よねざわの よっちゃんが ゆきかきをもって
こいってゆうもんで ゆきかきをもってきました。
そりは 長野県伊那谷の子どもたちの冬の遊びのひとつでした。
(上の童画は、熊谷元一が描いたもの。熊谷元一は童画家でもある)。 つづきは次号にて
―――――――――――――――――――― 9 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.217
5・27ゼミ報告 齋藤、加藤、南海、嶋津
【社会観察】母さん助けて詐欺について
☆防犯についての意見 = 確認、金額に疑問 第三者に連絡
★なぜ、騙されるのか
中年(主婦)の場合 → 息子への思い、なんとか手助けしようという気持ち。
高齢者 → 寂しさ、社会との接点、何カ月もやさしい声を聞いていない
2013・5・31 朝日新聞
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.217――――――――10―――――――――――――――――
提出課題・感想
【車内観察】
南海洋輔「車内観察 2 」
→ 実際かモデルがあるか。奇抜な人少ない。友人をつくってゆくのが、文が慣れている
→ 芸術的な雰囲気がある。新鮮だった。テンポがいい。
→ 前回は、内向的なかんじがしたが、登場人物がでてきたのでリズムを感じた。
印象が違った。テンポがあってよかった。
齋藤真由香「車内のうたたね」
→ 乗り過ごすのはやめましょう。私もよく寝ます。
なぜ、電車のなかのうたた寝は気持ちよいのか。
→ 母胎のなかにいる感覚だからでは・・・。
→ そういえば、子供を寝かすのにゆりかごを揺らします。あれは、そうしたことからか
車内のうたたね → ゆりかご → 母胎
車内の眠りは 母胎回帰現象からくるものか ?!
【熊谷元一(くまがいもといち)研究】
南海洋輔「はじめての一人登校」(『一年生』「入学式の日」をみての感想評)
→ 府中市や武蔵野の情景がら、昔(十数年前)自然が多いことが想像できます。
登校時間が30分は、遠いと思いました。
→ 私の場合は、学校まで5分しかかからなかった。裏山がある。
作品のなかで連れていってくれた人は ? 答え「わからない」
→ 会社に出勤する父と一緒に登校した。誰かにつけられた。
南海洋輔「コッペパン少年」(『一年生』「コッペパンを食べる」から)
→ 写真から伝わる、エネルギッシュな様子がよく書かれている。前回は、自分の視点から。
時代背景がわかる
齋藤真由香「レイコ先生」(『一年生』「教室で勉強を教える先生をみての思い出」)
→ 簡潔でいい。低学年の先生らしい。短い文章で特徴がでている。普通にいい先生は、印象が薄い
南海洋輔「クラティ―」(『一年生』の「担任先生」をみての思い出)
→ 会ってみたくなる。記憶に残る愛称。短い文章だが、インパクトがある。
―――――――――――――――――― 11 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.217
志賀直哉『網走まで』年譜
1883年(明治16)2月20日、父直温(第一銀行石巻支店勤務)、母銀の次男として宮城県
に生まれる。(ナオハル)
1895年(明治28)12歳 8月母銀死去享年33 秋、父、浩(こう)24と結婚。
1900年(明治33)17歳 内村鑑三の夏期講談会に出席。以後7年間通う。
1901年(明治34)18歳 足尾銅山鉱毒問題で父と意見衝突、父との長年の不和の端緒。
1902年(明治35)19歳 春、鹿野山に遊ぶ。学習院柔道紅白戦で三人抜きをする。
1904年(明治37)21歳 2月日露戦争、5月アンデルセン張りの作文「菜の花」を書く。
1905年(明治38)22歳 父総武鉄道専務就任、帝國生命保険、東洋製薬等の役員。
1906年(明治39)23歳 学習院高等科卒業、武課のみ甲、他乙、成績22人中16位。
「花ちゃん」を書く。(『菜の花と小娘』に近いもの)
1907年(明治40)24歳 家の女中との恋。反対の父、祖母、義母と争う。諦める。
1908年(明治41)25歳 8月14日「小説網走まで」を書く。帝國大学の【帝國文学】に投稿するが没。9月、夏目漱石「三四郎」新聞小説はじまる。
日常観察
土壌館日誌 春季柔道大会
6月2日、市民春季柔道大会が、市の武道センターであった。毎回、前夜、会場準備に行くことになっている。いつも手伝ってくれる高校生たちが、都合でこられないとのことで、時間がかかると心配した(年配者が多いので)が、この春大学に入った子が、サークル帰りに手伝いにきたので助かった。景品のタオルたたみ、プログラムや参加品の袋詰めが結構手間なのだ。8時過ぎに終わる。近くのレストランで皆で食事して9時散会。今回は、前総理の野田さんがくるというので、主催者は、少し緊張気味だった。政府の重要人物がくると、警護などでなにかと物々しく気ぜわしい。野田前総理は、このまちの出身者で、高校時代は柔道部ということで、議員時代から、春秋の市民柔道大会には欠かさず顔をだしていた。しかし、総理大臣になってからは、さすが、来られなくなった。が、昨年末の、まさかの国会解散。つづく惨敗。一挙に国政の実務はなくなり、余裕ができたのだろう。
