<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
    <title>土壌館　創作道場 </title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.shimohara.net/" />
    <link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://www.shimohara.net/atom.xml" />
    <id>tag:www.shimohara.net,2008-08-17://1</id>
    <updated>2012-05-14T08:48:18Z</updated>
    
    <generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type Pro 4.2-ja</generator>

<entry>
    <title>文芸研究Ⅲ　下原ゼミ通信 熊谷元一研究No.3-1</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.shimohara.net/archives/2012/05/-3.html" />
    <id>tag:www.shimohara.net,2012://1.180</id>

    <published>2012-05-14T08:43:26Z</published>
    <updated>2012-05-14T08:48:18Z</updated>

    <summary> 日本大学芸術学部文芸学科文芸研究Ⅲ下原ゼミ　2012年5月11日発行 文芸研究...</summary>
    <author>
        <name>下原敏彦</name>
        
    </author>
    
        <category term="下原ゼミ通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.shimohara.net/">
        <![CDATA[<p><br />
日本大学芸術学部文芸学科文芸研究Ⅲ下原ゼミ　2012年5月11日発行</p>

<p>文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信<br />
ＢＵＮＧＥＩＫＥＮＫＹＵ　Ⅲ　ＳＨＩＭＯＨＡＲＡＺＥＭＩ　ＴＳＵＳＨＩＮ<br />
熊谷元一研究Ｎｏ．3　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　   <div style="text-align: right;">編集発行人　下原敏彦</div><br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
4／13　4／20　4／27　5/11　5／18　5／25　6／1　6／8　6／15　6／22　6／29　7／6　7／20　(ゼミ4教室)<br />
　　<br />
観察を記録する、観察を創作する<br />
5・11下原ゼミ</p>

<p>5・11ゼミは以下の要領に添って行います。（ゼミ4教室）<br />
　<br />
1.ゼミ連絡、「通信」配布　課題提出「写真の感想」、「私の記憶」、「『白い馬』感想」　　</p>

<p>2.ゼミ報告　→　4・27ゼミ報告、DVD「知るしん」観賞について</p>

<p>3.　資料検証　→　『一年生』撮影まで、動機、当時の時代背景　</p>

<p>4.熊谷とサローヤン　→　両者の比較について、『我が名』の読み</p>

<p><br />
4・27ゼミ報告　DVD観賞NHK番組を見る</p>

<p>長野放送制作「知るしん」で熊谷元一を知る</p>

<p>熊谷元一とは、どんな人か。既に一昨年亡くなっているので直接に知ることは叶わない。が、101歳までの長寿の軌跡には、その人物を知り得る数々の遺品が残されている。<br />
熊谷の場合は、5万点（CD化）に及ぶ記録写真、童画集、教育現場における実践教育と教え子たちなどの証言である。4・27ゼミでは、このうち最近、テレビ映像に記録された熊谷の番組をとりあげた。<br />
このNHKドキュメンタリー番組は、2010年11月6日死去の後、追悼番組として平成23年1月14日（金）全国放映されたもので、NHK長野放送制作の「知るしん　～信州を知る～」の一環として放映されたDVDを観賞した。</p>

<p>「すごい人だ、こんな人がいたのか　!　」<br />
写真集をはじめて見たアニメの巨匠宮崎駿監督の驚きと、絶賛</p>

<p>映像は、いきなり熊谷の写真集を手にするアニメ映画界の巨匠・宮崎駿監督のアップと「すごい人だ、こんな人がいたのか」の感銘の声からはじまった。監督が映画の撮影で訪れた南信州の旅館で暇つぶしに見た。そのときの感想表現だった。映像は熊谷の追悼番組で、スタジオにはテキスト『一年生』の拡大写真が多数、飾られていた。ルポライターの吉岡氏が主に『一年生』を中心に熊谷の写真家・童画家・教師としての功績を語った。終盤は、写真集がおいてあった旅館主にだした宮崎監督の礼状の紹介された。これからの映画作りに役立たせたいといった文面だった。最後は、熊谷の教え子たちの墓参。下原の姿もあった。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.3　―――――――　2　―――――――――――――――――</p>

<p>熊谷元一研究・資料検証</p>

<p>『一年生』研究に当たって</p>

<p>　熊谷元一の業績は、写真・童画・教育の3点にある。写真は、回想法としての心の癒しや記録による時代の証言。童画は、山村文化と、物に頼らない子供の遊びの伝承。教育は、熊谷が行った実践教育。いずも資料は、多々あるが2012年度は、テキストを岩波写真文庫『一年生』をとりあげ研究を進めて行きたいと思う。<br />
　現在、教育現場は混乱している。君が代や歴史観の問題で教職間に対立と確執を発生させ、ついには盗聴、チクリまでもが横行するに至っている。し、子供たちは「ゆとり教育」で生まれた格差のなかで自信を失っている。こうした現状のなかで『一年生』のなかに真の教育の原点がある。この研究によってそれをひきだし、混迷する日本の否、世界の教育に役立たせたい。そう願うところである。<br />
　<br />
『一年生』の謎を探る</p>

<p>　写真集の金字塔『一年生』には、多くの謎がある。ゼミにおいて、その謎を探り想像・創造を交えて考察していきたい。最初の謎は、</p>

<p>「教育現場の写真撮影を可能にしたものは何か」である。</p>

<p>　学校で、授業中に、それも一年間、写真を撮る。個人情報保護法がある現代においては、絶対に不可能な行為といえる。しかし、いかに半世紀以上の昔といえ、人の心に大差はないはず。まず、このへんから考えてみたい。その前に、一年生を撮影したい、という動機。これについて熊谷本人は、どう言っているのか、熊谷を考察した矢野教授は、どのように検証したのか。そのへんを二人の著書から紹介したい。</p>

<p>『一年生』撮影まで</p>

<p>　『一年生』は、どのような経緯を辿って作品となったのか。熊谷本人の自伝『三足のわらじ』と、国立静岡大学・矢野敬一教授の著書『写真家・熊谷元一とメディアの時代』から、撮影に至る動機と経緯をみてみた。</p>

<p>『三足のわらじ』南信州新聞社出版局</p>

<p>一年生を写す</p>

<p>　名取さん（名取洋之助・当時報道記録写真の第一人者）は、『かいこ』（『かいこの村』昭和28年刊行）の撮影中、次は何を写しますかと言って下さったので、私は昭和28年に新しく担任する一年生の生活を一カ年撮影したいと申し上げると、それはよい、きっとおもしろいものが出来ますよ、とはげまして下さった。それに力を得て、4月1日入学の日から毎日子どもたちの日常を克明に追った。途中から新しく手にしたキャノンで写したが、手ごたえがあるような気がしてうれしかった。つづく</p>

<p>※ここで入学式は4月1日とある。当時は4月1日の入学式が普通だったようだ。いつのころからか入学式は10日前後になっている。<br />
――――――――――――――――　3　――――――――　文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.3</p>

<p>写真撮影の動機を探る</p>

<p>『写真家・熊谷元一とメディアの時代』青弓社</p>

<p>2　子どもたちへの視線　――『一年生』へ</p>

<p>小学校教師としての熊谷元一</p>

<p>　岩波写真文庫からの作品としては、まず『かいこの村』が昭和28年（1953年）に上梓された。その辺州作業が終わった後、熊谷が岩波書店で写真文庫編集長・名取洋之助と会っていた折、今後の仕事について問われた。熊谷は今度の4月から新たに1年生を受け持つだろうから、その生活を一年間撮影して成長の記録を作り、また教師としての自分の反省の資料にもしたいと話した。名取はこれを聞くと即座に、おもしろい、撮影が済んだら写真文庫の一冊にしたい、と申し出て新たな企画の話はまとまった。その成果となった『一年生――ある小学校教師の記録』は昭和30年に刊行され、第一回毎日写真賞を受賞して熊谷にとって記念すべき作品集となった。・・・・とある。<br />
　<br />
以上のような動機というか経緯があって、熊谷は学校において子どもたちを撮影することになった。このことについて、校長や村の教育委員会にはどのように説明したのだろうか。<br />
疑問は残る。当時の時代背景、村の実態を知る必要がある。</p>

<p>1953年（昭和28年）という時代</p>

<p>　敗戦から7年と半年、このときの日本はどんな状態にあったのか。現代用語の基礎知識1992年版・別冊付録『日本1948～1992』をみると、国政を揺るがすさまざまな出来事が起きていた。自衛隊はまだ警察予備隊から保安隊と呼ばれていた。保安隊が、陸海空の三軍からなる自衛隊になったのは1954年7月である。ということは、1953年においては、日本はまだ名ばかりの独立国であったのだ。世界は、53年に朝鮮戦争が、54年にインドシナの戦争が終息し、反映は、まだ遠かったが平和の時代に入りかけていた。<br />
　当時の世相を反映させる流行語をみると、それがよくわかる。<br />
前年の1952年には、こんな言葉がはやった。「君の名は」「さかさくらげ」「パンマ」「ヤンキー・ゴーホーム」「エッチ」「テネシーワルツ」「火炎ビン」「ジェット旅客機」「キャノン機関」などである。<br />
世の中は、破防法（暴力主義的破壊活動を治める法）成立をめぐって混乱していた。<br />
「破防法が成立すると、広範な反対闘争がくり広げられた。都学連は、東大安田講堂前で、「破防法粉砕全都労働者・市民・学生総決起大会を開催。'526月17日」<br />
　『一年生』が撮影された年1953年に流行った言葉は、<br />
「むちゃくちゃでござりますがな」「雪の降る町を」「真知子巻き」「ひめゆりの塔」「プラス・アルファ」「コネ」「ターミナル」「ショートスカート」「スーパーマーケット」など戦争の名残りと、経済発展のにおいが混濁する時代だった。<br />
　もっとも政治においては衆議員予算委員会で、吉田茂首相が「バカヤロー」発言をしたため内閣不信任案が成立。2月14日、即日、解散となった。「バカヤロー解散」である。</p>

<p>被写体の1年生は、日本国憲法の申し子</p>

<p>　以上、世の中の状況と様子を簡単に述べた。次に被写体となった子どもたちについて検証したい。この子どもたちは、どんな育ち方をしたのか。当時の学校教育とは、どんなものだったのか。被写体の子どもたちは1952年4月1日～1947年3月31日誕生である。<br />
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.3　―――――――　4　―――――――――――――――――</p>

<p>　現在、改正問題で日本国の最大の課題となっている日本国憲法は、1946年公布、翌年1947年5月3日施行された。よって『一年生』は、日本国憲法の申し子といえる。が、――<br />
　憲法と教育については、次号で説明したい。『一年生』間連は、ひとまずここまでとして、次は、熊谷と同時代を生きた米国の作家、ウイリアム・サローヤンについて少し触れたい。</p>

<p>熊谷元一とサローヤン</p>

<p>　熊谷元一と、ウイリアム・サローヤン。両者は、果たして実際的には比較の対象になり得るのか...それは不明だが、下原ゼミでは、それを目標に考察・検証していくことにしている。<br />
　手段・方法として熊谷は、その作品である写真を観賞すること。サローヤンは、書かれた子ども時代の創作作品をひたすら読むことにある。<br />
　観察をひたすら記録した熊谷。観察をひたすら創作したサローヤン。作家と写真家、異質な二人だが熊谷元一研究の副産物として、両者の比較検証ができれば幸いです。</p>

<p>熊谷元一研究の目標<br />
1.写真家・熊谷からは、懐古と癒し。原発のない時代の暮らしの証言を探る。<br />
2.童画家・熊谷からは、子供の遊びを伝承する。3・11の災害で多くの人たちが避難所生活を余儀なくされた。半年後の救援物資が一段落したあと、いま一番欲しいものはと聞いたら「ゲームの玩具」と答えた人が多かったという。写真の子どもたちは、ゲームでは遊んでいない。自分たちが創意工夫した遊びで遊んでいる。ゲームがなくても遊べる。<br />
3.教師・熊谷からは、黒板絵、動線、郊外学習など創意工夫の実践教育を学ぶ。ゆとり教育は、多くの格差を生んだ。混迷する日本の学校教育。民主主義草創期の熊谷の教育を検証する。</p>

<p>掲示板</p>

<p>ゼミ誌について</p>

<p>○ゼミ誌作成ガイダンス　5月24日（木）12:20～　江古田校舎W301教室です</p>

<p>※2名の参加です。必ず、出席してください。</p>

<p>○ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」のお知らせ</p>

<p>月　日　:　6月16日（土）<br />
時　間　: 　開場１時30分　はじまりは2時～5時<br />
会　場　: 　豊島区立勤労福祉会館第7会議室（6階）<br />
作　品 :　　「人妻とベットの下の夫」<br />
―――――――――――――――――――――――――――――――――――<br />
編集室便り</p>

<p>①	課題原稿、メールでも可　下記アドレス</p>

<p>住所〒274-0825　船橋市前原西6-1-12-816　下原方<br />
　　メール：　TEL・ＦＡＸ：047-475-1582　 toshihiko@shimohara.net<br />
文芸研究Ⅲ下原ゼミ「熊谷元一研究」　　　　　　　　　　　　2012・5・11　　　</p>

<p>課題3.『一年生』を読む　　　　　　　名前</p>

<p>下記の写真について、コメントしてください。（テキストには解説がありますが、自分の感じたことを書いてください）どんなことでも構いません。</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>写真1</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
写真2</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
写真3</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>課題4.　名作読み　　　　　　　　　名前</p>

<p>「ハンフォードへの旅」の朗読感想</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
1908年　　ウイリアム・サローヤン、米国カリフォルニア州の農業地帯フレスノで生まれ<br />
る。アルメニアからの移民二世。<br />
1909年　(熊谷元一、長野県伊那谷の山村で生まれる)<br />
1934年　『空中ブランコに乗った大胆な若者』好評26歳　この年から6年間に何百という短編を書いた。まるでカメラのシャッターを押すように。<br />
1938年　熊谷の朝日新聞社刊『會地村』好評、29歳<br />
1953年　熊谷『一年生』の撮影開始<br />
ウイリアム・サローヤンの邦訳出版されたもの</p>

<p>『君が人生の時』加藤道夫訳、中央公論社、1950年<br />
『人間喜劇』小野稔訳、中部日本新聞社、1950年<br />
『わが心高原に』倉橋健訳、中央公論社、1950年<br />
『男』小暮義雄訳、ダヴィト社　1951年<br />
『わが名はアラム』清水俊二訳、月曜書房、1951年（のちに晶文社）<br />
『君が人生の楽しき時』金子哲郎訳、創芸社、1953年<br />
『どこかで笑っている』清野陽一郎訳、ダヴィツト社、1954年<br />
『サロイアン傑作集』末永国明訳、新鋭社、1954年<br />
『笑うサム・心高原にあるもの』斉藤数衛・吉田三雄共訳、英宝社、1957年<br />
『我が名はアラム』三浦朱門訳、角川文庫、1957年（のちに福武文庫所収）<br />
『人間喜劇』小島信夫訳、研究社、1957年（のちに晶文社）<br />
『わたし、ママが好き』古沢安二郎訳、新潮社、1957年<br />
『サローヤン短編集』古沢安二郎訳、新潮文庫、1958年<br />
『人生の午後のある日』大橋吉之輔訳、荒地出版社、1966年<br />
『ウイリアム・サローヤン戯曲集』加藤道夫・倉橋健訳、早川書房、1969年<br />
『ママ・アイラブユー』岸田京子・内藤誠訳、ガルダ、1978年（のちにブロンズ新社刊　新潮文庫所収）<br />
『パパ・ユーアークレイジー』伊丹十三訳、ガルダ、1979年（のちにブロンズ新社刊、新潮文庫所収）<br />
『ワン　デイ　イン　ニューヨーク』今江祥智訳、ブロンズ新社、1983年（のちに新潮文庫所収）<br />
『ディアベイビー』関汀子訳、ブロンズ新社、1984年（のちにちくま文庫所収）<br />
『リトル　チルドレン』吉田ルイ子訳、ブロンズ新社、1984年（のちにちくま文庫所収）<br />
『ロック・ワグラム』内藤誠訳、新潮文庫、1990年<br />
『ヒューマン・コメディ』関汀子訳、ちくま文庫、1993年</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>文芸研究Ⅱ　下原ゼミ通信Ｎｏ189</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.shimohara.net/archives/2012/05/189.html" />
    <id>tag:www.shimohara.net,2012://1.179</id>

    <published>2012-05-14T08:40:25Z</published>
    <updated>2012-05-14T08:42:24Z</updated>

    <summary> 日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2012年（平成24年）5月14日発行 文芸...</summary>
    <author>
        <name>下原敏彦</name>
        
    </author>
    
        <category term="下原ゼミ通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.shimohara.net/">
        <![CDATA[<p><br />
日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2012年（平成24年）5月14日発行</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．189<br />
ＢＵＮＧＥＩＫＥＮＫＹＵ　Ⅱ　ＳＨＩＭＯＨＡＲＡＺＥＭＩ　ＴＳＵＳＨＩＮ<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　編集発行人　下原敏彦<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
4／16　4／23　5／7　5/14　5／21　5／28　6／4　6／11　6／18　6／25　7／2　7／23<br />
　　<br />
2012年、読書と創作の旅</p>

<p>5・14下原ゼミ</p>

<p>5月14日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室</p>

<p>1．	 出欠・配布　　→　5・7ゼミ報告・司会進行指名</p>

<p>2.	　提出課題発表　→　愛読書・憲法問題・テキスト感想　　　</p>

<p>3.	　読むこと　→　『網走まで』（車内観察）お手本・創作</p>

<p>4.	　書くこと　→　テキスト感想　車内観察　車窓の出来事</p>

<p>5・7ゼミ報告　参加5、届2、5割強で例年よりやや増</p>

<p>ここ2、3年、連休明けの出席率が気になる。何が原因かわからないが、欠席者が目立つようになった。今年は、北アでの遭難死、バスや車の事故、竜巻被害。人災に天候異変も加わって、とりわけ事件事故が多かった。それだけに心配も大きかった。が、出席者は5名、病気早退1名と電車人身事故で止むなく欠席が1名。ということで、5割を超えたまあまあの出席率だった。連休の後は、五月病がジワリひろがる時期である。欠席者は、たんに休み疲れだけであってほしいと祈るばかりだ。<br />
「五月病」という言葉が、はじめてでてきたのは1968年である。若葉の季節といえば、希望に燃えた楽しい季節なのに、人間の心は難しい。(※届け出欠席は0・5)</p>

<p>ゼミ合宿について　賛成1、反対2、やれば参加3</p>

<p>　過半数の出席ということでゼミ合宿の有無について話し合った。出席者5人の意見はこのようだった。○＝賛成、×＝反対、△＝どちらでもないが決まれば参加する<br />
・I　＝　×△　→　△　　・Y　＝　△　　→　○　　・F　＝　△　　→　△<br />
・S　＝　×　　→　×　　・N　＝　×　　→　×　　・T　＝　×△　→　△<br />
　結果として賛成1　反対２　やれば参加3　ということで14日に賛否決定。<br />
ちなみにゼミ合宿実行すれば、「好評マラソン読書」結果は、賛成1、反対2、中3です。</p>

<p>司会進行(全体をみて全員が発言、音読できるように指示する)は、吉岡未歩さん。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>提出課題発表　→　参加者の愛読書、憲法問題について、『菜の花』感想、</p>

<p>テキスト読み　→　作品は『或る朝』でした。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ.189――――――――　2　―――――――――――――</p>

<p>課題発表（掲載できたものから順次）</p>

<p>１.課題１．【自分観察】愛読書紹介　自分は、こんな本を読んでいます。<br />
 <br />
〈矢代羽衣子〉</p>

<p>(1)『家守奇譚』　梨木香歩<br />
紹介：何でもないような日常に、当たり前のような顔で居座る非日常<br />
 <br />
(2)『きらきらひかる』　江國香織<br />
紹介：アルコール中毒の妻とゲイの夫のやさしい物語<br />
 <br />
(3)『かもめ食堂』（映画）<br />
紹介：おにぎりは日本のソウルフード。フィンランドの食堂に流れるゆったりやさしい時間。<br />
 <br />
(4)『生きる』　谷川俊太郎<br />
紹介：こういう人になりたい<br />
 <br />
(5)『ダカフェ日記』（写真集）<br />
紹介：朝の気配にあふれた家族の写真集<br />
 <br />
 課題２．自分について<br />
 <br />
・長唄研究会所属<br />
・実家大好き<br />
・すてきな友人たち<br />
・いつでも楽しく生きていきたい<br />
・こぎん刺しがんばってます<br />
・うちの犬はかわいい<br />
・文房具すき<br />
・時計ほしい<br />
 <br />
〈吉岡未歩〉</p>

<p>（1）『夜は短し歩けよ乙女』森見登美彦<br />
紹介:同じ大学の後輩（黒髪の乙女）とお近づきになるためにあらゆる場所で偶然に出会おうと奮闘する後輩の話。</p>

<p>（2）『ぶらんこ乗り』いしいしんじ<br />
紹介:ぶらんこが大好きで動物とお話ができる兄と妹の愛しくてせつないお話。</p>

<p>（3）『まほろ駅前多田便利軒』三浦しをん<br />
　紹介:便利屋の多田と偶然に再会を果たした同級生の行夫のゆるい話。</p>

<p>（4）『マンマ　ミーヤ』ミュージカル映画<br />
　紹介:自分の結婚を期に父親探しをする娘と母の話。音楽には、ABBAのカバー曲が使われている。</p>

<p>（5）『かもめ食堂』映画　　紹介:フィンランドに食堂を作った日本人。<br />
――――――――――――――――――　3　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．189</p>

<p>課題2.　自分について</p>

<p>・日常的で誰もが感じたことはあるけれど、忘れてしまっているいるようなことで読んで「はっ」と思ってもらえるようなエッセイが書きたいです。<br />
・2年生になってから長唄研究会という三味線の部活に入りました。<br />
・ジブリ作品が大好きです。<br />
・将来はジブリ美術館で働きたいです。<br />
・外で遊ぶよりも、家でのんびりしているほうが好きです。</p>

<p>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p>

<p>2.課題３．【車窓観察】憲法第９条について　「戦争の放棄」<br />
 <br />
〈Y・U〉改正に反対<br />
理由：別に改 正する必要がないのではないかと。私は法律や政治のことなどについて全く無知なので詳しい事情はよくわかりませんが、 無知でいられるというのはなかなか幸せな現状だと思うので、今のままでもじゅうぶんです。個人的には。<br />
 <br />
 〈M・T〉改正に反対<br />
理由:まず武力を持たない（行使しない）国が少ないので、その希少な立場を守ってほしいからです。そして、改正してしまったら戦力を持つことができるからです。</p>

<p>〈N・R〉わからない<br />
理由:とりあえず自衛隊で国を守る戦力はあるのだから、外国に対抗する戦力が必要とか考える前に日本の内政をどうにかした方がいいと思います。</p>

<p>〈F・M〉改正に反対<br />
理由：第二次世界大戦の敗戦国及び世界で唯一の敗戦国である日本が、「戦争の放棄」を放棄することの意味が分からないから。</p>

<p>〈S・N〉改正に反対<br />
理由:『武力』は何も生み出さないから。大人のエゴはうんざりです。</p>

<p>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p>

<p>3.課題４：『菜の花と小娘』感想　テキスト読み<br />
 <br />
〈矢代羽衣子〉　　　　　　　表現がとてもきれい</p>

<p>自然の表現がとてもきれいだな、と思いました。<br />
「夕日が新緑」の薄い木の葉を透かして、赤々と見られる頃になると...」のところがすてき。<br />
この話のゆったり流れる空気感が好きです。菜の花と小娘は、今でもたまにおしゃべりするのでしょうか。<br />
 <br />
〈志村成美〉　　　　　絵本に出来そうな</p>

<p>　小説として発表している作品ですが、小さい子供向けの絵本に出来そうな印象を受けました。菜の花の擬人化という所が物語を可愛くさせていると思います。</p>

<p></p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．189――――――――　4　――――――――――――――</p>

<p>〈古谷麻依〉　　　　　情景がすぐに浮かぶ</p>

<p>「花が喋る」という時点でもう普通の物語ではないのだが、話の内容自体はさほど起伏の激しいものではないように思う。それだけに、情景がすぐに頭に浮かんでくる。難しい表現も<br />
なく、読みやすい文章だった。</p>

<p>〈吉岡未歩〉　　　　　　少し不思議で恐い</p>

<p>　たんたんとしていて読みやすかったです。話がすすむにつれて、はじめは小娘が菜の花を気づかっていたけれど、そのうち立場が逆転して菜の花の方が小娘を気づかうようになっていて話に流れがあると感じました。<br />
　途中の、菜の花が水草に根がからまってしまったところで、菜の花は居やがっていたのに小娘は笑って助けることがなかったので、そこは少し不思議で恐いと感じました。とても短いのにちゃんと簡潔していて読後の後味がよかったです。</p>

<p>〈根本留加〉　　　　　まるで絵本のような感覚</p>

<p>　難しい表現や言い回しもなく、読みやすかったと思います。言葉づかいがどこか古めかしくまるで絵本のような感覚で風景をイメージしやすいです。</p>

<p>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p>

<p>4.課題6.【自分観察】「自分の一日の記録」（課題5の創作は最終にします）</p>

<p>〈矢代羽衣子〉　　　　　　　実家は楽しい</p>

<p>　瞼の裏に日の光を感じて目を開ける。どうやらもう昼時らしい、微かにバターのいい匂いが扉の向こうから漂ってくる。寝すぎていささか怠い体を、あえて勢いをつけて起こした。<br />
　大きく開け放たれた窓から風が入ってくる。気持ちがいい。白い春物の薄いレースのカーテンが、風にさらわれてふうわりと空中を優しく泳ぐ。<br />
　久々に実家のベッドで目覚めた昼下がりは、ほのかに夏の気配がした。<br />
「おはよ！」<br />
「あら」<br />
　まだ重い頭を宥めつつリビングに降りると、子供特有の高くて細い声に出迎えられた。ごく近所に住むいとこは、よく我が家に遊びにきては力いっぱい遊んで夕飯を食べ、お風呂に入ってパジャマで自分の家に帰っていく。これが定番のパターンである。<br />
今年からランドセルを背負って小学校に通い始めたばかりの彼女の、ばんそうこうが貼られた小さい膝小僧を見つめながら、ずいぶん大きくなったなあ、としみじみ思う。このくらいの年の子供は、本当に成長が早い。<br />
「口についてるよ」<br />
頬一杯にパンケーキを含んで口元を汚すあどけなさが可愛くて、ふふ、と笑って親指でメイプルシロップを拭ってやった。<br />
　いとこと日が暮れるまで遊んで、ごはんを食べて一緒にお風呂に入った。どうやら今日一日がとても楽しかったらしく、帰り際に「帰りたくない」と散々半べそで駄々をこねた結果、泊りということになった。歯磨きをしながらにやにやと笑う彼女は、ひどくご満悦の様子だ。<br />
「おやすみ」<br />
　そう言ってはとこと愛犬と一緒にベッドに潜り込んだ。犬と子供の高い体温は、春のあたたかい夜には少々暑すぎる。タオルケットにみんなでくすくす笑いながら包まった。<br />
――――――――――――――――――　5　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．189</p>

<p>　おやすみなさい、明日も一日楽しいといい。小さく開けた窓から薫ってくるのは、やはり夏の気配だった。</p>

<p>□やっぱり実家はいいですね。小さないとこも楽しそうで、情景がよく表れています。</p>

<p>〈志村成美〉　　　　　　　　　　朝と共に</p>

<p>　その日は、朝9時からバイトが入っていた。天気も文句なしの青空で気温もちょうどいい。時計は8時半を過ぎる頃、まだ少し眠い目をこすり荷物をまとめ家を出た。バイト先までは、自転車で向かう。天気が悪ければ歩いて駅まで向かい、そこから一駅になる。ゆっくりと自転車を進める。道は歩いてでは分からない程度のゆるやかな下り。途中、にわとりを十数羽飼っている民家を横に抜ける。お地蔵さまが見えてくれば、そこを左に曲がる。お地蔵さまにお辞儀をして下り坂で自転車は加速する。<br />
　その時の肌に感じる風が、私はたまらなく好きだ。その加速したスピードを更に足でこぎその先にある上がり坂に備える。足に精一杯力を込めてゆっくりと上る。上り坂が終われば私の大好きな景色がある。大きな川と土手に架けられた一本の橋の上からは、遠くの秩父山脈（連峰）を目視できる。川の水は穏やかで水鳥が泳いでいたり、時々魚の姿も伺える。土手には今の季節は菜の花が咲き誇り、鮮やかな色が眩しい。空の青さがその色を更に引き立たせている。この景色を切り取って額ぶちに収めてしまいたい。なんて思うことはあるけれどそんなことをしてしまったら、この朝独特の空気を肌で感じることは出来ない。一つおおきな深呼吸をして、また大きく吐いた。<br />
　下り坂を下りてまた加速した。朝は嫌いだけど、この風とあの場所があるなら、少しくらいは、朝を好きになってもいいと思ってしまう午前9時のことでした</p>

<p>□そんな景色ぜひ見たいですね。</p>

<p>〈吉岡未歩〉　　　　　　　　今日は何かいいことが...</p>

<p>　金とも白とも言えない髪の毛のお兄さんに声をかけられる。「ヘアカットしているんですけど、もしよかったら髪を切らせてもらえませんか?」<br />
 軽くおじぎして足を速める。少し前までは、見向きもされなかったし、例えば姉と歩いていても、姉にしか渡されなかったようなポケットテッシュも、最近は渡されるようになった。私は鬱陶しさと、少しの高揚感わ抱いた。最近、髪が傷んできたからどうせなら切ってもらえばよかったかもしれない。私は、さっきよりも少し顔を上げて歩みを進めた。今日は、何かいいことがあるかもしれないと、心踊らせた1日の始まり。</p>

<p>□ちょつとしたことでも、よく考えれば楽しい一日になります。</p>

<p>〈根本留加〉　　　　　　　　　カタログ風の休日</p>

<p>　朝起きて顔を洗って、朝食を食べる。出かけるために準備をして、メイクする。服を着替えて、池袋に向かった。池袋のルミネで昼食を食べ、映画を見た。その後、ルミネで服を物色。2着ほど買って帰宅。</p>

<p>□昔、「なんとなくクリスタル」そんな小説がありましたが、思い出しました。</p>

<p>〈石川舞花〉　　　　　　DVD発売の日</p>

<p>　その日、私は朝からソワソワしていた。1限から3限までの授業を滞りなく済ませて、早<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．189――――――――　6　――――――――――――――</p>

<p>く帰りたかった。3限の授業終了と同時に友人とのあいさつもそこそこにして急いで教室を出る。急がなくては。今日は、発売を待ち焦がれていたDVDの入荷日だからだ。発売日は次の日だが、前日には入荷した商品が店頭にならぶことを私は知っている。急いでいるのは早く商品が欲しいから、――だけではない。その後、アルバイトに行かねばならなかったからだ。時間はあまりない。学校からバスに乗り、東所沢駅から電車に乗る。<br />
　ここからが問題だ。私はよく電車を乗り間違える。今日は時間もない。普段使わないルートだったので間違えないよう気をつけた。気をつけたはずだったのだが、見事に間違えた。何度も来ている東京駅のはずだが見慣れない風景が広がっている。焦ってはいけないと思いつつも気持ちは急く。今、私はどこにいるのだろう。東京駅にいるはずが、池袋駅にいた。なんとか乗り換えて目的地に着く。時間にもまだ余裕がある。安堵が胸一杯にひろがった。<br />
　そして、遂にDVDを手にする。ここまでの道のりは長かった。それも、もう気にはならない。一万円札が何枚なくなったかなどということも、どうでもいいような気がしてくる。帰路は迷うことなく、無事にアルバイト先に着いた。アルバイト先から家路に着く私の足どりは、いつになく軽やかだった。</p>

<p>□DVD買うことができてよかったですね。ハラハラしました。ただ、電車は、どこで、どう間違えたのか。具体的にわかるとよかったです。</p>

<p>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p>

<p>5.課題7「車内観察」毎日利用する電車、バス。関係ない人たちが一時、共有する空間。観察すれば、過去がわかる。未来が見える・・・そんな気がする。</p>

<p>〈吉岡未歩〉　　　　　　　　　母と携帯と私</p>

<p>　扉が開いた瞬間、母は、降りる人より早く車内に足を踏み入れた。その時、母は既に目標を捉えていたのだろう。私は、のろのろ電車に乗り込み、少し混んだ車内を見渡して、早々に坐るのを諦めていた。母は、さっさと座に座り斜め前に空いた座席を指差して、少し遠くから私の名前を呼ぶ。同じ電車に乗り込み、その空いた席を目の前にした男性は、私たちの様子を見て足を止め、方向転換してしまった。<br />
「ああ、申し訳ないな...」そう感じつつ、空いた席に座る。<br />
母の方を見ると、やはり母もこちらを見て、何やら満足げだ。座れるに越したことはないけれど、なんだか気まりが悪い。<br />
　しかしここで嫌な顔をすると母の機嫌を損ねかねないので、今はおとなしくしておこうと決める。数分後に携帯電話の着信音が車内に響いた。あたりを見回すと、斜め前に座る母がポケットをごそごそ探っている。ポケットから取り出されたそれは、先程にも増して大きく音を響かせる。「もしもし　! 」<br />
　私は大きくため息を吐いた。さすがに車内なので、母は早目に会話を切り上げ電話を切る。母と目があったので思い切り眉をひそめてやる。席が離れているので、今は、これが精一杯の反撃だ。<br />
　その後も母は、ひたすら形態電話をいじっている。ここのところ無料のつりゲームにはまっているようで、暇さえあれば、ずっと魚を釣っている。ふと周りを見渡すと母の座席の一列全員が携帯電話を手に持ち視線を落としている。私はそれを見て、持ちかけた携帯電話から手を放す。そしてよく見るとみんな右手に電話を持ち、見事に同じ体制をとっている。母は老眼が入いっているので、できるだけ画面を遠ざけ目を細めている。その顔を他人の目に映すのはいかがなものか...。<br />
　しばらくすると終点のアナウンスが流れる。電車を降りて私は母になるべく優しい言葉を</p>

<p>――――――――――――――――――　7　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．189</p>

<p>選んで携帯電話のマナーモード設定をオススメする。<br />
「しょうがないでしょ。会社から連絡が入っているかもしれないし、気づかないとまずいから」母は、いつもこう頑固で、たまにマナーが悪い。私がそれに反抗すると、自分の非を認めず文句を言うのだ。<br />
　けれどこれ以上言い返すと今日一日の気分が台無しになるので言いかけた言葉を飲み込み口をつぐむ。せっかくのゴールデンウィークなので今日は何とか母の機嫌をとろう。そうしてその分、いっぱい服をねだろう。</p>

<p>□よく見かける光景かも。いろんな思いで電車に乗っているのがわかります。</p>

<p>〈石川舞花〉　　　　　泣きやんだ赤ん坊</p>

<p>よく晴れた土曜日の昼ごろ、電車に乗った。学校帰りの私は、空いている席に腰をおろした。車内は適度に混んでいて、立っている人は少ないが、空席はほとんどなかった。母子が乗ってきた。母親と乳母車に乗せられた赤ん坊だ。私の目の前に座った。母親が席に座り、体の正面に乳母車を停めている。赤ん坊はぐずっていた。なんとか静かにさせようと人形を手にあやしているが、あまり効果はない。すると母親は乳母車を回して向きを変えた。赤ん坊は外が見えるようになり、泣きやんだ。小さな手をしきりにうごかしながら外を見ている。母親は安堵の表情だ。3駅程乗って、母子は降りていった。乳母車を押す若い母親は愛しそうに子どもに微笑みかけていた。</p>

<p>□うるさく思う赤ん坊の泣き声き声も、観察すると面白いですね。</p>

<p>〈矢代羽衣子〉　　　　　　　車窓風景<br />
 <br />
・外は雨。床には泥にまみれた汚れた水たまりができている。むっとするような空気が肌にまとわりついて、皆が皆、つまらなそ うに下を向いてぎゅっと唇を結んでいる。<br />
・よく晴れたあたたかい日。少しだけ開けた窓から涼やかな風が入ってきて、強い日差しにほてった頬を撫でていく。心地良い。流れる風景の中、中学校のグラウンドで野球をしている少年たちが、白球を追いかけていた。<br />
 <br />
□雨の日の車内、車窓の光景。乗っているような気分になります。感覚的でいい。</p>

<p><br />
〈志村成美〉　　　　　　　　　私のお気に入り</p>

<p>　普段使わない線路から、使い慣れた東上線に乗り換えた。ホームに見慣れた車両が入りドアが開く。「おかえりなさい」と言われた気持ちになり、そっと心の中で「ただいま」と呟く。車内の乗客は勿論見知らぬ赤の他人。でも、何故か妙な親近感がある。人と人と之間を抜け空いた席に座る。私は、このミドリのシートがお気に入りだ。他のとは違いフカフカとしていて寝心地が再考なのだ。手のその感触を楽しみ自分の部屋のように心をリラックスさせる。いつもは音楽を聴いて寝てしまうのだけど、今日はこの窓から見えるお馴染の景色と、静かに、ときに荒く揺れる音に身を委ねよう。<br />
　遠くに見えたはずの桜はもうなく、青々と夏に向けて色を濃く変えていった。車内にいた乗客の服装も、あと少ししたら半袖になり、子供たちは肌を真っ黒に焼いてくるのだろう。<br />
「次は○○　――、次は○○――」<br />
　ああ、もう地元の駅についてしまった。ドアは開きホームへと降りる。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．187――――――――　8　――――――――――――――</p>

<p>　今日も明日もその先もこの線路を走り続ける第二故郷（ホーム）に<br />
「いってきます」と誰に聞こえない声で呟いた。</p>

<p>□ホームや駅との会話、郷愁もあって面白いです。</p>

<p>〈根本留加〉　　　　　　　　　車内1カット</p>

<p>通学途中の電車内にて。吊り広告は、西武遊園地のチラシが並ぶ。車内は外よりも蒸し暑い。空席がまばらにあり、そこそこにすいている。目の前には20代と思われる女性が座っていて、スマートフォンを片手に膝には服のブランド名が書かれた袋を置いている。私も持っている袋だ。その隣には難しそうな顔をして本を読む50代の男性。一つ席を空けて2人組の女子高校生が学校の話で盛り上がっていた。</p>

<p>□車内風景の描写。静止画像を切り取ったような一コマにも見えます。</p>

<p>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p>

<p>※擬人化創作、『或る朝』感想など、本号に掲載できなかった課題は次号に掲載します。</p>

<p>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p>

<p>ゼミ日誌</p>

<p>月曜日5時限目の記録　(文ゼミ2教室)</p>

<p>□4月16日　参加8名、ゼミ説明　はじめての試みとして紙芝居風の紹介にした。が、DVDの取扱に戸惑ったりして反応はイマイチだった。伝わっただろうかの懸念。<br />
　しかし、後日、13名の希望カード届く。（1名辞退）<br />
□4月23日　12名、自己紹介、班長・ゼミ誌作成委員選出、司会進行・梅津</p>

<p>出席＝梅津、後藤、鞆津、山野、小妻、小野澤、吉岡、矢代、根本、石川、志村、古谷<br />
読み＝テキスト『菜の花と小娘』、嘉納治五郎「精読と多読」、編集室「読書のススメ」<br />
撮影＝1年間無事の旅を祈願して全員で写真撮影。</p>

<p>読むことの習慣化　→　『菜の花と小娘』<br />
書くこと＝「課題1.愛読書」　→　根本、志村、石川、梅津、山野、古谷<br />
課題2.自分について」　→　根本、志村、石川、梅津、山野、古谷<br />
「課題3.憲法問題」　→　梅津、石川、山野、<br />
　　　　　「課題4.『菜の花と小娘』感想」→　梅津、石川、山野<br />
　　　　　　<br />
□5月7日　5名、届2名　ゼミ合宿の件　課題発表　司会進行・吉岡</p>

<p>出席＝吉岡、根本、石川、志村、古谷　届出＝矢代、鞆津<br />
討議＝ゼミ合宿の有無決め。次ゼミ5・14に持ち越し<br />
発表＝ゼミ通信188号掲載分<br />
読むことの習慣化　→　『ある朝』<br />
書くことの日常化　→　『ある朝』感想　課題９～10</p>

<p>――――――――――――――――――　9　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．189</p>

<p>車内観察の手本　短い車内観察作品だが、時代、夫婦の機微、人間愛など様々なことが含まれている。車内観察のお手本のような佳品である。</p>

<p>　　　　　　　　夫　婦　　　　　　　　　志賀直哉</p>

<p>　函南（かんなみ）の病院に療養中の一番上の娘を見舞った帰り、一ヶ月ぶりで熱海に寄り、廣津君の留守宅を訪ねた。前夜、家内が電話でそれを廣津夫人に通じてあったので、門川（もんがわ）の米山夫人が来て待っていた。しばらくして稲村の田林夫人も来た。いずれも廣津夫人と共に家内の親友で、私にとってはバ（婆）－ルフレンドである。久しぶりでゆっくり話し、8時30何分かの電車で帰る。<br />
　家内は疲れて、前の腰かけでうつらうつらしていた。電車が10時頃横浜にとまった時、派手なアロハを着た25,6の米国人がよく肥った金髪の細君と一緒に乗り込んで来て、私のところから斜向うの席に並んで腰かけた。男の方は眠った2つ位の女の子を横抱きにしていた。両の眼と眉のせまった、受け口の男は口をモグモグさせている。チューインガムを噛んでいるのだ。細君が男に何か云うと、男は頷いて、横抱きにしていた女の子を起こすように抱き変え、その小さな口に指さきを入れ、何かをとろうとした。女の子は眼をつぶったまま、口を一層かたく閉じ、首を振って、指を口に入れさせなかった。今度は細君が同じことをしたが、娘は顔をしかめ、口を開かずに泣くような声を出した。小娘はチューインガムを口に入れたまま眠ってしまったのである。二人はそれからも、かわるがわるとろうとし、仕舞いに細君がようやく小さなチューインガムを摘まみ出すことに成功した。細君は指先の小さなガムの始末にちょっと迷っていたが、黙って男の口へ指をもってゆくと、それを押し込んでしまった。男はよく眠っている小娘をまた横抱きにし、受け口で、前からのガムと一緒にモグモグ、いつまでも噛んでいた。<br />
　私はうちへ帰ってから、家内にこの話をし、10何年か前に同じようなことが自分たちのあいだにあったことを言ったら、家内は完全にそれを忘れていた。家内のは忘れたのではなく、初めからそのことに気がつかずにいたのである。<br />
　その頃、世田谷新町に住んでいて、私と家内と二番目の娘と三人で誰かを訪問するときだった。ちょうど、ひどい降りで、うちから電車まで10分余りの路を濡れて行かねばならず、家内は悪い足袋を穿いて行き、渋谷で穿きかへ、タクシーで行くことにしていた。<br />
　玉電の改札口を出ると、家内は早速、足袋を穿きかえた。其のへんはいつも込合う所で、その中で、ふらつく身体を娘に支えてもらって、穿きかえるので、家内の気持ちは甚だしく忙（せわ）しくなっていた。恐らくそのためだろう、脱いだ足袋を丸めて手に持ち、歩き出したが、私の背後（うしろ）にまわると、黙って私の外套のポケットにその濡れた足袋を押込んだ。（初出は「そのきたない足袋を」）<br />
　日頃、亭主関白で威張っているつもりの私にはこれはまことに意外なことだった。呆れて、私は娘と顔を見合わせたが、家内はそんなことには全然気がつかず、何を急ぐのか、今度は先に立ってハチ公の広場へ出るコンクリートの階段を降りてゆく。私は何となく面白く感じた。ふと夫婦というものを見たような気がしたのである。<br />
（全集第四巻から転載。かな遣い、字体一部修訂）</p>

<p>この作品は、昭和30年（1955年）7月7日「朝日新聞」学芸欄に掲載されたもの。<br />
※熱海の帰りというから東海道線だろうか。横浜から乗り合わせた若い外国人夫婦と子ども。米国人とみたのは、当時の日本の事情からか。昭和28年、自衛隊発足で日本はようやく独立国の体裁を整えたが、内実はまだ米国の占領下であったと想像する。恐らく、兵士の家族か。車内で娘と父親がクチャクチャガムを噛む。当時の日本人はどう思ったのだろう。が、子どもに対する愛情や夫婦の機微は、どこの国の人間も同じ。作家の観察眼は、瞬間に衝撃写真を激写するレンズのように人間の本質をとらえ描いている。編集室<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・189　―――――――　10――――――――――――――――</p>

<p>読むことの習慣化を目指して　テキスト読みは、志賀直哉初期三部作の最後の作品<br />
『網走まで』を読みます。この作品には、多くの謎が秘められています。前後に創作の余地<br />
もあります。そのへんのところを考えながら読んでみましょう。</p>

<p>『小説　網走まで』を読む前に</p>

<p>　『網走まで』を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年（一九一○）当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。旅の目的地にしたのか。疑問に思うところである。そんなところから、作品検証は、まずはじめに題名「網走」から考えてみたい。<br />
　インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。<br />
　例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。（ウィキペディア）<br />
　また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。<br />
•	1872年（明治5年）3月 北見国網走郡の名が与えられる（網走市の開基）。アバシリ村が設置される。 <br />
•	1875年（明治8年） 漢字をあてて、網走村となる。 <br />
•	1890年（明治23年） 釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所（現在の網走刑務所の前身）が開設 <br />
•	1891年（明治24年） 集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通 <br />
•	1902年（明治35年） 網走郡網走村、北見町、勇仁村（いさに）、新栗履村（にくりばけ）を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。 <br />
　明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。明治十二年伊藤博文は、こんな宣言をしている。<br />
「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」<br />
なんとも乱暴が話だが、国策として、この計画はすすめられた。<br />
　そして、明治十二年に最初の囚人が送られた。以後十四、十七年とつづき、網走には明治二十三年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。が、作品が書かれた当時、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って「網走」という駅は、存在していなかったのである。では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。いろんな疑問が湧く。しかし、とにかく、どう読んでも網走駅までの印象は強い。<br />
最初から大きな謎である。が、とにかく読んでみなければ、始まらない。僅か二十枚程度の作品である。（草稿は二十字二十五行で十七枚）が、じっくり読んでください。<br />
　<br />
※作者がこの作品を書いたのは、一九○八年（明治四一年）である。草稿末尾に八月十四日と明記されている。志賀直哉二十五歳のときである。</p>

<p>――――――――――――――――――　11　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．189</p>

<p><br />
ゼミ雑誌作成について</p>

<p>ゼミ誌は、ゼミ一年間の成果の証です。全員で協力して完成させましょう。</p>

<p>ゼミ雑誌作成担当委員　→　後藤啓介さん　　<br />
ゼミ雑誌作成担当委員　→　石川舞花さん　　<br />
　　　　　　ゼミ雑誌作成協力委員　→　ゼミ員全員です</p>

<p>　　　　　ゼミ全体の班長　→　梅津瑞樹さん</p>

<p>ゼミ雑誌作成計画</p>

<p>Ⅰ.申請方法　　5月23日（水）12:20～文芸棟教室1</p>

<p>　ゼミ雑誌作成ガイダンスがあります。担当委員は必ず出席してください。</p>

<p>後藤啓介さん　　　石川舞花さん　です<br />
　　<br />
　　ゼミ雑誌作成の説明を受け、申請書類を受け取って期限までに必ず提出してください。<br />
　　ゼミガイダンス報告は、5月24日のゼミで。</p>

<p>Ⅱ.発行手順　ゼミ雑誌の納付日は、2012年12月7日（金）です。厳守。<br />
　　以下①　～　③の書類を作業に添って提出すること。</p>

<p>【① 	ゼミ雑誌発行申請書】【②見積書】【③請求書】</p>

<p>1.【①ゼミ雑誌発行申請書】所沢／出版編集室に期限までに提出<br />
2.　ゼミで話し合いながら、雑誌の装丁を決めていく。<br />
3.　9月末、ゼミ誌原稿締め切り。<br />
4.　印刷会社を決める。レイアウトや装丁は、相談しながらすすめる。<br />
5.【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。<br />
6.　11月半ばまでに印刷会社に入稿。（芸祭があるので遅れないこと）<br />
7.　雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。<br />
8.　印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。</p>

<p>注意　：　なるべくゼミ誌印刷経験のある会社に依頼。（文芸スタッフに問い合わせ）<br />
　　　　　はじめての会社は、必ず学科スタッフに相談すること。</p>

<p>ゼミ誌原稿は課題から</p>

<p>ゼミ誌掲載の原稿は、授業課題（テキスト感想・車内観察・自分観察・創作）とします。</p>

<p>課題提出のススメ<br />
2012年読書と創作の旅は、どんな旅となるでしょう。原発問題、経済問題など様々な難関があります。私たちにできるのは、森羅万象をしっかり観察し記録することです。この旅を有意義なものにするために、書くことの習慣化を成就させるために、またよいゼミ雑誌を作るためにも課題はきちんと提出しましょう。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・189　―――――――　12――――――――――――――――</p>

<p>掲示板</p>

<p>課題11.　　『網走まで』『夫婦』感想　5・14提出</p>

<p>課題12.　　「振り込め詐欺」はどうしてなくならないか　5・14提出</p>

<p>課題13.　　『網走まで』前後の創作（前後どちらでも）提出は書けたとき<br />
　　　　　　　ゼミ雑誌掲載作品<br />
課題00　　　「車内観察」「自分の一日」　　　常時受付</p>

<p>時間の都合で実施できない場合は、次回に実施します。</p>

<p>お知らせ</p>

<p>ゼミ雑誌ガイダンス　→　5月23日（水）12:20～文芸棟教室<br />
出席者（担当者）　　→　後藤啓介さん　　　石川舞花さん</p>

<p>☆ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」<br />
2012年6月16日（土）池袋勤労福祉会館第7会議室　作品『人妻と寝台の下の夫』<br />
時間　→　午後2時~5時　　　詳細は以下、編集室に</p>

<p></p>

<p>編集室便り</p>

<p>◎	課題原稿、メールでも可　下記アドレス</p>

<p>□住所〒274-0825　船橋市前原西6-1-12-816　下原方<br />
　　メール：　TEL・ＦＡＸ：047-475-1582　 toshihiko@shimohara.net</p>

<p>ゼミ授業評価採点は、以下を基本とします。（4単位）<br />
60点　＝　ゼミ誌掲載　　20点　＝　ゼミ出席日数（20日以上は20）　<br />
15点　＝　提出課題（提出課題10で1点）　1～5点　＝　α<br />
60＋20＋15＋5　＝　100（100点～以上は100とします）</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>文芸研究Ⅱ　　　2012年読書と創作の旅・下原ゼミ　５・１４配布</p>

<p>書くことの習慣化・日常化を目指して<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
名前</p>

<p>課題11.テキスト『網走まで』『夫婦』感想</p>

<p>テキスト『網走まで』　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p><br />
テキスト『夫婦』</p>

<p></p>

<p>――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p>文芸研究Ⅱ　　　2012年読書と創作の旅・下原ゼミ　5・14配布</p>

<p>書くことの習慣化・日常化を目指して<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
名前</p>

<p>課題12.【車窓観察】振り込め詐欺はなぜなくならないか</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>――――――――――――――――――――――――――――――<br />
課題13.『網走まで』前後の創作</p>

<p>列車乗車までの母子の生活。網走での生活。どちらでも、両方でもかまいません。</p>

<p>※提出は書けた時。掲載順に発表と合評<br />
文芸研究下原ゼミ　提出随時　５・１４配布</p>

<p>名前</p>

<p>課題14.「車内観察」「自分の一日」</p>

<p>現在を観察すれば。未来がみえる。時代がわかる。</p>

<p>――――――――――――――――――――――――――――――<br />
車内観察</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――――――――――――――<br />
「自分の一日の記録」</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
〈矢代羽衣子〉<br />
ある晴れた初夏の昼下がり。一人の赤毛の少女が、大きなリンゴの木を見上げて途方に暮れていました。あまりに長い間少女がそうしているので、それまで黙って見守っていたリンゴの木が、いよいよそうっと少女に話しかけました。<br />
「そこの赤毛のおじょうさん、そんなに高くを見つめてどうなさったの？　首が痛くなってしまうわ」<br />
「お気に入りの麦わらぼうしが　風にさらわれて枝に引っかかってしまったの」<br />
　急にリンゴの木に話しかけられて目をまあるくした少女は、やがて困ったような笑顔ではにかんでそう言いました。<br />
　リンゴの木が自分の髪を見てみると、なるほど、てっぺんのほうの枝に、青いリボンの麦わらぼうしが引っかかっています。そういえば、今日は若い風がいたずらに外を駆け回っては、子供の風船を飛ばしたり、ご婦人の髪をぐちゃぐちゃにかき乱したりしていました。<br />
「まあ、まあ。風の子にも困ったものね。いま取ってさしあげるわ」<br />
　リンゴの木はいっしょうけんめい体を揺らそうとしますが、地面にしっかり根が張っていて枝はびくとも動きません。それを笑うように風の子が葉っぱをそよそよと優しく揺らします。<br />
リンゴの木と少女はすっかり困り果てていると、てんとう虫の紳士がぶーんと飛んできました。<br />
「お二人とも、そんなに困ってどうなされました？」<br />
　てんとう虫は立派なシルクハットをちょこんと上げてあいさつをすると、二人にそう尋ねました。二人が事情を話すと、てんとう虫は恭しくうなずきました。<br />
「それは困りましたね。どれ、私が取ってさしあげましょう」<br />
　そう言っててんとう虫は高く高く飛んでいき、あっという間にぼうのところまで到着しました。しかし、てんとう虫には少女のぼうしは重すぎて、持ちあげられません。<br />
「ううむ、まいったなあ」<br />
　てんとう虫は困ってしまいました。彼が自慢のひげを伸ばして思案していると、ちょっとそこの旦那、と声をかけられました。どうやら葉っぱにくるまって昼寝をしていたリスが目を覚まてしまったようです。<br />
　リスは眠そうな目をこすって、不機嫌そうな声で言いました。<br />
「なんだいさっきから騒がしいな。ゆっくりお昼寝もできないじゃないか」<br />
「これはこれは、申し訳ない。実はあそこの木の下で困っているお嬢さんのぼうしを取ってあげたいのだが、私では重くて持ちあげられないのさ」<br />
　てんとう虫の言葉に、リスはほう、と頷きました。<br />
「なるほど、それは大変だ。仕方ねえ、おれが取ってやるよ」<br />
　リスはふわふわのしっぽをピン！　と伸ばして気合を入れると、ぼうしを枝から取ってそのままするすると木をすべり降りてぼうしを少女に手渡してやりました。まあ、と嬉しそうな声をあげた少女の笑顔に、リスも得意そうです。<br />
「ありがとう、リスさん」<br />
「おれは木登りが得意なんだ。どうってことないさ」<br />
　ふふんと鼻をならしたリスに、少女とリンゴの木とてんとう虫は顔を見合わせてくすりと笑いました。<br />
　少女が嬉しそうにぼうしをかぶります。青いリボンは、少女の赤毛にとてもよく映えました。<br />
「みなさん、本当にありがとう。よかったら、お礼においしい紅茶とお菓子はいかが？」<br />
　少女の提案に、みんなは口々にそれはいいね、と言って喜びました。少女がにっこり笑います。<br />
　<br />
ある晴れた初夏の昼下がり。ティータイムはまだ、始まったばかりです。</p>

<p></p>

<p></p>

<p>課題７．車内観察<br />
　</p>

<p></p>

<p></p>

<p>志賀直哉について＆処女作「菜の花と小娘」読みと書き（加筆4／22）</p>

<p>　※志賀直哉1883年（明治16年）2月20日～1971年（昭和４６年）10月21日没88歳</p>

<p>志賀直哉について<br />
土壌館・編集室<br />
　<br />
　</p>

<p>――――――――――――――――――――――――――――――<br />
備考</p>

<p>見、エッセイふうで、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。この作品は完全なる創作である。志賀は、創作余談においてこの作品は、「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」と明かしている。そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃（一六二五年）開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたというわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発　夜行列車降りたときから　青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ「青森まで｣ではなく、「網走まで｣なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。歌手北島三郎が歌う「はーるばる来たぜ函館！」は演歌の真髄だ。他にも函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館（箱館）といえば、あの新撰組副長土方歳三（35）が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚（34）北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、それなりに高かったのではと想像する。<br />
　しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年（明治九年）あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。<br />
　しかし、四十一年後、一九五一年（昭和二六年）六八歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、深い思い込んみでもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>文芸研究Ⅲ　下原ゼミ通信 熊谷元一研究No.2</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.shimohara.net/archives/2012/05/-no2.html" />
    <id>tag:www.shimohara.net,2012://1.178</id>

    <published>2012-05-07T08:49:26Z</published>
    <updated>2012-05-07T08:51:28Z</updated>

    <summary>日本大学芸術学部文芸学科文芸研究Ⅲ下原ゼミ　2012年4月23日発行 文芸研究Ⅲ...</summary>
    <author>
        <name>下原敏彦</name>
        
    </author>
    
        <category term="下原ゼミ通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.shimohara.net/">
        <![CDATA[<p>日本大学芸術学部文芸学科文芸研究Ⅲ下原ゼミ　2012年4月23日発行</p>

<p>文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信　Ｎｏ．2<br />
ＢＵＮＧＥＩＫＥＮＫＹＵ　Ⅲ　ＳＨＩＭＯＨＡＲＡＺＥＭＩ　ＴＳＵＳＨＩＮ<br />
熊谷元一研究<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　編集発行人　下原敏彦<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
4／13　4／20　4／27　5/11　5／18　5／25　6／1　6／8　6／15　6／22　6／29　7／6　7／20　(ゼミ4教室)<br />
　　<br />
観察から記録、そして普遍へ</p>

<p>4・27ゼミは以下の要領に添って行います。（ゼミ4教室）<br />
　<br />
1.自己・テキスト紹介　ゼミ誌について</p>

<p>2.熊谷元一研究について　　ゼミ授業について</p>

<p>3.観察　→　『一年生』、『我が名はアラム』の観察と読み</p>

<p>4. 記録　→　写真評、朗読感想を書く</p>

<p><br />
熊谷元一研究の意義について</p>

<p>下原ゼミは、シラバスにも寄せたように、熊谷元一研究を主流として自分の子ども時代の思い出を物語っていきます。なぜ子ども時代か。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のなかで主人公のアリョーシャは諭します。どんなに辛い人生であっても、一つでも楽しい思い出があれば人は救われる、と。熊谷の撮った写真の大半は貧しい山村の人々の生活です。岩波写真文庫『農村の婦人』もその一つです。しかし、そうした写真のなかにある子どもたちの姿は、活き活きしています。時代の違いから服装も遊びも違うが、なぜか懐かしく心癒されます。原発問題で、文明の行き詰まりのなかにある現代。熊谷の写真は、生活の原点を教えてくれている。子どもたちには物に頼らない遊びがあった。熊谷の写真と童画を見ながら、自分の子ども時代を振り返り、楽しかった思い出を物語ってほしいと思います。</p>

<p>熊谷元一研究の目標</p>

<p>1.写真家・熊谷からは、写真の中にある懐かしさと癒しを自分の子ども時代に繋げる。<br />
2.童画家・熊谷からは、子供の遊びなどを伝承する。3・11の災害で多くの人たちが避難所生活を余儀なくされた。半年後の救援物資が一段落したあと、いま一番欲しいものはと聞いたら「ゲームの玩具」と答えた人が多かったという。写真の子どもたちは、ゲームでは遊んでいない。自分たちが創意工夫した遊びで遊んでいる。ゲームがなくても遊べるようにしたいものである。そのためには熊谷が描き遺した童画から遊びを伝承しなければならない。<br />
3.教師・熊谷からは、黒板絵、動線、郊外学習など創意工夫の実践教育を学ぶ。ゆとり教育は、多くの格差を生んだ。混迷する日本の学校教育。民主主義草創期の熊谷の教育。今一度原点に帰って考えよう。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.12　―――――――　2　―――――――――――――――――</p>

<p><br />
4・20ゼミ報告<br />
自己紹介と授業説明　</p>

<p>熊谷元一研究には最適な人数、希望カード2名</p>

<p>　4・20ゼミは、講師・受講生の自己紹介と授業説明を行った。現在のところ希望カードの提出は2名。少ない人数ですが、熊谷元一研究を進めるには、最適な人数といえます。<br />
　3-4年と旅する同行者は、次の皆さんです。<br />
☆大野　純弥さん（おおの　じゅんや　さん）<br />
「城ノ崎での経験を活かして文芸創作に力を注ぎたいと思います」<br />
　1913年8月15日夜、車内観察作品『出来事』を書き終えた志賀直哉（30）は、散歩中山の手電車にはねられた。が、九死に一生を得た。ケガ治療のため温泉きた直哉は、そこで小さな生き物たちの死を見て「いのち」を考え自分と向かい合う。短編で創作とも思えぬ作品だが、日本文学の名作(心境小説)としてなっている。観察から普遍へを実証する手本作品。何事も焦らずしっかり観察しながら行きましょう。<br />
☆岩澤　龍　さん（いわさわ　りゅう　さん）<br />
　「写真的側面から文学を学んでみたい。創作意欲あります」<br />
　写真は、一瞬の時間の風景だが、観察すればいろんな物語を想像できる。記録すれば、それはそのまま長編の物語になります。熊谷元一の写真に創作テーマを探しましょう。</p>

<p>写真家・熊谷元一について</p>

<p>　1955年9月16日、日本中の写真家、写真ファンは固唾をのんで見守った。「第一回毎日写真賞」が決定されたのである。戦前戦後を通じ、写真作品の位置づけを写真賞として表すのは、この毎日写真賞が恐らく最初だったのでは。それだけに受賞作品の選出は、これまでになく厳選だった。対象作品は、1954年4月1日～55年3月31日までの1年間に刊行もしくは展覧会で発表された写真。個の中から写真関係者や推薦アンケート、識者が82点を選りすぐった。その写真を「第一回毎日写真賞候補作品展」で一般公開し、45人の選考委員と関西6人から投票を募り14点の写真候補にしぼった。<br />
　もっとも厳選は厳選ではあったが、大方の写真家、写真ファンには、予想がついていた。時代の先端をゆく錚々たるメンバーが、すでに候補として通貨していたからである。<br />
土門　拳、木村伊兵衛、林　忠彦といった今をときめく有名写真家たちだった。誰もが、この3人のうちの誰かと思った。としても、想像に難くない。<br />
だがしかし、すべての予想に反して受賞者は、熊谷元一（46）だった。アマチュア・カメラマン。そして一小学校教師だった。作品は『一年生』だった。</p>

<p>熊谷元一は無名の新人か　?!</p>

<p> 誰もが驚いた第一回毎日写真賞受賞者。だがしかし、熊谷は、本当に無名だったのか。否、熊谷元一の名は、既に多くの写真家にとって忘れ難い名前として刻まれていたのである。写真家と名乗る以上、熊谷を知らなければモグリといえる。</p>

<p>1938年、朝日新聞社刊行『會地村』写真先進国ドイツでも絶賛</p>

<p>　17年前になる。1937年（昭和12年）に写真雑誌『アサヒカメラ』に載った写真が評価され、翌年1938年（昭和13年）に朝日新聞社から『會地村　一農村の写真記録』が刊行される。故郷の山村を撮った写真である。写真を高く評価していた朝日新聞は、序文を当時<br />
――――――――――――――――　3　――――――――　文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.12</p>

<p>の農林大臣・有馬頼寧に依頼し、「アサヒカメラ」に1頁の広告も載せた。昭和14年4月号けいさいの広告文の一節はこのようであった。<br />
（矢野敬一著『写真家・熊谷元一とメディアの時代』から）<br />
「本書は、今までにないカメラによる総合的な農村生活の報告書でありその一枚一枚の写真にも、一行の文字にも生まれ育った村に対する著者の心情が滲み出ている」とカメラ愛好者にアピールしている。<br />
　時代は日中戦争が進むなかだったが、この写真集は、高く評価され、写真先進国ドイツにまで逆輸出するまでに至った。熊谷元一は、まだ三十前であった。が、写真家として高く評価されていた。拓務省の写真班嘱託となる。<br />
　以上、熊谷元一を簡単に紹介してきたが、</p>

<p>テキストについて<br />
熊谷元一研究</p>

<p>岩波写真文庫『一年生　ある小学校教師の記録』1955刊行</p>

<p>撮影月日　1953年4月1日　～　1954年3月31日までの記録</p>

<p>撮影場所　長野県下伊那郡会地村（現・阿智村）会地小学校（現・阿智第一小）<br />
　　　　　校庭、教室、通学路、裏山、児童家庭<br />
撮影対象　1953年（昭和28年）会地村立会地小学校一年東・西組60名児童</p>

<p>撮影者　　会地村小学校一年東組担任・熊谷元一（44）1909-2010</p>

<p>※自分の村を撮った熊谷の写真は、『かいこの村』『農村の婦人』『写しつづけて70年』など多様だが、今回は、ゼミ生の人数の問題もあり『一年生』のみにした。</p>

<p>子ども時代の作品</p>

<p>ウイリアム・サローヤン『我が名はアラム』三浦朱門訳</p>

<p>作者　サローヤン　米国に住むアルメニア人　(1908～1981)</p>

<p>内容　子ども時代の創作の短編集</p>

<p>舞台　カリフォルニア州の農業地帯フレスノ</p>

<p>※米国の青春文学を代表する作品といえばサリンジャー（1919-2010）の『ライ麦畑で捕まえて』が有名だが、サローヤンの『空中ブランコに乗った大胆な若者』も捨てがたい。<br />
　なぜこの作家の作品を、（本当は難しいが）すぐに真似できそうな気がする文章だから。</p>

<p>　全くの偶然だが、（こじつけでもあるが）テキストの熊谷元一とサローヤンは、多くの点で似通っている。まず同時代である。生まれも農場地帯と山村。子ども時代を小説作品にしたサローヤン。教え子の子どもたちを被写体にした熊谷。そして、写真家・童画家への道が開かれていたにもかかわらず生涯一小学教師で過ごした熊谷。「商業主義は芸術を披護する資格がない」との理由でピューリッツァー賞を辞退し、我が道を歩んだサローヤン。二人の作品に感じる子どもたちの共通侯は、まったく違う環境だが普遍。<br />
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.12　―――――――　4　―――――――――――――――――</p>

<p>ゼミ誌について</p>

<p>ゼミ誌編集委員は大野さんと岩澤さんで</p>

<p>　毎年、ゼミ誌編集委員を選出するのには、苦労します。が、ことしは、それがないようです。人数から自然、大野さん・岩澤さんに決定しました。よろしくお願いします。日程は次のようになっています。</p>

<p>ゼミ誌作成ガイダンス　5月24日（木）12:2～　江古田校舎W301教室</p>

<p>※必ず、出席してください。<br />
ゼミ雑誌内容</p>

<p>『熊谷元一研究』の構成</p>

<p>■「一年生」の写真評・現在との比較（『一年生』の写真使用）　<br />
■　サローヤン作品感想（朗読してみて自分が気に入った作品）<br />
■　「私が子どもだった頃」として、自分の子ども時代（創作、エッセイ、記録、文集）</p>

<p>掲示板</p>

<p>『我が名はアラム』から「美しい白馬の夏」を朗読します。</p>

<p>ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」のお知らせ</p>

<p>月　日　:　4月28日（土）<br />
時　間　: 　開場１時30分　はじまりは2時～<br />
会　場　: 　豊島区立勤労福祉会館第7会議室（6階）<br />
作　品 :　　「正直な泥棒」</p>

<p>―――――――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p>編集室便り</p>

<p>①	課題原稿、メールでも可　下記アドレス</p>

<p>1.	住所〒274-0825　船橋市前原西6-1-12-816　下原方<br />
　　メール：　TEL・ＦＡＸ：047-475-1582　 toshihiko@shimohara.net</p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
文芸研究Ⅲ下原ゼミ「熊谷元一研究」　　　　　　　　　　　　2012・4・27　　　</p>

<p>課題1.『一年生』を読む　　　　　　　名前</p>

<p>写真は1953年4月1日撮影のものです。49年前の小学一年生です。どんなことでも構いません。この1枚の写真で感じたこと気がついたことを書いてください。</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>写真感想</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>写真を見て、自分の入学したときのことを思い出して書いてください。</p>

<p>自分が入学したときのこと</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
課題2.　名作読み　　　　　　　　　名前</p>

<p>「美しい白馬の夏」の朗読感想</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>文芸研究Ⅱ　下原ゼミ通信No.188-2</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.shimohara.net/archives/2012/05/no188-2.html" />
    <id>tag:www.shimohara.net,2012://1.177</id>

    <published>2012-05-07T08:42:45Z</published>
    <updated>2012-05-07T08:48:26Z</updated>

    <summary>日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2012年（平成24年）5月7日発行 文芸研究...</summary>
    <author>
        <name>下原敏彦</name>
        
    </author>
    
        <category term="下原ゼミ通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.shimohara.net/">
        <![CDATA[<p>日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2012年（平成24年）5月7日発行</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．188<br />
ＢＵＮＧＥＩＫＥＮＫＹＵ　Ⅱ　ＳＨＩＭＯＨＡＲＡＺＥＭＩ　ＴＳＵＳＨＩＮ<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　編集発行人　下原敏彦<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
4／16　4／23　5／7　5/14　5／21　5／28　6／4　6／11　6／18　6／25　7／2　7／23<br />
　　<br />
2012年、読書と創作の旅</p>

<p>5・7下原ゼミ</p>

<p>5月7日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室</p>

<p>1．	 出欠、4・23ゼミ報告・【車窓】憲法問題</p>

<p>2.	　提出課題1～4の発表・感想・議論　　　</p>

<p>3.	　読むこと　→　『或る朝』（一日）『網走まで』（車内観察）</p>

<p>4.	　書くこと　→　「連休中の自分」「車内」「相談」　</p>

<p>4・23ゼミ報告12名の参加者　</p>

<p>　「2012年読書と創作の旅」への参加希望者は、4月23日現在12名でした。この日全員無事の旅を祈願して写真を撮りました。（2012・4・23撮影）</p>]]>
        <![CDATA[<p> <br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ.188――――――――　2　―――――――――――――</p>

<p>2012年読書と創作の旅<br />
自他共栄精神で</p>

<p>　平成24年度、一緒に旅する皆さんとゼミへの心意気です。協力し合って楽しい旅にしましょう。「自他共栄」精神でゼミ誌づくりを。全員が編集委員の気持ちで。以下は、皆さんの紹介です。（ゼミ役目と「ゼミ希望カード」からの抜粋）順不同・敬称略<br />
　※【自他共栄】嘉納治五郎の理念。自分だけではなく皆もよくなることを目指す。明治初年の混乱期、富める者はより富、貧しきものは、より貧しくなった時代。競争主義一辺倒の弱肉強食の世界にあって教育者・嘉納治五郎は、この精神の必要を説いた。</p>

<p>ゼミの班長は・梅津瑞樹さん<br />
ゼミ雑誌作成委員は・後藤啓介さん・石川舞花さん<br />
　　　ゼミ雑誌作成補助委員は、全員です。小野澤さん・矢代さん・鞆津さん・山野さん<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　・小妻さん・吉岡さん・根本さん・志村さん・古谷さん</p>

<p>☆梅津瑞樹（うめつみずき）班長を務めます。班長は、船でいえば船長の役目です。皆への連絡とまとめをはじめ、ゼミ誌作成に関する総轄、ゼミ合宿申請などです。<br />
「志賀直哉作品の脚本化、模擬裁判。『観察』という点に創作をおいての重きを置くスタイルが自分に合っている、と思ったことで選択しました。」<br />
■ゼミのまとめ、よろしくお願いします。志賀直哉を学びながら成長できたらいいですね。</p>

<p>☆後藤啓介（ごとうけいすけ）ゼミ雑誌作成委員を務めます。ゼミの皆と協力してゼミ雑誌作成作業をすすめます。印刷会社との交渉があります。<br />
「芸術は一種の虚構だと思います。街を描こうが、人を描こうが、季節を描こうが全部虚です。創られた世界だと思います。でも、その虚をどれだけ真実味を帯びさせるかで作品のグレードが上がると思います。そのために今の自分に必要なのは観察を表現にスライドさせることです。見たもの、感じたもの、考えたものを文字に移行させることに関し、自分の力不足だと痛感しています。このゼミで勉強して、その力を身につけます」<br />
■ゼミ誌編集委員、ご苦労様です。皆さんと協力して2年の記念になる雑誌を。</p>

<p>☆石川舞花（いしかわまいか）ゼミ雑誌作成委員を務めます。編集出版局との連絡など。<br />
「ふれたことのない文章にふれて、幅を広げたいと思います。直感・感覚で生きているので客観的な見方を身につけることが必要と思いました」趣味は、読書と観劇。<br />
■演劇学科からの転科でわからないところが多々あると思います。皆さんと協力して編集指導に当たってください。必ず、よい経験になるはずです。</p>

<p>☆小野澤茉保（おのざわまほ）ゼミ雑誌作成委員補助。編集作業。<br />
「車内観察という言葉に惹かれました。自分の日常生活を文にすることがあまりないため挑戦してみたいと思いました。また社会学的な授業もあるようなので希望しました。」<br />
好きな作家は、川端康成、太宰治、谷崎潤一郎、江戸川乱歩、夢野久作。<br />
■退屈な車内でも想像や空想があれば楽しいものになります。ぜひ挑戦してください。</p>

<p>☆矢代羽衣子（やしろういこ）ゼミ雑誌作成委員補助。編集作業。<br />
「今まで創作しかしてこなかったので新しいジャンルにも挑戦しようと思った。2年のゼミで少し視野を広げてみたい。」と希望した。また、自分の1日などを書くことで日々の生活の物事に対する完成を磨けたらと思います。読書は習慣的になっています。」<br />
■新しいジャンルや視野の広がりから、将来の目標が見えてくればいいですね。<br />
――――――――――――――――――　3　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．188</p>

<p>☆山野詩門（やまのしもん）ゼミ雑誌作成委員補助。編集作業。<br />
「『個人の完成』というテーマに強く魅力を感じた。志賀直哉について知りたいと思った。『個人の完成』を目指して頑張ります!!」<br />
■個人の完成を目標とする心意気、すばらしいですね。</p>

<p>☆小妻泰宗（こづまたいしゅう）ゼミ雑誌作成委員補助。編集作業。<br />
「志賀直哉が好きで、下原ゼミなら志賀直哉作品への理解を深めることができるのではない<br />
■車内観察の後、生き物観察へ行けたら。</p>

<p>☆吉岡未歩（よしおかみほ）ゼミ雑誌作成委員補助。編集作業に協力。<br />
「私はエッセイを書きたいと思っています。このゼミが一番近いと思ったので希望しました。日常的に自分が見た、聞いた、感心したものを、いかに読み手に興味を抱いてもらえるように書くかを勉強したいです。車内観察などをしっかり書いて力をつけたいと思います。これまでの自分の作品は『音から感じた表現が多い』と評されたので、この特長をこれからの作品づくりに生かしていきたいと思う。他人が読んだ時、感心してもらえるような作品を書きたいと思います。」<br />
■「音から感じた表現」どのような表現に...興味あります。</p>

<p>☆鞆津正紀（ともつまさのり）ゼミ雑誌作成委員補助。編集作業。<br />
「ゼミガイダンスで配布された資料が見やすかった。一年を通じて少しでも文章を上手に出来ればと思います。目標は、写実的、あるいは空気感感触の伝わる風景表現です。」<br />
■何事も最初は模倣からです。志賀直哉の作品から学びましょう。</p>

<p>☆志村成美（しむらなるみ）ゼミ雑誌作成委員補助。編集作業。<br />
「志賀直哉は、まだ読んでいません。過去の有名な作品は難しいこと、多くの解釈があり、普通に読んでも分からないことが沢山あるので、なかなか手に取りずらいところがあります。このゼミは、作品をより楽しく読んでその世界に入れると思い希望しました。未熟ですが創作することは好きです。」<br />
■名作は一生ものです。どんどん読んでみましょう。</p>

<p>☆古谷麻衣（ふるやまい）ゼミ雑誌作成委員補助。編集作業。<br />
「書くことに関しては少し足りていないので、このゼミで『読むこと』を習慣化していきたいと思います。字のキレイさには自信あります。」<br />
■悪筆なので羨ましいですね。</p>

<p>☆根本留加（ねもとるか）ゼミ雑誌作成委員補助。編集作業。<br />
「私は熱血漫画根性会に所属していて、よく漫画を描きます。小説でも漫画でも大切なのは人間くささにあると思っています。どちらも現実にないものを表現できるものなので、どんな人間も書けます。読書を引き込むには登場人物に共感できるところ、つまり人間くささが必要だと思います。そのためよく人間観察するのですが、講座内容一覧で車内観察に興未を持ち希望しました。1年のゼミ誌で、表紙を担当しました。が、出来上がったゼミ誌を見て改善するところが何ヶ所も見つかりました。今年は、昨年の反省を活かし納得のいくゼミ誌を作りたいと思います。」<br />
■頼もしい限りですね!!　皆さんと協力してよいゼミ誌を作ってください。</p>

<p>「皆さんのゼミ選択の理由、動機。よく知ることができました。皆さん一人一人の意気込みうれしく思います。何事も継続と持続が一番難しいところです。この気持ち忘れず、2012年の旅を完走して、書くこと、読むことの目標、達成させましょう。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．188――――――――　4　――――――――――――――</p>

<p>課題発表</p>

<p>　4・23ゼミでは時間がなくなり「書くこと」の課題提出が間に合わず持ち帰りの人がでてしまいました。故にこの報告は、23日提出文の課題です。本日提出文は次号189です。<br />
（課題は全てゼミ誌掲載候補となるので必ず提出してください。遅れてもいいです）</p>

<p>課題1.　愛読書を書いて下さい。（映画・演劇）</p>

<p>根本留加</p>

<p>1.『マリアビートル』伊坂幸太郎の作品。グラスホッパーへの続編<br />
２.『素晴らしき哉、人生』1964年のアメリカ映画<br />
3.『Colorful』森　絵都の作品、映画化もされた。<br />
４.『半落ち』横山秀夫の警察小説</p>

<p>課題2.　私とは何!?　（こんな本を読む自分について）</p>

<p>　熱血漫画根性会所属。海外旅行に行ってみたい。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p>山野詩門</p>

<p>1.『ブラックホークダウン』映画　男たちの熱い友情<br />
2.『砂漠』伊坂幸太郎の作品、大学生の話</p>

<p>課題2.　私とは何!?　（こんな本を読む自分について）</p>

<p>　マジック研究会に所属しています。寝ることか趣味です。寝てくらしたいです。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p>志村成美</p>

<p>1.『植物図鑑』有川浩の作品、土手の草が食べたくなる。<br />
2.『夏の花火と私の死体』乙一の処女作。死んだ「私」が主人公。<br />
3.『西の魔女が死んだ』田舎暮らしをしたくなる。<br />
4.『私の優しくない先輩』こんな青春、私もしたかった。<br />
5.『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』桜庭一樹の作品。ある日、「人魚」と会った。</p>

<p>課題2.　私とは何!?　（こんな本を読む自分について）</p>

<p>　熱血漫画根性会所属。寝ることと絵を描くことが好きです。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p>古谷麻衣</p>

<p>1.『四畳半神話大系』著・森見登美彦。さえない大学生「私」の不毛で奇妙な大学生活を描いた作品。オチは圧巻。<br />
2.『謎解きはディナーのあとで』著・東川篤哉。ドラマ化もされたが原作はドラマよりコミカルさが薄い。しかし、面白い。<br />
――――――――――――――――――　5　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．188</p>

<p>3.『図書館戦争』著・有川浩。文芸学科生には是非読んで頂きたい。今年6月映画公開予定。<br />
4.『塩の街』著・有川浩。SF的世界だが、妙にリアリティがある。泣ける。<br />
5.『蹴りたい背中』著・綿矢りさ。主人公に共感はできないが、ふと手に取ってしまう作品。</p>

<p>課題2.　私とは何!?　（こんな本を読む自分について）</p>

<p>　サークルは無所属です。書店でアルバイトしています。が、最近はほとんど学校と寝るだけの毎日です。勿体ないです。将来の夢はまだ分かりませんが、自分の興味ある分野で働けたらいいなあと思います。趣味はイラスト描きとゲームです。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p>梅津瑞樹</p>

<p>1.『流刑地にて』カフカの短編小説<br />
2.『未来世紀ブラジル』テリー・ギリアム監督のSF1985年情報統制された未来の社会。</p>

<p>課題2.　私とは何!?　（こんな本を読む自分について）</p>

<p>　手探りでも自分の研究したいこと勉強したいことを見つけたい。最近、古神道におけるアニミニズムとシャーマニズムに興未をひかれる。<br />
※アニミニズム＝世界のすべての事物に霊魂や精神が宿ると信じる精神状態。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p>石川舞花</p>

<p>1.『女の幸福』平岩弓枝。女性を巧みに描いた本。平岩弓枝はおススメです。<br />
2.『ああ言えばこう食う』阿川佐和子・壇ふみ。往復エッセイという面白い形態。かなり笑えます。<br />
3.『花埋み』渡辺淳一。初期の渡辺淳一作品。<br />
4.『恍惚の人』有吉佐和子。高齢社会について考えさせられます。<br />
5.『源氏物語』言わずと知れた古典の名作。</p>

<p>課題2.　私とは何!?　（こんな本を読む自分について）</p>

<p>　演劇学科劇作コースから転科してきました。他人とのコミュニケーションが苦手なので、ゼミ誌の委員は非常に不安です。趣味は読書と観劇です。変化を好まないので日々淡々と生活しています。物を書く人になりたいです。<br />
※クジ運皮肉ですが、人より勉強ができる、とプラスに考えましょう。皆さんも協力してくれます。班長の梅津さん同じ委員の後藤さんも、頼りになると思います。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p>新聞　2012年4月29日（日）読売新聞「よみうり堂から」より<br />
東京大学出版会のPR誌『UP』の恒例企画<br />
東大教師が新入生にすすめる本（1988～2012年24年間のデーター集計）<br />
綜合1位　『カラマーゾフの兄弟』『資本論』『定本　解析概論』</p>