参加選手数は小学生から一般まで300余人、応援の観客1000余。有力校高がどこかの大会にいったというので、いつもより少なかったが、試合場が2面しかないさほど広くもない会場は、立錐の余地のないぎゅぎゅ詰め。幸い天気は、暑くも寒くもなく好天気。
8時15分開場。警備のためか、関係者、入場者は、胸にラベルを貼ることになり、入館者全員に配布された。どのような効果を発揮するかは不明。ごった返す館内では、無用にも思えた。が、・・・・。野田さんは、いつものように9時30分開会式ぴったりに来訪。野田さんの挨拶は、柔道連盟市の関係者の後、来賓トップと決まっている。いつも簡潔でメリハリのよい挨拶で好印象だが今回は、柔道界は不祥事つづき、母体民主党は大敗北、野田さん自身も無冠となり母体の支持率も低迷。どれをみてもいいところはない。それだけにどんな挨拶をするのか注目された。ひさしぶりの挨拶は、相田みつおの詩の紹介だった。民主党代表選挙での演説で「どじょうと金魚の赤いおべべ」が話題になったが、あれも相田みつおらしい――らしいというのは、会場外(入りきれない人たち)の話声の騒音(以前は、外の人も全員きいていた。これが敗戦の将の挨拶というものか)でよく聞き取れなかった。
相田みつおの詩の中に、柔道の受身の詩があるそうだ。野田さんは、それを朗読した。受身はなんのために練習するのか。転んだときケガをしないため。投げられたとき、負けたと気の稽古、転んでも、また立ちあがるために――なにか自分自身に向かっての慰めのように聞こえ、切ない気持になった。開会式が終わると、前総理は、大勢の警護の人たちに囲まれて帰って行った。ちなみにこの日の土壌館の選手の成績は、小学生の女の子3選手、男の子1選手、1回戦で敗退。土壌館関係選手は、中2銅、中3敢闘賞でした。
☆文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・217――――――――12――――――――――――――――
2013年読書と創作の旅・旅日誌
4月22日 参加=加藤、齋藤、南海 読み=嘉納治五郎「読書のススメ」「憲法九条」と「前文」、書くこと=第九条の感想。
5月 6日 参加=齋藤、嶋津 報告=尾道と志賀直哉 議論=憲法改正問題・アンケ
ート 観察発表&合評=「車内観察」齋藤 司会進行=齋藤
読み=テキスト『菜の花と小娘』 書く=『菜の花』感想 課題
5月13日 参加=加藤、齋藤、嶋津、南海 司会進行=嶋津 課題発表「社会観察」「車内観察」「テキスト感想」
5月20日 参加=齋藤、嶋津、南海 司会進行=南海 社会観察「従軍慰安婦問題」
課題発表「熊谷元一研究 思い出」読み『空中』、テキスト『夫婦』
5月27日 参加=加藤、齋藤、嶋津、南海 司会進行=加藤 社会観察「母さん助けて詐欺」 課題提出評・南海「車内観察」齋藤「うたたね」
【熊谷元一研究】子供時代=南海「はじめての一人登校」南海「コッペパン」
齋藤「レイコ先生」南海「クラティ―」
※ゼミ誌ガイダンス報告=齋藤
課題提出&配布記録
課題1.(憲法第九条)=加藤、齋藤、南海 (発表済み)
課題2.(車内観察)=齋藤「乗客の謎」、南海「車内で想ったこと」発表済み
課題3.(写真『一年生』観察「入学式」「コッペパン」)=提出(齋藤、嶋津)発表済み
課題4.(テキスト『菜の花』感想)提出=齋藤、嶋津 南海 発表済み 南海「車内2」
5月20日 提出分
南海 → 「一人で登校」「先生の名はクラゲ」「コッペパン」
齋藤 → 「車内観察」「レイコ先生」
5月27日提出分
「車内観察」 → 南海 嶋津
「熊谷元一研究」 → 嶋津2 齋藤 南海
お知らせ
6月29日(土)8月17日(土)ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会
作品『死の家の記録』
時間、午後1時半開場 午後2時~5時前
会場 東京芸術劇場第7会議室
※詳細は、「下原ゼミ通信」編集室まで
・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・
□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
メール: TEL・FAX:047-475-1582 toshihiko@shimohara.net
課題13.【熊谷元一研究】 2013・6・3
名前
どんなマンガを、どんなテレビドラマを、どんな歌をおぼえていますか
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課題14.『網走まで』感想 2013・6・3
名前
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創作『上野まで』上野までの、この親子の生活は、
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課題15.車内観察 2013・6・3
名前
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