<p>リスト内にはこんな本も　<br />
池波正太郎『剣客商売』、藤沢周平『蝉しぐれ』、吉村昭『破獄』、井上ひさし『吉里吉里人』</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．188――――――――　6　――――――――――――――</p>

<p>課題3.日本国憲法について　第九条の問題を考える</p>

<p>【現行憲法　前文】<br />
　日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれら子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に在することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われわれはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。<br />
　日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。<br />
　われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであ<br />
って、政治道徳の法則は、、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。<br />
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。</p>

<p>現行憲法・第二章【戦争の放棄】<br />
　<br />
第九条　①　日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、武力によ<br />
　　　　　　　る威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを<br />
　　　　　　　放棄する。<br />
　　　　　②　前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国<br />
　　　　　　　の交戦権は、これを認めない。</p>

<p>I・M </p>

<p>改正に反対　　　改正に賛成　　　分からない</p>

<p>　北朝鮮のミサイル問題などがある中で、今の自衛隊だけでは不十分だと思うから。戦争には反対だが、今の制度では時刻を守るのに十分だとは言えないと思う。</p>

<p>――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p>U・M</p>

<p>改正に反対　　　改正に賛成　　　分からない</p>

<p>国際的安全性を維持するなら改正すべきかも知れないが、果たして改正したところで本当に安全でいられるのか、僕にはわからないから。</p>

<p>――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p>――――――――――――――――――　7　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．188</p>

<p>Y・S </p>

<p>改正に反対　　　改正に賛成　　　分からない</p>

<p>　正直、自分はまだ完全に第9条について深く理解していないので、もう少し勉強が必要だと思う。</p>

<p>――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p>検索　現在、日本の自衛隊の戦力はどうなっているのか</p>

<p>年間の予算総額は、4兆7千億円　世界7位　(一位アメリカ、二位中国、三位イギリス、<br />
四位フランス、五位ロシア、六位ドイツ)</p>

<p>兵力24万人（陸・15万2千人、海・4万5千人、空・4万7千人）</p>

<p>新聞　朝日新聞　2012年（平成24年）5月3日　木曜日　国際</p>

<p>日本国憲法今も最先端　米法学者ら　188カ国を分析</p>

<p>最古の米国　時代遅れに</p>

<p>　日本の憲法は3日、「65歳」になるが、世界の最新版と比べてもそん色がない。</p>

<p>（詳細はコピー参照）</p>

<p>新聞　朝日新聞・読売新聞の社説　「憲法記念日」</p>

<p>読売　→　「改正論議で国家観が問われる」高まる緊急事態法制の必要性</p>

<p>朝日　→　「われらの子孫のために」</p>

<p>関係小説　H・G・ウェルズ『解放された世界』1914年に書いた。(岩波文庫)<br />
　SF作家ウェルズが、戦争を根絶しようと活動したことや、日本国憲法の原点いわれる「人権宣言」など新世界秩序づくりに奔走したことはあまり知られていない。<br />
　この小説で、ウェルズは原子爆弾が戦争で使われることを心配した。戦争をやれば人間は必ず原子爆弾を使う。だから、絶対に戦争は放棄すべきだと説く。<br />
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />
　<br />
日本国憲法は、1947年5月3日に施行された。<br />
　<br />
が、半年前1946年11月3日公布されたとき作家の石川達三は朝日新聞にこんなコメントを寄せている。<br />
「今度できた憲法というのは現実の日本社会より先に進んでいるように思われる。現実にはこれだけ許された自由も実際には運営し得ないような、却って憲法のほうが明らかに先に進んでいると思う。ある時期にこの憲法に追いつきそれから先は世の中が進んでいった時に改めて憲法を改正しなければならない。」</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．188――――――――　8　――――――――――――――</p>

<p>課題4.　『菜の花と小娘』の感想&評<br />
　<br />
☆志賀直哉1883年（明治16年）2月20日～1971年（昭和４６年）10月21日没88歳</p>

<p>志賀直哉は、なぜ「小説の神様」といわれるのか。この謎に挑戦するために、まず処女作三部作を読んでみます。三部作というのは、『菜の花と小娘』『或る朝』『網走まで』です。これらの作品は明治37年（1904）～41年（1908）の頃に書かれました。21～25歳<br />
『菜の花』は菜の花観察から、擬人化方法でアンデルセンを真似て書いたもの。明治37年5月5日の日記に「作文は菜の花をあんでるせん張りに書く」とある。<br />
ちなみに『或る朝』は、作者の幼い頃の或る朝の祖母とのやりとりを描いたもの。『網走』は車内観察。いずれも物語とも思えない短い作品です。いずれもゼミの皆さんと同年齢の頃書いたものです。それだけに作者の心情はより汲み取れるかと思います。このなかで、『菜の花と小娘』は、日本文学において広く愛されている名作です。</p>

<p>■明治38年（1905）夏目漱石『吾輩は猫である』を発表。</p>

<p>石川舞花　　　　　　　菜の花の気持ちの描写が面白い</p>

<p>　菜の花を擬人化していて可愛らしい作品だった。菜の花の気持ちの描写が面白いと思った。植物を大切にしなければならないというメッセージも含まれているのかもしれないと感じた。小娘のキャラクターがよかった。優しい部分と悪戯っ子なイメージが同居していて微笑ましい。短い作品の中で、しっかりとしたストーリーが構成されていて、短編の可能性を感じ、魅力的な短編を書けるようになりたいと思った。</p>

<p>――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p>山野詩門　　　　　　　　　　不思議な印象</p>

<p>　全体的にかわいらしい雰囲気がただよっているが、どこか少し不気味な関係性を感じた。この菜の花は人間の精神年齢で換算すると少し幼い感じがして、小娘のほうは少し大人びた印象を受け、歳の差を感じた。<br />
菜の花と人である人間が会話していて不思議な印象を受けた。</p>

<p>――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p>梅津瑞樹　　　　　　　　　　　少し歪んで見える</p>

<p>　擬人化を用いいた菜の花のリアクションが可愛らしい。しかし、志賀直哉はこれを21～23のころ書いたらしいが一体どのような意図があったのだろうか。そう考えると少し歪んで見えてしまう。</p>

<p>――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――　9　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．188</p>

<p>読むこと　　　或る朝　　1918年（大正7年）『中央文学』にて発表<br />
　<br />
　1908年（明治41年）作者・志賀直哉25歳。（1883年2月20日誕生）<br />
１月13日（月）の日記に<br />
「朝起きない内からお婆さんと一喧嘩して午前墓参法事」とある。<br />
1月14日（火）の日記<br />
「朝から昨日のお婆さんとの喧嘩を書いて（非小説、祖母）と題した。とある。</p>

<p>この「非小説・祖母」が『或る朝』の原形のひとつとみられる。【創作余談】には、このように書かれている。<br />
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />
　27歳（数え年26歳の記憶違い）の正月13日亡祖父の三回忌の午後、その朝の出来ごとを書いたもので、これを私の処女作といっていいかも知れない。私はそれまで小説を始終書いていたが、一度もまとまらなかった。筋はできていて、書くとものにならない。一気に書くと骨ばかりの荒っぽいものになり、ゆっくり書くと瑣末な事柄に筆が走り、まとまらなかった。ところが「或る朝」は内容も簡単なものではあるが、案外楽に出来上がり、初めて小説が書けたというような気がした。それが27歳の時だから、今から思えば遅れていたものだ。こんなものから多少書く要領が分かってきた。<br />
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p>

<p>書くことの習慣化　　課題8　～　課題10</p>

<p>課題8.　『或る朝』感想</p>

<p>課題9.　「相談ごとのアドバイス」</p>

<p>課題10.　「車内観察」か「連休中の自分の一日の記録」</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・188　―――――――　10――――――――――――――――</p>

<p>ゼミ雑誌作成について</p>

<p>ゼミ誌は、ゼミ一年間の成果の証です。全員で協力して完成させましょう。テーマは、志賀直哉の観察作品をテキストにします。た車内観察作品とします。前期課題作品です。提出しながら完成度を高めてください。</p>

<p>ゼミ雑誌作成担当委員　→　後藤啓介さん　　<br />
ゼミ雑誌作成担当委員　→　石川舞花さん　　<br />
　　　　　　ゼミ雑誌作成協力委員　→　ゼミ員全員です</p>

<p>　　　　　ゼミ全体班長　→　梅津瑞樹さん</p>

<p><br />
ゼミ雑誌作成計画</p>

<p>Ⅰ.申請方法　　5月23日（水）12:20～文芸棟教室1<br />
　ゼミ雑誌作成ガイダンスがあります。担当委員は必ず出席してください。</p>

<p>　　後藤啓介さん　　　石川舞花さん　です。<br />
　　<br />
　　ゼミ雑誌作成の説明を受け、申請書類を受け取って期限までに必ず提出する。</p>

<p>Ⅱ.発行手順　ゼミ雑誌の納付日は、2012年12月7日（金）です。厳守。<br />
　　以下①　～　③の書類を作業に添って提出すること。</p>

<p>【① 	ゼミ雑誌発行申請書】【②見積書】【③請求書】</p>

<p>1.【①ゼミ雑誌発行申請書】所沢／出版編集室に期限までに提出<br />
2.　ゼミで話し合いながら、雑誌の装丁を決めていく。<br />
3.　9月末、ゼミ誌原稿締め切り。<br />
4.　印刷会社を決める。レイアウトや装丁は、相談しながらすすめる。<br />
5.【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。<br />
6.　11月半ばまでに印刷会社に入稿。（芸祭があるので遅れないこと）<br />
7.　雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。<br />
8.　印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。</p>

<p>注意　：　なるべくゼミ誌印刷経験のある会社に依頼。（文芸スタッフに問い合わせ）<br />
　　　　　はじめての会社は、必ず学科スタッフに相談すること。</p>

<p>ゼミ誌原稿は課題から</p>

<p>ゼミ誌掲載の原稿は、授業課題（テキスト感想・車内観察・自分観察・創作）とします。</p>

<p>課題提出のススメ<br />
2012年読書と創作の旅は、どんな旅となるでしょう。原発問題、経済問題など様々な難関があります。私たちにできるのは、森羅万象をしっかり観察し記録することです。この旅を有意義なものにするためにも課題はきちんと提出しましょう。</p>

<p>――――――――――――――――――　11　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．188</p>

<p>ゼミ記録・月曜日5時限目</p>

<p>□4月16日　参加8名、ゼミ説明</p>

<p>□4月23日　12名、自己紹介、班長・ゼミ誌作成委員選出、司会進行・梅津</p>

<p>出席＝梅津、後藤、、鞆津、山野、小妻、小野澤、吉岡、矢代、根本、石川、志村</p>

<p>　　　　　　読み『菜の花と小娘』嘉納治五郎「精読と多読」、編集室「読書のススメ」<br />
　　　　　　<br />
課題提出</p>

<p>書く「課題1.愛読書」　→　根本、志村、石川、梅津、山野、古谷<br />
「課題2.自分について」　→　根本、志村、石川、梅津、山野、古谷<br />
「課題3.憲法問題」　→　梅津、石川、山野、<br />
　　　　　　　　「課題4.『菜の花と小娘』感想」→　梅津、石川、山野<br />
　　　　　　自宅課題5～7<br />
課題5『菜の花と小娘』を手本にした短編、創作でもエッセイでも</p>

<p>課題6.「車内観察」電車の乗客観察</p>

<p>課題7.自分の一日　その日の行動・興味・出来事など</p>

<p>□5月7日</p>

<p>□5月14日</p>

<p>□5月21日</p>

<p>□5月28日</p>

<p>□6月4日</p>

<p>□6月11日</p>

<p>□6月18日</p>

<p>□6月25日</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・188　―――――――　12――――――――――――――――</p>

<p><br />
掲示板</p>

<p>話題・新聞　　　　同じ亨年、同じ部屋で死去79　読売新聞2012・5・3</p>

<p>長井荷風の養子　永光さん　旧宅・遺品守り続け</p>

<p>お知らせ</p>

<p>ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」<br />
6月16日（土）午後2時～5時まで　豊島区勤労福祉会館6階、第7会議室<br />
作品『人妻と寝台の下の夫』</p>

<p>編集室便り</p>

<p>◎	課題原稿、メールでも可　下記アドレス</p>

<p>□	住所〒274-0825　船橋市前原西6-1-12-816　下原方<br />
　　メール：　TEL・ＦＡＸ：047-475-1582　 toshihiko@shimohara.net</p>

<p>ゼミ授業評価採点は、以下を基本とします。（4単位）<br />
60点　＝　ゼミ誌掲載　　20点　＝　ゼミ出席日数（20日以上は20）　<br />
15点　＝　提出課題（1点は課題10）　　1～5点　＝　α<br />
60＋20＋15＋5　＝　100（100点～以上は100とします）</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
文芸研究Ⅱ　　　2012年読書と創作の旅・下原ゼミ　5月7日提出</p>

<p><br />
書くことの習慣化</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　名前</p>

<p>課題8.　　『或る朝』感想</p>

<p><br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p></p>

<p>名前</p>

<p>課題9.　　相談ごとのアドバイス　新聞にあった相談事です。</p>

<p>漠然とした悩みですが、私なら、このように助言します。</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
名前</p>

<p>課題10.　　連休中の自分の1日の記録　&　車内観察</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>文芸研究Ⅲ　下原ゼミ通信 熊谷元一研究No.1</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.shimohara.net/archives/2012/04/-no1.html" />
    <id>tag:www.shimohara.net,2012://1.176</id>

    <published>2012-04-23T08:04:59Z</published>
    <updated>2012-04-23T08:09:19Z</updated>

    <summary> 日本大学芸術学部文芸学科文芸研究Ⅲ下原ゼミ　2012年4月23日発行 文芸研究...</summary>
    <author>
        <name>下原敏彦</name>
        
    </author>
    
        <category term="下原ゼミ通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.shimohara.net/">
        <![CDATA[<p><br />
日本大学芸術学部文芸学科文芸研究Ⅲ下原ゼミ　2012年4月23日発行</p>

<p>文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信　Ｎｏ．1<br />
ＢＵＮＧＥＩＫＥＮＫＹＵ　Ⅲ　ＳＨＩＭＯＨＡＲＡＺＥＭＩ　ＴＳＵＳＨＩＮ<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　編集発行人　下原敏彦<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
4／13　4／20　4／27　5/11　5／18　5／25　6／1　6／8　6／15　6／22　6／29　7／6　7／20　(ゼミ4教室)<br />
　　<br />
熊谷元一研究</p>

<p>観察から記録、そして普遍</p>

<p>4・13ゼミガイダンス報告</p>

<p>ゼロからのスタート　!!</p>

<p>予測された事態、だが意欲も</p>

<p>　4・13ゼミは、幸先よく2012年の授業開始日に当たった。下原ゼミは何名になるのか。文芸研究は「熊谷元一研究」を掲げただけに、まったく予測がつかなかった。「敬遠されるのでは」は、周囲の懸念だった。知名度０に近いが、その理由らしい。しかし、蒔かぬ種は生えぬ。どんな歴史的人物も、誰かが手をつけなければ、その功績は知られないのだ。<br />
2010年101歳で亡くなった熊谷元一について、たとえ日芸講師でもある、写真評論家飯沢耕太郎が熊谷の「それぞれの写真は今、歳月の重みが加わることで、いぶし銀のような輝きを放ちつつあるのである」（『日本の写真家』岩波）と絶賛したとしても、あのアニメの巨匠宮崎駿監督が、最近作品をはじめて見て「こんな人がいたのか、すごい人だ」と感銘されたとしても、いまは、依然として知る人ぞ知るのみである。写真家・童画家・教師の熊谷が残した数々の業績は、必ずやいまの日本の為に人類の為に役立つ。それ故に私は、文芸研究Ⅲの土壌に「熊谷元一研究」の種を蒔くことを決意して、この日に臨んだ。<br />
　しかし、不吉な予感は的中した。金曜日4時限目という人気時間帯もあってか、待てど暮らせどゼミ4教室の戸を開ける学生は無った。予測された事態ではあったが、終業のチャイムを聴きながら私は暫し、茫然自失の体であった。<br />
こんなわけで旗揚げの4・13ゼミは、落胆の日ではあった。最悪の日であった。が、何事も先人は、常に厳しい。失意より、ゼロからの出発に反って意欲が湧いてきた。</p>

<p>4・20ゼミ報告<br />
　待てば海路の、2名の希望者カード</p>

<p>はたして4・20ゼミは、どうなるのか。そんな心配をしているところに准教授のY先生から連絡があった。希望者が1人でたというのである。慣れぬゼミⅢ受け持ちを心配してくださっていたようで感謝の他ない。安堵して4・20ゼミに臨んだ。</p>

<p>ゼミ参加者1名、二人三脚を誓う</p>

<p>　4・20ゼミ参加者は1名だった。が、人柄よし熱意ありで二人三脚授業にふさわしかった。<br />
</p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>文芸研究Ⅱ　下原ゼミ通信No.187-2</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.shimohara.net/archives/2012/04/no187-2.html" />
    <id>tag:www.shimohara.net,2012://1.175</id>

    <published>2012-04-23T07:56:17Z</published>
    <updated>2012-04-23T07:58:47Z</updated>

    <summary> 日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2012年（平成24年）4月23日発行 文芸...</summary>
    <author>
        <name>下原敏彦</name>
        
    </author>
    
        <category term="下原ゼミ通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.shimohara.net/">
        <![CDATA[<p><br />
日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2012年（平成24年）4月23日発行</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．187<br />
ＢＵＮＧＥＩＫＥＮＫＹＵ　Ⅱ　ＳＨＩＭＯＨＡＲＡＺＥＭＩ　ＴＳＵＳＨＩＮ<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　編集発行人　下原敏彦<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
4／16　4／23　5／7　5/14　5／21　5／28　6／4　6／11　6／18　6／25　7／2　7／23<br />
　　<br />
2012年、読書と創作の旅</p>

<p>4・23下原ゼミ</p>

<p>4月23日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室</p>

<p>1．	 ゼミについて　参加者自己紹介</p>

<p>2.	　ゼミ誌編集委員選出　正副委員長　ゼミ班長決め　　</p>

<p>3.	　読むこと　→　読書のススメ、『菜の花と小娘』</p>

<p>4.	　書くこと　→　愛読書・憲法などアンケート　提出課題　</p>

<p>8名の参加者　4・16ゼミ報告</p>

<p>　今年は、春は名のみが長かったせいか桜の咲き頃もずれたようだ。ゼミ初日の16日。4月半ばといえば例年なら、葉桜になっているが、所沢校舎の桜並木は散り時だった。桜吹雪のなか花影を踏んで文芸棟に向かいながら、今日はどんな見学者が、と心躍った。<br />
　ゼミ5時限目というのは微妙な時間帯である。授業にあきてきた、サークルがはじまる、そろそろ街の灯が恋しくなる。そんな時間帯である。もっとも、昼間と夜の端境期の夕暮れ時、何か心急く時刻である。こんなとき授業に出ようという人は、本当に授業を受けたい。そんな心意気のある学生。そう思うしだいである。<br />
8名の参加者があった。シラバスに関心もってきた人が大半だった。連れだってきた人は、いなかった。各人それぞれ自分の関心でゼミ見学にきた。そのように思えた。それだけに参加者に熱心さを感じた。ゼミについては、説明不足のところもあったが、前期、後期におけるだいたいの予定は話せたと思う。が、果たして何人の希望者が・・・。</p>

<p>紙芝居での自己紹介　初めての試み　DVDは不調</p>

<p>　授業説明は、紙芝居形式で紹介した。下原ゼミでは、時間に余裕あったときに表現稽古として、紙芝居（山川惣治の「少年王者」）を口演している。その経験からゼミ説明も、紙芝居の方が、効果的では、と思い今年はじめて取り入れてみた。<br />
　併せてDVDでの説明も加えた。が、こちらは、機具使用が不慣れだったため、思うように、というかスムーズに説明できなかった。DVDは、オンボロ道場改築（投書は文章修業にもなるし、思わぬ幸運もあるという話から）もうひとつは、ゼミ担当者が、制作に協力したNHK</p>]]>
        <![CDATA[<p>のドキュメンタリー番組。こちらは下原の恩師・写真家熊谷元一が、50歳になった教え子を訪ねて全国行脚する映像だった。</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ.187――――――――　2　―――――――――――――</p>

<p>2012年読書と創作の旅・下原ゼミ</p>

<p>4・16補填</p>

<p>「2012年読書と創作の旅」とは何か</p>

<p>　スタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」（1968年）にあやかって名付けた。（アーサー・C・クラーク『前哨』1950）この映画のファンというだけだが、理由をつければ、この宇宙の旅の目的は、人間の謎を知るため。下原ゼミでの読書と創作も、同じ目的「人間の謎」を知るためだからです。大銀河の辺境にあるちっぽけな惑星。そこに棲む人間という奇妙な生き物。彼らは、何のために生きているのか・・・・・。</p>

<p>ゼミでの大局的な目的</p>

<p>大学生活で真に目指すものは何か。むろん専門の学識もあるが、大局的には、「個人の完成」に他ならない。個人の完成がなければ、社会でいかに権力を得ようが、富を得ようが、個人の完成にはほど遠いといえます。古今東西歴史に名を刻む独裁者たちは、その例です。<br />
　では個人の完成とは何か。どうすれば完成できるのか。これについて言汲した人がいます。明治初年の混乱期にあって日本における教育制度の確立に尽力した嘉納治五郎（柔道の創始者としてよく知られるている1860-1938）です。この人は、「個人の完成」について、このように述べている。<br />
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />
「いったい人というものは何かと問われれば、遠い祖先からこの世に生まれてきて周囲の影響と他人の力とで成長し、ある時期から後は自己の力もこれに加わって発達してきたもの」で「個人の完成とは、現在その個人が棲息している社会において可能なる肉体及び精神の最も発達したる状態と、その力によって獲得し得る最も大なる有形無形の力である」<br />
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />
　つまるところ人間の完成には、環境もあるが、その人自身の努力と勉学への意志が大きい。そのように説いているのです。自分の努力と、学ぶ意志を併せて実施できるのはゼミ授業です。それ故に、ゼミ授業は、重要です。特に2年目は、大学にも慣れ環境的に集中できる年です。この一年、自身を磨き、個人の完成に近づけるよう期待します。<br />
　ちなみに完成された個人とは、他者から信用される、頼りにされる人間です。</p>

<p>実質的な授業目的</p>

<p>下原ゼミの実際的な授業目的は、以下の通りです。</p>

<p>前期　→　「読むこと」と「書くこと」の習慣化・日常化を目指す。</p>

<p>「読むこと」　→　主に志賀直哉の観察作品（ほか短編名作）<br />
「書くこと」　→　車内観察（ほか観察）、自分の一日、　　選考でゼミ誌掲載<br />
挑戦として、テキスト（『網走』）前後の創作　ゼミ誌掲載</p>

<p>後期　→　「批評力」と「客観性」を培う。</p>

<p>　「批評力」「客観性」　→　『にんじん』家庭の検証　新聞三面記事評　　　<br />
犯罪作品の脚本化と模擬裁判・寸劇<br />
※犯罪作品　→　テキスト『范の犯罪』『剃刀』『兒を盗む話』他<br />
――――――――――――――――――　3　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．187</p>

<p>4・16補填<br />
担当者紹介</p>

<p>1.　私は1947年生まれです。ということは、団塊世代の走りということになります。ちなみに団塊世代というのは47年から49年に生まれた人たちのことをいいます。大勢の原因は、戦争が終わって大勢の兵隊が戦地から復員してきたことが原因です。作家の堺屋太一が『団塊の世代』1971年を出してからというのが定説になっている。私は1月生まれですから、団塊世代の走り、旗手といえます。最近は年金問題などで肩身が狭い世代です。<br />
2　生まれたところは.長野県の伊那谷です。伊那谷というのは中央アルプス（木曽山脈）と南アルプス（赤石山脈）のあいだにある細長い谷で上伊那と下伊那に分かれています。私が育ったのは、ずっと下の方の岐阜県との県境。名古屋から中央高速道で2時間走ると恵那山トンネルという世界で2番目に長いトンネルがあります。私の郷里は、そのトンネルを出た木曽山中の山村です。<br />
3.　村は私が育ったころは昔、「養蚕」つまり、かいこの村でしたが、中央高速道が開通したことと温泉が湧いたことで観光地になりました。昼神温泉郷として駅にパンフレットやポスターを見ることができます。近くの観光名所地は、山を越えてですが、島崎藤村の『夜明け前』の舞台となる馬篭や妻籠宿があります。昨年、日本アカデミー賞で話題になった映画「大鹿村騒動記」の大鹿村は、近くにあります。<br />
4　山奥の村ですが.歴史的には、伝説の多い土地です。『古事記』、『日本書記』『万葉集』『今昔物語』に村の地名がでてきます。よく知られているのは『源氏物語』にある「はは木の巻」にでてくる箒木がある所です。世阿弥の謡曲『木賊刈』の舞台として知られています。戦国時代の歴史好きの人には、武田信玄終焉の地として知られています。<br />
5.　文学関係者は、戦時中森田草平が疎開していて『煤煙』を書いたという他はありません。近くの村出身では、児童文学者の椋鳩十がいます。著名人は一昨年101歳で亡くなった写真家・童画家の熊谷元一が村出身者です。熊谷は、アマチュアカメラマンながら日本の写真家40人にはいっている。村を70年撮り続けた記録写真家として、高く評価されている。1953年に受け持った小学一年生を一年間とりつづけた岩波写真文庫『一年生』は写真界の金字塔です。ちなみに、私の、小学一年のときの担任です。今年、ゼミⅢで「熊谷元一研究」をはじめますが、知名度のなさから人があつまりませんでした。目下、2名です。日本の教育のために、「熊谷元一研究」を確立していく所存です。<br />
6.　1965年　昭和40年に東京にでてきました。地元の大学を失敗して、迷っていたとき、隣町の本屋でガイダンス本を見つけた。日大の農獣医学部拓植科（現生物自然科学部国際地域開発学科）の「美しい花を植えよう海の外」というキャチフレーズに魅せられた。平和部隊、（現在の海外技術協力隊）に入ることが希望でした。茨城県の内原というところに、研修センターがあって、そこで大型特殊の免許を修得しましたが一度も乗ることはなかった。昭和元禄と呼ばれた時代、三年の夏に日大紛争がはじまりました。私は、フランスの定期貨客船「ラオス号」で旅にでました。フランスまで行く計画でしたが、カンボジアという国で農業手伝いをすることになりました。ボコールという高原で高原野菜を作ることになったのです。長期ビザの許可がおりるまで、1968年の夏から冬にかけてプノンペンで柔道をして過ごしました。講道館から派遣された国士舘大師範の助手。水泳コーチの日大の先輩たちにもお世話になった。<br />
7.　カンボジアでクーデター騒ぎで、一旦帰国しました。紛争が拡大したので、しばらく様子をみることにしました。大学は、占拠されたままでした。そのころ、写真家の岡村昭彦という写真家が書いた『続ベトナム従軍記』という本にはまって、技術協力隊よりルポライターになることを決意。業界紙の記者を皮切りに文学修業をはじめた。カンボジア行は、ある事件とポル・ポトの恐怖時代になったことで断念。共に働くことになっていた農大生は、<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．187――――――――　4　――――――――――――――</p>

<p>ジャーナリストの現地案内でゲリラ地帯に行ったきり帰らぬ人に。<br />
8.　ルポライターから文学を志す。子ども時代を描いた小説『伊那谷少年記』と小学1年生のときの担任を書いた『山脈はるかに』がある。『伊那谷』のなかの「ひがんさ山」は、平成17年、四谷大塚で有名中学の模擬テストに使用。「コロスケのいた森」は、20年度に埼玉県公立高校二次入試国語問題に、21年には、大阪府立公立高校入試問題に出題。現在は、平成13年まで進研ゼミ入試教材に収録されている。『山脈はるかに』は、第8回椋鳩十記念特別賞受賞作。<br />
9. 1972年にドストエフスキーの全作品を読む会「読書会」に参加して、現在は主催者として池袋の東京芸術劇場か勤労福祉会館の会議室で読書会を開催している。偶数月開催。毎回一般市民約20名参加。ドストエフスキーブームのとき東京新聞やNHK「おはよう日本」で紹介された。大学で柔道部だった。社会にでても、つづけていて、気がついたら地域の子どもたちに柔道を教えていた。現在、土壌館という町道場を開いている。20年になる。2012年の柔道連盟登録者は、小学生5、中学生2、高校生4、大学生2、指導者2となっている。<br />
10. 一昨年、両足のシビレが黄色靭帯骨化症という特定疾患であることがわかった。難病患者。現在は、読書会と土壌館をつづけながら孫の子守り、地域活動は、民生・児童委員、防犯委員。大学では、志賀直哉と嘉納治五郎を進める。「熊谷元一研究」に取り組む。現在の目標は、土壌館は『オンボロ道場奮戦記』の完成。書きあげてある密林冒険小説の校正。これからの作品として『昭和元禄草もう伝』にとりかかる。</p>

<p>以上が、ゼミ担当者周辺の紹介です。</p>

<p>読むことについて</p>

<p>なぜ読書のススメか<br />
　<br />
　たとえば健全の身体には健全の精神が宿る、という言葉があります。文字通り取って一生懸命に体を鍛えて健康な身体にすれば、健全の心を持つことができるのか。漫才のコントにでもなりそうですが、そうはいかないのが人間です。<br />
　では、「健全な精神」をつくるためには、どうすればよいのか。ここでは「読書する」ことをススメます。文芸研究ということで、少々我田引水的になるかもしれませんが、下原ゼミではそう理解しています。「読書する身体には健全な精神が宿る」ということです。<br />
　では「健全な精神」とは何か。端的に云えば教養と正義です。正義は、潜在的なものですが、真の教養は育てなければ成長しません。<br />
　日芸にくる学生は、わかりませんが、昨今、大学は入学するためだけの、よりよい就職先を見つけるためだけの場所となっている傾向があります。本来の大学の目的は、健全な精神が宿る立派な人間を育てる場所です。健全な精神を持った人間を社会に送り出し、この星に生きる誰もが幸せに暮らせるよりよい社会を築いてもらう。その人材を作るために大学は存在するのです。決して冨や名声を得るためのところでも、学歴を自慢するところでもありません。森羅万象の調和を目指すことを学ぶ場。大学の使命は、常にそこにあります。書くことも研究することも全てその一点にあるわけです。<br />
　しかし残念なことに社会をみると、政治家、役人、経営者、教育者たちの腐敗・不正でいっぱいです。この世は「健全な精神」を持たない我欲だらけの人間です。そうした人たちは、おそらく健全な精神を育てるということをしなかったのでしょう。つまり読書をしなかった。<br />
　大学生活は、よりたくさん読書ができる空間です。バイトやサークルが忙しくても読書は、いつでもできます。食事と同じと思えばいいのです。どうして、そんなに本を読まなければならないのか。青春時代に読んだ本は、いつまでも宝石のように人生のなかに残っているか</p>

<p>――――――――――――――――――　5　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．187</p>

<p><br />
らです。大人になってから感銘を受ける本もありますが、若いときとはどこか違います。<br />
　しかし、ただ本を読めばいい、というものではありません。巷には書物はあふれています。悪書は何冊読んでも浪費の体験にはなるが、プラスにはなりません。良書も、ただ読んだだけでは、健全な精神を育てる肥料にはならなりません。読書は簡単だが難しいのです。<br />
　では、どんなふうに読んだらよいのか。迷い、悩むところです。読書ついて、近代日本人をつくった明治の教育者・嘉納治五郎（1860-1938）は、こう説いているので紹介します。</p>

<p>※嘉納治五郎　:　柔道の創始者としてよく知られていますが、他の功績は知られていません。彼は、明治維新の激動のなかで学校の教育制度を確立し、空手、合気道などの古来武道を擁護し、野球、ボートなど今ある西洋スポーツを取り入れた人でもあります。また、小泉八雲や夏目漱石はじめ魯迅など多くの文人を育てた人でもあります。夏目漱石の『坊っちゃん』は、作者が自分と彼をモデルにした。そんな推量、空想もできます。下原ゼミでテキストにしている志賀直哉とも、深い関係があります。志賀直哉は、柔道では孫弟子。<br />
　<br />
嘉納治五郎の「青年修養訓」から</p>

<p>読書は、なぜ必要か、どんな本を読んだらよいのか</p>

<p>　それを知るために、嘉納治五郎（1860-1938）の「青年修養訓」のなかの「精読と多読」を読むことにします。が、その前に嘉納治五郎の教育について少しばかり紹介します。<br />
嘉納治五郎の教育は、明治15年23歳のときからはじまり、大正9年（1920）年61歳まで日本の学校教育に尽くした。師範は、日本人の教育だけでなく、中国人留学生のために宏文学院を開校し、中国の近代的教育にも貢献した。学んだ7192人のなかには後に世界的作家になった魯迅（1881-1936）もいた。※魯迅『阿Ｑ正伝』『狂人日記』<br />
　「青年修養訓」は、明治43年（1910）12月　同文館から出版したものである。いまからじつに99年前の文章である。今はない漢字や言い回しがあって読むのに困難はあったが、過去朗読したゼミ生は、苦労して読み終えた。その努力が勉強になる。<br />
　さて、人間形成のため、社会で役に立つために心をこめて多くの書を読めとすすめる師範は、この「精読と多読」のなかで、どんな本をどのように読めといっているのか。</p>

<p>①　はじめに読む本の選び方である。現在、ベストセラーの本。売れている有名な本。そういう本は1、2年待ってから読んだ方がよい、としている。<br />
②　まずは、古典を読む。時代のなかで残っているということは良い本の証拠。読むに価する本だからという。よい本は人（評論家）ではなく、時間が選別してくれる。<br />
③　識者・作家・読書家といわれる人がすすめる本。例えば、川端康成が好きだとする。『雪国』『伊豆の踊り子』といったこの作家の作品を読むのもよいが、その前にこの作家は、自分を慕ってくる若い人たちにどんな本を読めとすすめていたのか。自分は、どんな本を読んでいたのか。それを調べてみる。ノーベル文学賞作家川端康成が、誰より気にかけ可愛がった若い人といえば、『いのちの初夜』を書いた北篠民雄（1914-1937）である。川端は病床の北篠に、なにを読めとすすめていたのか。どの作家を。まずは、それを知ることである。<br />
④　読む本が決まれば、その本をどんなふうに読むか。早く、ざっと読んだのでは、本当に読んだとはいえない。しっかりと理解しながら読むことが大切と教える。<br />
⑤　つぎにどんな本を、ということだが、師範の教えは、範囲を決めない。一つのものを決めると、理解度は、その範疇だけになってしまう。違った分野の本を多く読むことをすすめる。心をこめて多くの本を読みなさい。つまり「精読と多読」のススメである。</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．187――――――――　6　――――――――――――――</p>

<p>読書はなぜ必要か　　嘉納治五郎の「青年修養訓」紹介　</p>

<p>第15　精読と多読<br />
　<br />
　　　　『嘉納治五郎著作集　教育篇』（五月書房）<br />
　精神の健全な発達を遂げようとするには、これに相当の栄養を与えなければならぬのであるが、その栄養を精神に与えるのは読書である。人は誰でも精神の健全な発達を望まないものはないにもかかわらず、実際その栄養法たる読書を好まない者も少なくないのは甚だ怪訝（けげん）に堪えぬ。かくの如きは、その人にとっても国家にとっても実に歎（タン）ずべき事である。読書の習慣は学生にあっては成功の段階となり、実務に従事しいるものにあっては競争場裡の劣敗者たるを免（まぬが）れしむる保障となるものである。看よ、古来名を青史に留めたるところの文武の偉人は多くは読書を好み、それぞれの愛読書を有しておったのである。試みにその二、三の例をあげてみれば、徳川家康は常に東鑑（あずまかがみ）等を愛読し、頼山陽は史記を友とし、近くは伊藤博文は繁劇な公務の間にいても読書を廃さなかった。またカーライル（イギリスの歴史家・評論家）は一年に一回ホーマー（ホメロス）を読み、シルレルはシェクスピーアーを読んだ。ナポレオンは常にゲーテの詩集を手にし、ウエリントン（イギリスの将軍・政治家）はバットラーの著書（『万人の道』「生活と習慣｣など）やアダムスミスの国富論に目を曝（さら）しておったということである。なすことあらんとする青年が、学生時代において読書を怠（おこた）らない<br />
ようにし、これを確乎とした一の習慣として、中年老年まで続けるようにするということの必要なるは多言を俟（ま）たないのである。</p>

<p>※東鑑（吾妻鏡・鎌倉時代の史書。日本最初の武士記録）<br />
※頼山陽（1780-1832　江戸時代後期の儒者・史家　著『日本外史』『日本政記』など）<br />
※ホメロス（前9世紀頃ギリシャの詩人著書『イリアス』『オデュッセイア』など）<br />
※カーライル（1795-1881　著『衣裳哲学』『英雄及び英雄崇拝』など）<br />
※ウエリントン1769-1852　（ナポレオンをワーテルローで破った）</p>

<p>　健全な精神をつくるには、相当な栄養が必要だという。その栄養は読書である、として、歴史上の偉人たちの読書をあげて、その必要性を説いている。そして、どんな本を読むかは、その選び方について以下のように述べている。</p>

<p>　読書はこのように必要であるけれども、もしその読む書物が適当でないか、その読書の方法がよろしきを得なければ、ただに益を受けることが出来ないのみならず、かえって害を受けるのである。吾人（われわれ）の読む書物のどんなものであるべきかに関しては、ここにはただ一言を述べて余は他の章に譲っておこう。すべて新刊書ならば先輩識者が認めて価値があるというものを選ぶか、または古人のいったように世に出てから一年も立たないようなものは、必要がない以上はこれを後廻しとするがよい。また、昔より名著として世人に尊重せられているものは、その中から若干を選んで常にこれを繙（ひもと）き見るようにするがよいのである。</p>

<p><br />
　どんな本を読んだらよいか。本によっては栄養になるどころか害になるという。嘉納治五郎が言うのは、先輩識者が認めた価値のあるもの。つまり世に名作といわれている本である。他は、現在、たとえどんなに評判がよくても、百万冊のベストセラーであっても後回しにせよということである。そうして古典になっているものは、常に手にしていなさいと教えている。本のよしあし、作家のよしあしは時間という評者が選んでくれる。</p>

<p><br />
――――――――――――――――――　7　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．187</p>

<p><br />
　さて、このようにして読む本を選んだら、次にどのようにして読むか。いらぬ節介ではあるが、全身教育者である嘉納治五郎は、その方法をも懇切丁寧に述べている。</p>

<p>　次に方法の点に移れば、読書の方法は、とりもなおさず精読多読などの事を意味するのである。精読とは読んで字の如くくわしく丁寧に読むこと、多読とは多く広く読むのをいうのである。真正に完全の読書をするには、この二つが備わらなければならぬ。</p>

<p>　つまり書物は偏らず、多くの書を読め、ということである。そうして読むからには、飛ばし飛ばし読むものには耳が痛いが、決していい加減にではなく、丁寧に読むべし、ということである。いずれももっともなことではあるが、人間、こうして指導されないと、なかなか読むに至らない。次に、折角の読書に陥りがたい短所があることを指摘し、注意している。</p>

<p>　世に鵜呑みの知識というものがある。これは教師なり書物なりから得た知識をば、別に思考もせず会得もしないで、そのまま精神中に取込んだものをいうのである。かようなものがどうしてその人の真の知識となって役に立つであろうか。総じて知識が真の知識となるについては、まず第一にそれが十分に理解されておらねばならぬ。次にはそれが固く記憶されておらねばならぬ。</p>

<p>　鵜呑みの知識。よく読書のスピードを自慢する人がいるが、いくら早く読んでも、理解していなければ、ただ知っている、ということだけになる。試験勉強で暗記したものは、真に教養とはいえない。</p>

<p>　理解のされていない知識は他に自在に応用される事が出来ないし、固く記憶されていない知識は何時でも役に立つというわけにはいかない。したがってこれらの知識は、あるもないも同じ事である。かような理由であるから、何人たりとも真の知識を有しようと思うならば、それを十分咀嚼（そしゃく）消化して理解会得し、また十分確固明白に記憶しおくようにせねばならぬ。</p>

<p>　そのためには・・・・・</p>

<p>　さてこの理解記憶を全くしようとするにはどうしたらよいかというには、他に道は無い。その知識を受け入れる時に用意を密にする。すなわち書物をば精しく読まねばならぬのである。幾度か幾度か繰返し読んで主要点をたしかに捉えると同時に、詳細の事項をも落とさず隅々まで精確に理解をし、かつ記憶を固くするのである。こうして得た知識こそは真の栄養を精神に与え、また始めて吾人に満足を与える事が出来るのである。試みに想像してみれば分かる。何らかの書物をば百遍も精読し、その極その中に書いてある事は十分会得していて、どんな場合にも応用が出来、その知識は真のわが知識になって、わが血液に変じ筋肉と化しておったならば、その心持はどのようであろうか。真に程子（テイシ兄弟）のいったように、手の舞い足の踏むところを知らないであろう。書物の与える満足には種々あろうが、これらはその中の主なるものであって、また最も高尚なものである。</p>

<p>※テイシ兄弟（北宋の大儒　著『定性書』1032-1085）</p>

<p>　書物を理解するには、繰り返し読むことが重要と説く。一に精読、二に精読である。さすれば応用ができ真の知識となる、と説いている。また、この精読するということについても、こう語っている。</p>

<p><br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．187――――――――　8　――――――――――――――</p>

<p>　かつまた一冊の書物の上に全力を傾注するという事は、吾人の精神修養の上から観ても大切である。何となれば人間が社会に立っているからには、大かり小なりの一事をば必ず成し遂げるという習慣がきわめて必要であるが、書物を精読し了するというのは、ちょうどこの一事を成し遂げるという事に当たるからである。今日でこそやや薄らいだようであるが、維新前におけるわが国士人の中には、四書（儒教の経典）の中の一部もしくは数部をば精読し熟読し、その極はほとんどこれを暗誦して常住座臥その行動を律する規矩（きく・コンパス）としておったものが多いのである。伊藤仁斎（江戸初期の朱子学儒者）は18,9歳の頃『延平問答』という書物を手に入れて反復熟読した結果、紙が破れるまでになったが、その精読から得た知識が大いに修養の助けとなり、他日大成の基をなしたという事である。また荻生徂徠は、13年のわびしい田舎住居の間、単に一部の大学諺解（ゲンカイ口語による漢文解釈）のみを友としておったという事である。程子は「余は17,8より論語を読み当時すでに文義（文章の意味）を暁りしが、これを読むこといよいよ久しうしてただ意味の深長なるを覚ゆ」と言っている。古昔の人がいかに精読に重きをおいたかは、これら2,3の事例に徴するも分明である。学問教育が多岐に渉る結果として、遺憾な事にはこのような美風も今日ではさほど行われないようである。</p>

<p>　ひとつのものを徹底して読む。この美風、すなわち習慣は、現代においては、ますます為<br />
されていない。が、学生は、すすんで挑戦しようという気まがえがなくてはならぬ。と、いっている。その一方で、多読の大切さも説く。</p>

<p>　しかし現に学生生活を送り近い未来において独立すべき青年らには、各率先してこの美風を伝播しようと今より覚悟し実行するように切望せねばならぬ。<br />
　読書ということは、このような効能の点からいっても満足の点からいっても、また精神<br />
修養の点からいってもまことによいものであるが、しかしまた不利益な点を有せぬでもな<br />
い。すなわち精読は常に多くの時間を要するということと、したがって多くの書物が読めないようになるから自然その人の限界が狭隘（キョウヤク）になるを免れないということである。例えていえば、文字において一作家の文章のみを精読しておったならば、その作家については精通しようが思想の豊富修辞の巧妙がそれで十分に学べるということは出来ない。どんなに優秀な作家とても、その長所を有すると同時に多少の欠点を有するものであるから、一作家の文章が万有を網羅し天地を籠蓋（ロウガイ）するというわけにはいかぬ。そこで精読によって益を受けるにしても、またその不備な点が判明したならば、これを他の作家の作物によって学び習うという必要が起きる。すなわち他の作物にたよるということは、多読をするという事に帰するのである。</p>

<p>　一作家のものが万有を網羅することはない。</p>

<p>　またこの外の人文学科、たとえば歴史修身等においても、もしくは物理化学等の自然学科においても、一の著者の記述説明に熟すると同時に、他の著者はそれをどんなに記述し説明しているかを参照してみる必要がある。このように参照してみることは知識を確実にする上にきわめて多大の効能があるから、決して煩雑無用のことではない。精読はもとより希うべきであるが、また一面には事情の許す限り多読をして、その限界を狭隘にせぬようにするがよい。精読でもって基礎を作り、多読でもってこれを豊富にするは学問の要訣（ヨウケツ）であってこのようにして得られた知識こそ真に有用なものとなるのである。<br />
　さらに精読と多読との仕方の関係を具体的に述べてみれば、、まず精読する書物の中にある一つの事項に対して付箋または朱黄を施し、かくてその個所が他の参照用として多く渉猟（しょうりょう）（読みあさる）する書中にはどんなに記述説明されているかを付記するのである。換言すれば精読書を中心として綱領として、多読所をことごとくこれに関連付随させるのである。また学問の進歩の程度についていうならば、初歩の間は精読を主とし<br />
――――――――――――――――――　9　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．187</p>

<p><br />
相当に進んだ後に多読を心掛くべきである。けれどもどんな場合においても精読が主であって多読が副である。そうしてこの両者のうちいずれにも偏してはならないことは無論であるが、もしいずれに偏するがよいかといえば、精読に変する方がむしろ弊害が少ないのである。精読に伴わない多読は、これは支離散漫なる知識の収得法であって、濫読妄読となるに至ってその幣が極まるのである。<br />
　また鼠噛の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれをも読みとおさずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛（ソコウ）の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれも読み通さずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛の陋（ロウ）に陥ったものも多いのである。実に慎み謹んで遠ざくべき悪癖である。</p>

<p>以上、嘉納治五郎の説く読書の必要性を紹介した。どんな本を読めばいいのか。どんなふうに読めばよいのか。人それぞれに好き嫌いもある。それに、世に古典といわれる良書は山ほどある。となると読書も簡単ではない。このゼミでは、この青年訓の嘉納治五郎とも関係が深く、かつ小説の神様といわれる志賀直哉の作品をテキストとするしだいである。<br />
（編集室）</p>

<p>志賀直哉について＆処女作「菜の花と小娘」読みと書き（加筆4／22）</p>

<p>　※志賀直哉1883年（明治16年）2月20日～1971年（昭和４６年）10月21日没88歳</p>

<p>志賀直哉について<br />
土壌館・編集室<br />
　<br />
　小説の神様といわれる志賀直哉の作品といえば唯一の長編『暗夜行路』をはじめ『和解』『灰色の月』『城の崎にて』といった名作が思い浮ぶ。浮かばない人でも『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『菜の花と小娘』と聞けば、学生時代をなつかしく思い出すに違いない。<br />
もっとも最近は、そうでもないようだ。4月16日のゼミ説明で聞いたが応答はなかった。が、これらの作品はかつて教科書の定番であった。また、物語好きな人なら『范の犯罪』や『赤西蠣太』は忘れられぬ一品である。他にも『正義派』『兒を盗む話』など珠玉の短編がある。いずれも日本文学を代表する作品群である。こうしたなかで、処女作三部作といわれる三作品は一見、創作作品とも思えぬ小品である。唯一『菜の花と小娘』は創作らしい内容だが、他の二作『網走まで』『或る朝』は、なんの変哲もない、とても小説とは思えない作品である。しかし、これら三作に志賀文学の基盤がある。素がある。そのように思える。そんなわけで手始めに「菜の花と小娘」をとりあげてみたい。<br />
　かつて川端康成は、志賀直哉を「文学の源泉」と評した。その意味について正直、若いとき私はよくわからなかった。ただ漠然と、文学を極めた川端康成がそう言うから、そうなのだろう・・・ぐらいの安易な理解度だった。しかし、初老になってあらためて志賀文学を読みすすめるなかで、その意味することがなんとなくわかってきたような気がした。<br />
　そうして、川端康成が評した文学の「源泉」とは、処女作『網走まで』『菜の花と小娘』『或る朝』の三部作にある。そのように確信した。<br />
　<br />
　この2012年の旅のなかで、それ何かがわかれば文学開眼の成果といえる。もし不明であっても人生の宿題としてもらえれば幸いです。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・187　―――――――　10――――――――――――――――</p>

<p>読む前に（処女作三部作）</p>

<p>　　処女作三部作『菜の花と小娘』(と『或る朝』、『網走まで』)は、明治37年（1904）から明治41年（1908）ころに書かれた。志賀直哉21歳から25歳のときである。<br />
これらの作品は、一見、何の変哲もない一風景、一エッセイに過ぎないが、よくみると、時代や作者の心情が織り込まれている。それとなく描かれている。ゼミでは、各人も観察作品を書いて発表しあっていきます。『網走まで』を車内・人間観察。擬人法『菜の花と小娘』を生き物観。『或る朝』を普通の一日の観察として手本とします。<br />
　『網走まで』　　　→　車内観察の手本、前後を創作する<br />
　『菜の花と小娘』　→　生き物観察　擬人法で物語にする<br />
　『或る朝』　　　　→　普通の一日を記録するの手本に</p>

<p>では、読むことの習慣化のスタートとして、『菜の花』を読んでみましょう</p>

<p>名作読み　たった数枚の物語のなかに風景と心情と創作を織り交ぜた生き物観察作品です。朗読が終わったら、書くことの習慣として簡単な感想も書いてみましょう。（10分程度）</p>

<p>菜の花と小娘</p>

<p>志賀直哉</p>

<p>　或る晴れた静かな春の日の午後でした。一人の小娘が山で枯れ枝を拾っていました。<br />
　やがて、夕日が新緑の薄い木の葉を透かして赤々と見られる頃になると、小娘は集めた小枝を小さい草原に持ち出して、そこで自分の背負ってきた荒い目籠に詰めはじめました。<br />
　ふと、小娘は誰かに自分が呼ばれたような気がしました。<br />
「ええ？」小娘は思わずそう言って、立ってそのへんを見回しましたが、そこには誰の姿も見えませんでした。<br />
「私を呼ぶのは誰？」小娘はもう一度大きい声でこう言ってみましたが、矢張り答えるものはありませんでした。<br />
　小娘は二三度そんな気がして、初めて気がつくと、それは雑草の中からただ一本わずかに首を出している小さな菜の花でした。<br />
　小娘は頭にかぶっていた手ぬぐいで、顔の汗を拭きながら、<br />
「お前、こんなところで、よくさびしくないのね」と言いました。<br />
「さびしいわ」と菜の花は親しげに答えました。<br />
「そんならならなぜ来たのさ」小娘は叱りでもするような調子で言いました。菜の花は、<br />
「ひばりの胸毛に着いてきた種がここでこぼれたのよ。困るわ」と悲しげに答えました。そして、どうか私をお仲間の多い麓の村へ連れていってくださいと頼みました。<br />
　小娘は可哀そうに思いました。小娘は菜の花の願いをかなえてやろうと考えました。そして静かにそれを根から抜いてやりました。そしてそれを手に持って、山路を村の方へと下って行きました。<br />
　路にそって清い小さな流れが、水音をたてて流れていました。しばらくすると、<br />
「あなたの手は随分、ほてるのね」と菜の花は言いました。「あつい手で持たれると、首がだるくなって仕方がないわ、まっすぐにしていられなくなるわ」と言って、うなだれた首を小娘の歩調に合せ、力なく振っていました。小娘は、ちょっと当惑しました。<br />
　しかし小娘には図らず、いい考えが浮かびました。小娘は身軽く道端にしゃがんで、黙って菜の花の根を流れへ浸してやりました。<br />
「まあ！」菜の花は生き返ったような元気な声を出して小娘を見上げました。すると、小娘は宣告するように、<br />
――――――――――――――――――　11　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．187</p>

<p><br />
「このまま流れて行くのよ」と言いました。<br />
菜の花は不安そうに首を振りました。そして、<br />
「先に流れてしまうと恐いわ」と言いました。<br />
「心配しなくてもいいのよ」そう言いながら、早くも小娘は流れの表面で、持っていた菜の花を離してしまいました。菜の花は、<br />
「恐いは、恐いわ」と流れの水にさらわれながら見る見る小娘から遠くなるのを恐ろしそうに叫びました。が、小娘は黙って両手を後へ回し、背で跳ねる目カゴをえながら、駆けてきます。<br />
　菜の花は安心しました。そして、さもうれしそうに水面から小娘を見上げて、何かと話かけるのでした。<br />
　どこからともなく気軽なきいろ蝶が飛んできました。そして、うるさく菜の花の上をついて飛んできました。菜の花はそれも大変うれしがりました。しかしきいろ蝶は、せっかちで、<br />
移り気でしたから、いつかまたどこかえ飛んでいってしまいました。<br />
　菜の花は小娘の鼻の頭にポツポツと玉のような汗が浮かび出しているのに気がつきました。<br />
「今度はあなたが苦しいわ」と菜の花は心配そうに言いました。が、小娘はかえって不愛想に、<br />
「心配しなくてもいいのよ」と答えました。<br />
　菜の花は、叱られたのかと思って、黙ってしまいました。<br />
　間もなく小娘は菜の花の悲鳴に驚かされました。菜の花は流れに波打っている髪の毛のような水草に根をからまれて、さも苦しげに首をふっていました。<br />
「まあ、少しそうしてお休み」小娘は息をはずませながら、そう言って傍らの石に腰をおろしました。<br />
「こんなものに足をからまれて休むのは、気持が悪いわ」菜の花は尚しきりにイヤイヤをしていました。<br />
「それで、いいのよ」小娘は言いました。<br />
「いやなの。休むのはいいけど、こうしているのは気持が悪いの、どうか一寸あげてください。どうか」と菜の花は頼みましたが、小娘は、<br />
「いいのよ」と笑って取り合いません。<br />
が、そのうち水のいきおいで菜の花の根は自然に水草から、すり抜けて行きました。小娘も急いで立ち上がると、それを追って駆け出しました。<br />
　少しきたところで、<br />
「やはりあなたが苦しいわ」と菜の花はこわごわ言いました。<br />
「何でもないのよ」と小娘はやさしく答えて、そうして、菜の花に気をもませまいと、わざと菜の花より二三間先を駆けて行くことにしました。<br />
　麓の村が見えてきました。小娘は、<br />
「もうすぐよ」と声をかけました。<br />
「そう」と、後ろで菜の花が答えました。<br />
　しばらく話は絶えました。ただ流れの音にまじって、バタバタ、バタバタ、と小娘の草履で走る足音が聞こえていました。<br />
　チャポーンという水音が小娘の足元でしました。菜の花は死にそうな悲鳴をあげました。小娘は驚いて立ち止まりました。見ると菜の花は、花も葉も色がさめたようになって、<br />
「早く速く」と延びあがっています。小娘は急いで引き上げてやりました。<br />
「どうしたのよ」小娘はその胸に菜の花を抱くようにして、後の流れを見回しました。<br />
「あなたの足元から何か飛び込んだの」と菜の花は動悸がするので、言葉をきりました。<br />
「いぼ蛙なのよ。一度もぐって不意に私の顔の前に浮かび上がったのよ。口の尖った意地の<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・187　―――――――　12――――――――――――――――</p>

<p><br />
悪そうな、あの河童のような顔に、もう少しで、私は頬っぺたをぶつけるところでしたわ」と言いました。<br />
　小娘は大きな声をして笑いました。<br />
「笑い事じゃあ、ないわ」と菜の花はうらめしそうに言いました。「でも、私が思わず大きな声をしたら、今度は蛙の方でびっくりして、あわててもぐってしまいましたわ」こう言って菜の花も笑いました。間もなく村へ着きました。<br />
　小娘は早速自分の家の菜畑に一緒にそれを植えてやりました。<br />
　そこは山の雑草の中とはちがって土がよく肥えておりました。菜の花はドンドン延びました。そうして、今は多勢の仲間と仕合せに暮す身となりました。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　おわり</p>

<p>掲示板</p>

<p>連休の課題　　　　連休明けまでに書いて5・7ゼミで提出</p>

<p>課題5『菜の花と小娘』を手本にした短編、創作でもエッセイでも（１～10枚）</p>

<p>課題6.「車内観察」電車の乗客観察（1～5枚）</p>

<p>課題7.自分の一日　その日の行動・興味・出来事など（１～5枚）</p>

<p>お知らせ</p>

<p>☆ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」<br />
2012年4月28日（土）池袋勤労福祉会館第7会議室　作品『正直な泥棒』<br />
時間　→　午後2時~　　　詳細は以下、編集室に</p>

<p>☆『ユリイカ　1』（2012　青土社）マンガ家・武富健治特集（ド読書会会員）</p>

<p>編集室便り</p>

<p>◎	課題原稿、メールでも可　下記アドレス</p>

<p>□	住所〒274-0825　船橋市前原西6-1-12-816　下原方<br />
　　メール：　TEL・ＦＡＸ：047-475-1582　 toshihiko@shimohara.net</p>

<p>ゼミ授業評価採点は、以下を基本とします。（4単位）<br />
60点　＝　ゼミ誌掲載　　20点　＝　ゼミ出席日数（20日以上は20）　<br />
15点　＝　提出課題（1点は課題10）　　1～5点　＝　α<br />
60＋20＋15＋5　＝　100（100点～以上は100とします）</p>

<p>文芸研究Ⅱ　　　2012年読書と創作の旅・下原ゼミ　4月23日提出</p>

<p>書くことの習慣化を目指して(ゼミ通信188号掲載原稿)<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　名前</p>

<p>課題1.　　愛読書（映画でも可）はありますか。(1～5冊)</p>

<p>（1）書名<br />
　　　―――――――――――――――<br />
　　　 紹介<br />
     ――――――――――――――――――――――――――<br />
（2）書名<br />
　　　―――――――――――――――<br />
　　　 紹介<br />
     ――――――――――――――――――――――――――<br />
(3）書名<br />
　　　―――――――――――――――<br />
　　　 紹介<br />
     ――――――――――――――――――――――――――<br />
（4）書名<br />
　　　―――――――――――――――<br />
　　　 紹介<br />
     ――――――――――――――――――――――――――<br />
（5）書名<br />
　　　―――――――――――――――<br />
　　　 紹介<br />
     ――――――――――――――――――――――――――</p>

<p>課題2.　　自分について（一年の勉強・趣味・興味あることなど）</p>

<p>例・サークル、友人関係、毎日の暮らし、将来の夢。</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
課題3.　　5月3日は憲法記念日です。日本では第9条が最重要問<br />
題となっています。が、あなたはどう思いますか。</p>

<p>現憲法の第二章【戦争の放棄】<br />
　第九条　①　日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、武力によ<br />
　　　　　　　る威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを<br />
　　　　　　　放棄する。<br />
　　　　　②　前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国<br />
　　　　　　　の交戦権は、これを認めない。</p>

<p>改正に反対　　　　　改正に賛成　　　　わからない</p>

<p>なぜですか　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>

<p>課題4.　『菜の花と小娘』どんな感想でしたか</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p><br />
文芸研究Ⅱ　　　2012年読書と創作の旅・下原ゼミ　4月23日提出</p>

<p>書くことの習慣化を目指して<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　名前<br />
.<br />
連休・課題</p>

<p>課題5.『菜の花と小娘』を真似た作品</p>

<p>課題6.自分の一日を書いてみる（足らなかったら別の紙で）</p>

<p></p>

<p>――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p>――――――――――――――――――――――――――――――<br />
課題7.車内観察をする。(何本でも可1本1点)毎日乗車するバス・電車から</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――――――――――――――</p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――――――――――――――<br />
備考</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>文芸研究Ⅱ　下原ゼミ通信No.186-1</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.shimohara.net/archives/2012/01/no186-1.html" />
    <id>tag:www.shimohara.net,2012://1.174</id>

    <published>2012-01-23T09:12:05Z</published>
    <updated>2012-01-23T09:13:35Z</updated>

    <summary> 日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2012年（平成24年）1月23日発行 文芸...</summary>
    <author>
        <name>下原敏彦</name>
        
    </author>
    
        <category term="下原ゼミ通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.shimohara.net/">
        <![CDATA[<p><br />
日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2012年（平成24年）1月23日発行</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．186<br />
ＢＵＮＧＥＩＫＥＮＫＹＵ　Ⅱ　ＳＨＩＭＯＨＡＲＡＺＥＭＩ　ＴＳＵＳＨＩＮ<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　編集発行人　下原敏彦<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
9／26　10／3　10／17　10/24　10／31　11／7　11／14　11／21　11／28　12／5　<br />
12／12　1／16　1／23<br />
　　<br />
2011年、読書と創作の旅</p>

<p>1・23下原ゼミ</p>

<p>1月23日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室</p>

<p>1．	「2011年読書と創作の旅」を終えて　</p>

<p>☆前期・後期を振り返って　　　☆旅の感想</p>

<p>2.	　最後のテキスト読み『孤児』（家族観察）志賀直哉<br />
3.	　世界文学・名作読み『最後の授業』（戦争観察）ドーテ　</p>

<p>さようなら2011年、読書と創作の旅　！</p>

<p>　本日をもって「2011年、読書と創作の旅」を終えます。振り返れば、桜散る4月半ば、13名でスタートした旅でしたが、2011年という凶年のなかで落後者続出、13人中1人不明、多数がついて来れずといった惨憺たる状況でした。しかし、雨の日も風邪の日も、歩みを止めず読むこと、書くことの習慣化に励んだ人たちもいました。そこに希望があります。継続は力、それを信じて進んでいってください。さようなら！</p>

<p>1・16報告ゼミ誌合評（春日菜花・武田結香子さん作品）</p>

<p>　この日、合評した作品は、春日菜花さん、武田結香子さんの自由創作作品。春日さんは、創作と体験を入り混ぜた家族観察。武田さんは、日常とファンタジーを組み合わせたメルヘンタッチの作品でした。20～30枚作品。</p>

<p>講評：全体的に孤独を意識したものが多かったように思います。「絆」がいわれるように社会を反映しているようでもありました。理解し合えない魂のさすらい。テキスト志賀直哉作品の中編『和解』、長編『暗夜行路』は、絆をもとめての彷徨いです。授業での読みは実現できませんでしたが、長い人生です。いつか読んでみてください。</p>

<p>小倉百人一首大会</p>

<p>　16日は、参加者で百人一首を使った遊び、坊主めくり、カルタ拾いをおこないました。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>坊主めくりは、武田さんにつきがありました。3回戦で2連勝でした。<br />
カルタ拾いは、春日さん、はじめての経験ながら奮戦しました。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ.186――――――――　2　―――――――――――――</p>

<p>2011年、「読書と創作の旅」を振り返って</p>

<p>　大震災、原発事故、政治迷走、経済低迷といった混乱のなか、まさに嵐の一年でした。旅の目的だった読むこと、書くことの習慣化は身につけることができたでしょうか。テキストにした志賀直哉が、なぜ小説の神様と呼ばれるのか。それを知るには、まだまだ読むこと、書くことの旅が必要かと思います。観察することを忘れず続けていってください。<br />
　以下、2011年の旅日記です。</p>

<p>□4月18日ゼミ　ガイダンス、多数参加。</p>

<p>□4月25日ゼミ　出席者11名　司会・椎橋　名作「日本国憲法、前文・九条」<br />
　　　　　　　　読み・嘉納治五郎『青年訓　精読と多読　名作・原民喜『夏の花』<br />
□5月9日ゼミ　出席者9名　司会・三矢　テキスト『菜の花と小娘』<br />
　　　　　　　　時事評「原発事故について」提出課題合評　紙芝居口演「少年王者」　<br />
□5月16日ゼミ　出席者4名　司会・内田　テキスト『網走まで』と解説<br />
　　　　　　　　3・11など課題提出作品の合評<br />
□5月23日ゼミ　出席者5名　司会・杉山　テキスト『出来事』　　<br />
　　　　　　　　　時事評「原発問題討議」「人生相談」課題合評<br />
□5月30日ゼミ　出席者5名　司会・春日　テキスト『正義派』時事評「原発問題」<br />
　　　　　　　　「人生相談・私のアドバイス」<br />
□6月　6日ゼミ　出席者9名　司会・柳瀬　時事評「君が代問題」議論<br />
　　　　　　　　ゼミ誌編集会議。提出課題合評<br />
□6月13日ゼミ　出席者４名　司会・武田　テキスト『夫婦』名作・詩編「谷間に眠る者」</p>

<p>□6月20日ゼミ　出席者4名　司会・杉山　テキスト『城の崎にて』提出課題の合評<br />
　　　　　　　　　世界名作『あしながおじさん』前文<br />
□6月27日ゼミ　出席者3名　司会・春日　ゼミ誌編集会議　テキスト『濠端の家』<br />
　　　　　　　　　提出課題合評<br />
□７月　4日ゼミ　出席者4名　司会・藤塚　ゼミ誌タイトル決め　提出課題合評<br />
　　　　　　　　　テキスト『灰色の月』<br />
□7月25日ゼミ　前期最終ゼミ　前期を振り返って</p>

<p>前半は、主にテキストから車中作品を取り上げ、自らも車内観察を書いて発表しました。<br />
併せて社会観察として、社会問題となっている「原発問題」「君が代起立問題」を議論。</p>

<p>□9月26日ゼミ　参加者7名＝椎橋萌美、會澤佑香、藤塚玲奈、春日菜花、杉山知紗、武田結香子、内田悠介。課題「私の夏休み」発表＝春日菜花「窓辺の光景」、藤原佑貴「何でも読んでやろう」。課題「なんでもない一日の記録」発表＝藤塚玲奈「サクランボとお婆さん。　課題「未来車内観察」発表＝武田結香子「10年後の私」。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月3日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題「私の夏休み」発表＝武田結香子「夢を見つけた夏」。課題「車内観察」掲載＝會澤佑香「寒い日」。課題『にんじん』感想・意見掲載＝椎橋、春日、杉山、武田、藤塚、會澤、内田。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月17日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題『にんじん』感想発表「失礼ながら」「尿瓶」「うさぎ」＝杉山、春日、武田。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月24日　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題『にんじん』感想発表「もぐら」「つるはし」「湯のみ」「ねこ」＝春日、杉山、武田。課題「車内観察」発表＝春日「工事中のホームで」。課題「日常観察」発表＝武田「家族」。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月31日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。テキスト『剃刀』「剃<br />
――――――――――――――――――　3　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．186</p>

<p>刀職人客殺害疑惑事件」模擬裁判＝武田・春日・杉山口演。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□11月7日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題「車内観察」発表＝杉山「幼馴染と携帯」。テキスト脚本口演＝武田・杉山・春日。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□11月14日ゼミ　参加者＝春日菜花。テキスト『兒を盗む話』「尾道幼女誘拐事件」についての＝春日。伊那谷、他についての雑談＝春日。ゼミ誌報告＝武田「印刷交渉成立」<br />
□11月21日ゼミ　参加者＝杉山知紗、春日菜花。課題「車内観察」発表＝春日「不幸な友」。<br />
テキスト『范の犯罪』読み。「尾道幼女誘拐事件」判決考。<br />
□11月28日　参加＝杉山知紗、春日菜花、武田結香子。司会＝杉山。「継子殺人未遂事件」考察。「ナイフ投げ美人妻殺害疑惑事件」裁判。合同発表会「剃刀殺人」裁判稽古。<br />
□12月5日　参加＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。司会＝杉山。『江古田文学78』配布、杉山さんの受賞作品「へびとむらい」が掲載。名作店内観察『殺し屋』、「剃刀職人客殺害疑惑事件」裁判稽古。武田編集長報告、ゼミ誌9日に届く予定。<br />
□12月12日　合同発表（清水・山下・下原ゼミ）「剃刀職人客殺害疑惑事件」裁判<br />
□1月16日　　参加者、春日菜花、武田結香子。ゼミ誌合評、百人一首大会。<br />
□1月23日　　最後家庭観察テキスト『孤児』、名作『最後の授業』</p>

<p>　後半は、家族観察として、ジュナールの『にんじん』読みを行った。あわせてテキストから事件作品を取り上げ、模擬裁判を実施した。『剃刀』『兒を盗む話』『范の犯罪』<br />
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />
家庭観察　　テキスト『孤児』小説の神様の機微</p>

<p>　この作品は1910年（明治43年）に発表された。『網走まで』と同じ綴りのなかにあった「離縁」という草稿。8歳年下の妹は、本当はいとこだが、父親が早くに亡くなり母親は再婚してしまった。父はいなく、母も嫁いで、親籍の家の子となった人間の心境。志賀直哉は愛情もちながらも冷徹な眼差しで客観視していてる。<br />
「敏子は8つ年下で私を兄さん兄さんと、非常に頼りに思っています。だから私も真から可愛いと思っています。冷やかなところがあるということは、何となく感ぜられました」<br />
幸福な家庭のなかにあって、ただ一人異邦人の妹の孤独と寂しさの観察作品。</p>

<p>世界名作　　　アルフォンス・ドーデー『最後の授業』<br />
アルフォンス・ドーデー（Alphonse Daudet 1840-1897）この作家を知らなくても、シーボルトの名は、たいていの日本人は知っている。1823年、オランダ商館の医員として長崎に着任。日本の動植物・地理・歴史・言語を研究。鳴滝塾を開いて高野長英らに医術を教授。１８２８年帰国、59年再来航、62年に帰国。日本の医学、開国に大いに貢献したドイツ人。著書に『日本』『日本動物誌』『日本植物誌』などがある。（1796-1866）<br />
　1866年の春、ドーデーはシーボルトと知り合った。作家の言葉を借りれば「私たちはすぐに大の仲良しとなった」。場所は、パリ、テュイルリー宮。オランダ国勤務のバヴァリヤのシーボルト大佐は、ナポレオン三世に不思議国ジャポン開拓の国際的協会創立計画の嘆願に訪れていた。若い作家は、著名な冒険家の話を喜んで聞いた。気に入ってシーボルトは、16世紀の日本の悲劇「盲目の皇帝」の校閲を頼んだ。が、ドイツに戦争が起きて頓挫。若い作家は、あきらめずにミュンヘンに追った。「・・・そりゃあ君すばらしいぜ」大佐はその晩ばかに元気だった。が、翌朝、自宅に行くと彼は亡くなっていた。72歳だった。「盲目の皇帝｣は題だけで終わった。<br />
◆この作品は、たんに文字通り最後の授業ということでとりあげたもので、政治的・思想的意図はありません。日本も戦前は、似たようなことをしてきました。が、ここでは、そうしたことの批判感想ではなく、あくまでも文学的にみて世界名作作品としてです。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．186――――――――　4　――――――――――――――</p>

<p>「　透　明　な　存　在　」　の　正　体</p>

<p>　　　　　　「ドストエーフスキイと現代の問題」1999年シンポジウム報告から　</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　下原　敏彦</p>

<p>　「人を殺して、なぜいけないのか」と問う少年たち。「自分の体でお金を稼いで、なぜ悪いのか」と答える少女たち。杉山さんの「へびとむらい」やゼミ誌『旅路報告』の藤原侑貴さんの「不登校くずれ」などにみるように現代の問題は、より不可解で、理解しがたい問題となってきている。彼、彼女たちは、何故にそうした行動をとるのか。謎に満ちた現代の問題。はたしてドストエフスキーで解くことが、語ることができるだろうか・・・。<br />
ここでは、その正体を「透明な存在」と表した神戸の少年Ａの事件簿を考察しながら、謎解きを探ってみた。<br />
以下は、前号のつづきです。（2回目の掲載、加筆）</p>

<p>四　、　癒　し　と　再　生</p>

<p>　アルコール、ギャンブル、摂食障害など、いわゆる依存行為に取り憑かれた人々が、正常な暮らしを取り戻すことは極めて難しいといわれている。神戸の事件をはじめ父親殺し、子供殺し、児童虐待、少女売春、不登校など噴出する現代の問題に、はたして解決への道はあるのか。それはとりもなおさず「透明な存在」に打ち勝つ方法はあるかということでもある。「透明な存在」が操るコントロールという呪縛を解くもの。それは、はたして何か。<br />
　先ごろ新聞で知ったことだが、非営利組織（ＮＰＯ）「ニュースタート事務局」という団体がある。「学校に行かなくなる、あるいは定職に就こうとしない若者の再起を手助けする」組織らしい。たとえば彼らが「引きこもり」の若者を助けるためにとった作戦は「兵糧攻め」だった。送金を止め、落城を待つのである。逆境に弱い現代の若者、すぐに出てくると予想<br />
した。が、若者は手ごわく、「三万円で、半年もしのぐ猛者」もいたという。なぜ、そんなに持ちこたえることができたのか。現代の若者の心の深層に「富への懐疑」があるのでは、彼らはそう分析した。なぜ、若者は手ごわかったのか。私は、若者が我慢強かったからでも時代への反発意識があったからではなく、たんに「透明な存在」の意のままに過ごしただけ、と思っている。奴は狡賢だ。内にあって人間たちの行動をじっと観察している。棲みついた肉体が滅ぶ寸前まで、じっと様子を窺っているのだ。そして、支配する肉体が死まで追い詰められたとき、ようやくにして投降するのだ。<br />
　たいていの場合、このように物質的に、あるいは精神的な力を頼んでの治療（「透明な存在」を取り除こうとすること）が試みられている。エクソシストや悪魔払いもそうだが、アメリカでは、自分たちで航海させたり幌馬車で砂漠を旅させたりする方法があるという。日本では、死亡事件を起こしたヨットスクールが有名である。つまり、肉体を極限状態にすることて゛「透明な存在」をその肉体の心から追い払う。その方法は、仮に功を奏すことがあっても、かなり危険な方法といえる。<br />
　「透明な存在」との闘いについて、少年Ａは、作文でこんなことを述べている。<br />
「魔物と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう、気をつけねばならない。」と。<br />
　ドストエフスキーは、ギャンブルという魔物との闘いに勝った。なぜ作家は、彼の心を支配しつづけた「透明な存在」を、きれいさっぱり追い払うことができたのか。その解明こそ、現代の問題に苦しむ人々を救う事になるのでは・・・と信じる。<br />
勝利の日、その日は突然にやってきた。その記念すべき日のことを作家は一八七一年四月二十八日のアンナへの手紙にこう書いている。<br />
――――――――――――――――――　5　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．186</p>

<p>「信じてほしい！じつは私の身に重大なことが起きたのだ。過去十年間にわたってわたしを苦しみつづけてきた、あのいまいましい賭博熱が、いまここにいたって消え果てたのだ。」だがアンナは、すぐには信じなかった。「もちろんわたしは、夫のルーレット遊びの熱がさめるというような大きな幸福を、すぐに信じるわけにはいかなかった。どれほど彼は、もうけっして遊ばないと約束したことだろう。それでもその言葉が守れたためしはなかったのだ。（『回想のドストエフスキー』）」と冷ややかだった。<br />
　しかし、この約束は真実だった。アンナはこう証言している。<br />
「その後夫は、何度も外国に出かけたが、もはやけっして賭博の町に足を踏みいれようとはしなかった。」<br />
　ドストエフスキーは、なぜアリ地獄から脱出することができたのか。なぜ「透明な存在」という悪魔に打ち勝つことができたのか。彼は、このことについて何も語っていない。ドストエフスキーは、どうして自身の重大事について、触れようとしないのか。大いなる謎である。もしかしてドストエフスキー自身にも、よくわからなかったのかも知れない。<br />
　しかしこの謎は、『アンナの日記』（木下豊房訳）や『回想のドストエフスキー』（松下裕訳）を読むと、いくぶん解けるような気がする。ドストエフスキーから「透明な存在」が去ったわけ。それはアンナ夫人の、根気ある無限の愛と温かな見守りがあったからではないだろうか。イソップ物語にみる『北風と太陽』がそれをよく表している。旅人のマントを力づくでとろうとする北風は、強引に「透明な存在」を取ろうとする医学や教育関係者に似ている。取ろうとすればするほど、「透明な存在」は、取り憑いた人間の心にへばりついて離れようとしない。短絡的な結論ではあるが、私にはそう思えてしかたがない。<br />
案外、「透明な存在」の弱点はそんな単純なところにあったのではないか。「透明な存在」という悪しきマント。その呪われたマントを脱がすには、強い突風でも灼熱の太陽でもない。春の陽だまりのようなやさしい暖かな日差し。そして、いかなる嵐にも揺るがぬ大地。アンナ夫人には、そんな陽光のような愛と、強い意志があったのだ。と。<br />
　「透明な存在」とは恐ろしい怪物。存在宇宙の破壊者である。この存在の前には、いかなる医学も、いかなる知識も経験も無力である。唯一、打ち勝つことのできるもの、それはア<br />
ンナのような愛に満ちた観察眼であり、ドストエフスキーが持ちえた人間観察への興味である。この両者の観察したいという意志があったことが「透明な存在」に打ち勝つことができた最大の要因。私は、そのように解釈し、謎解きたい。見守ること、つまり観察すること・・・それが大切だ、と。<br />
たら、ねば、は歴史において禁句ではある。が、神戸の少年Ａの両親が書いた「知らなかった」「気がつかなかった」とわびる『この子を生んで』の告白本を読むと、早くに気がついていたら、観察していたらと、悔やむ気持ちになる。<br />
まとめになるが、少年Ａに取りついた「透明な存在」の正体。それはドストエフスキーにとりついた賭博熱と同族のもの、強烈な依存行為ではなかったか、と推理するものである。<br />
「透明な存在」という名の悪魔、これに対抗するには、医学や科学の力でも、祈祷や教育でもない。イソップ童話にある「北風と太陽」にみる、太陽のやさしく穏やかな陽の光である。</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　完<br />
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・186　―――――――　6――――――――――――――――</p>

<p>ノンフィクション劇場　　柔道・町道場の灯を守って　土壌館物語<br />
連載6<br />
　おんぼろ道場奮戦記　<br />
概略1984年4月、小学校に入学した息子は近所にあった柔道の町道場に入門した。が、道場主が77歳という高齢だったことから、柔道経験のあった私が師範代を務めることになった。スポーツクラブに通うつもりで軽く引き受けた。ところが、ある日、突然に、老先生から道場を譲りたいと相談された。そのとき私は、友人の月刊誌を手伝うこともあって、柔道からを洗おうと思っていた。が、そのとき入門してきた二人の高校生から柔道を教えて欲しいと頼まれた。結局、そのまま師範代をつづけることになった。道場の話は立ち切れた。<br />
1996年11月24日ＮＨＫテレビ「日本点描」番組で「教え子たちの歳月」が放映された。写真家熊谷元一が、43年前の教え子たちを訪ねて写真に撮るという企画だった。教え子たち一人一人の現在を熊谷が追い、その後をテレビの撮影隊が追った。私の現在は、柔道師範だった。それが後押しして私は、町道場を引き受ける決心をした。私は、一夜にしておんぼろだが35畳の柔道場、オンボロ道場とはいえ、一軒の家の所有者になったのだ。もしかして運が向いてきた。家族は喜んだ。が、糠よろこびだった。道場は借地で、借地契約期間もとうに過ぎていて、いまは、地主から借地返還を迫られていた。<br />
平屋でトタン屋根の道場は、道場とは名ばかりで、廃屋同然だった。何のことはない私は、巨大な粗大ゴミを引き受けてしまったのだ。御年90になる老先生には今さら、やめます、ともいえず困った。が、解体して更地にするには金がかかる。子どもたちも数人通っている。こんなことから、とりあえず、つづける他なかった。不動産屋は一日も早く駐車場か資材置き場にしたいようだった。が、駅前の事務所に出向き、子どもたちの居場所のためにと押し問答したあと、保護者たちに捺印してもらった嘆願書を突き付けた。そのことが功を奏したのかおんぼろ道場は残った。寝技はさして得意ではなかったが、何かしら寝わざで勝ち残れた。そんな気がした。入門者は増えたが、道場は日に日にひどくなっていった。そして1998年（平成10年）1月15日、道場は、大雪で決定的な被害を受けた。<br />
息子が成人式だったこの日、昨夜来からの大雪となった。各地で小屋倒壊のニュースが相次いだ。道場は、雪の重みに耐えてはいたが、倒壊寸前だった。傾いだ屋根、ボロボロの壁板と畳。雨漏り。もう道場は、たたむしかない、と思った。が、子どもたちは、やめなかった。設備の完備したところより、オンボロの道場で稽古するのを楽しんでいるようだった。<br />
私としては、だれもいなくなったらやめようと思っていたが、そんなかんだで、なかなかたたむ機会を得なかった。そうする間に4年の歳月が過ぎた。<br />
もうだれの目にも道場の限界はあきらかだった。しかし、そんななかでも入門者は、つづいた。やめるべきかつづけるべきか。私はハムレット状態のなかで、心内を書い1文を<br />
朝日新聞の「声」欄に投稿した。採用され2002年5月8日の朝日新聞に掲載された。<br />
投稿は、思わぬところで力を発揮する。以前、「医師への謝礼どうにかならないか」を書いたとき、大きな反響があった。が、オンボロ道場で稽古しているだけの話では、どうにもならないだろう。そんな徒労感はあったが・・・・。<br />
しかし、世の中は不思議である。その投稿が思ってもみない事態を引き起こしたのだ。ちなみに、そのときの投稿は、以下のようなものである。<br />
ニ００ニ年(平成十四年)　朝日新聞　五月八日朝刊</p>

<p>子どもが集う道場は町の灯　　　　<br />
　いつのまにか、道場で柔道をけいこする子どもたちが大<br />
勢になった。畳はボロボロ、トタン屋根は穴だらけ。雨が<br />
――――――――――――――――――　7　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．186</p>

<p>降っても風が吹いても心配なオンボロ道場だ。一年半前、<br />
道場の借地契約が切れた。「町道場の灯を消さないで」。<br />
子どもたちの熱い声に押されて、地主さんにお願いして道<br />
場は残った。<br />
　息子が小一で入門し、それから十数年、高齢の道場主に<br />
代わって指導してきた。何度もやめようと思ったが、父親<br />
に反抗していたり、両親が不仲だったりと、家庭のいろん<br />
な事情を抱えながら通ってくる子どもたちを見ていると、<br />
投げ出すわけにもいかなかった。<br />
　運動ができる立派な建物は、どこの町にもある。が、いま<br />
子どもたちが必要としているのは地域の中の運動の場であ<br />
る。先日も近くの商店街で働く若者が二人、入門した。店<br />
を閉じた後、仕事着のまま駆けつけ汗を流している。<br />
　土曜日も休みになったことで、これからは子どもたちの<br />
入門も多くなるかも。続けられる限り道場を続けてみよう。</p>

<p>オンボロ道場再建日誌</p>

<p>■	五月二十日　月曜日　晴れ　午前十時頃、日本テレビの高橋と名乗る女性から電話あり。用件は、五月八日の朝日新聞で「声」欄を読んだ。興味を持ったので道場を「パワーバンク」という番組で取り上げたい。「一度、話に伺ってもよろしいか」の用件。日曜日の昼に放映されている番組というが、一度も見たことはなかった。怪しい感じでもなかったので、承知した。すると、いきなり「明日、道場を見に行きたい」といった。急なのでちょっと戸惑ったが、断わる理由もないので午後一時に約束した。が、「何何テレビですがクイズに当たりました」といったようないたずら電話もよくあるので、半信半疑だった。</p>

<p>■	五月二十一日　火曜日　晴れ　午後一時、折りよく娘のモモが家にいた。大学が休みだというので、一緒に道場に行くことにした。イタズラなら誰も来ないだけ。来る、来ない。そんな話をしながら道場前に出ていると、とおく成田街道のほうから、四人の男女が徒歩で坂を下りてくるのが見えた。昼間は、人通りのない住宅街だけに、そうかも知れないと思った。が、車でないのが怪しんだ。普通テレビ関係者は、ワゴン車で来る。そう思い込んでいた。4人は、どんどん、こちらに向かって歩いてくると、遠くから頭を下げた。やはりそうか。津田沼からバスで来たらしい。本当だった。何かほっとした。男二人に女二人だった。名刺受け取る。「ＰＢＫ　日曜昼12：30～　(ブタマーク)日本テレビ放送網株式会社」とあり、一人一人名刺をだし名前を名乗った。男性が内田と笠原。女性が高橋と安達。内田は、チョビひげで四十前後。名刺にデレクターとあった。後の三人は三十前後の若者。彼らを道場の中に案内した。あまりの荒れように驚いた様子だった。4人は、穴の開いた天井や</p>

<p>■	壁をため息をついてながめた。とてもテレビに写すには無理だろう。彼らがあきらめて帰るのを想像した。ところが、なぜか、彼らは、こそこそと話をするばかりで埒があかない。十分の後、デレクターの内田氏は、腕組みしてうなるように「なんとか、撮りたいですね」といった。あまりあっさりいうので、変に思った。「そうですか」私は気のない返事をした。いい加減な番組かも知らない。1～2分、撮るだけかも。「いいですよ」私も軽い気持ちで言った。「局に帰って協議しますが」と断り<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・186　――――――――　8――――――――――――――――</p>

<p>ながら内田氏は、番組の説明をはじめた。「善人」と呼ぶボランティアの若者が困っている人を助ける番組だという。こちらには一切、負担をかけない。迷惑もかけない。頼んだときだけ居てもらえれば充分。撮影は簡単とのこと。要は、若者たちが掃除でもして道場をきれいにするらしい。が、なぜか曖昧な気がした。話に聞けば、番組は、方向音痴の若者を治すとか、足が悪くて買い物に行けない人の代わりに買い物に行ってやるとか、そんな簡単な手助けだった。オンボロ道場は、手助けするにしても、手に負えないだろう。案の定、若い三人は、番組にするにはちょっと無理かな。そんな顔だった。が、なぜか一人デレクター氏だけが、やけに熱心だった。しきりと、局に帰ってからを連発していた。<br />
しかし、雰囲気からボツ公算が高かった。もし撮ることになったら「穴のあいた天井には紙でも貼ってテレビ映りがよいようにするしかないですね」そう冗談言って見送った。又、連絡すると言ったがあきらめたようだ。<br />
道場の土地契約は一年前に切れている。もし千に一つテレビ撮影がはじまったら、<br />
テレビなんぞに映されて、既成事実をつくられては困る、すぐ返してくれ。そう迫られやしないかと不安になった。もっとも、そのときは、それを理由にやおめようか。いつやめようか、と考えていただけに、それもよかった。しかし、他方では、まだつづけい思いもあった。それで私の気持ちは複雑だった。</p>

<p>■	五月二十四日　金曜日　日本テレビの高橋さんから電話。「会議の結果、やる方向に動いているんですが」本気かよ。「ちょっと待ってください」私はあわてて言ってきった。よい話か、どうかわからなかった。面倒にも思えた。<br />
■	五月二十五日　土曜日　日本テレビから電話。もしやるとしたらＯＫしてくれるかどうかの打診だった。本気らしい。生徒や保護者、地主さんに聞いてからと返事。<br />
■	五月二十六日　日曜日　道場の生徒に電話。明日、集ってもらうことにした。<br />
■	五月二十七日　月曜日　夜、全員に集ってもらう。子供たちの保護者もきた。内田<br />
デレクターが説明。本格的に改築したいとのこと。費用、いくらかかっても全額日本テレビがもつことを約束した。形として生徒たちが三千円ずつ出し合って道場を直すという美談にするという。なぜ、どうして、そこまでしてテレビ局が、そんな疑問はあったが、オンボロ道場がよくなるなら、それに越した事はない。うまい話である。個人的には承諾したかった。が、なにしろ土地契約切れの道場だけに不安だった。地主の篤志と温情で借りているだけに、判断は地主に任せるほかなかった。<br />
練習生は全員賛成した。どれだけよくなるかはわからないが、少なくても今よりもよくなるだろう、見通し。工事を若い人に請け負ってもらえないかとの話。発注は（株）日本テレビ。支払いは心配ないと思った。しかし、一般の若い人たちはちょうど、忙しい時期で、工事手伝いは無理とのこと。内田デレクターも当てにしていたので落胆する。テレビ局の大道具に相談するという。結局、この夜、九時半まで番組などの説明。</p>

<p>■	五月二十七日　月曜日　朝、日本テレビの高橋女史から電話。本日午前十時三十分に道場を見に行きたいとのこと。時間に道場に行く。内田デレクターが、リホーム会社の社員数名を連れてきていた。(株西友リホーム)　社員はマイクロバスで。背広の上から作業服を着た社員たち。が、巻尺などを手に道場の回りを調べていた。内田デレクターいわく、社に帰って大道具に相談したら、リホーム会社を紹介されたとのこと。どうしても、このオンボロ道場を、よくしたいとのこと。うれしかった。リホーム会社の社員は、一時間近く、あっちこっち見て回った。その結果、答<br />
――――――――――――――――――　9　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．186</p>

<p>えは「無理です」。壊して、新たらしくプレハブで作った方がいいという。土台、床、壁、天井、屋根、全部、腐っていていつ倒壊してもおかしくないとの調査結果。<br />
「全部、なおしてください。どのくらいかかります」<br />
「どのくらい、といっても」リホーム会社の社員は困惑顔だ。<br />
「言ってください、だいたいでいいですから」<br />
内田デレクターは、食い下がる。「言ってくださいよ」<br />
「プレハブなら新築で百万あれば」<br />
「いえ、この状態で、やるとしたら」<br />
「それは、無理です」<br />
上役らしい中年社員は、きっぱり言った。<br />
「金額を言ってくださいよ」<br />
内田デレクターは、あきらめない。<br />
「金額ではないんです」中年社員は、理由を言った。「職人が嫌がるんですよ。こういう仕事は。五百万、一千万でもだめです。文化財をなおすようなもんですから」局の大道具も嫌がったようで、この企画、どうやら暗礁にのりあげたようだ。日本テレビ一行、もう一度編集会議すると帰る。やっぱり、そんなうまい話はないものだと思う。地主さんのこともあるので、ほっとするが残念な気持ちにもなる。</p>

<p>■	五月二十八日　火曜日　日本テレビから吉報。地元の解体屋に頼めそうだとのこと。どうやら本決まりしそうな雰囲気。それなら地主さんの承諾を得なければと伝える。</p>

<p>■	五月二十九日　水曜日　日本テレビの女性社員二人きて金子商事に話す。反対はされなかった。ほっとする。が、まだ半信半疑。夜、解体会社、白井市の(株)橋本土<br />
木の若専務が道場を見にくる。がっしりした短躯で四角い童顔。漫画のガッチャンに似ている。以後ガッチャンと呼ぶことにする。床下などをはがして点検。老朽化とシロアリ被害のひどいのに驚きながらも「これテレビ局にみんななおしてもらいましょうよ」ささやく。なかなかの好漢。内田デレクターの「お願いできます」の頼みにガッチャン、「大変みたいですが、道場のために引き受けましょう」と頼もしい返事。再建工事決定する！不安と期待が入り混じる。　　</p>

<p>■	六月　一日　土曜日　晴れ　真夏日　七時半過ぎモモと道場に行く。番組スタッフ、ロケ隊、大勢の関係者が既に到着して、道場や周辺の撮影をはじめていた。番組の司会役の町田アナウンサーを紹介される。テレビでは、よくニュースも読むそうである。柔道着に着替える。音声係りの人がマイクを懐に取り付ける。午前十時から子どもたち稽古。七名。「善人」と呼ばれる若者たちは背と胸にゼッケン。以後、番号で呼ぶことにする。昼食後、分担決め。各班を決める。畳み係り班、壁板など見積り係り班、手伝ってくれる専門の業者を探す係り班(こちらはすでにガッチャンが決まっているが、そこはバラェティ番組だからとのこと)、各班ごとに出かけて行く。<br />
午後の大半は待ち時間。夜八時半過ぎまで撮影。一日中、稽古着。大半の時間が待ち時間で潰れた。<br />
撮影終了九時。十時、康子と「夢庵」で夕食。善人の若者二人、外から手をふる。どこまで帰るのか。彼らも明日から大変そうだ・・・・。</p>

<p>■　六月　二日　日曜日　晴れ　市民柔道大会。寄藤君の車で有村を道場まで迎えに。小学生は七名全員が出場。一般は高梨君が仕事の都合で欠場。高村君分からず。成毛君から仕事があるので間に合えばとの連絡。が、欠場で不戦敗。良太決勝に残る。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・186　――――――――　10――――――――――――――――</p>

<p>が、強豪市川選手に内股で一本とられる。四時過ぎ道場に行く。畳と床板がきれいさっぱりはがされている。善人二人と橋本土木の職人が作業。八時作業終了。<br />
■	六月　三日　月曜日　晴れ　八時半開ける。善人二人、スタッフ三人。善人二人天井をはがしはじめる。着替え場と机の周辺を片づける。塙、足立の母親がきて手伝う。前の家の佐々木さんにペンチを借りる。モモ、飲み物を買いに地主さんの店に。工事の進み具合を聞かれる。内田宗佑君、小関幸治君手伝いにくる。夕方、姉と、生徒の母親たち全員見に来る。母親たちデレクターからおにぎりづくりの場面撮影を依頼される。小学生と道場周辺をランニング。スタッフ、追いかけて撮影。業者待ちで作業終了、八時半。<br />
■	六月　四日　火曜日　晴れ　モモは大学。善人の若者は誰も来ず。大工さん一人と橋本土木の若い衆二人。スタッフの女性と弁当を買いに。地主の主人がみにくる。あまりの大工事にびっくりして帰る。ふたたび心配になる。が、もうなるようにしかならない。腹をくくり土台作り手伝う。高校生の内田宗佑君手伝う。サッカーＷ杯、日本対ベルギー戦。スタッフの一人テレビ観戦したいようだったが、作業八時半過ぎまでつづく。心体ともくたくた。<br />
■	六月　五日　水曜日　晴れ　朝、地主さんの店に飲み物を買いに。主人から「近所に迷惑かけないでください」と注意されるが、「大変ですね」とも言われたのでほっとする。善人の若者は誰も来ず。大工さん一人だけ。土台に角材を打つ。内田宗佑と一緒に手伝う。夕方、子どもたちとランニング。七時半に作業終了。<br />
■	六月　六日　木曜日　晴れ　モモは学校。善人、誰も来ず。大工（うちださん）一人。土台作り完了。姉の車でスーパー「たかよし」に飲み物と弁当を買いに。クーラボックスの大きいのを姉から借りる。それまでは足立さんから中ぐらいなのを借りていた。花柄のスカートをはいたタレント風女性が来訪。日本テレビの須藤女史。<br />
この番組では一番偉い人との紹介。<br />
スタッフの高橋女史から相談。職人にビール券かなにかを謝礼してくれとのこと。いつのまにか主客転倒。やらせて欲しいと頼みこんできたのに、こちらが頼みこんでやってもらっている形に。図々しいので、「こちらは好意で撮影に協力している」と釘を刺す。五時半に作業終了。姉の家で按摩器にかかる。<br />
■	六月　七日　金曜日　晴れ　モモ大学。大工さん三人。事情がわからず、不満そうだったので、この修理工事の経緯を詳しく説明する。納得する。天井梁の補強。太い角材を五本あげる。午後から善人一名（中村君）、隣り（鹿）のおばさんと話す。文句いってないので安堵。夕方六時、モモくる。八時過ぎまでかかる。デレクター<br />
生徒の母親たちに明日の準備を依頼。大物タレントがくるらしい。トイレとおにぎりづくり。トイレは足立さん宅を借りることにする。<br />
■	六月　八日　土曜日　晴れ　七時半、道場。テレビのロケバス既に到着。町田アナウンサーと善人四人。十時過ぎ、モモ一緒にロケバスで白井市にある橋本土木の廃材置き場に向かう。広大な廃材置き場で、廃材を探す場面を撮影。使えそうなベニヤを軽トラックに積む。ロケバスの中で時間待ち。留守中、道場には番組出演の大物タレントがきているとのこと。トイレを貸して欲しいといったのはこのこと。ガッチャン待ちで二時半、一時間半遅れで戻る。このため大物タレントとの対面ならず。子どもたちと母親がおにぎりを持ってくる。お団子屋さんの豊下君が、巻き寿司とお団子を運んでくる。子どもたちと昼食。二時半、作業開始、床に運んできたベニヤを張る。善人二人は玄関のひさしを修理。夕方、作業終ってから善人たち話し合い。八時半、撮影終了、撮影隊ロケバスで帰る。この日、池袋芸術劇場で読書会があったが、開催を康子と堤さんに依頼する。<br />
――――――――――――――――――　11　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．186</p>

<p>■	六月　九日　日曜日　晴れ　八時、道場を開ける。モモ先に行く。十時、姉の車で康子と行く。姉の差し入れのスイカをだす。寄り藤隆弘君、内田宗佑君、小関幸治君が手伝う。壁のトタンをはぐ。善人四名、午後一人帰る。昼、戻る。一時に静岡大学の矢野敬一先生来訪。インタビュー。学生の「ひがんさの山」の感想が違うことについて。他、熊谷先生の授業の話。四時、姉の車で道場にアイスを持っていく。モモたちは買出し。戻ってモモ、用事。六時作業終了も善人会議。七時半散会。寄藤宅で夕食。<br />
■	六月　十日　月曜日　晴れ　作業休み。台風近づいているとのこと。橋本さんがビニールシートをかけにくるとのことで何度か道場に。夕方、来て張る。子どもたちとランニング。モモ、スタッフ一緒に走る。<br />
■	六月十一日　火曜日　晴れ時々曇り、台風四号近づいて強風。大工さん四名。新顔三人。いきなりよその現場から連れてこられ不満。説明して納得する。善人、七番の中村君と四番の真貝君の二人。屋根と天井の補強。モモ、学校へ。作業終了六時。<br />
■	六月十二日　水曜日　曇り、時々小雨　大工二人、善人七番、四番の二人。屋根、角材と防水シート。壁にサッシの窓を取り付ける。午後から天井補強。小関君くる。子どもとスタッフ、ランニング。六時作業終了。<br />
■	六月十三日　木曜日　曇り　善人四番の真貝君一人。姉、お茶を持ってくる。天井補強作業。五番善人佐藤君くる。土浦から、今日は会社を休んで参加したとのこと。モモと姉、弁当をとりに。七番善人、中村君くる。道場の写真を探す。越智君の両親から電話。北京から帰国したとの連絡。宏君と正君をまた通わせたいとのこと。作業順調。デレクター、今度の日曜日までに終了させたい意向。<br />
■	六月十四日　金曜日　曇り　小雨　肌寒い日になる。善人四番、七番さんの二名。<br />
大工さん一人。午前中で帰る。午後から善人二人で天井角材張り。五月二日に怪我をした左足の親指、まだ腫れている。スタッフは一名。畳班の撮影に行ったとのこと。六時半終了。作業進む。Ｗ杯、日本2－0でロシアに勝ち、16強。<br />
■	六月十五日　土曜日　曇り　康子は高円寺に、医療シンポジウム参加。モモとスタッフの車でスーパーにペンキを買いに行く。撮影。天井、屋根、壁のトタン打ち。善人二人、大工さん三人。九時までかかる。ほぼ完了。<br />
■	六月十六日　日曜日　曇り　いよいよ最後の日。六時に道場に行く。ロケバス到着。善人の若者、五人。内壁のベニヤ打ちを撮影。子どもたち十時三十分集合。ペンキ塗りを手伝う。昼にお弁当をもらって帰る。予算余ったので看板を買いにロケバスで店に。内田夫妻、寄藤隆弘君が同行。内田宗佑君、小関幸治君は残って畳待ち。畳は、見つけられなかったといったが。道場に戻ると畳が入っていた。埼玉の方で見つけたらしい。が、バラエティ番組の造られた感動場面。女性スタッフがトイレで携帯を落とす。拾い出そうとしたが赤ランプがついていて、あきらめる。できあがった道場で子供、スタッフ全員で受け身の練習。撮影。モモ、看板に下原道場と書いて終わり。道で、弁当食べながら缶ビールで乾杯。</p>

<p>六月二十三日（日）、昼十二時三十分から日本テレビで「おんぼろ道場再建」前編が放映された。どんな作品ができたのか心配していたが、よくまとめてあった。あちこちから「よかった」「感動した」との電話やメールをもらった。ひとまずほっとした。<br />
かくてオンボロ道場での私の奮闘は終りを告げた。この先、どれほどつづくか、確証はないがつづけられる限り、この新しく生まれかわった道場と歩んでいこうと思う。<br />
　投稿はつづく＝2003年12月8日「振動は困る　町道場に難題」<br />
　2006年3月16日「カエル」2006年7月28日「カエル飼って子供ら変わる」<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・186――――――――　12――――――――――――――――</p>

<p>掲示板</p>

<p>2012年の文芸研究Ⅱはテキスト志賀直哉＆世界名作</p>

<p>2012年の文芸研究Ⅱは、2011年同様、書くこと、読むことの習慣化を目指します。テキストは志賀直哉の車中作品、生き物作品をとりあげ、自らも「車内作品」「生き物作品」を書いて発表していきます。志賀直哉関連で「嘉納治五郎について」も触れます。<br />
　併せて、世界名作作品（短編）の読みもすすめます。読むことの習慣化として。</p>

<p>2012年文芸研究Ⅲは、</p>

<p>熊谷元一研究のススメ<br />
　文芸研究Ⅲでは、熊谷元一研究をススメます。<br />
　昨年の早春、南信州にあるある山村の宿に泊った、ジブリの宮崎駿映画監督は、長い夜を退屈しのぎに女将が貸してくれた写真集ひらいた。昔の山村や村人の風景。ありふれた写真集。が、頁をめくる監督の手が遅くなった。監督の眼は、完全に写真に囚われていた。長い沈黙のあと「すごい写真だ」監督は思わず嘆息した。そして「撮影者は」と聞いた。「去年の秋、亡くなりました」と女将は言った。「101歳で、お元気だったんですよ」「そうですか、まったく知らなかった。日本にこんな写真家がいたなんて」監督は残念そうにつぶやいた。<br />
　写真家・童画家・教育者だった熊谷元一は、最期までアマチュア写真家を貫いたが、堂々『日本の写真家40人』の一人である。氏の写真に魅せられる人は国外問わずいまもじりじりと増え続けている。観察と継続、好奇心。氏の作品に普遍を知る！<br />
テキスト岩波写真文庫『一年生』ある小学教師の記録・他写真童画集</p>

<p>お知らせ<br />
☆ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」<br />
2012年2月18日（土）池袋勤労福祉会館第7会議室　作品『弱い心』<br />
時間　→　午後2時~　　　詳細は以下、編集室に</p>

<p>☆『ユリイカ　1』（2012　青土社）マンガ家・武富健治特集（ド読書会会員）<br />
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />
編集室便り<br />
　　住所〒274-0825　船橋市前原西6-1-12-816　下原方<br />
　　メール：　TEL・ＦＡＸ：047-475-1582　 toshihiko@shimohara.net</p>

<p>ゼミ授業評価採点は、以下を基本とします。（4単位）<br />
60点　＝　ゼミ誌掲載　　20点　＝　ゼミ出席日数　<br />
15点　＝　提出課題数　　1～5点　＝　α<br />
60＋20＋15＋5　＝　100（100点～以上は100とします）</p>

<p>江古田では身体に気をつけて頑張ってください<br />
</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>文芸研究Ⅱ　下原ゼミ通信No.185</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.shimohara.net/archives/2012/01/no185.html" />
    <id>tag:www.shimohara.net,2012://1.173</id>

    <published>2012-01-16T08:57:05Z</published>
    <updated>2012-01-16T08:59:41Z</updated>

    <summary> 日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2012年（平成24年）1月16日発行 文芸...</summary>
    <author>
        <name>下原敏彦</name>
        
    </author>
    
        <category term="下原ゼミ通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.shimohara.net/">
        <![CDATA[<p><br />
日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2012年（平成24年）1月16日発行</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．185<br />
ＢＵＮＧＥＩＫＥＮＫＹＵ　Ⅱ　ＳＨＩＭＯＨＡＲＡＺＥＭＩ　ＴＳＵＳＨＩＮ<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　編集発行人　下原敏彦<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
9／26　10／3　10／17　10/24　10／31　11／7　11／14　11／21　11／28　12／5　<br />
12／12　1／16　1／23<br />
　　<br />
2011年、読書と創作の旅</p>

<p>1・16下原ゼミ</p>

<p>1月16日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室</p>

<p>1．	ゼミ誌『旅路報告』合評　（参加者作品）<br />
一、	僕らが見た日常「車内観察」、「なんでもない一日の記録」<br />
二、	それから二カ月後に見た、僕らの「日常」</p>

<p>2.	カルタ大会(小倉百人一首)　</p>

<p>2012年、よい年でありますように</p>

<p>　今年2012年の車窓は、どんな風景が見られるでしょう。社会的には、震災復興や原発の是非等、大きな問題があります。文芸研究Ⅱの皆さんは、4月から江古田校舎に移ります。大学生活もいよいよ後半の旅です。よい年でありますように・・・・・・・。</p>

<p>ゼミ誌『旅路報告』刊行　12月12日納入</p>

<p>　1年間のゼミ授業の成果ともいえるゼミ誌『旅路報告』が締切日までに上梓された。前期、後期とも欠席者の多い年だったが、ほとんど休みなく出席した編集委員の皆さんの尽力で無事に期限までに納入することができた。ご苦労さまでした。</p>

<p>12・12ゼミは、3ゼミ合同発表会</p>

<p>3ゼミの発表内容は以下の通りでした。<br />
はしめ・山下聖美先生挨拶<br />
【清水ゼミ】<br />
報告　→　ドストエフスキー研究、前期『罪と罰』の登場人物論、後期『貧しき人々』論。<br />
寸劇　→　宮沢賢治『まなづるとダァリヤ』<br />
【山下ゼミ】<br />
発表　→　宮沢賢治『銀河鉄道の夜』シンポ形式。写真、映画、宗教、落語ありの多様報告。<br />
【下原ゼミ】<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>模擬裁判　→　志賀直哉『剃刀』春日菜花脚本「剃刀職人客殺害疑惑事件」武田、春日、杉山の3人が、裁判長、検察、被告、弁護、証人を。結審・有罪5年実刑。<br />
おわり・下原、講評<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ.185――――――――　2　―――――――――――――</p>

<p>ゼミ誌『旅路報告』</p>

<p>表題とカバー写真がマッチした本になりました。厚みものほどよいものです。総じて装丁は十二分によかったと思います。<br />
目次は、編集者の苦労が出ています。が、簡潔にまとまっています。<br />
以下、抜粋で冒頭部分を紹介します。短編でも始まりは重要。読者の興味をどれだけ目覚めさせられるか。また、作者の特徴をどれだけ汲み取らせることができるか...。</p>

<p>一、僕らが見た「日常」～課題「車内観察」「何でもない一日の記録」～</p>

<p>椎橋萌美　○月◎日「ガタンゴトンと揺れるたび、お腹の中からギャアギャアと悲鳴が和木懲ります。きっと相手国が戦車やら大砲やらを出してきたのでしょう。困ったものです」<br />
會澤佑果　○月●日「黒のタンクトップにベージュのニット、デニムのスカートの下には厚手のタイツ。靴下を重ねて履くのは、逆に足を冷やすと誰かが言っていたな、」<br />
春日菜花　□月■日「きゃつ、と、微かに悲鳴がした。本当に小さな声だったので、その周辺にいた人しか聞こえなかっただろう。その発生源は私の斜め前からだった。」<br />
武田結香子　△月▲日「カタンカタン、と電車の振動がリズムよく身体に響く。乗客は私一人。空はよく晴れていて、陽が高く昇っていた。車内に差し込む光は、」<br />
中村俊介　☆月★日「学校へ行くために、電車に乗る。学校までは一駅。すぐに着いてしまうのだが、今日はゆっくりと車内を観察してみようと思う。」<br />
杉山知紗　◇月◆日「持っているビニール傘から滴を垂らした。セーラー服の娘が車内に乗り込んできた。眼はぱっちりと、頬は丸くすべすべしていた。」<br />
大野純弥　◎月●日「今日の昼は彼女とご飯を食べるつもりでしたが、最近彼女の精神状態が著しくよろしくないのでおじゃんとなりました。」<br />
藤塚玲奈　●月○日「線香立て続けていればいいんだから、こっちはしまっておくわね。妻の今日子がそう言って渦状の線香を片付けた。俺は同じ線香ならそちらの方がー」<br />
内田悠介　■月□日「僕が心の底から本心を話したり、悩みを打ち明けたりできる友達は少ない。というか、数人しかいない気がする。昨日、そのうちの一人と一対一でお酒を」<br />
中村俊介　☆月☆日「窓から差し込む朝陽に起こされ、眼を覚ました。枕元に置かれた携帯電話を手探りでつかみ、画面に表示された時刻をぼうっと見る。」<br />
三矢日菜　▽月▲日「インドアな私が嬉々として鞄に物を詰め颯爽と家を出たとき、それはもう浮かれていた。自転車に乗って地元の図書館に行こうと、前日から計画いた」<br />
柳瀬美里　◆月◇日「よく小説で、お前以外では自分が一番、お前のことをわかっている。と言う言葉を見る。よく、といっても最近のものではなく、一昔前の恋愛や友情系の言葉」</p>

<p>※読書も旅と同じ。最初の一文が旅人の一歩を誘う。書くことの習慣化を目指した「車内観察」と「一日の記録」。身に着いただろうか。</p>

<p>三、	それから二カ月後に見た、僕らの「日常」～自由創作～</p>

<p>藤塚玲奈　「『NIKKI』こうして江の島を訪れるのは初めてのことだった。以前から憧れてはいた。一人でぶらりと海を見に行くような大人みたいなことをしてみたいと思っていた。大人というか、女性というか、しかし少女に留まっている訳でもなくその〈女性〉にもなりきれず仕舞こんだ。ただただ徘徊する動物のようてだある。」<br />
春日菜花　「焼けつくような日差しで首の後ろがじりじりと痛いし、こめかみを伝う汗の感覚が誰かに撫でられているようで気持ち悪い。ズボンのポケットからハンカチを出して、ぐいと右から左へと汗を拭った。人の気配はしないのに、蝉の鳴声と時たま通る車の音でひどくうるさく感じる。うつむいていた顔を少し上げると真っ直ぐに続くアスファルトの道」<br />
――――――――――――――――――　3　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．185</p>

<p>藤原侑貴　『不登校くずれ』「ふと、中学校に行こうと思った。出身校であるから、母校という表現が正しいかもしれないが、あの学校にはほとんど通っていない。一年生の五月、ゴールデンウィーク明けにはもう行かなくなっていたように記憶している。」<br />
武田結香子　「気がつくとそこは何もない。真っ暗な空間だった。どこまでも果てしなく広がっている。俺は不安になって走り出す。行き先も分からないまま、ただひたすらに。でも光なんてどこにもなく、叫んだってむなしく響くだけで、悲しさと、寂しさと苦しさが混ざりあう。俺は立ち止まってしまう。心の中で誰かが問いかけてくる。」<br />
杉山知紗　「少女たちだった。細い体躯より伸びた白い腕足は、セーラー服に包み隠されていた。少女たちは小さな唇を白い手で隠しながら耳元に寄せ、甘い声密やかに囁いた。少女は黄色い声を上げ、少女の手を取った。少女たちの三つ編みとスカートが揺れる。しかし少女たちは女だった。初恋を思わせる頬の色合いがあっても、交換された赤いスカーフがあっても。」</p>

<p>※「2011年、読書と創作の旅」と題して、この一年、書くこと、読むことの習慣化・日常化を目指して旅してきた。これらの作品から成果を読みとることができるか。<br />
ゼミ誌文庫本刊行に孤軍奮闘したゼミ誌編集長は、裏表紙をこんな言葉で締めくくった。</p>

<p>「2011年・本の旅　あなたはどんな景色を見るのでしょうか」そんなタイトルで始まった下原敏彦ゼミ。普段何気ない「日常」から新たな発見を探す旅へ。今、歩きだす。<br />
（ゼミ誌編集長・武田結香子）</p>

<p>第10回江古田文学賞（『江古田文学　78』発表）</p>

<p>杉山知紗『へびとむらい』<br />
「華ちゃんが高校にコネで入学したことと援助交際をしていたことは誰もが知っていたけれど、蛇を飼っていることはひとりだけしか知らなかった。華ちゃんは入学してすぐ面倒になって不登校になってしまった。―――」</p>

<p>選　評（『江古田文学　78』から）</p>

<p>上記、最初の「一文に内容全てが要約されてしまう作品かも知れない。しかし、その一つ一つの要素から独自の軽やかな饒舌体で膨らませた世界は、不思議なん細部のリアルさをともなって読み手のなかに入ってくる。」（青木敬士）</p>

<p>「ここでは引きこもりとか援助交際とかが、困ったことだとも悪いことだとも思われてはいない。―――　結末部分がいささかつじつま合わせの展開になっているけれども、作品は充分に才気を感じさせる。」（近藤洋太）</p>

<p>「現実が非現実を超える現実を描いた凄い作品で、全員、文句なしで決まった。――他作品を圧倒した作品であった。文章からは、主人公の女子高校生に相応しい生き生きした感性が伝わったし、細部の描写にも今風の高校生らしい感覚が滲み出て、説得力があった。――もっと読みやすさを工夫すると、さらに小説としての評価は上がるはずである。」（村上玄一）<br />
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />
　はじめ作品の題名を聞いたとき、なぜか牧歌的印象を思い描いた。田園風景。花咲く野辺に穴を掘って蛇を埋める。子どもの頃、体験したこんな風景。が、作品は、そんな郷愁を一蹴した。物語は都会の自宅で輸入品の蛇をペットにして殺す話。主人公は不登校、援助交際の女子高生。おまけに交際相手は担任教師。彼女の部屋は狭いが、俗世のいろんな欲望が詰め込まれている。ヘビは象徴のようにも思える。（編集室）<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．185――――――――　4　――――――――――――――</p>

<p>1・16ゼミの名作読みは『小倉百人一首』</p>

<p>わが国最高の名作のひとつに、この小倉百人一首があります。が、読者は近年、両極になってきているようです。競技や入試対策など必要あって読む人と、趣味で読む人。それ以外はまったく読まないようです。このゼミでは、どうかというと毎年、聞いてみるのですが、ほとんどの人が読んでいません。今年は一人いました。名作は、たいていそんなものかも知れません。が、新年で、せっかくなのでカルタ大会を行います。坊主めくりも。</p>

<p>2011年読書と創作の旅　百人一首一覧</p>

<p>　１.秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ 　　　　天智天皇　<br />
　2.春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山 　　　　　　　持統天皇 　<br />
　3.あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む 　柿本人麻呂 <br />
　4.田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士のたかねに 雪は降りつつ 　山部赤人<br />
　5.奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき 　　　　　　猿丸大夫<br />
　6.鵲の 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける 　　　　　　中納言家持<br />
　7.天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 　　　　　安倍仲麿<br />
　8.わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり 　　　　喜撰法師<br />
　9.花の色は 移りにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに 　　小野小町<br />
10.これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関 　　　蝉丸<br />
11.わたの原 八十島かけて 漕き出でぬと 人には告げよ あまのつりぶね 　参議篁<br />
12.天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ 　　　　　僧正遍昭<br />
13.筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる 　　　陽成院<br />
14.陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに 　　　　河原左大臣<br />
15.君がため 春の野にいでて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ 　　　　光孝天皇<br />
16.立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む 　　　中納言行平<br />
17.ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは 　　　在原業平朝臣<br />
18.住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ 　　　　藤原敏行朝臣<br />
19.難波潟 短かき蘆の 節の間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや 　　　　伊勢<br />
20.わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても 逢はむとぞ思ふ 　　元良親王<br />
21.今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな 　　　素性法師<br />
22.吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ 　　文屋康秀<br />
23.月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど 　　大江千里<br />
24.このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに　　 菅家<br />
25.名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな 　　三条右大臣<br />
26.小倉山 峰の紅葉ば 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ　　　 　　貞信公<br />
27.みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ　 　　中納言兼輔<br />
28.山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば　　 　　源宗于朝臣<br />
29.心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花　　 　　　凡河内躬恒<br />
30.有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし　　 　　　壬生忠岑<br />
31.朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪　　 　　　坂上是則<br />
32.山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり　　 　　春道列樹<br />
33.久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ　　 　　　　　紀友則<br />
34.誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに　　 　　　　　藤原興風<br />
35.人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける　　 　　　紀貫之<br />
36.夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ　　 　　清原深養父<br />
37.白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける　 　　　文屋朝康<br />
――――――――――――――――――　5　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．185</p>

<p>38.忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな　　 　　右近<br />
39.浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき　　 　　参議等<br />
40.忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで　　 　　平兼盛<br />
41.恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか 　　壬生忠見<br />
42.契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは 　　　　　清原元輔<br />
43.逢ひ見ての 後の心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり 　　 　　　　権中納言敦忠<br />
44.逢ふことの 絶えてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし 　 中納言朝忠<br />
45.哀れとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな 　　　謙徳公<br />
46.由良の門を 渡る舟人 かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな 　 　　　曽禰好忠<br />
47.八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり 　 　恵慶法師<br />
48.風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけて物を 思ふころかな 　 　　源重之<br />
49.みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえ 昼は消えつつ 物をこそ思へ　　　大中臣能宣朝<br />
50.君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな　　 　　　藤原義孝<br />
51.かくとだにえやはいぶきのさしも草　さしもしらじなもゆる思ひを　　　藤原実方朝臣 <br />
52.明けぬれば暮るるものとはしりながら　なほうらめしき朝ぼらけかな　　藤原道信朝臣 <br />
53.なげきつつひとりぬる夜のあくるまは　いかに久しきものとかはしる　　右大将道綱母 <br />
54.忘れじのゆくすえまではかたければ　今日を限りの命ともがな 　　　　　儀同三司母<br />
55.滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ　　　　　　大納言公任<br />
56.あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな　　　和泉式部<br />
57.めぐりあひて見しやそれとも　わかぬまに雲がくれにし夜半の月かな　　紫式部<br />
58.有馬山　猪名の笹原　風吹けば　いでそよ人を忘れやはする　　　　　　　大弐三位<br />
59.やすらはで寝なましものをさ夜ふけて　かたぶくまでの月を見しかな　　　　赤染衛門<br />
60.大江山いく野の道の遠ければ　まだふみも見ず天の橋立　　　　　　　　　小式部内侍<br />
61.いにしへの奈良の都の八重桜　けふ九重ににほひぬるかな　　　　　　　伊勢大輔<br />
62.夜をこめて鳥のそらねははかるとも　よに逢坂の関はゆるさじ　　　　　清少納言<br />
63.いまはただ思ひ絶えなむとばかりを　人づてならで言ふよしもがな　　　左京大夫道雅<br />
64.朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに　あらはれわたる瀬々の網代木　　　　　権中納言定頼<br />
65.うらみわびほさぬ袖だにあるものを　恋にくちなむ名こそをしけれ　　　相模<br />
66.もろともにあはれと思へ山桜　花よりほかにしる人もなし　　　　　　　前大僧正行尊<br />
67.春の夜の夢ばかりなる手枕に　かひなくたたむ名こそをしけれ　　　　　周防内侍<br />
68.心にもあらでうき世にながらへば　恋しかるべき夜半の月かな　　　　　三条院<br />
69.あらし吹くみ室の山のもみぢばは　竜田の川の錦なりけり　　　　　　　能因法師<br />
70.さびしさに宿を立ち出でてながむれば　いづくもおなじ秋の夕ぐれ　　　良選法師<br />
71.夕されば門田の稲葉おとづれて　蘆のまろやに秋風ぞ吹く　　　　　　　大納言経信<br />
72.音に聞く高師の浜のあだ波は　かけじや袖のぬれもこそすれ　　　　祐子内親王家紀伊<br />
73.高砂のをのへのさくらさきにけり　とやまのかすみたたずもあらなむ　前権中納言匡房<br />
74.憂かりける人を初瀬の山おろしよ　はげしかれとは祈らぬものを　　　源俊頼朝臣<br />
75ちぎりおきしさせもが露をいのちにて　あはれ今年の秋もいぬめり　　　藤原基俊<br />
76.わたの原こぎいでてみれば久方の　雲いにまがふ沖つ白波　法性寺入道前関白太政大臣<br />
77.瀬を早み岩にせかるる滝川の　われても末にあはむとぞ思ふ　　　　　　崇徳院<br />
78.淡路島かよふ千鳥のなく声に　幾夜ねざめぬ須磨の関守　　　　　　　源兼昌<br />
79.秋風にたなびく雲のたえ間より　もれいづる月の影のさやけさ　　　　左京大夫顕輔<br />
80.長からむ心もしらず黒髪の　みだれてけさはものをこそ思へ　　　　　待賢門院堀河<br />
81.ほととぎす鳴きつる方をながむれば　ただありあけの月ぞ残れる　　　後徳大寺左大臣<br />
82思ひわびさてもいのちはあるものを　憂きにたへぬは涙なりけり　　　道因法師<br />
83.世の中よ道こそなけれ思ひ入る　山の奥にも鹿ぞ鳴くなる　　　　　皇太后宮大夫俊成<br />
84ながらへばまたこのごろやしのばれむ　憂しと見し世ぞ今は恋しき　　　藤原清輔朝臣<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・185　―――――――　6――――――――――――――――</p>

<p>85.夜もすがら物思ふころは明けやらで　閨のひまさへつれなかりけり　　　俊恵法師<br />
86.なげけとて月やは物を思はする　かこち顔なるわが涙かな 　　　　　　　西行法師<br />
87.村雨の露もまだひぬまきの葉に　霧たちのぼる秋の夕ぐれ　　　　　　　寂蓮法師<br />
88.難波江の蘆のかりねのひとよゆえ　みをつくしてや恋ひわたるべき　　皇嘉門院別当<br />
89.玉の緒よたえなばたえねながらへば　忍ぶることの弱りもぞする　　　式子内親王<br />
90.見せばやな雄島のあまの袖だにも　ぬれにぞぬれし色はかはらず　　　殷富門院大輔<br />
91.きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む　後京極摂政前太政大臣<br />
92.わが袖は潮干にみえぬ沖の石の　人こそしらねかわくまもなし　　　二条院讃岐<br />
93.世の中はつねにもがもななぎさこぐ　あまの小舟の綱手かなしも　　　　鎌倉右大臣<br />
94.み吉野の山の秋風さ夜ふけて　ふるさと寒く衣うつなり　　　　　　　　参議雅経<br />
95.おほけなくうき世の民におほふかな　わがたつ杣に墨染の袖　　　　　　前大僧正慈円<br />
96.花さそふ嵐の庭の雪ならで　ふりゆくものはわが身なりけり　　　　　入道前太政大臣<br />
97.こぬ人をまつほの浦の夕なぎに　焼くやもしほの身もこがれつつ　　　　権中納言定家<br />
98.風そよぐならの小川の夕ぐれは　みそぎぞ夏のしるしなりける 　　　　従二位家隆<br />
99.人もをし人もうらめしあぢきなく　世を思ふゆえに物思ふ身は　　　　後鳥羽院<br />
100.ももしきやふるき軒ばのしのぶにも　なほあまりある昔なりけり　　　順徳院</p>

<p>解説のなかで、注目される一つ<br />
　<br />
◇	32.山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり　　 　　春道列樹</p>

<p>この歌は、古注では「風のかけたるしがらみ」という表現をきわめて高く評価しており、応永抄では、「誠にはじめて言出したる妙処也」、頼孝本は「ことばあたらしくおもしろきうたなり」、上條本は、「粉骨也」、米沢本は「金玉なり」なりと絶賛している。<br />
しかし、その表現内容の理解には微妙な相違がある。紅葉が間断なく散り落ちて流れもせきかえすばかり、と見る光景と、紅葉のながれる跡より吹き入れて、そこにもみじのたえぬしがらみ、と見る光景など。詳しくは『百人一首』（講談社）解釈参照</p>

<p>百人一首について</p>

<p>　「百人一首」についてカルタでは知っているが、歴史、選者についてはあまり知られていない。編集室も右同じである。古文は苦手ということからゲーム以外には目を向けなかった。が、講談社学術文庫・有吉保全訳注『百人一首』を買って読んだら、これが解り易くて面白い。いろいろわかったこともある。で、解説の１部を紹介する。以下、同書解説から。<br />
一、書　名<br />
　百人一首とは、百人の歌人から各一首ずつ歌を集めたもの、という意味である。この書名は、現存の百人一首注の最古の奥書をもつ『百人一首応永抄』(応永十三年1406年の藤原満基の奥書)の内題に「小椋(倉)山庄色紙和歌」とあるものの、その序文には「世に百人一首と号する也」とあるように、古くより「百人一首」と呼ばれていたとみられる。その後、足利義尚の『新百人一首』や『武家百人一首』『女房百人一首』などが世に出て、それらと区別するために「小倉」を冠として「小倉百人一首」と呼ぶようになった。「小倉」「小倉山荘」などを付した名称となったのは、後述するように、百人一首の成立が藤原定家の小倉山荘と深い関係にあると考えられたからである。<br />
二、選者と成立<br />
　百人一首は、中世以来藤原定家の撰と信じられてきた。しかし、近世になり、安藤為章(年山)が『年山紀聞』(元禄十五年成る)で、定家の『名月記』分暦二年(1235)５月27日の条に<br />
とあることにより、入道蓮生(為家の妻の父)が自身の嵯峨中院の別荘の障子に貼るため、歌</p>

<p>――――――――――――――――――　7　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．185</p>

<p>をみずから選び染筆のみを定家に依頼したという説を示した。その後、諸説があったが、百人一首の成立問題は稿者の『百人一首応永抄』「百人秀歌」の紹介により一つの曲がり角を迎えたと思われる。そして「墨美」に定家筆とされる後鳥羽院「ひともおし」の小倉色紙が掲載されたことにより、近来の諸説は、後述するように定家撰説が有力で、部分的補ていの点で意見の相違がみられる。<br />
　ところで、先に掲出した『名月記』分暦二年(1235)５月27日の記事は『百人一首』と深い関係にある『百人秀歌』の記述とみられるので、まず『百人集荷』について検討しておきたい。<br />
三、「百人一首」の成立</p>

<p>　百人一首は、既に完成していた百人秀歌を草稿として、成ったものとみられる。そして、この両書とも定家の手になるものと考えるのが多くの意見であるようである。<br />
　しかし、現存の『百人一首』は、色紙との関係や補訂者とその時期をいつと考えるかに問題がまだ残されているようにみられる</p>

<p>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p>

<p>「　透　明　な　存　在　」　の　正　体</p>

<p>　　　　　　「ドストエーフスキイと現代の問題」1999年シンポジウム報告から　</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　下原　敏彦</p>

<p>　「人を殺して、なぜいけないのか」と問う少年たち。「自分の体でお金を稼いで、なぜ悪いのか」と答える少女たち。杉山さんの「へびとむらい」でもみるように現代の問題は、より不可解で、理解しがたい問題となってきている。謎に満ちた現代の問題。はたしてドストエフスキーで解くことが、語ることができるだろうか・・・。ここでは神戸の少年Ａの事件簿を考察しながら挑戦してみた。<br />
以下は、前号のつづきです。（2回目の掲載、加筆）</p>

<p>三　、　「　透　明　な　存　在　」　と　ドストエフスキー</p>

<p>　ドストエーフスキイの作品には、異常とも思える人物たちが次々と登場する。と、いうより物語は殆ど異常な人たちで構成されている。ここで言う異常な人たちというのは、いわゆる「透明な存在」にコントロールされた人たちのことである。<br />
例えば『貧しき人々』のマカール・ジェーヴシキン。彼は、身よりのない若い遠縁の娘ワルワーラにせっせと手紙を書き続ける中年男だが、その純情行為は現代において、まさにストーカー的と言えなくもない。「あなたの卑しき下僕にして忠実無比の友（米川訳）」からはじまった手紙の差出人の添え書きは、「永久にあなたのために最も忠実なる友」になり、「あなたのＶ・Ｄ」となり、途中から「愛するワーレンカ」の呼びかけにエスカレートしていく。彼女のために役所勤めの給料すべてつぎ込み路頭に迷ってもなお、「わたしの愛する人、なつかしい人、わたしのワルワーラ」と叫びつづける執拗な未恋心。毎夜、マットレスの中に隠した金貨銀貨をこっそり数える『プロハルチン氏』の吝嗇。『罪と罰』では、前述した非凡人思想（ナポレオンになりたいと思う心）に憑かれた主人公ラスコーリニコフ、アル中の典型人間マルメラードフ、自己犠牲の信奉者ソーニャ。水晶宮という『悪霊』にと取り憑かれた若者たちもまたしかりである。『白痴』には、摂食障害に陥ったような、あきらかにそんなふうな過激でエキセントリックな女性たちが、何人も登場する。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・185　――――――――　8――――――――――――――――</p>

<p>とにかくドストエーフスキイの作品には、守銭奴、アル中、吝嗇、非凡人妄想家などあらゆる欲（存在）にとりつかれた人間が多数登場する。彼らは一見普通の市民に見えるが皆、何か強い見えぬ力に操られて行動しているかのようでもある。まるで操り人形のように。<br />
　ドストエーフスキイは、作品の中にこうした人たちを描くばかりではなく、現実の社会のなかにも「透明な存在」にコントロールされたかのような人々や主義・思想を見つけることができた。たとえば社会主義という崇高な理念。そのなかに人々を粛清し奴隷化する「透明な正体」が潜んでいることを見抜いていた。当時、若者たちの心をつかんだチェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』の未来には何があるのかを理解していた。それにいち早く気づいたのは20世紀初頭のロシアの批評家ペレヴェルゼフ（1882-1968）だった。彼はロシア革命の嵐の最中、ドストエフスキー生誕百年祭のなかで、「ドストエフスキーと革命」を講演し、「現下においてこそ、ドストエフスキーを想起し」再読しなければならない、と警鐘を鳴らした。<br />
また、犯罪者のなかにも「透明な存在」に取り込まれた不幸な人を見つけ、彼らを救いだすために手を尽くした。（このためドストエーフスキイは、ともすると犯罪者の味方のように誤解される）。犯罪者の救済――『作家の日記』にみる「単純な、しかも厄介な事件」は、その一つの好例である。それは次のような事件である。　<br />
　五月のある朝、いつものように新聞を読んでいたドストエーフスキイは、ある記事に興味を抱いた。それは継母が六歳の継娘を殺そうとして未遂に終わった事件である。この事件は夫に不満を持つ妻が、夫の連れ子である継娘を殺そうと計画。朝、夫を見送ったすぐあと実行した憎むべき事件である。彼女は夫の背中が見えなくなると、急いで四階の窓に継娘を呼び、小さな足首をつかんで窓外に放り投げた。彼女は、その足で警察に自首した。十何メートルの高さだったが奇跡的に少女は助かった。しかし、幼い可愛い盛りの子供を殺そうとした罪は、とうてい許されるものではない。が、ドストエーフスキイは何か腑に落ちないものを感じた。このことで「しかるに、実際においては、この人非人の継母の振る舞いはあまりに奇怪千万なので」と書いている。存在のにおいをかぎとったのである。<br />
　そして、一八七六年十月十五日にこう書いている。<br />
　「裁判所で例の継母事件の判決があった／半年前の五月に／幼い継娘を、四階の窓からほうり出したところ、子供は何かの奇跡で怪我一つせず、息災でいたという、あの事件なのである。」判決は、殺人未遂事件の容疑者・継母エカチェリーナ・コルニーロヴァ（20）を二年八ヵ月の懲役に処し、その満期後、終身シベリア流刑という重い、そして単純明瞭なものであった。<br />
この判決にドストエーフスキイは不満を感じた。彼女が妊婦だったことから、事件の中に彼女の意志ではない何かの介在を感じ取ったのだ。ドストエーフスキイは、犯罪を行なったのは「並はずれた激情（アフェクト）」と考えた。つまり事件の真犯人は「並はずれた激情」で彼女自身には罪がないというものだった。この論旨でドストエーフスキイは裁判史上例のない弁護を熱く展開した。<br />
　その結果、動かしがたいと思えたこの判決は覆って無罪となった。このとき、ドストエーフスキイが感じたアフェクトというもの、それはもしかして少年Ａが自らの心の中に認識した「透明な存在」のようなものではなかったか。私はそのように思うのである。<br />
☆激情（アフェクト）＝　少年Ａの「透明な存在」＝現代の問題を引き起こすもの<br />
それでは、なぜドストエーフスキイは、このように「透明な存在」に操られる登場人物を作品に描いたり、実社会のなかに発見することができたのか。<br />
それは、もしかしたらドストエーフスキイ自身も「透明な存在」に支配され操られていた。そうした事実があったからではないか、と想像する。ドストエーフスキイの心の中に棲み、ドストエーフスキイを操っていた「透明な存在」とはいったいどんな存在であったのか。<br />
ドストエーフスキイといえば死刑宣告、シベリア流刑、そして癲癇の病をもつ文豪ということでよく知られている。が、一時期、もう一つの顔をもっていたことは、一般にはあまり<br />
――――――――――――――――――　9　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．185</p>

<p><br />
知られていない。ドストエーフスキイのもう一つの顔。それはギヤンブルにのめりこんだ賭博者の顔である。ドストエーフスキイはルーレットをどうしても止めることができなかった。そのために家族を苦しめ、常に自己嫌悪に陥っていた。<br />
（「家庭から、妻子から金をもぎとってしまったという自責の念でその一週間に夫が味わわ<br />
ねばならなかった苦しみ」）ドストエーフスキイがギャンブル狂いするのに、妻のアンナには、理解できなかった。死刑に直面し、酷寒のシベリア流刑を強い意志で耐えることができた彼が、どうしてルーレットごときの誘惑に負けてしまうのか。（「はじめのうち、あれほどさまざまな苦しみ「要塞での監禁、処刑台、流刑、愛する兄や妻の死など」を男らしくのりこえてきたフョードル・ミハイロヴィチほどの人が自制心もって、負けてもある程度でやめ、最後の一ターレルまで賭けたりしない意志の力をどうして持ちあわせないのか不思議でならなかった。」と語っていた。<br />
　ギャンブル熱、それは家族への愛も他者へのいたわりも、作家の意志さえも無視する存在。強烈で堅固な、ただひたすら目的だけを果たそうとする非情な存在。二×二＝四の存在宇宙に生きる者にとっては、到底、理解しがたい存在なのだ。夫人が理解できないのも無理からぬことである。だがしかし、彼女はその後、夫に取りついた不可解な存在（ギャンブル熱）について、このように解釈し納得した。「これは単なる〃意志の弱さ〃などではなく、人間を全的にとらえる情熱、どれほどつよい性格の人間でもあらがうことができない何か自然発生的なものだということがわかってきた」<br />
　ギャンブルという依存症。それは「透明な存在」を限りなく連想する。ドストエーフスキイにギャンブルをさせていたのはドストエーフスキイ自身ではない、ほかの誰か。つまりも「透明」という名の「存在」ではなかったか、と思うのである。<br />
　それではドストエーフスキイはどうしてギヤンブル狂になってしまったのか。この疑問は、なぜドストエーフスキイは「透明な存在」に取り憑かれてしまったか、あるいは成長されてしまったのか。<br />
いわゆる専門家の見方として、たいていの依存症（嗜癖）は心の傷（トラウマ）と密接な関係がある、といわれている。つまり心の傷には、「透明な存在」が成育するのに適した環境がある、ということである。心の傷と「透明な存在」の関係について知るには、その人の人生を振り返ってみる必要がある。すると虐待する親には、虐待する親が、自虐の子には、自虐の親が、といったようにそこには必ずや不幸の連鎖がある。<br />
ではドストエーフスキイには、どんな連鎖があったのか。彼の人生を振り返ってみると、（私の想像するところではあるが）、いわゆる「透明な存在」が好んで棲みついたトラウマがいくつもある。多感な少年期に愛する母を亡くしたときの傷、また、密かに忌み嫌っていた父親が異常な殺され方をしたときの傷。（間接的に父殺ししたと思い）<br />
　もっとも、たいていの人は、その少年期において何らかのトラウマをもっている。だれもが癌細胞を有するように「透明な存在」をも棲ませているのである。そして、たいていの癌細胞がそうであるように殆ど何の活動もしないで終わる場合が多い。「透明な存在」が活動するのは切っ掛けがある。ドストエーフスキイの場合どんなきっかけがあったのか。アンナの日記によるとドストエーフスキイがギャンブルをはじめたのは、兄ミハイルの急死（一八六四年）以降のようだ。<br />
　人の死と「透明な存在」の活動開始の関係。ここで思い出すのが現代の問題といわれる犯罪の容疑者と人の死の因果関係である。連続幼女殺人事件の犯人・宮崎勤は「祖父の死」をきっかけに犯行を重ねたといわれる。神戸の事件も、少年Ａの「祖母の死」が引き金となったようにいわれている。京都の小学生殺人事件の容疑者が変わったのも「父の死」以降といわれる。犯罪とギャンブルでは行為そのものは違うが、どちらも親しい人間の死によって潜んでいた「透明な存在」が成長し、恐ろしい怪物と化したことになる。<br />
このように仮定すれば、ドストエーフスキイにとりついた「透明な存在」は、兄ミハイル<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・185　――――――――　10――――――――――――――――</p>

<p>の死を契機に活動を開始したことになる。ギャンブルというかたちで。</p>

<p>ゆえに些か短絡的ではあるが、ドストエーフスキイと現代の問題は次のような共通項で繋がってくるのでは、と思うのである。<br />
ドストエーフスキイ＝ギャンブル＝止めようとしても止まらぬもの、やめることのできないもの＝少年Ａの「とうてい、反論こそすれ抵抗などできようはずもない」（懲役１３年）<br />
もの「魔物」＝「透明な存在」による不可解な事件＝現代の問題。<br />
　「透明な存在」の支配から、脱出するのは難しい。また、それ以上に心の中に「透明な存在」を見つけだすのも難しい。神戸の少年Ａは、例の作文のなかでこう書いている。<br />
「通常、現実の魔物は、本当に普通な"彼"の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際、そのように振舞う」。独裁者に歓喜する国民、傍からみれば詐欺まがいの宗教をひたすら帰依している信者たち。彼らをみると頷ける。<br />
日本にアダルトチルドレンの言葉を紹介した精神科医は、はっきりとこう断言している。拒食症・過食症、ギャンブルなど依存行為（「透明な存在」）にとらわれた人たちの治療は難しい。医師やカウンセラーだけの力では治らない、と。<br />
神戸の少年Ａは、カウンセリング中にあの事件を計画し、実行したのである。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　つづく<br />
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p>

<p>ノンフィクション劇場　　柔道・町道場の灯を守って　土壌館物語<br />
連載5<br />
　おんぼろ道場奮戦記　</p>

<p>前回まで<br />
1996年11月24日ＮＨＫテレビ「日本点描」番組で「教え子たちの歳月」が放映された。写真家熊谷元一が、43年前の教え子たちを訪ねて写真に撮るという企画だった。教え子たち一人一人の現在を熊谷が追い、その後をテレビの撮影隊が追った。私の現在は、柔道師範だった。ひょんなこととはいえ、それがきっかけで私は、迷っていた町道場を完全に引き受けることに決心した。徒手空拳の私が、一夜にしておんぼろだが35畳の柔道場の道場主になったのだ。もしかして運が向いてきたのではと喜んだ。が、糠よろこびだった。道場は借地で、契約期間も後3年、おまけに、地主からは借地返還を迫られていた。<br />
平屋でトタン屋根の道場は、道場とは名ばかりで、廃屋同然だった。何のことはない私は、巨大な粗大ゴミを引き受けてしまったのだ。御年90になる老先生には今さら、やめます、ともいえず困った。解体して更地にするには金がかかる。子どもたちも数人通っている。そんなことから、とりあえず、つづける他なかった。しかし、不動産屋は黙っていなかった。一日も早く駐車場にしたい。そんな目的で返還を迫ってきた。が、欲より子どもたちに居場所を、の思いが通じて、おんぼろ道場は残った。寝技はさして得意ではなかったが、何かしら寝わざで勝ち残れた。そんな気がした。</p>

<p>土壌館誕生　最初の生徒たち</p>

<p>たとえオンボロでも晴れて道場主となった私である。これまで通りぼんやりと稽古をしているだけではすまない。まずはじめに私がしなければならないことは生徒を増やす算段だった。私が休んでいるあいだ生徒はぐつと減っていた。このとき通ってくる生徒<br />
――――――――――――――――――　11　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．185</p>

<p>は小学生二人と、ノッポの高校生二人きりだった。<br />
さすがに老先生も悪いと思ってか、新聞の折りこみ広告をすすめてくれた。が、一回こっきりで二万も三万するうえ印刷代も馬鹿にならないので、やめにした。かわりに、手製の絵入りの看板を何枚か作って、公園や学校周辺に掛けてまわった。しかし、入門者はなかなかあらわれなかった。が、待てば海路の日和。しだいに、入門者がふえだした。まずはじめに三年生の子が友人を連れてきた。近くの自衛隊から二十六歳の青年が入門した。つづいて大学生が入門した。つづいて小学二年生の子が入門した。その子の家はお母さんがお琴の先生で、<br />
「きびしく指導してください」<br />
が注文だった。<br />
　この家はお父さんも厳しそうで、大会で会ったときなどさかんに<br />
「びしびしやってくださいよ」<br />
と、はっぱをかけられた。<br />
　一気に四人もの生徒が増えたのである。全員で八人となると、オンボロ道場もさすがにぎやかになった。<br />
　　幸先のよいスタートとなった。以下が、そのときのメンバーである。（仮称）</p>

<p>小学三年生　佐藤貴則<br />
小学四年生　大林　保<br />
小学四年生　小坂知稔<br />
小学五年生　遠山康弘<br />
高校二年生　宮野圭輔　　　　<br />
高校二年生　水嶋貴之　　　　<br />
大学一年生　原田良介　　　　<br />
大学ニ年生　冨川建作　　　　<br />
自衛隊員　　山本慎一郎　　　</p>

<p>ときに平成六年、梅雨も明けた七月のことであった。世界は近づくアトランタオリンピックに沸いていた。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　次号につづく<br />
話　題　　　　　　新成人、全国で122万人</p>

<p>ゼミで成人式を迎えた人、おめでとう　！</p>

<p>1月9日（月　祝日）　ゼミⅡの皆さんの中で成人を迎えた人は多かったのでは。<br />
総務省の人口推計によると、平成24年1月1日現在、20歳の「新成人」は、全国で122万人とのこと。5年連続で過去最少を更新している。</p>

<p>2011年、自殺者14年連続3万人超　30513人</p>

<p>東京3100人　　大阪1899人　　神奈川1824人　　埼玉1645人　　愛知1630人<br />
全体の68%が男性。多い月は、3月、10月、11月　警察庁のまとめ。<br />
イラク戦争10年間で米兵の死者4500人、ベトナム戦争5万人。この数字、多いというべきか、少ないというべきか。日本の自殺者数を知ると、わからなくなる。1年間に3万人の町がボンと消えてしまうわけだ。10年たてば、30何万の中型都市が、無くなるわけだ。それもコンスタントに。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・185――――――――　12――――――――――――――――</p>

<p>2011年後期ゼミ旅日誌<br />
□9月26日ゼミ　参加者7名＝椎橋萌美、會澤佑香、藤塚玲奈、春日菜花、杉山知紗、武田結香子、内田悠介。課題「私の夏休み」発表＝春日菜花「窓辺の光景」、藤原佑貴「何でも読んでやろう」。課題「なんでもない一日の記録」発表＝藤塚玲奈「サクランボとお婆さん。　課題「未来車内観察」発表＝武田結香子「10年後の私」。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月3日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題「私の夏休み」発表＝武田結香子「夢を見つけた夏」。課題「車内観察」掲載＝會澤佑香「寒い日」。課題『にんじん』感想・意見掲載＝椎橋、春日、杉山、武田、藤塚、會澤、内田。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月17日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題『にんじん』感想発表「失礼ながら」「尿瓶」「うさぎ」＝杉山、春日、武田。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月24日　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題『にんじん』感想発表「もぐら」「つるはし」「湯のみ」「ねこ」＝春日、杉山、武田。課題「車内観察」発表＝春日「工事中のホームで」。課題「日常観察」発表＝武田「家族」。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月31日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。テキスト『剃刀』「剃刀職人客殺害疑惑事件」模擬裁判＝武田・春日・杉山口演。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□11月7日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題「車内観察」発表＝杉山「幼馴染と携帯」。テキスト脚本口演＝武田・杉山・春日。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□11月14日ゼミ　参加者＝春日菜花。テキスト『兒を盗む話』「尾道幼女誘拐事件」についての＝春日。伊那谷、他についての雑談＝春日。ゼミ誌報告＝武田「印刷交渉成立」<br />
□11月21日ゼミ　参加者＝杉山知紗、春日菜花。課題「車内観察」発表＝春日「不幸な友」。<br />
テキスト『范の犯罪』読み。「尾道幼女誘拐事件」判決考。<br />
□11月28日　参加＝杉山知紗、春日菜花、武田結香子。司会＝杉山。「継子殺人未遂事件」考察。「ナイフ投げ美人妻殺害疑惑事件」裁判。合同発表会「剃刀殺人」裁判稽古。<br />
□12月5日　参加＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。司会＝杉山。『江古田文学78』配布、杉山さんの受賞作品「へびとむらい」が掲載。名作店内観察『殺し屋』、「剃刀職人客殺害疑惑事件」裁判稽古。武田編集長報告、ゼミ誌9日に届く予定。<br />
□12月12日　合同発表（清水・山下・下原ゼミ）「剃刀職人客殺害疑惑事件」裁判<br />
□1月16日　<br />
□1月23日</p>

<p>☆ゼミ誌作成に関する今後の重要書類、以下1点の書類提出に注意</p>

<p>1. 印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。</p>

<p>お知らせ<br />
☆ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」<br />
2012年2月18日（土）池袋勤労福祉会館第7会議室　作品『弱い心』<br />
時間　→　午後2時~　　　詳細は以下、編集室に<br />
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />
編集室便り<br />
　　住所〒274-0825　船橋市前原西6-1-12-816　下原方<br />
　　メール：　TEL・ＦＡＸ：047-475-1582　 toshihiko@shimohara.net</p>

<p>ゼミ授業評価は、以下を基本とします。4単位<br />
出席日数　＋　課題提出（ゼミ誌原稿）＋α　＝　100～60点（Ｓ，Ａ，Ｂ，Ｃ）<br />
</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>文芸研究Ⅱ　下原ゼミ通信No.184</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.shimohara.net/archives/2012/01/no184.html" />
    <id>tag:www.shimohara.net,2012://1.172</id>

    <published>2012-01-16T08:51:30Z</published>
    <updated>2012-01-16T08:56:51Z</updated>

    <summary> 日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2011年（平成23年）12月12日発行 文...</summary>
    <author>
        <name>下原敏彦</name>
        
    </author>
    
        <category term="下原ゼミ通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.shimohara.net/">
        <![CDATA[<p><br />
日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2011年（平成23年）12月12日発行</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．184<br />
ＢＵＮＧＥＩＫＥＮＫＹＵ　Ⅱ　ＳＨＩＭＯＨＡＲＡＺＥＭＩ　ＴＳＵＳＨＩＮ<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　編集発行人　下原敏彦<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
9／26　10／3　10／17　10/24　10／31　11／7　11／14　11／21　11／28　12／5　<br />
12／12　1／16　1／23<br />
　　<br />
2011年、読書と創作の旅</p>

<p>12・12下原ゼミ</p>

<p>12月12日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室→3階の文芸教室1</p>

<p>1．	ゼミ2教室でゼミ通信184配布　3階の文芸教室1へ移動</p>

<p>2.　2011年3ゼミ合同発表会<br />
　<br />
　　　・清水ゼミ...ドストエフスキー研究</p>

<p>　　　・山下ゼミ...宮沢賢治研究</p>

<p>　　　・下原ゼミ...志賀直哉・事件作品脚色「模擬裁判」</p>

<p>　　　　 </p>

<p>12・12ゼミは、3ゼミ合同発表会</p>

<p>　後期前半終了日のゼミは、毎年、清水ゼミ、山下ゼミとの合同で、一年間、学んできたことを発表し合っています。今年は、東日本大地震や原発問題、紀伊半島の水害など様々な災害があって落ち着かない一年だったと思います。そうした状況のなかで各ゼミ、それぞれどんなことをやってきたのか、興味あります。ゼミ雑誌は、一年のゼミ成果ですが、今日の発表は、もう一つのゼミ成果といえます。それだけに、楽しみにしています<br />
下原ゼミは『剃刀』脚本を発表<br />
　下原ゼミは、一年の目標を書くこと、読むことの日常化・習慣化とした。（ゼミ生の大多数が作家、ジャーナリスト志望）テキストは、小説の神様といわれる志賀直哉の、短編作品を参考にした。前期は、主に車中作品を手本として自らの一日や車内観察を課題とした。後期は、観察範囲を家族や社会に移した。家族では、ジュナールの『にんじん』を読み合うことで家族に潜む問題を考えた。社会では、事件作品の観察から模擬裁判を実施した。<br />
　合同発表は、観察に創作を取り入れた模擬裁判を行うことにした。候補は、テキスト作品『剃刀』を「剃刀職人客殺害疑惑事件」として、『兒を盗む話』を「尾道幼女誘拐事件」として、『范の犯罪』を「ナイフ投げ曲芸師美人妻殺害疑惑事件」をとりあげ審議した。このなか今回は、『剃刀』の「剃刀職人客殺害疑惑事件」を口演することにした。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>　ちなみに、過去発表は、2004～2007年山川惣治作『少年王者』「生い立ち編」紙芝居口演。2010年まで「ナイフ投げ曲芸師美人妻殺害疑惑事件」でした。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ.184――――――――　2　―――――――――――――</p>

<p>戦争ドラマ観察　　前号からのつづきだが、最近テレビによく『坂の上の雲』が喧伝されている。作者・司馬遼太郎は、映像されるのを嫌っていたというが、よほど明治が好きだったのか。203高地攻略、バルチック艦隊撃破。どちらも感激の戦勝。だがしかし、この時代、真に感動するのは勇ましい軍艦や兵士より、与謝野晶子のこの作品である。</p>

<p>あゝおとうとよ、君を泣く<br />
君死にたまふことなかれ<br />
末に生まれし君なれば<br />
親のなさけはまさりしも<br />
親は刃をにぎらせて<br />
人を殺せとをしへしや<br />
人を殺して死ねよとて<br />
二十四までをそだてしや<br />
　　　　　　　　　　　　　堺の街のあきびとの<br />
　　　　　　　　　　　　　旧家をほこるあるじにて<br />
　　　　　　　　　　　　　親の名を継ぐ君なれば<br />
　　　　　　　　　　　　　君死にたまふことなかれ<br />
　　　　　　　　　　　　　旅順の城はほろぶとも<br />
　　　　　　　　　　　　　ほろびずとても何事ぞ<br />
　　　　　　　　　　　　　君は知らじな、あきびとの<br />
　　　　　　　　　　　　　家のおきてに無かりけり<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　君死にたまふことなかれ<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　すめらみことは戦ひに<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　おほみずから出でまさね<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　かたみに人の血を流し<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　獣の道で死ねよとは<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　死ぬるを人のほまれとは<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　おほみこころのふかければ<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　もとよりいかで思されむ<br />
あゝおとうとよ戦ひに<br />
君死にたまふことなかれ<br />
すぎにし秋を父ぎみに<br />
おくれたまへる母ぎみは<br />
なげきの中にいたましく<br />
わが子を召され、家を守り<br />
安しときける大御代も<br />
母のしら髪はまさりぬる<br />
　　　　　　　　　　　　　　暖簾のかげに伏して泣く<br />
　　　　　　　　　　　　　　あえかにわかき新妻を<br />
　　　　　　　　　　　　　　君わするるや、思へるや<br />
　　　　　　　　　　　　　　十月も添はで 別れたる<br />
　　　　　　　　　　　　　　少女ごころを思ひみよ<br />
　　　　　　　　　　　　　　この世ひとりの君ならで<br />
　　　　　　　　　　　　　　ああまた誰をたのむべき<br />
　　　　　　　　　　　　　　君死にたまふことなかれ</p>

<p>与謝野晶子（1878～1942）歌集『みだれ髪』、夫は歌人の与謝野鉄幹　ＨＰ<br />
――――――――――――――――――　3　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．184</p>

<p>新聞・事件　「歩いている人を殺そうと思っていた」埼玉・千葉切りつけ犯<br />
2011・12・6　朝日、読売新聞「学校・近所でもナイフ」「自宅から刃物二十数本」</p>

<p>『にんじん』「ねこ」の悪夢</p>

<p>犯人の高校2年生の少年は、日頃から動物を虐待していたという。「猫の頭を持って学校に来たんです」テレビで、こんな学校関係者の証言をみた。このとき、頭に浮かんだのは『にんじん』の「ねこ」の、この場面だった。にんじんは、なじみの老いぼれねこを自分の小屋に招待した。一杯の牛乳を飲ませるために。<br />
――さあ、たくさんおたべよ。<br />
　かれは背をなで、あれこれ優しい名で呼んでやり、舌の活発な動きを観察する。そうするうちにしんみりとしてくる。<br />
――哀れなやつだな。余世を楽しめよ。<br />
ねこは茶碗をからにし、底をふき取り、縁をきれいにする。すると、もうそのあとは、甘いくちびるをなめまわすよりしょうがなくなる。<br />
――終わったかい、すっかり終わったかい？と相変わらず愛撫しつづけているにんじんが尋ねる。きっと、もう一杯飲みたいんだろう。でも、これしか盗めなかったんだ。とはいうものの、いずれ、少し早いか、少しおそいかのことだけさ！<br />
　こういったかと思うと、かれはねこの額に猟銃の筒先をむけ、発砲する。窪田般彌訳<br />
にんじんは、何のために殺すのか？このときはザリガニ取りの為だが・・・<br />
にんじんは初心者ではない。これまでにも、何ひきかの野鳥や家畜と、また犬一匹を自分自身の楽しみのために、あるいは他人の為に殺している。<br />
　ねこを殺す。で、思い出すのは1997年に起きた神戸の事件です。以下は、今回の事件の少年逮捕を報じた新聞記事。</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．184――――――――　4　――――――――――――――</p>

<p>11月18日埼玉県三郷市で中3男子生徒が、12月1日には千葉県松戸市で小2女児が通り魔に刺されるという事件が起きた。犯人は、16歳の高校2年生だった。動機は「歩いている人を殺そうと思った」である。このニュースを聞いて、だれもが思い出すのは、1997年に14歳の中3男子生徒が起こした残酷な事件である。この事件の謎「人間の闇」は、解決されないまま今日に至ってしまった。私は、この事件を少年Ａが発した「透明な存在」という言葉に注目した。それが事件解明の手掛かりになるような気がした。<br />
　以下の考察は、『ドストエフスキーを読みながら』（2004）に掲発表したもの。拙論ではあるが、一連の事件の闇を射すカギとなればととりあげた。</p>

<p>「　透　明　な　存　在　」　の　正　体</p>

<p>　　　　　　「ドストエーフスキイと現代の問題」1999年シンポジウム報告から　</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　下原　敏彦</p>

<p>　「人を殺して、なぜいけないのか」と問う少年たち。「自分の体でお金を稼いで、なぜ悪いのか」と答える少女たち。現代の問題は、より不可解で、理解しがたい問題となってきている。謎に満ちた現代の問題。はたしてドストエフスキーで解くことが、語ることができるだろうか・・・。神戸の少年Ａの事件簿を考察しながら挑戦してみた。</p>

<p>一　、　現　代　の　問　題　</p>

<p>　現代の問題とは何か。毎日のニュースをみていると様々な問題が洪水のように溢れている。その中から現代の問題を象徴するものとして一九九七年に起きた神戸の児童連続殺傷事件をとりあげてみた。この事件には、家庭の問題をはじめ、学校教育の問題、地域社会や戦後民主主義の在り方など、多くの現代の問題が含まれていると思うからである。<br />
　それでは日本社会を震撼させた事件、神戸児童連続殺人事件とは、いったいどんな事件だったのか。振り返ってみることにする。およそ事件の推移はこんなであった。<br />
一九九七年五月十八日の明け方、行方不明になっていた小学生児童の生首が中学校校門の前で発見された。切り裂かれた口の中には挑戦状が入っていた。事件は、こんなショッキングな光景からはじまった。あまりの残虐さに、また例をみない猟奇的犯行に日本中が戦慄した。こんな酷い犯罪ができるのは、頭の狂った大人以外にありえない。マスメディアは、こぞって「黒ビニール袋を持った中年男を追え」と報道した。新聞社に送りつけられた声明文は、連続幼女殺しの今田勇子（宮崎勤）を連想させた。犯人像は青年から中年の、異常な精神の持ち主、もしくは薬物依存者。誰もがそう思うところだった。<br />
　しかし、犯人は十四歳の中学三年生の男子生徒だった。少年は、春先にも四人の小学生の女の子を次々と襲い、一人を死亡させていた。少年は精神病者でも、薬物患者でもなかった。憎悪や激昂にかられての犯行でもなかった。少年は、学校生活において少しばかり問題児であったが、家庭では普通の中学三年生だった。調べにたいして彼は殺人の動機を、人が壊れる実験をしたかった、自分が信じる神の生け贄にしたかった、と答えた。<br />
　（今回、埼玉や千葉で通り魔事件を起こした高校2年生は、近所ではおとなしい少年とみられていた。が、学校では動物の遺体を持ってくる気味の悪い生徒）<br />
　少年は、なぜそんな恐ろしい想念を持ち得たのか。そして実行に移すことができたのか。多くの専門家や識者が言及した。『現代殺人百科』を書いたコリン・ウイルソンも遠くアメリカから論評を寄せた。少年が思春期だっただけに、多くの分析があった。偏差値教育が生み出した、戦後民主主義の産物、マスメディアの影響、地域社会の崩壊、父権失墜などなど実に多くの要因が挙げられ、弊害が指摘された。付随してルポライター、精神科医、弁護士、<br />
――――――――――――――――――　5――――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．184</p>

<p>被害者の父、少年Ａの両親といったように少年と直接に、また間接的に関わった様々な分野の人たちの本が出版された。例えば『「少年Ａ」十四歳の肖像』高山文彦著（捜査資料が語<br />
る神戸少年事件の真実）、『「少年Ａ」この子を生んで』（父と母　悔恨の手記）などなどである。だが、どの本も、どんな報告も、事件解明には、素人感想ではあるが、今一つ及んでいないように思えた。少年Ａを犯行に駆り立てたものは何か。真の責任は両親や学校教育にあったのか。その辺の所がなんとなくうやむやだった。あれから三年の歳月が流れた。しかし、事件の真相は相変わらず深い霧に包まれた.ままである。<br />
　ドストエーフスキイの会例会や読書会でも、この事件は話題になった。『罪と罰』のラスコーリニコフや『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフと重ねてみる会員が多かった。前者には少年の非凡人的観念が、後者には猫の舌を切り取って集めるという奇行癖が類似視された。また、研究者のなかからも「神戸の少年Ａにはドストエーフスキイ的なものが感じられる」といった話がでた。だが、その指摘は論及されることなく「両者の関連を理論づけるとなると難しい」といった解釈にとどまった。はたしてドストエーフスキイで現代の問題―――つまり神戸の児童連続殺傷事件を解くということは、可能だろうか。<br />
　私は、この事件は「透明な存在」が引き起こした犯罪と仮定して想像・創造批評的に推理してみることにした。そうすること・・・「透明な存在」を犯人にすることで、ドストエーフスキイと神戸事件とが密接に関係してくると思うからである。そして、そのこと（両者を繋げること）が現代の問題を解くヒントになるのでは、と信じるからである。<br />
　この事件は、前述したように一般的には両親の子育ての失敗、偏差値教育の歪み、メディア社会の悪影響、少年自身の病的性格といった原因があげられた。たしかに事件を生み出したのは、そうした土壌や背景があったせいかも知れない。だが、それが直接の引き金になったとは考えにくい。なぜなら、そうした要因はたいていの現代の少年に当てはまるからである。少年Ａだけが特別な環境で育ったわけではない。こうした理由から、私は神戸の児童連続殺傷事件の真犯人は、いわゆる少年Ａではなく、少年Ａの心のなかに棲みついている「透明な存在」と考えたのである。「透明な存在」という姿なき存在があの残虐極まりない事件を少年Ａに引き起こさせたのだと。<br />
　それでは、この「透明な存在」とは何者なのか。はたまた、どんな存在なのか。そして、その存在がなぜドストエーフスキイに関っていくのか。そのあたりを創造的に論証していきたい。はじめに「透明」という言葉である。この言葉は、それほど珍しくはない。「透明人間」という映画もあれば小説もある。しかし、「透明な存在」という言葉は耳新しい。断定はできないが神戸児童連続殺傷事件の犯人少年Ａがつくった言葉だといわれている。（あるいは何かの書物からの引用かも知れないが・・・。）<br />
「透明な存在」、この言葉は、逮捕前に神戸新聞社に送った声明文のなかに書かれていた。次は、その箇所の抜粋である。（神戸新聞社に送った少年Ａの声明文から）</p>

<p>「今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを」<br />
「それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した」<br />
「そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人」<br />
　<br />
このように三箇所に使われている。この「透明な存在」について、いくつかの解釈がある。たとえば、厳しい母親の躾や、理不尽な学校教育のせいで自己がすり減って無くなってしまった、という見方（評論家・教育関係者にはこの考えが多い）。他に現実からの逃避願望、居場所喪失感といった見方（カウンセラー・心理学者関係者に多い）など。<br />
　私は、この「透明な存在」を物質的に捉えてみた。そして、この存在を少年Ａと切り離して考えた。そうすることで、この存在を少年Ａの心の中に棲みついた、もうひとりの誰か、見えない寄生木のようなもの、と想像した。</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・184　―――――――　6――――――――――――――――</p>

<p>少年Ａは、自分の心に巣くった「透明な存在」について、次のように書き表し分析している。（少年Ａの作文「懲役１３年」から）<br />
その存在は「止めようもないものはとめられぬ」<br />
その存在は「とうてい、反論こそすれ抵抗などできょうはずもない」もの<br />
その存在は「あたかも熟練された人形師が、音楽に合わせて人形に踊りをさせている　　　　　　　　かのように俺を操る」もの</p>

<p>この文面から思うことは、「透明な存在」とは、自分の意志より強く、自分を自由にコントロールしようとする存在、ということになる。このような存在を描いた文学作品がいくつかある。たとえば、次の作品の主人公たちである。<br />
　☆スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド』のハイド氏<br />
　☆ドストエーフスキイの『二重人』の調子のよいゴリャートキン氏<br />
　他に、現在、米国で話題になっている多重人格者を描いた作品。ダニエル・キースの『２４人のビリー・ミリガン』などを思い浮かべる。また、日本では人気漫画家・浦沢直樹が描く『モンスター』もそれを感じさせる<br />
　「透明な存在」に操られると主人公たちの人格は一変する。その性格は、概して①憐愍の情がない　②自己中心的　③恐れを知らない（無神論者）、といった特徴がある。いわゆる悪魔的人物像である。十四歳の少年が生首を抱えて平然と真夜中の街を徘徊する光景を想像すれば頷けなくもないだろう。<br />
他に「透明な存在」は、ドストエーフスキイの作品『地下室の手記』の主人公がいう蒸溜器人間を彷彿する。すべての元素をレトルトして最後に残った存在。それは、「きみの意向などかまわず、割りこんでくることになる」ほどに強度の自意識を持った存在でもある。<br />
この存在こそ人間がはるか昔から「神」と呼び、「悪」と呼んで恐れ拝してきたものではないだろうか。この「存在」が少年Ａを操り、あの残虐な事件を引き起こした張本人ではないかと疑うのである。つまり事件の真犯人は「透明な存在」であると。<br />
ところで、この「透明な存在」は少年Ａの心の中だけに棲みついていたのだろうか。昨今、多発する不可解な事件のことを思うと、この存在はすべての人間の心の片隅に潜んでいるような気がする。ちょうどガン細胞が誰の肉体組織にもあるように。それだけに現代の問題は、より深刻であるといえる。</p>

<p>二　、　現　代　の　問　題　と　「　透　明　な　存　在　」　</p>

<p>　神戸の少年Ａが逮捕されたとき、テレビの画面で異様な光景を見た。大勢の少年たちが警察署前に集まって、まるで英雄をたたえるかのように歓声をあげていた。彼らを駆り立てているもの。それも「透明な存在」がなせる業かも知れない。<br />
　「透明な存在」が介在しているのではないかと思えるもの――現代は、そのような事件・出来事が激増している。例えば毒入りカレー事件、文京区の幼女殺人事件、京都の小学生殺人事件などの凶悪事件から援助交際という売春、幼児虐待、万引き、痴漢に至るまで枚挙にいとまがない。また犯罪ではないがアルコール中毒、ギャンブル狂、過食・拒食などの摂食障害、不登校、家庭内暴力などなど、いわゆる依存と呼ばれる症状にも「透明な存在」を強く感じる。まさに現代の問題のかげに「透明な存在」ありである。<br />
「透明な存在」は、どんな人間の心の中にも潜んでいるものだが、それは普段は小さな無力な存在として潜んでいるに過ぎない。だが、ひとたび適した環境を得て成長すれば、その存在は絶大な力を発揮し、どんな行為でも、その人間にやらせてみせる。まさに少年Ａが書いた「あたかも熟練された人形師が,音楽に合わせて人形に踊りをさせているかのように俺を操る」のである。戦地に行った善良な市民が、平気で赤子を串刺しにしたり、強姦もすれ<br />
ば人肉も食らうという話を聞けば頷ける。<br />
――――――――――――――――――　7――――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．184</p>

<p><br />
「透明な存在」は人間を「どんなこともする、どんなことにも慣れさせる動物」に変えてしまう恐ろしい「存在」である。この「存在」が現代社会に蔓延っている。<br />
　ここで「透明な存在」が操る事件･出来事とは何かを理解するために、いわゆる普通の（「透明な存在」が関係しない）事件・出来事との違いを比べてみた。<br />
まず普通の事件は、偶発的であったり、計画的、欲がらみ憎しみがらみであったりする。これに対し、「透明な存在」が引き起こすものは、唐突で、意味も理由もなく、場合によっては動機もない。そして、自虐的・攻撃的・破壊的である。<br />
　最大の特徴は、普通の事件は、途中で止めることができるのに対し、「透明な存在」が犯す事件や行為は、自らの意志では容易に止めることができない断念できないところにある。　　　　　　　　　　　　　　<br />
　それだけに犯行は、破滅するか、何かの理由で「存在」が抜け出さない限り何度でも繰り返される。また犯罪行為そのものも、大きな違いがある。存在の犯罪は、目的に執着するあまり、犯行は直截的で雑（証拠隠しがない）である。それゆえ、一見完全犯罪風であっても解決してみると、意外と単純で稚拙な犯罪だったりもする。<br />
たとえばラスコーリニコフの犯罪が、そのよい例といえる。あの「金貸し老婆強盗殺人事件」。歩数まで計算したこの犯罪は、一見完璧である。が、その実、完全犯罪とは言いがたいところがある。「犯罪の実行行為は常に病気にともなわれる」と主張した『月間論壇』掲載の論文の存在。入質されていた指輪と時計の存在。財政状態など嫌疑の証拠や根拠が多すぎる。またラスコーリニコフの犯罪が非凡人思想という「存在」に操られたものではないかという疑いは、彼の行動にも多くみられる。彼は犯行を犯す前に既に真っ黒の本星なのである。断念できる機会は何度もあったのに実行し、考えに考えた犯行だったのに、あっさりと自首した。そして罪に服しても悔悛しない。彼こそ典型的な「透明な存在」操られ人間といえる。神戸の少年Ａ、連続幼女殺人事件の宮崎勤、そして京都の小学生殺人事件の若者。彼らにも、どこか似たもの同族のものを感じる。<br />
人類救済のための殺人衝動。おそらく社会復帰をしてもラスコーリニコフの人生は畢竟、その衝動（存在）にコントロールされるかも知れない。それは人類救済のために核実験を繰り返す人間と重なるものがある。<br />
　やめることができない行為は、現代にあふれている。たとえば、「幸せそうにみえたから」といった理由で、たいした知り合いでもない男性に三年間、イヤガラセ電話をかけつづけた主婦が逮捕された。一日二百回以上というから尋常ではない。周囲の証言によると主婦は明朗活発な性格で、幸せそうにみえたという。もし証言通りだとしたら、彼女をそんな陰湿な行為に走らせたものは、やはり「透明な存在」ではなかったか。<br />
　「透明な存在」は、必ずしも他者を攻撃（犯罪）するためにコントロールするだけではない。アルコール、ギャンブル、買物など人間が持つあらゆる欲にとりつき、その人の肉体や財産を危うくさせる。拒食症・過食症に陥った少女たちは苦しく悲しい青春を送ることになる。こうした依存行為の原因は、精神医学的見地では心の傷トラウマにあると云われている。が、はたして本当にそうだろうか。この世に生まれた以上、誰にも一つや二つ心の傷があるはず。トラウマは決して特別なものではない。だとすれば、なぜ依存行為は生じるのか。私は、こう想像する。傷口にバイ菌が感染するように、「透明な存在」は心の傷に感染する「透明な細菌」ではないかと。<br />
「透明な存在」は、個人だけではなく、傷ついた国家や民族、迷える人々が集まる共同体にもとりついたりする。その事実を歴史や現在の事件で知る事ができる。崇高な理念の下、独裁者を崇拝したり、国民を粛清したりした。共存を訴えながらも浄化作戦を繰り返した。そして、救済や解脱、癒しを唱えながらも監禁や洗脳、搾取を繰り返すオウムをはじめとする怪しげな宗教集団がおしえている。「透明な存在」は、物質欲だけではなく、主義や理念にもとりつき国家や民族をも操ろうとするのだ。</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・184　――――――――　8――――――――――――――――</p>

<p>　二十世紀は、人間が自由と幸福を目指しながら模索した時代だった。同時に最も「透明な存在」がその勢いを増した時代ではなかったか。なぜ、増殖したか。科学文明の進歩と理想国家の建設と失敗。人類の夢が具現化し挫折した時代。繁殖するのに最も適した土壌神と悪魔がもっとも活躍した時代だったといえよう。十六世紀・百六十万人、十七世紀・六百万人、<br />
十八世紀・七百万人、十九世紀・千九百四十万人、そして二十世紀・一億七百八十万人。これは米年報『ワールド・ミリタリー・アンド・ソーシャル』による、犯罪の極みである戦争によって亡くなった世界の推定戦車数である。二十世紀という現代。地球にとっても人間にとっても、きわめて危険で病んだ時代だったといえる。新世紀目前の現在、その危険や病根は未だ回避されていないし癒されてもいない。<br />
十九世紀末ドストエーフスキイは『冬に書く夏の印象』や『悪霊』などの作品で文明の危うさや水晶宮の恐さを警鐘した。それはとりもなおさず、「透明な存在」大量発生への警告ではなかったか。「透明な存在」がラスコーリニコフの夢にでてくる「せんもう虫」のように全世界にひろがることへの危惧。当時も今も「透明な存在」の恐ろしさを、正体を知っていたのはドストエーフスキイだけかもしれない。<br />
この存在が神か悪魔だとすれば、まさにドストエーフスキイの文学は両者への挑戦ということになる。　次号につづく<br />
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />
第10回江古田文学賞受賞『へびとむらい』を読むまで</p>

<p>　たしか10月半ば頃だった。ゼミの準備をしていると授業を終えて入ってきたＡ先生が<br />
「下原ゼミの生徒が、『江古田文学賞』をとりましたよ」<br />
と、教えてくれた。そのあとＡ先生は、「だれだったけ・・・」と、つぶやいて名前を思い出そうとした。が、なかなか、思い出せなかった。私は私で、なぜか昔のゼミ生と思い込んでしまった。で、課題の提出がよかった4年生の名前を何人かあげた。<br />
「いや、いまの生徒です」Ａ先生は、もどかしそうに言った。<br />
「いまの・・・？！2年生の」私は、驚きながらも即3人の名前を口にした。他に心当たりはなかった。うちのゼミ出身者で金玉賞や学部賞をとった学生がいた。彼らは皆、出席率や課題提出率がよかった。口に出した彼女たちも、めったに欠席したことがない。そんなところから思わず口に出たのだ。が、はたして、そうであった。<br />
「ああ、そうそう、その杉山さん。彼女の小説が受賞作」<br />
Ａ先生は、笑って長い髪を後ろにかきあげながらいった。<br />
　ああ杉山知紗。私は、軽く頷いて、いつも左隣に座っている、彼女の顔を思い描いた。意外な気はしなかった。「私の夏休み」報告で、「毎日、小説を書いていました」たしか、そんなようなことを言っていた。文芸出身の作家よしもとばななが好きとも言っていた。<br />
　しかし、不覚にも、彼女の文体がどんなだったか。どんなテーマを持ってかいていたのか思い出せなかった。<br />
「わたし選考委員なんですよ」Ａ先生は、言った。Ａ先生の言葉は、文字にすると、女性のようだが男性である。女学生に人気があると聞く。若くおしゃれで体つきもスマート。いつもは、挨拶ていどの会話だが、このときは、Ａ先生、親切に選考経緯を話してくれた。<br />
「うちの学生がとれてよかったですよ」Ａ先生は、うれしそうに言った。「全国公募だから、いろんなところからくるんですが、みんなしまいまで名前は伏せてあるんです」<br />
「たいへんだったですね。選考」私は、よくわからないまま言った。<br />
「いえ、それが、杉山さんの作品、群を抜いていたので選考は楽でした」<br />
「そうですか、じゃあ『江古田文学』楽しみにしています」私は、お礼を言って、これから江古田校舎に行くというＡ先生を送った。何かしらうれしい気持ちになった。<br />
十数年前、椋鳩十記念など郷里新聞社で賞をいただいたときのことを思い出した。最初の気持ち忘れず、どんどん書いてください。杉山さん、おめでとう！<br />
――――――――――――――――――　9　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．182</p>

<p>ノンフィクション劇場　　柔道・町道場の灯を守って　土壌館物語<br />
連載4<br />
　おんぼろ道場奮戦記　</p>

<p>前回まで<br />
1996年11月24日ＮＨＫテレビ「日本点描」番組で「教え子たちの歳月」が放映された。私は、町道場で子どもたちと柔道をしている場面が流れた。それで道場の話は、しぜん引き受ける方向に動いていった。私は、ひょんなことから町道場の道場主を肩代わりすることになった。皆は、よい話だ、運が向いてきた。そういって喜んだ。<br />
しかし、世の中、そんなうまい話はない。すぐに私は、不動産の話は、簡単なことではないことを思い知ることになる。まったくの柔道バカとは、このことだった。</p>

<p>巨大な粗大ゴミ</p>

<p>十年近く通っていてまったく知らなかったというのも変だが、私はてっきり道場は、老先生の土地だと思いこんでいた。ところがそうではなかったのだ。<br />
望月由太郎先生は東京の深川の方で町道場をひらいていた。家業の自動車修理工場が繁盛したので、事業を拡大するためより広い敷地を求めて郊外のこの町に移ってきた。そして、この町でも好きな柔道をやるために道場をはじめた。土地は、<br />
「柔道好きな地主に話したら、田んぼを貸してくれたのだ」と、いった。<br />
　借地と聞いて、妻の落胆顔が重い浮かぶとともに、何か厄介なことに巻き込まれる嫌な予感がして困惑した。が、老先生は、肩の荷を下ろした気分か、のんびりした口調で<br />
「なにせ、このへんいったいは、田んぼだったんですよ」<br />
などと懐かしそうに昔話をはじめた。<br />
そのあと借地の契約内容についてボソボソ打ち明けた。それによると道場が建っている三十五坪ほどの土地は、二十年契約で借りているらしい。が、口約束で、何の契約書類もないとのこと。その上、老先生が親しかった地主さんは、だいぶ前になくなり、今は二代だか三代目に変わっている。口約束した契約も、たしかあと三、四年で切れるはずとのこと。なんとも心もとない話だった。<br />
「無理でしょう。それでは」<br />
私は、断る理由ができたので、ほっとして言った。<br />
「なに、貸してくれるさ。そこの酒屋なんだ。商売しているし、根っからの地主で、このへん一帯の土地をもっているんだ」<br />
老先生は、なんとも無邪気なものだ。米寿の年齢がそう考えさせるのか。道場は商売ではないから地主は、当然、承諾する。そのように固く信じ切っている。<br />
「話せばわかってくれる」の一点張り。なんとしても、道場を譲りたいようだ。<br />
が、私は、一旦は、引き受けるつもりだったが、やはりあきらめることにした。昔は田んぼや湿地帯だったか知らないが、いまは、立派な住宅地である。私鉄も走っているしＪＲも近い。東京駅迄40分あれば行けるのだ。そんな立地条件の良い土地を、いまどき、ただ同然で貸してくれる殊勝な篤志家などいない。前の地主は、親しかったから損得抜きで貸したに違いない。<br />
案の定、先生と訪れた地主の店では、剣もほろろだった。酒店に婿養子に入ったという中年の赤ら顔の主人と、太った女主人は、ぶ然とした顔で<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・184　――――――――　10――――――――――――――――</p>

<p><br />
「おじいちゃんがね、友だちづきあいで貸してたものですから、おじいちゃんも死んでしまったし、柔道の先生も、引っ越しされるんなら、ちょうどいい機会だから土地は、返していただきます」と、言うばかりだった。<br />
当然といえば当然の話である。どこの馬の骨とも知れない中年男に、先代が口約束で貸していた土地を、そのまま貸すお人よしはいない。地主夫婦は、老先生が、怪しげな男の口車に乗って、借地名義を又貸しするつもりだ。そんなふうに思っていた。<br />
折り悪く、テレビのニュースで、どこかの寺の住職が、親切で寺の土地を貸したところ、又貸しされ、そこに怪しげな店を作られて困っている。そんな裁判沙汰が報じられていた。おそらく、その番組をみたに違いなかった。しかし、老先生には、口約束にしろ何にしろ十数年道場をつづけてきたという現実がある。いわゆる借地権が。で、地主は声高には、出ていってくれとはいえないようだ。<br />
「あの土地は、駐車場にしようかと思っているのです」地主は、ビジョンを持ち出した。<br />
「そうですか、わかりました」私は、そう返事するしかなかった。そういうことなら、無理を押すこともないと思った。が、帰り道、老先生のあまりに落胆した背中をみていたら気の毒になって、思わず<br />
「とにかく契約切れまで、貸してもらえるよう頼んでみます」と、言ってしまった。<br />
「そうかい、そうしてもらえると」<br />
老先生は、何度も頭を下げた。<br />
　終の棲家と思っていた家を、家督をゆずった途端、引っ越す羽目になり、そのうえ自分で建てた道場を壊すことになる。そんな老先生を、つい同情してしまった。もっとも、私としては、本気で居座ろうなどとの思いはなかった。どうせダメ元、話すだけと思っていた。翌日、老先生が引っ越しても、契約まで道場をつづける旨を伝えた。<br />
　驚いたのは地主である。いますぐ土地を返してほしい。そんな剣幕を押えて、<br />
「この問題は、出入りの税理士に頼んでありますから」と、第三者への。<br />
私としては、これで話は済んだ、と思った。<br />
日曜日の朝、道場で子どもたちと稽古をしていると、道場の前に黒塗りの高級車が止まった。背広姿の黒縁眼鏡の男が下りて、道場に入ってきた。<br />
私が出て行くと男は、ジロリ見て<br />
「あなたが師範代かね」と、聞いた。<br />
「そうです」<br />
「こういうものですが」黒縁眼鏡の男は、名刺をだした。<br />
　何とか不動産と書いてあった。<br />
「地主さんは、不審に思っているんです。お宅さんが、残りの契約期間、この道場を引き受けるということに」<br />
「はあ」私は、この業者も私に魂胆あってのことと睨んでいる。そう思ったので、信じるか信じないかは無視して、経緯をすべて話した。ついでに、町道場の必要性を説いた。<br />
「ぼくも、子どもたちが来ているから、それで見兼ねて教えているだけです。この近所に、子どもが、飛んだりはねたりできるところがありますか。市の体育館など、遠くて行けやしません。どこがスポーツ宣言都市なんですか」<br />
　話が市政に及ぶと、黒縁眼鏡の男は、頷くようになった。そうして黙って帰ってしまった。私は、とにかくこの土地に居座る気はさらさらないと念書に書いた。　つづく<br />
　<br />
土壌館誕生　最初の生徒たち</p>

<p>――――――――――――――――――　11　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．184</p>

<p>名作読み　師走年といえば第九ですが、アポリネール（1880-1918）のこの詩を思い出す人も少なくありません。木枯らし吹く夕暮れ、この詩を思い出してください。<br />
「ミラボー橋」は1913年の作品。これはセーヌ川にかかる鉄製の橋の名前です。（詳しくはネット「アポリネール」検索ください）</p>

<p>　　Le pont Mirabeau　　　　　　　　　　　　ミラボー橋</p>

<p> Sous le pont Mirabeau coule la Seine.　　ミラボー橋の下をセーヌは流れる<br />
 Et nos amours　　　　　　　　　　　　　　そして私たちの愛も<br />
 Faut-il qu'il m'en souvienne　　　　　 　思い出さねばならないのか？<br />
 La joie venait toujours apres la peine 　悲しみの後に必ず喜びが来たことを</p>

<p> Vienne la nuit sonne l'heure　　　　　 　夜が来て、鐘が鳴り<br />
 Les jours s'en vont je demeure.　　　　　日々は去り、我は一人。</p>

<p> Les mains dans les mains　　　　　　　 　手に手を取り<br />
     restons face a face　　　　　　　　　顔に顔を合わせ<br />
 Tandis que sous le Pont　　　　　　　　　私たちの腕が作る橋の下を<br />
     de nos bras passe　　　　　　　　　　永遠の微笑みが流れる間に<br />
 Des eternels regards l'onde si lasse　 　水は疲れていった</p>

<p> Vienne la nuit sonne l'heure　　　　　 　夜が来て、鐘が鳴り<br />
 Les jours s'en vont je demeure.　　　　　日々は去り、我は一人。</p>

<p> L'amour s'en va comme cette eau courante 愛は流れ行く水のように去っていく<br />
 L'amour s'en va comme la vie est lente　 愛は人生は遅すぎるかのように<br />
 Et comme l'Esperance est violente　　　　そして望みは無理であるかのように<br />
 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 去っていく</p>

<p> Vienne la nuit sonne l'heure　　　　　 　夜が来て、鐘が鳴り<br />
 Les jours s'en vont je demeure.　　　　　日々は去り、我は一人。</p>

<p> Passent les jours et passent les semaines日々が去り、週が去って行くのに<br />
 Ni temps passe　　　　　　　　　　　　　 時は去らず<br />
 Ni les amours reviennent　　　　　　　　 愛は戻らない<br />
 Sous le pont Mirabeau coule la Seine　　 ミラボー橋の下をセーヌは流れる</p>

<p> Vienne la nuit sonne l'heure　　　　　 　夜が来て、鐘が鳴り<br />
 Les jours s'en vont je demeure.　　　　　日々は去り、我は一人。</p>

<p>　句読点を使わないという画期的な手法を使った作品集「アルコール」の特徴<br />
がこの詩にも出ています。（検索）<br />
　去っていった恋人、マリー・ローランサン。詩人は38歳の短い生涯。が、彼女への愛は永遠に終わらない。</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・184――――――――　12――――――――――――――――</p>

<p>2011年後期ゼミ旅日誌<br />
□9月26日ゼミ　参加者7名＝椎橋萌美、會澤佑香、藤塚玲奈、春日菜花、杉山知紗、武田結香子、内田悠介。課題「私の夏休み」発表＝春日菜花「窓辺の光景」、藤原佑貴「何でも読んでやろう」。課題「なんでもない一日の記録」発表＝藤塚玲奈「サクランボとお婆さん。　課題「未来車内観察」発表＝武田結香子「10年後の私」。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月3日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題「私の夏休み」発表＝武田結香子「夢を見つけた夏」。課題「車内観察」掲載＝會澤佑香「寒い日」。課題『にんじん』感想・意見掲載＝椎橋、春日、杉山、武田、藤塚、會澤、内田。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月17日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題『にんじん』感想発表「失礼ながら」「尿瓶」「うさぎ」＝杉山、春日、武田。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月24日　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題『にんじん』感想発表「もぐら」「つるはし」「湯のみ」「ねこ」＝春日、杉山、武田。課題「車内観察」発表＝春日「工事中のホームで」。課題「日常観察」発表＝武田「家族」。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月31日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。テキスト『剃刀』「剃刀職人客殺害疑惑事件」模擬裁判＝武田・春日・杉山口演。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□11月7日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題「車内観察」発表＝杉山「幼馴染と携帯」。テキスト脚本口演＝武田・杉山・春日。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□11月14日ゼミ　参加者＝春日菜花。テキスト『兒を盗む話』「尾道幼女誘拐事件」についての＝春日。伊那谷、他についての雑談＝春日。ゼミ誌報告＝武田「印刷交渉成立」<br />
□11月21日ゼミ　参加者＝杉山知紗、春日菜花。課題「車内観察」発表＝春日「不幸な友」。<br />
テキスト『范の犯罪』読み。「尾道幼女誘拐事件」判決考。<br />
□11月28日　参加＝杉山知紗、春日菜花、武田結香子。司会＝杉山。「継子殺人未遂事件」考察。「ナイフ投げ美人妻殺害疑惑事件」裁判。合同発表会「剃刀殺人」裁判稽古。<br />
□12月5日　参加＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。司会＝杉山。『江古田文学78』配布、杉山さんの受賞作品「へびとむらい」が掲載。名作店内観察『殺し屋』、「剃刀職人客殺害疑惑事件」裁判稽古。武田編集長報告、ゼミ誌9日に届く予定。<br />
□12月12日　合同発表（清水・山下・下原ゼミ）「剃刀職人客殺害疑惑事件」裁判</p>

<p>12日、ゼミ誌『旅路報告』刊行！　ご苦労さまでした　！</p>

<p>☆ゼミ誌作成に関する今後の重要書類、以下1点の書類提出に注意</p>

<p>1.雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。12月12日迄に。<br />
2.印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。</p>

<p>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />
編集室便り<br />
　　住所〒274-0825　船橋市前原西6-1-12-816　下原方<br />
　　メール：　TEL・ＦＡＸ：047-475-1582　 toshihiko@shimohara.net<br />
提出原稿は、メール、ＦＡＸでも受け付けます。(送信でもらえると二度手間と間違い打ちがなくなるので助かります)<br />
ゼミ評価は、以下を基本とします。<br />
出席日数　＋　課題提出（ゼミ誌原稿）＋α　＝　100～60点（Ｓ，Ａ，Ｂ，Ｃ）</p>

<p>よい年をお迎えください<br />
たとえオンボロでも晴れて道場主となった私である。これまで通りぼんやりと稽古をしているだけではすまない。まずはじめに私がしなければならないことは生徒を増やす算段だった。私が休んでいるあいだ生徒はぐつと減っていた。このとき通ってくる生徒は小学生二人と、ノッポの清水君とヤセの宮澤君、この高校生二人きりだった。<br />
望月先生は、新聞の折りこみ広告をすすめてくれた。が、一回こっきりで二万も三万するうえ印刷代も馬鹿にならないので、やめにした。かわりに、手製の絵入りの看板を何枚か作って、公園や学校周辺に掛けてまわった。しかし、入門者はなかなかあらわれなかった。が、ある日を境に、入門者がふえた。<br />
まずはじめに三年生の保坂が友人を連れてきた。近くの自衛隊から二十六歳の山田青年が入門してきた。つづいて大学生の冨澤君が入門した。そして、つづいて小学二年生の佐野が入門した。佐野の家はお母さんがお琴の先生で、<br />
「きびしくやってください」<br />
が注文だった。<br />
　この家はお父さんも厳しそうで、大会で会ったときなどさかんに<br />
「びしびしやってくださいよ」<br />
と、はっぱをかけられた。<br />
　一気に四人もの生徒が増えたのである。全員で八人となると、オンボロ道場もさすがにぎやかになった。<br />
　私は、とくにこれといった指導方法は考えていなかった。楽しく柔道が練習できればいい。それが私のモットーであった。大学生の冨澤建作君も入門してきた。冨澤君は、いまどきめずらしいほとの礼儀正しい若者だった。<br />
　幸先のよいスタートとなった。以下が、そのときのメンバーである。</p>

<p>小学三年生　佐野貴則<br />
小学四年生　小林　保<br />
小学四年生　保坂知稔<br />
小学五年生　遠藤康弘<br />
高校二年生　宮澤圭輔　　　　白帯<br />
高校二年生　清水貴之　　　　白帯<br />
大学一年生　下原良太　　　　初段<br />
大学ニ年生　冨澤建作　　　　白帯<br />
自衛隊員　　山田慎一郎　　　白帯</p>

<p>ときに平成六年、梅雨も明けた七月のことであった。世界は近づくアトランタオリンピックに沸いていた。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　つづく　次回に</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
　　　　　　　　　　<br />
一九九六年（平成八年）八月七日　水曜日　朝日新聞　朝刊「声」欄</p>

<p>柔道の変化は自他共栄実現</p>

<p>　金三個、銀四個、銅一個。過剰なまでの<br />
期待のなかで日本代表の柔道選手たちはよ<br />
く戦ったと思う。帰国した選手たちに改め<br />
て拍手を送りたい。だが、すばらしい成果<br />
とは反対に柔道の試合に対する日本国内の<br />
評価には残念なものがある。<br />
「世界柔道と日本柔道とは違う」、このよ<br />
うな言葉を、よく耳にする。日本柔道の敗<br />
因は国際ルールにある、未熟な審判にある。<br />
メダルを八個もとったのに・・・こんな分<br />
析である。おまけに三十日本欄では柔道は<br />
「もはや『道』ではない」とまでさげすま<br />
れている。いずれも時代錯誤としか思えな<br />
い意見である。<br />
　ルールが日本にだけ不公平だったと思え<br />
ないし、勝利を素直に喜ぶ各国選手の態度<br />
も醜くはなかった。特に田村選手を破った<br />
無名のケー・スンヒ選手の礼の正しさには<br />
感動すら覚えた。<br />
　試合は勝つべき者が勝ち、負けるべき者<br />
が負けた。ただそれだけであった。そこに<br />
作為や理不尽など少しも感じなかった。<br />
　選手たちは皆、一生懸命、技を競いあっ<br />
た。それを二つの柔道やルールのせいにす<br />
るなど、選手を愚弄するものだ。それより<br />
柔道の変化は創始者嘉納治五郎の理念、自<br />
他共栄の精紳により近づいたとみるべきで<br />
ある。</p>

<p><br />
</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>文芸研究Ⅱ　下原ゼミ通信No.183</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.shimohara.net/archives/2011/12/no183.html" />
    <id>tag:www.shimohara.net,2011://1.171</id>

    <published>2011-12-05T07:35:35Z</published>
    <updated>2011-12-05T07:38:18Z</updated>

    <summary> 日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2011年（平成23年）12月5日発行 文芸...</summary>
    <author>
        <name>下原敏彦</name>
        
    </author>
    
        <category term="下原ゼミ通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.shimohara.net/">
        <![CDATA[<p><br />
日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2011年（平成23年）12月5日発行</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．183<br />
ＢＵＮＧＥＩＫＥＮＫＹＵ　Ⅱ　ＳＨＩＭＯＨＡＲＡＺＥＭＩ　ＴＳＵＳＨＩＮ<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　編集発行人　下原敏彦<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
9／26　10／3　10／17　10/24　10／31　11／7　11／14　11／21　11／28　12／5　<br />
12／12　1／16　1／23<br />
　　<br />
2011年、読書と創作の旅</p>

<p>12・5下原ゼミ</p>

<p>12月5日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室</p>

<p>1．	通信183配布　「前回ゼミ」報告</p>

<p>2.　ゼミ雑誌作成経過報告　　校正などの件<br />
　<br />
　3.　合同発表『剃刀』裁判稽古　直し、加筆あれば</p>

<p>4.　名作読み・『高瀬船』Ｏｒ世界名作『殺し屋』店内人物観察<br />
　　　　 </p>

<p>11・28ゼミ観察</p>

<p>　武田さん風邪から快復。半月ぶりに模擬裁判受講者、全員揃う。で、懸案だった合同発表会の出し物を選定した。候補は、テキストから『剃刀』、『兒を盗む話』、『范の犯罪』。</p>

<p>12・12『剃刀』「剃刀職人客殺人疑惑事件」模擬裁判に決まる<br />
　<br />
12日の合同発表会の出し物は、内定していたテキスト『剃刀』から「剃刀職人客殺人疑惑事件」の模擬裁判に決定した。選考理由は、限られた人数で口演できる、といったもの。テキストになる台本は、春日菜花さんが脚色・校正を申し出た。2日着信。</p>

<p>ゼミ誌『旅路報告』入稿へ　12日迄に納入の見通し</p>

<p>　武田編集長の報告によるとゼミ誌編集は、順調に進み12日迄には、納入できる見通しがついた模様。それによると、11月29日に入稿、12月2日にゲラの校正。9日から12日迄に刊行される予定。見積り185000円（カバー）</p>

<p>継子殺人未遂事件の判決を考える</p>

<p>　1876年5月にロシアで実際にあった事件の判決を考えた。この事件の裁判は、一審では、4年監獄の上シベリヤで終身という重いものだが、二審では一転無罪となった。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>口演「ナイフ投げ奇術師美人妻殺害疑惑事件」＆「剃刀職人客殺人疑惑事件」</p>

<p>創作ルポタージュ文学名作『生きている兵隊』コピー配布（その一の部分）<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ.183――――――――　2　―――――――――――――</p>

<p>最近のテレビ観察　「坂の上の雲」、「ドキュメント"真珠湾"から70年」など</p>

<p>　最近のＮＨＫテレビを見ていると、やたら戦争に絡んだものが多い気がする。朝の連続ドラマ「カーネーション」、前の「おひさま」は、太平洋戦争。繰り返し、繰り返し予告や、再放送を放送する「坂の上の雲」は明治時代の戦争。ＮＨＫは、どんな意図があって放映しているのか知る由もないが、真に戦争を知るのは、併せて文学を読むことだと思う。<br />
そこで、前回創作ルポの傑作『生きている兵隊』の最初の部分コピーを配布した。この作品で実際の戦争の現場は、どうだったか。人間とは何かを考えて欲しい。</p>

<p>なぜこの作品を読むのか　戦争こそが、人間の本性が一番にみえるときである。現在、日本の最大課題は憲法改正問題である。なかでも「戦争の放棄」を謳った第九条は、最重要課題のひとつとして注目されている。改正に賛成も反対も「戦争とは何か」。まずそれを知らなければならない。「戦争とは何か」を教えてくれるものは、映画・小説・記録など多々ある。そのなかで作家石川達三が書いた創作ルポ『生きている兵隊』は秀逸である。この作品に書かれてあるのは戦争賛美でも戦争批判でもない。ただ戦地において戦闘においの兵隊たちの日常が淡々と活写されているのみである。意図するもの、導くものは何もありません。戦争が何かを考えるのは読者自身です。この作品から、戦争を考えてみてください。</p>

<p>　作者、石川達三は、この作品を1938年(昭和13年)2月1日から書きはじめ、紀元節の未明に脱稿した。「あるがままの戦争の姿」を知らせたくて書いた。必読の戦場ルポ。<br />
　1937年7月7日から日中戦争がはじまったことから大日本帝国は、9月25日言論統制のための内閣報道部設置。11月大本営が宮中に設置した。ゆえに、この作品は創作ルポの形をとり「部隊名、将兵の姓名などもすべて仮想のものと承知されたい」とした。</p>

<p>「人間は、何にでも慣れる。そしてどんなこともできる生き物」ドストエフスキー</p>

<p>過去の教科書には、どう書かれていたか？</p>

<p>　南京事件は、現在を生きるものにとっては遠い昔、歴史の一コマだが、実際の政治のうえでは国内・国際を問わず、現代の日本の上に大きな問題となってのしかかっている。過去、教育は、この問題についてどのように触れてきたか。一部の教科書だが拾ってみた。</p>

<p>『高校日本史』　三訂版　　実教出版　文部省検定済　平成7年発行</p>

<p>1937（昭和12）年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍が中国軍と衝突し日中戦争が勃発した。...8月に上海で（支那事変）...。<br />
　...1937（昭和12）年12月、日本軍は、国民政府の首都である南京を占領した。（南京大虐殺）南京占領から一か月あまりの間、南京市内外でニホン群は、婦女子をふくむ少なくとも10数万人と推定される中国人を虐殺したこの事件は、ナンキン・アトロシテイとして欧米などで報道され、人びとに衝撃をあたえた。</p>

<p>『新しい歴史教科書』　扶桑社　第一刷2001・6・1　市販本<br />
国民に判断してもらいたい――これが話題の教科書だ！<br />
1937年8月、外国の権益が集中する上海で、二人の日本人将校が射殺される事件が起こり、これをきっかけに日中間の全面戦争が始まった。日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え、12月、12月、南京を占領した（このとき、日本軍によって民衆にも多数の死傷者が出た。南京事件）。しかし、蒋介石は重慶に首都を移し、抗戦を続けた。</p>

<p>――――――――――――――――――　3　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．182</p>

<p>テキスト『剃刀』観察</p>

<p>剃刀職人殺人疑惑事件模擬裁判</p>

<p>脚色・春日菜花</p>

<p>裁判長......武田結香子<br />
弁護士......春日菜花<br />
検　察......杉山知紗<br />
被告人......杉山知紗</p>

<p>証人　被害者家族......春日菜花<br />
証人　お梅　　　......春日菜花<br />
証人　錦公　　　......春日菜花<br />
証人　女中　　　......杉山知紗</p>

<p>事件概要　　どんな事件だったか</p>

<p>一九〇九年十月十三日午後十時二十四分頃、麻布十番四角交番に近くの「辰床」の店主、芳三郎（２８）が客を殺したと自首した。勤番の山田巡査が「辰床」へ駆けつけると、客用イスに所航太（２３）が首から大量の血を流して死んでいた。死因は出血死。凶器は「辰床」の商売用の剃刀。遺恨なし。業務上過失致死と無差別殺人の嫌疑で逮捕。</p>

<p>公判</p>

<p>裁判長　「人定質問」被告人は、氏名、年齢、職業、住所を述べなさい。　</p>

<p>被告人　辰吉芳三郎　２８歳　剃刀職人　住所は港区麻布六本木一‐十二　本籍は埼玉県</p>

<p>検　察　被告人辰吉芳三郎は、六本木の床屋「辰床」の店主。<br />
被告は十月十三日午後九時四十五分ごろ、客として来た、市ヶ谷連隊兵士、所航太（２３）の顔を剃刀で剃っている最中、誤って咽を切ってしまい死に至らしめてしまった。本行為はあくまでも本人の意思で行われたことから、通り魔殺人と同等と見なしました。<br />
翌日十四日の夕刊には「麻布の兵士殺し　犯人は辰床の親方」「病人の人殺し」と書かれています。よって本件は過失致死ではなく、刑法に基づき無期懲役を求刑します。</p>

<p>裁判長　これより裁判に入りますが、被告は自分に不利なことは言わなくても良いです。黙秘権の行使を認めます。<br />
では被告は事件に至った経緯を詳しく述べてください。</p>

<p>被告人　はい。あの日は熱で朝から気がクサクサしていました。頼まれた剃刀がきたのですが、どういうわけか思うように磨げませんでした。それで一層、イライラが募りました。そこへ、あの若者の客が入ってきたのです。客はこれから色町に行くのだとか、何かと気障りなことばかり言うので癪に障りました。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．183――――――――　4　――――――――――――――</p>

<p>裁判長　それが原因で殺意が生まれたのですか。</p>

<p>被告人　いいえ。そんなことで殺すのどうの、という気は無論ございませんでした。</p>

<p>裁判長　被告人は被害者に対して何か恨みがあったのですか。</p>

<p>被告人　取調べで刑事さんからもよく聞かれましたが、お客に対しては何の恨みも感情もありません。</p>

<p>裁判長　知り合いだったのですか。</p>

<p>被告人　近頃近所へ来た者だそうですが、全く知りませんでした。私の店へもその時初めて参ったのです。それ故、遺恨などこれっぽっちもありません。</p>

<p>裁判長　では、どうして殺してしまったのですか。</p>

<p>被告人　今考えても、どうしてあんなことをしてしまったのか、皆目分かりません。妻は一時的に気がふれたのだと申します。事件を起こしたことを考えればそうかもしれませんが、現在も、以前も、自分にはそんな兆候は微塵たりともございませんでした。今もこの通り、タシカです。</p>

<p>裁判長　全く殺す動機がないということですね。</p>

<p>被告人　はい。強いてあげるならば、咽を剃ります時、三、四里の傷をつけた。そのことくらいです。</p>

<p>裁判長　お前はその傷が命に関わる大きな傷と考えたのではないですか？　勝手に思い込んで、どうせ助からないのなら、一思いに死なせてやろう。そんな風に思ったのではないのですか。</p>

<p>被告人　そんな気があったかどうかは、いまだ考え出せません。しかしあれくらいなら、毎日のようにうちの小僧共がやっていることで、とても大事になるとは思いません。ひっかき傷でした。</p>

<p>裁判長　お前は腕のいい剃刀職人で、これまで十年余りも剃っていて、客の顔を一度も傷をつけたことはなかったといいますが、これは本当ですか。</p>

<p>被告人　はい、その通りです。</p>

<p>裁判長　ただの一度も失敗したことがなかった。完璧だった。裏を返せば原因というか、動機はそこにあると思いますが、どうですか。</p>

<p>被告人　はい。私もそう思います。</p>

<p>裁判長　しかし完璧主義者の裏返しとしても、人を殺すというのは大事件の動機としては軽すぎる。</p>

<p>被告人　はい。<br />
――――――――――――――――――　5――――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．183</p>

<p>裁判長　では、これより弁護人の陳述に入ります。弁護人、前へ。</p>

<p>弁護人　事件については弁解の余地はありません。被告人は慙愧の念に耐え、深く反省しております。今はただ、被害者にはご冥福と、ご家族の皆様にはお詫び申し上げる毎日であります。<br />
本日の陳述では、事件当日に起きましての被告の身体と精神状態を述べたいと思います。まず、身体の具合ですが、被告は二、三日前から風邪をひいて臥せっていました。この日も、妻、梅の証言によりますと、三八度の熱があったようです。よって、身体的には朦朧状態にありました。次に精神状態ですが、一ヶ月前に働いていた二人の剃刀職人を首にしたことで相当悩んでおりました。<br />
というのは、この二人は元同僚だったからです。一人は二年前にやめたのですが、また帰ってきたので「辰床」に婿入りをし、主人となった被告が良心から再び雇い入れたのです。しかし、二人の元同僚は遊び癖がついて、店の金にまで手を出すようになったことで、先月暇を出したのです。そんなことで店には二人の見習い小僧しかいませんでした。<br />
そこに秋季皇霊祭の前にかかって、店は大忙しとなりました。折り悪く、磨きにだした剃刀の研ぎがあまり良くない。多くの不備が重なり、被告は心神耗弱の状態でした。本来ならば仕事を断わるべきでしたが、被告の律儀な性格が災いをして、顔剃りを引き受けてしまったのです。このような理由から職業上から起きた事故と言うことで、本件は不可抗力による過失致死と判断いたします。</p>

<p>裁判長　それでは次に検察の陳述をお願いします。</p>

<p>検　察　はい。私どもの捜査でわかっていることを申し上げます。まず被告は他者に強いられた訳でもなく、自分の意思で殺したことを自覚しています。それに被害者の首の傷はどう考えても作為的なものです。被告の妻は、被告が自分で殺したと言って、警察に行くのを見ています。その時の被告は、足取りはしっかりしていたし、意識もはっきりしていた、と言っております。被告の妻が証人です。</p>

<p>裁判長　被告人の妻、前に。<br />
今、検察が述べたことは本当ですか。</p>

<p>お　梅　はい。熱のために異常ではありましたが、確かに殺したことについては自分で分かっていました。四つ角の交番へ悪びれることなく入っていきました。<br />
とても仕事なんかできる状態ではありませんでした。何度も止めたのですが、あの人は聞く耳なんて持ってはくれませんでした。剃刀を磨ぎ損ねたときなんて、肝が潰れたかと思うくらい吃驚したんです。泣いたって、聴いてはくれませんでした。<br />
自分がやらなきゃ誰がやる、って自分の仕事に誇りを持っていたんです。そのせいで変に意地を張ったんです。こんなことになると分かっていたなら、小僧二人を使ってでも布団に縛り付けておけばよかった。</p>

<p>裁判長　それでは次の証人、前へ。名前は？</p>

<p>錦　公　錦公と申します。二年前から「辰床」で見習いとして働いています。</p>

<p>裁判長　近頃の被告人はどんな様子でしたか。</p>

<p><br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・183　―――――――　6――――――――――――――――</p>

<p><br />
錦　公　ええ、親方には申し訳ありませんが、近頃やっぱりイラついていたと見えます。それを仕事の出来でなんとか堪えていたような節はあります。</p>

<p>検　察　すると、今度の事件は不満の爆発ということですか。場所は室外と室内で違うけれど、本質的には秋葉原事件と同じように思えますが。</p>

<p>錦　公　へえ、よくわかりませんが、むしゃくしゃして起こした、そのように思います。</p>

<p>検　察　すると相手は誰でもよかったということですね。違う客が被害者になっていた、その可能性もあったと思いますか。</p>

<p>錦　公　へえ。</p>

<p>裁判長　それでは次に、被害者関係者、前へ。</p>

<p>母　親　素行はよくなかったかもしれません。いつでも遊んでいましたから。でも親思いのとても優しい子でした。親の身からしたら、かけがえのない息子です。宝物です。こんな理由で奪われるなんて納得いきません。死ぬまで償ってもらいたい。</p>

<p>検　察　被害者は親思いの優しい前途ある若者でした。何故に理不尽に殺されなければならないのでしょうか。被告と言い争うようなことがあったのでしょうか。<br />
被害者は初めて入った店で、しかも店にいた被告の妻、奉公人の証言によれば上機嫌だったといいます。何一つ落ち度のない若者を、その日の自分の感情だけで殺した。被害者は通り魔にあったようなものです。いや、通り魔よりも性質が悪いと思います。通り魔ならば警戒心を持って歩くことも出来ましょう。が、被害者は全くの無防備でイスに横たわっていたのです。被告人を完全に信頼しきっていたのです。そんな若者を殺害するのは容易いことだったでしょう。被告は客の信頼をも裏切ったのです。<br />
本来ならば、この情け知らずの残忍な犯行と、親思いの被害者の前途を見て、被告人に死刑を求刑したいところですが、病気と心労があったということで、無期懲役を求刑します。</p>

<p>裁判長　弁護人の反論はありますか？</p>

<p>弁護人　風邪熱と心労、加えて生真面目生活が加担し、被告をその瞬間だけ心神耗弱、あるいは心神喪失状態に陥れた。その結果の事故と見るのが客観的判断ではないかと思います。そのことを証明するため、部外者の証言をお願いします。</p>

<p>裁判長　それでは店の関係者以外の証人、前へ。</p>

<p>女　中　山田で女中をしている者です。</p>

<p>裁判長　あの日「辰床」には行きましたか。</p>

<p>女　中　はい。お昼頃に行きました。旦那様が明日の夜。旅行に行くので剃刀の磨ぎを頼まれました。</p>

<p>――――――――――――――――――　7――――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．183</p>

<p><br />
裁判長　そのときの被告人はどうでしたか。</p>

<p>女　中　お店は混んでいて、小僧さんからは「明日では...」と言われました。でもどうしても、と頼むと奥から親方さんの「兼、やるぜ！」と叫ぶ声がしました。いつもと声が違うので、なんとなく風邪でもひいているのかと思いました。それで、少し心配になりました。</p>

<p>裁判長　で、剃刀は磨いで貰ったのですか。</p>

<p>女　中　用事の帰りによってみると、出来ているというので貰って帰りました。そのとき親方は風邪で寝ていると聞きました。主人に話すと「珍しいことがあるものだ」と言って、試しに剃刀を使ってみました。</p>

<p>裁判長　剃り具合はどうでしたか。</p>

<p>女　中　あまり切れなかったようです。主人が申すには「このところ大忙しのようだから、研ぐ手に狂いが出たのではないか。親方に一度使ってみてもらえ」と、言付かりました。親方さんは疲れていたんです。それで、あんな事故を起こしてしまったんです。</p>

<p>裁判長　これで検察、弁護人の陳述は終わります。裁判員は私見を述べてください。</p>

<p>以下、裁定議論　観客との質疑応答</p>

<p>裁判員・・・・・・観客全員</p>

<p>裁判長　被告は、有罪か無罪か。はじめに「有罪」と思う人は（挙手で）</p>

<p>裁判長　「無罪」と思う人は（挙手で）<br />
　　　　<br />
　　　　　「有罪」と思う人は、何故に「有罪」か、を説明して下さい。</p>

<p>　　　　　「無罪」と思う人は、何故に「無罪」か、を説明してください。</p>

<p>裁判長　以上の陳実から結審します。挙手て゛お願いします。</p>

<p>　　　　　「無罪」か「有罪」か</p>

<p>　　　　　　「有罪」ならば、刑期は</p>

<p>裁判長　よって<br />
とします。<br />
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />
閉廷<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・183　―――――――　8――――――――――――――――</p>

<p>　レストラン観察（車中観察できたえた目を店内観察に向けてみる）<br />
　<br />
アーネスト・ヘミングウェイ（1899-1961）<br />
『殺し屋』</p>

<p>　ヘミングウェイは、デビュー作となった『日はまた昇る』や映画化でも人気がでた『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』などが有名だが、自身の少年、青春時代を描いた短編も捨てがたい。そのなかにあって『殺し屋』は、世界文学線上にあっても名作。まさに20世紀の短編小説を代表する作品です。無駄のない簡潔な文体は、現代文学の手本ともいえます。こんな文体を身につけたい・・・そんな思いで若い頃、原稿用紙にヘミングウェイの作品を繰り返し写し取ったことを懐かしく思い出します。訳者の大久保康雄は、あとがきで、この作品についてこう紹介しています。<br />
　『殺し屋』は、ヘミングウェイがつくりあげた小説技法の見本のような作品である。ヘミングウェイはここで、余分な描写や説明をいっさい払いのけて、設定された状況に読者を直接対面せしめるという彼独自のスタイルを、ほとんど純粋なかたちで示している。ヘミングウェイ・スタイルの裸形というべきものが、ここにはある。<br />
　舞台がどこの町であり、登場人物がどんな性格をもっているのか、ここで提出される事件に到達されるまでにどのような過去があったのか、そういう説明は何ひとつなされていない。それでいて、描かれた場面の張りつめた緊張感が、異様なするどさで読むものの心に迫ってくるのである。<br />
　文章の簡潔さということが果たしている大きな役割の一つは、いうまでもなく、描写や説明を極度にまで切りつめることによって、ある一つの特殊な状況を、そのまま普遍的な意味にまで高めていることである。この『殺し屋』にしても、もし登場人物の経歴や性格を示すために多くの説明がなされたとしたら、これらの人物は、普通の小説的意味では、それだけ具象的なリアリティを濃くするかもしれないが、この事件全体を、ただの特殊な一事件―たんなるギャングの内輪もめ程度のものとしてしまったであろう。こういう簡潔化は、しばしば日常的な事物に象徴的な意味を付与するものなのである。ヘミングウェイの新聞記者時代の先輩ライオネル・ロイーズが、この作品を評して、「対話と行動の最小限の描写だけの純粋な客観性の一例だ」と言っているが、まことにそのとおりといわなければならない。<br />
　物語の筋は簡単である。ニックは小さな町の簡易食堂で働いている。ある夕方、二人の男がやってくる。二人は殺し屋で、だれかに頼まれて、この町に身をひそめているスウェーデン人の拳闘家アンドルソンを殺しにきたのだ。アンドルソンは、いつも六時にはこの食堂にきて食事をとる習慣なのだ。しかし、この日は六時になっても彼は姿を見せない。七時になった。それでもこない。二人の殺し屋はとうとうあきらめて帰ってゆ<br />
く。二人が立ち去ると、ニックは、危険を知らせるためにアンドルソンが泊まっている下宿屋へ駆けつける。拳闘家は、服を着たまま部屋のベッドに横になっている。ニックが殺し屋の話をしても、ただ壁を見つめたまま黙っている。警察に知らせようかと言っても、いや、どうにもしょうがないんだ、と言って、そのまま壁を見ているだけだ。この壁は無力な絶望感を象徴しているものと思われる。押しても、叩いてもどうにもしょうがない壁だ。<br />
　ニックとアンドルソンとのあいだにかわされる平凡な会話も、社会の表裏を経験してきた人間の絶望と、社会に足を踏み入れたばかりの恐れを知らぬ若者の勇気を対比させることによって、二つの世代の相違を巧みに暗示しているのである。ニックは、ここで</p>

<p>――――――――――――――――――――　9　――――文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．183</p>

<p>はじめて殺し屋たちの暴力の世界と拳闘家の絶望の世界に接触し、しだいに社会悪への目を開いてゆく。　新潮文庫『ヘミングウェイ短編集（一）』訳者「あとがき」より</p>

<p>　この作品は一九三十年前後、ヘミングウェイ三十歳前後に書かれた。アメリカの三十年代といえば何か。禁酒法（1920-1933）でギャングが横行した時代である。映画『アンタッチャブル』にみる無法時代。ギャングに狙われたら、もうどうしょうもない。警察など当てにならない。この作品から若きヘミングウェイの怒りが伝わってくる。<br />
　ギャング達は新移民と呼ばれる人達の子供達が多かったそうです。その代表的なのがイタリアからの移民の子のアル・カポネです。彼の残した言葉としてこんなのがあります。<br />
　『私は市民が望むものを供給することで、金を稼いだだけだ。もし、私が法律を破っているというのなら、顧客である多くの善良なシカゴ市民も、私と同様に有罪だ。』 ＨＰ検索</p>

<p>新聞・裁判記事</p>

<p>女児連れ去り事件、実刑判決　2011・11・26読売</p>

<p>懲役2年8カ月（求刑・懲役4年）事件概要は、以下新聞記事</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・183――――――――　10――――――――――――――――</p>

<p>秋田・弁護士殺害事件初公判　2011・11・29　朝日</p>

<p>秋田の弁護士が自宅で刺殺された事件。被告は、凶器は脅しのため。殺意はない。たまたま被害者が「覆いかぶさってきて刺さってしまった」と、主張している。</p>

<p>新聞記事による事件概要は以下の通り。</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
――――――――――――――――――　11　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．183</p>

<p>人間の謎・振込詐欺はなぜなくならないのか　？</p>

<p>警視庁発表2010年は6600件、被害総額約100億円　！！　2011・12・4朝日</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・183――――――――　12――――――――――――――――</p>

<p>2011年後期ゼミ旅日誌<br />
□9月26日ゼミ　参加者7名＝椎橋萌美、會澤佑香、藤塚玲奈、春日菜花、杉山知紗、武田結香子、内田悠介。課題「私の夏休み」発表＝春日菜花「窓辺の光景」、藤原佑貴「何でも読んでやろう」。課題「なんでもない一日の記録」発表＝藤塚玲奈「サクランボとお婆さん。　課題「未来車内観察」発表＝武田結香子「10年後の私」。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月3日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題「私の夏休み」発表＝武田結香子「夢を見つけた夏」。課題「車内観察」掲載＝會澤佑香「寒い日」。課題『にんじん』感想・意見掲載＝椎橋、春日、杉山、武田、藤塚、會澤、内田。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月17日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題『にんじん』感想発表「失礼ながら」「尿瓶」「うさぎ」＝杉山、春日、武田。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月24日　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題『にんじん』感想発表「もぐら」「つるはし」「湯のみ」「ねこ」＝春日、杉山、武田。課題「車内観察」発表＝春日「工事中のホームで」。課題「日常観察」発表＝武田「家族」。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月31日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。テキスト『剃刀』「剃刀職人客殺害疑惑事件」模擬裁判＝武田・春日・杉山口演。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□11月7日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題「車内観察」発表＝杉山「幼馴染と携帯」。テキスト脚本口演＝武田・杉山・春日。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□11月14日ゼミ　参加者＝春日菜花。テキスト『兒を盗む話』「尾道幼女誘拐事件」についての＝春日。伊那谷、他についての雑談＝春日。ゼミ誌報告＝武田「印刷交渉成立」<br />
□11月21日ゼミ　参加者＝杉山知紗、春日菜花。課題「車内観察」発表＝春日「不幸な友」。<br />
テキスト『范の犯罪』読み。「尾道幼女誘拐事件」判決考。<br />
□11月28日　参加＝杉山知紗、武田結香子、春日菜花。司会＝杉山　「継子殺人未遂事件」考察、「ナイフ投げ美人妻殺害疑惑事件」裁判、合同発表「剃刀殺人」裁判稽古。<br />
　<br />
ゼミ誌作成に関する今後の重要作業、以下1点の書類提出に注意</p>

<p>1. 雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。12月12日<br />
2.　印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。</p>

<p>お知らせ</p>

<p>12月24日（土）午後2時～5時00分　懇親会5時10分～<br />
ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会　作品「ポルズンコフ」<br />
豊島区勤労福祉会館　第一会議室（池袋警察署・消防署隣）<br />
詳細は、編集室まで<br />
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />
編集室便り<br />
　　住所〒274-0825　船橋市前原西6-1-12-816　下原方<br />
　　メール：　TEL・ＦＡＸ：047-475-1582　 toshihiko@shimohara.net<br />
提出原稿は、メール、ＦＡＸでも受け付けます。(送信でもらえると二度手間と間違い打ちがなくなるので助かります)<br />
ゼミ評価は、以下を基本とします。<br />
出席日数　＋　課題提出（ゼミ誌原稿）＋α　＝　100～60点（Ｓ，Ａ，Ｂ，Ｃ）</p>

<p>※「おんぼろ道場奮戦記」は、紙面の都合でお休み、連載4は次号に掲載。</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>望月由太郎先生は東京の深川の方で町道場をひらいていた。家業の自動車修理工場が繁盛し、より広い敷地を求めて郊外のこの町に移ってきた。そして、この町でも道場をはじめたのだ。が、土地は借地だったのだ。<br />
「柔道好きな地主に話したら、田んぼを貸してくれたのだ」<br />
と、いった。<br />
なんでも二十年契約で借りているらしい。が、当の地主さんは、だいぶ前になくなり、代が代っていた。契約も、あと三、四年で切れるという。<br />
「なに、貸してくれるさ」<br />
望月先生は、あっさりいった。<br />
が、わたしは不安だった。いまどき、住宅街にある三十坪の土地を、ただ同然で貸してくれる殊勝な篤志家などいない。案の定、先生と訪れた地主さんのお店では、剣もほろろだった。私は、完全に怪しい人物とみられていた。<br />
「おじいちゃんがね、望月先生との関係で貸してたんですが、望月先生もいなくなるんじゃ、契約の継続の意思はありません」<br />
当然といえば当然の答えである。どこの馬の骨とも知れない中年男が、米寿の店子と突然やってきて、まだ道場をつづけたいから土地の契約を継続してくれといわれても、できぬ相談である。契約した途端に道場をやめて何かの商売をはじめるのかも知れないのだ。そんな事件もちょくちょくニュースある。それだけに、普通の地主なら、はなからうけつけなかったろう。そして、わたしが道場をつづけるという話もなかった。が、この町で代々続いた地主でもあり、酒屋や米屋を営んでいるというところから、せっかく長年つづけている道場を、契約者が引っ越すということでたたんでしまうというのも気の毒に思えたのか<br />
「契約の切れるまで、あなたを信用してお貸ししましよう」<br />
と、いってくれた。<br />
　望月先生に契約書をみせてもらうと、あと五年あった。この五年、長いのか、たった五年か。このあいだにわたしは作家としてデビューできるのか。先のことは、わからない。しかし、とにもかくにもわたしは、これからの五年間は道場主なのだ。一人でも多くの子供たちに柔道を教えたい。私は希望に燃えてオンボロ道場を引き継ぐことになつたのである。<br />
三　最初の生徒たち</p>

<p>たとえオンボロでも晴れて道場主となった私である。これまで通りぼんやりと稽古をしているだけではすまない。まずはじめに私がしなければならないことは生徒を増やす算段だった。私が休んでいるあいだ生徒はぐつと減っていた。このとき通ってくる生徒は小学生二人と、ノッポの清水君とヤセの宮澤君、この高校生二人きりだった。<br />
望月先生は、新聞の折りこみ広告をすすめてくれた。が、一回こっきりで二万も三万するうえ印刷代も馬鹿にならないので、やめにした。かわりに、手製の絵入りの看板を何枚か作って、公園や学校周辺に掛けてまわった。しかし、入門者はなかなかあらわれなかった。が、ある日を境に、入門者がふえた。<br />
まずはじめに三年生の保坂が友人を連れてきた。近くの自衛隊から二十六歳の山田青年が入門してきた。つづいて大学生の冨澤君が入門した。そして、つづいて小学二年生の佐野が入門した。佐野の家はお母さんがお琴の先生で、<br />
「きびしくやってください」<br />
が注文だった。<br />
　この家はお父さんも厳しそうで、大会で会ったときなどさかんに<br />
「びしびしやってくださいよ」<br />
と、はっぱをかけられた。<br />
　一気に四人もの生徒が増えたのである。全員で八人となると、オンボロ道場もさすがにぎやかになった。<br />
　私は、とくにこれといった指導方法は考えていなかった。楽しく柔道が練習できればいい。それが私のモットーであった。大学生の冨澤建作君も入門してきた。冨澤君は、いまどきめずらしいほとの礼儀正しい若者だった。<br />
　幸先のよいスタートとなった。以下が、そのときのメンバーである。</p>

<p>小学三年生　佐野貴則<br />
小学四年生　小林　保<br />
小学四年生　保坂知稔<br />
小学五年生　遠藤康弘<br />
高校二年生　宮澤圭輔　　　　白帯<br />
高校二年生　清水貴之　　　　白帯<br />
大学一年生　下原良太　　　　初段<br />
大学ニ年生　冨澤建作　　　　白帯<br />
自衛隊員　　山田慎一郎　　　白帯</p>

<p><br />
ときに平成六年、梅雨も明けた七月のことであった。世界は近づくアトランタオリンピックに沸いていた。<br />
そうして、この夏、日本柔道は、とかく批判的な結果に終った。が、私は、このような感想をもった。<br />
　　　　　　　　　　<br />
一九九六年（平成八年）八月七日　水曜日　朝日新聞　朝刊「声」欄</p>

<p>柔道の変化は自他共栄実現</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　船橋市　下原敏彦（四九歳）</p>

<p>　金三個、銀四個、銅一個。過剰なまでの<br />
期待のなかで日本代表の柔道選手たちはよ<br />
く戦ったと思う。帰国した選手たちに改め<br />
て拍手を送りたい。だが、すばらしい成果<br />
とは反対に柔道の試合に対する日本国内の<br />
評価には残念なものがある。<br />
「世界柔道と日本柔道とは違う」、このよ<br />
うな言葉を、よく耳にする。日本柔道の敗<br />
因は国際ルールにある、未熟な審判にある。<br />
メダルを八個もとったのに・・・こんな分<br />
析である。おまけに三十日本欄では柔道は<br />
「もはや『道』ではない」とまでさげすま<br />
れている。いずれも時代錯誤としか思えな<br />
い意見である。<br />
　ルールが日本にだけ不公平だったと思え<br />
ないし、勝利を素直に喜ぶ各国選手の態度<br />
も醜くはなかった。特に田村選手を破った<br />
無名のケー・スンヒ選手の礼の正しさには<br />
感動すら覚えた。<br />
　試合は勝つべき者が勝ち、負けるべき者<br />
が負けた。ただそれだけであった。そこに<br />
作為や理不尽など少しも感じなかった。<br />
　選手たちは皆、一生懸命、技を競いあっ<br />
た。それを二つの柔道やルールのせいにす<br />
るなど、選手を愚弄するものだ。それより<br />
柔道の変化は創始者嘉納治五郎の理念、自<br />
他共栄の精紳により近づいたとみるべきで<br />
ある。</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>文芸研究Ⅱ　下原ゼミ通信No.182</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.shimohara.net/archives/2011/11/no182.html" />
    <id>tag:www.shimohara.net,2011://1.170</id>

    <published>2011-11-28T08:54:57Z</published>
    <updated>2011-11-28T08:57:12Z</updated>

    <summary> 日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2011年（平成23年）11月28日発行 文...</summary>
    <author>
        <name>下原敏彦</name>
        
    </author>
    
        <category term="下原ゼミ通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.shimohara.net/">
        <![CDATA[<p><br />
日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2011年（平成23年）11月28日発行</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．182<br />
ＢＵＮＧＥＩＫＥＮＫＹＵ　Ⅱ　ＳＨＩＭＯＨＡＲＡＺＥＭＩ　ＴＳＵＳＨＩＮ<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　編集発行人　下原敏彦<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
9／26　10／3　10／17　10/24　10／31　11／7　11／14　11／21　11／28　12／5　<br />
12／12　1／16　1／23<br />
　　<br />
2011年、読書と創作の旅</p>

<p>11・28下原ゼミ</p>

<p>11月28日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室</p>

<p>1．	通信182配布　「前回ゼミ」報告</p>

<p>2.　ゼミ雑誌作成経過報告　　課題発表「継子殺人未遂事件」<br />
　<br />
　3.　ナイフ投げ美人妻殺害疑惑事件模擬裁判（テキスト『范の犯罪』）</p>

<p>4.　合同発表『剃刀』裁判稽古　名作読み・『生きている兵隊』ルポ<br />
　　　　 </p>

<p>11・21ゼミ観察</p>

<p>　先週の21日ゼミは、春日さん、杉山さんの参加。武田さんは風邪の為、欠席とのこと。ゼミ誌編集の疲れも予想される。が、一日も早い快復をお祈りします。<br />
58年前の小学一年生<br />
参加人数から模擬裁判の代わりに、ビデオ鑑賞することにした。映像は、今から15年前1996年11月24日に放映されたＮＨＫテレビのドキュメンタリー番組「教え子たちの歳月　50歳になった一年生」である。が、ロッカーにあったのは旧式のテープビデオ。ＤＶＤに落としてなかった。機械は江古田校舎にあるとのことで断念、後日、機会をみて観るこにした。代わりに、そのとき記念誌として私が編纂した写真集『五十歳になった一年生』を見てもらうことにした。1953年入学の小学一年生と43年後、50歳になった一年生を撮ったもの。<br />
この写真集、ゼミ参加者のご両親には懐かしいだろうが、1997年頃に小学校に入学したゼミⅡの皆さんの感想は・・・44年間という歳月の開きがある。普遍として伝わるものがあるだろうか。それとも、ただの昔の写真として映るだろうか。ちなみに、昨年出版した私の拙書『山脈はるかに』は、この一年生がモデルである。<br />
尾道幼女誘拐事件の模擬裁判の判決<br />
　テキスト『兒を盗む話』「尾道幼女誘拐事件」の模擬裁判を杉山、春日で審議した。結果、春日の判決は有罪。猥褻目的かそうでないかは、本人しかわからぬところ。最悪、猥褻をとっても、実際はなにもなかったのを考慮して、懲役2年半とした。杉山も、その判断だった。判決は、原作では無罪。実際あった新潟の9年間少女誘拐は、無期から懲役14年、それから11年になったという。軽過ぎるのか、妥当なのか、重いのか。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>『范の犯罪』を読む<br />
この作品は、「ナイフ投げ曲芸師美人妻殺害疑惑事件」として審議する。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ.182――――――――　2　―――――――――――――</p>

<p>最近のニュース観察　　人間の謎、オウム真理教事件裁判終結</p>

<p>１６年半前の事件とは何か<br />
　16年半前、つまり1995年だが、5月、日本中を震撼させた事件の首謀者が逮捕された。（容疑者は、天井に造った狭い隠れ家に、逃走資金の札束を抱えヤモリのようにはりついて隠れていた）そして、その手下の幹部189人が罪に問われた。<br />
告訴されたのは、13事件で計27人を殺し、数千人に重軽傷を負わせた罪。21日最高裁の裁判で13人の死刑が確定した。<br />
現在、20歳の人が3、4歳の頃の事件であるから、いまの若い人は直接の記憶はないと思う。が、その後の新聞、テレビ、雑誌のメディアから知り得ている違いない。もっとも、戦後世代が、生まれる前年にあった戦争を実感できないように、この事件も歴史の一出来事としてみているかも。そこで、事件に至る概略を今一度、紹介してみよう。<br />
　1970年半ば、一人の男が、九州から上京した。盲学校を卒業したその男の謎は、ここからはじまる。男は、目が不自由で盲学校に入ったが、当時の同級生の証言から、男は目が見えていたのではとの疑いもある。「屋上で、突き落とす」と言われた。こんな証言をテレビでみたことがある。男は、同級生たちを恐怖で支配していた。<br />
　いかさま師の常で、彼らは非常に話術にたけている。現在のオレオレ詐欺の小悪党から、全ヨーロッパを手中にしたヒトラーまで、歴史を振り返れば枚挙にいとまがない。<br />
　嘘や法螺は、小さいより大きな方が、信じこませ易いという事実は、いつも事件で知ることができる。盲目を装った男の嘘は、病気が治るという一般的詐欺をスタートに、荒唐無稽な嘘にと発展していく。空中を浮遊できる。水の中に何時間もいられる。壁抜けができる。そんな子どもだましの嘘だったが、なぜか、日本の最高学府の科学や物理学を学ぶ理科系の学生たちが引っかかっていった。この男を尊師と崇め、男が開いたオカルト宗教に帰依していったのだ。学生だけではない、最高医療を学んで米国から帰国した医師も化学者も弁護士さえも。現在、派生した団体の主催者は、なんと宇宙工学研究所出身者でもある。<br />
　ゼミ通信編集室が、この男と、その一味のことをはじめて知ったのは、1989年11月5日だった。前日の4日横浜に住む弁護士一家三人が忽然と消えた。居なくなったのは弁護士夫婦と、幼いお子さん。アパートの部屋には、絨毯が少しズレていたのと、ある新興オカルト宗教のバッチが落ちていた。事件は、こんな謎めいた現場状況からはじまった。<br />
　失踪した弁護士は、6月に「オウム真理教被害対策弁護団」を結成していた。オウム教というヨガ道場の新興宗教に息子や娘が入信し困っている。そんな親の依頼を受けての立ち上げだった。そんなことから、にわかにオウム教が注目されはじめた。最初のころは、鳥のオウムと間違えられるほどの知名度だったが、テレビをはじめマスメディアが、このカルト集団の名声を確固たるものにした。その意味でマスメディアの責任は大である。1989年8月に、なんと東京都は、この狂った宗教集団を宗教法人として認証した。あやしげな集団は、連日連夜テレビに登場し、益々人気を博すことになる。この宗教集団とは何か。新聞に報じられた概要は下記のようである。<br />
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />
オウム真理教　東京都内でヨガ教室を開いていた松本智津夫死刑囚が1984年2月、前身の「オウム神仙の会」を発足させ、87年に改称した。信者数は95年3月に1万人を超え、海外にも拠点を持った。一連の事件後も存続し、現在は主流派の「アレフ」（信徒約1070人）と、分派の「ひかりの輪」（同約200人）に分裂。いずれも団体規制法に基づく観察処分の対象になっている。　（読売新聞2011・11・21）<br />
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />
　この分派した団体に、年間100人もの若者が入信していて、アレフには死刑囚の写真が飾られ拝まれているという。なぜか、謎は解けないが、オレオレ詐欺に簡単にひっかかってしまう人たちが存在することを思うと、解けぬ謎でもないような気もする。編集室<br />
――――――――――――――――――　3　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．182<br />
課題　6歳継子殺人未遂事件</p>

<p>1876年5月×日ロシアのペテルブルグでこんな事件が起きた<br />
（実際の情報が少ないため、事件発生時と現場状況について多少の推理・憶測があります）</p>

<p>裁判員裁判の見本ともいえる裁判</p>

<p>日本には、現在1億3千万近い人間がいる。そのうち未成年者は2300万人というから選挙権の有権者は、1億人前後いることになる。自分が選ばれる確率は宝くじより低い、などと思ってはいけない。人間一生のうち67人に1人が裁判員となる割合だという。<br />
　平成元年生まれの人たちが多いゼミの皆さんも例外ではない。というわけで、この事件を裁判員になったつもりで、評決してみましょう。（この事件は、1876年ロシアの裁判で陪審員制度で裁かれました。ある意味で裁判員の見本となる裁判です。）</p>

<p>「単純な、しかし、厄介な事件」（ドストエフスキー全集『作家の日記』上巻）</p>

<p><br />
事件発端と推移</p>

<p>　1876年5月×日、午前7時頃（推定）ペテルブルグの警察分署に、一人の若い女が出頭した。若い女は、応対した警官に、「たったいま、継娘を4階の窓から放り投げて殺してきました」と、言った。つまり殺人を自首してきたのである。継娘は6歳、4階の高さは地上から十数メートルある。驚いた警察は、現場に駆けつけた。遺体を確認してこなかった、と言ったが、誰もが最悪を思い描いた。この季節にしてはめずらしく、雪が道路のそこここに残っていた。女が放り投げたという4階の窓下にも、いくらかの雪がはき積もっていた。警察は被害者を探した。6歳の女の子は、まったくの偶然に、その雪の中に落ちて気を失っていた。怪我一つなく、奇跡的に助かったのだ。警察は、女を継娘殺人未遂事件の犯人として逮捕した。はたして、この女の罪状は・・・・。現在、日本のあちこちで起こっている幼児虐待事件を思い出す。最近も三つ子の赤ちゃんの一人が虐待で死んだニュースがあった。</p>

<p>犯人の身元</p>

<p>　犯人の若い女は何者か。名前、エカチェリーナ・コルニーロヴァ。年齢20歳。職業、農婦。1年ほど前、妻が病死した子連れ男と結婚した。連れ子は6歳の女の子で、この事件の被害者となった。この夫婦は結婚当初から夫婦喧嘩が絶えなかった。妊娠中。</p>

<p>殺意の動機</p>

<p>　自己中心的な夫への憎しみ。自分を親戚のところへ行かせず、親戚が来るのも嫌がった。喧嘩のたびに、死別した細君を引き合いに出しては、「死んだ妻の方がよかった」「あのころは、世帯向きがもっとうまくいっていた（米川訳）」など言葉の暴力を受けつづけた。<br />
　このためいつしか愛情より憎しみが強くなり、復讐したいと思うようになった。復讐は、何がてきめんか。それは「亭主がいつも引き合いに出しては自分を非難した先妻の娘を、亡きものにすること」だった。夫に対する面当てから、なんの落ち度もない6歳の継娘を殺そうと計画し、実行した。</p>

<p></p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．182――――――――　4　――――――――――――――</p>

<p>この事件について、春日さん・杉山さんに考えてもらいました。以下、二人の見方と判決です。</p>

<p>【検察の起訴と求刑】</p>

<p>杉山　幼児虐待と殺人未遂により懲役三年。計画性が高く非常に意図的、また再犯も考えられる。また、理由が娘自身の問題でなく、夫と先妻からのことで、娘は何の落ち度もない一方的な被害者。<br />
求刑　→　懲役3年</p>

<p>春日　（夫に対する憎しみから、罪のない娘への明確な殺意）夫の言葉の暴力で容疑者は殺人の決意。結果、娘は助かったが、殺意があったのは証明されている。よって、懲役1年6カ月を求刑。<br />
求刑　→　懲役1年6カ月</p>

<p>【弁護側の弁護】</p>

<p>杉山　夫がしばしば先妻について話すことで、娘への影響を考えなかったこと。また、容疑者に対しての態度も悪い。計画性は、あまり高くなく、衝動的。かつ自首してきていることから反省し、再犯は考えずらい。よって無罪。</p>

<p>求刑　→　無罪を主張</p>

<p>春日　もともと夫からの精神的ストレスが原因であり、被告人の精神状態を考慮すべき。</p>

<p>求刑　→　保護観察処分？</p>

<p>【裁判員の立場から】</p>

<p>杉山　道場するが、娘に落ち度がないのは事実。いたいけな子どもを夫の復讐の道具にするのは卑劣。</p>

<p>春日　夫への恨みから罪のない子への仕打ちにしては過激すぎる。結婚当初からならば離婚すればよかったのでは？精神状態は考慮すべきか・・・。</p>

<p>【裁判長としての判決】</p>

<p>杉山　→　有罪！幼児虐待により、懲役2年。</p>

<p>春日　→　有罪！懲役6カ月。</p>

<p>実際の裁判結果<br />
第一回の判決<br />
「犯行当時17歳以上20才未満に相当するエカチェリーナ・コルニーロヴァを2年8カ月の懲役に処し、その満期後、終身シベリヤ流刑」</p>

<p>第二回の判決・課題「なぜか？！」<br />
第二審では、陪審員は「無罪」として、裁判長も「無罪」でした。彼らが一審を覆して「無罪」とした理由は何か。4点をあげてください。<br />
――――――――――――――――――　5――――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．182</p>

<p>模擬裁判観察　　―テキスト志賀直哉『范の犯罪』から―　　　　　　　　 </p>

<p>ナイフ投げ奇術師美人妻殺害疑惑事件</p>

<p>　2009年五月から裁判員制度がスタートしました。裁判員として一般の有権者が参加しています。選ばれる確率は有権者全国平均で４９１Ⅰ人に一人といいます。この確率が低いか高いかは別として、選ばれる可能性は誰にもあります。2年が過ぎて、様々な問題点が、でてきています。なかでも死刑判決は、かなりの重責になっているようです。この制度がしっかり定着するために是非とも乗り越えていってほしいものです。<br />
　下原ゼミでは、この裁判制度をより知るために、というか事件をより客観視できるように、後期授業は、テキストの志賀直哉作品や世界名作及び新聞記事のなかから殺人事件を取り上げ、模擬裁判仕立てにして、判決をだしてきました。<br />
とりあげた作品は、『作家の日記』からは「継子殺害未遂事件」、テキスト志賀直哉からは『兒を盗む話』から「尾道幼女誘拐監禁事件」、『剃刀』から「剃刀職人客殺害疑惑事件」。カミュ『異邦人』から「太陽のせい殺人事件」などです。<br />
今年度は、都合で、テキスト志賀直哉の作品二作しかできませんでした。本日は、そのなかの一つ『范の犯罪』を「ナイフ投げ奇術師美人妻殺人疑惑事件」として模擬裁判形式で発表します。この事件は、はたして過失なのか、完全犯罪か、難しい事件です。裁判員（観客）の判決は、どんなものでしょう。</p>

<p>裁判長　・・・・・・・・・　　　　　　　　語り手・・・・・<br />
被告人の奇術師・・・・・・<br />
見世物小屋座長・・・・・・<br />
ナイフ投げの助手・・・・・</p>

<p>【模擬裁判開始】口上は、裁判所記録係り</p>

<p>□　公判開始(口上)</p>

<p>　それでは、「ナイフ投げ奇術師妻殺害疑惑事件」の裁判を開始します。</p>

<p>起立　礼　！</p>

<p>□　起訴(口上)<br />
　<br />
起訴状<br />
　演芸一座の奇術師ハンは、兼ねてより妻殺害の計画を企て、ナイフ投げ演芸の最中、事故のようにみせかけ観客の面前で、妻を殺害した。未必の故意とも供述している。</p>

<p>□事件概要(口上)<br />
　<br />
　十月十五日、夜八時十三分頃、所沢中富南四の二十一にある演芸場で范(ハン)という若い中国人の奇術師の妻が演芸中に死んだ。演芸は、板の前に立った人に当らないようにナイフを投げていく芸。奇術師は夫婦で、この芸をつづけていた。この夜、奇術師の夫が投げたナイフが妻の首に刺さり頚動脈を切断。若い妻は、その場で亡くなった。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・182　―――――――　6――――――――――――――――</p>

<p>　不意の出来事だった。当初、演芸に伴う事故とみられた。が、夫婦間に不和があったため故意と疑われ奇術師ハンは十月二十日、逮捕された。<br />
　取調べで奇術師ハンは、「故意ではないが、(無意識に)故意があったかもしれない」と答えている。そして、妻の死を悲しむ心は、「全くない」とも話している。</p>

<p>□　現場検証及び目撃証言(口上)</p>

<p>　事件の現場検証と目撃証言の報告</p>

<p>本件の被害者は、演芸一座のスタッフの女性、二十四歳、事件発生時に死亡。<br />
本件の被告人は、死亡した被害女性の夫ハン、二十八歳、演芸一座所属の奇術師。<br />
　　　　　　　　<br />
現　場　＝　埼玉県所沢市中富南二の二十一、所沢文芸劇場・土壌館内の舞台　</p>

<p>目撃者　＝　ナイフ投げ演芸助手、観客三百人余り、巡査一名<br />
　　　　　　　<br />
凶　器　＝　ナイフ、出刃包丁ぐらいのもの刃わたり三〇センチ弱</p>

<p>状　況　＝　戸板大の板の前に女を立たせ、二間(約三・七㍍)離れたところから奇術<br />
　　　　　　　師が出刃包丁ほどのナイフを投げる芸をしていた。<br />
　　　　　　　ナイフは、女の体から二寸(六センチ)と離れない距離に突き刺さる。奇<br />
　　　　　　　術師は、掛け声とともに、体にナイフの輪郭をとるように次々と投げていた。</p>

<p>事件発生　＝　３本目に投げたナイフが女の首に突き刺さった。頚動脈が切れたようだ。<br />
　　　　　　　血がどっとあふれ、女は、前に倒れて動かなかった。約二十分後、一一九<br />
　　　　　　　番通報で駆けつけた救急隊員が死亡を確認。即死だった。</p>

<p>目撃証言　＝現場に一番近いところから見ていた助手の証言。<br />
　　　　　　　被告は「あっ」と声を出しました。見ると女の首から血がどっとあふれてい<br />
　　　　　　た。女は、ちょつとの間、立っていたが、ガクリとひざを折った。刺さった<br />
　　　　　　ナイフでちょつと体がつられたが、そのナイフが抜けるとくずれるように女の<br />
　　　　　　体は前へのめった。その間、だれもどうする事もできなかった。ただ堅くなっ<br />
　　　　　　て見ているばかりだった。奇術師もその数秒間はおそらく私たちが、見ていた<br />
　　　　　　状態と同じだったと思う。真っ青になって目を閉じて立っていた。そのあと<br />
　　　　　　倒れた女の側に膝まづいて黙とうしていた。そのときは、ああ事故ってしまっ<br />
　　　　　　たと思った。が、あとで(とうとう殺したな)という考えが浮かんだ。</p>

<p>公　判　記録</p>

<p>語り手　――　はじめに被告をよく知る関係者の訊問を行います。</p>

<p>座長、前に進み出る。</p>

<p>裁判官　「証人と被告との関係は　――　」<br />
座　長　「被告がいる一座の座長です」<br />
裁判官　「あの演芸はぜんたいむずかしいものなのか　？　」<br />
座　長　「いいえ、熟練のできた者には、あれはさほどむずかしい芸ではありません。ただ、</p>

<p>――――――――――――――――――　7　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．182</p>

<p>　　　　あれを演ずるにはいつも健全な、そして緊張した気分を持っていなければならない<br />
　　　　という事はあります」<br />
裁判官　「そんなら今度のような出来事は過失としてもありえない出来事なのだな」<br />
座　長　「もちろんそういう仮定　――　そういうごく確かな仮定がなければ、許しておけ<br />
　　　　る演芸ではございません」<br />
裁判官　「では、お前は今度の出来事は故意のわざと思っているのだな　？ 」<br />
座　長　「いや、そうじゃありません。なぜなら、なにしろ二間という距離を置いて、単に<br />
　　　　　熟練とある直覚的な能力を利用してする芸ですもの、機械でする仕事のように必<br />
　　　　　ず正確にいくとは断言できません。ああいう誤りが起こらないまでは私どもはそ<br />
　　　　　んなことはあり得ないと考えていたのは事実です。しかし今実際起こった場合、<br />
　　　　　私どもはかねてこう考えていたという、その考えを持ち出して、それを批判する<br />
　　　　　事は許されていないと思います」<br />
　</p>

<p>裁判官　「ぜんたいおまえは、どっちだと考えるのだ」<br />
座　長　「つまり私にはわからないのであります」<br />
裁判官　「そうか。下がってよろしい」</p>

<p>　　　　　座長、礼をして退席。<br />
語り手　――「つぎの証人、前へ」</p>

<p>　　　　　助手が証言台に立ち一礼する。</p>

<p>裁判官　「被告との関係は」<br />
助　手　「被告の助手をしています。ナイフを運んだり、渡したりする役目です」<br />
裁判官　「被告は、ふだんの素行はどういうふうだった」<br />
助　手　「素行は正しい男でございます賭博も女遊びも飲酒もいたしませんでした。それに<br />
　　　　あの男は昨年あたりからキリスト教を信じるようになりまして、英語も達者ですし、<br />
　　　　暇があると、よく説教集などを読んでいるようでした」<br />
裁判官　「妻の素行は」<br />
助　手　「これも正しい方でございました。ご承知のとおり旅芸人というものは決して風儀<br />
　　　　のいい者ばかりではありません。他人の妻を連れて逃げてしまう。そういう人間も<br />
　　　　時々はあるくらいで、被告の妻も小柄な美しい女で、そういう誘惑も時には受けて<br />
　　　　いたようでしたが、それらの相手になるような事は決してありませんでした」<br />
裁判官　「二人の性質は　?　」<br />
助　手　「二人とも他人にはごく柔和で親切で、また二人ともに他人に対しては克己心も強<br />
　　　　く決して怒るような事はありませんでした。――　」<br />
　　　　　　助手、ちょっと考えて、また続ける。<br />
　　　　「・・・この事を申し上げるのは被告のために不利益になりそうで心配でもありま<br />
　　　　すが、正直に申し上げれば、不思議なことに他人にたいしてはそれほど柔和で親切<br />
　　　　で克己心の強い二人が、二人だけの関係になるとなぜか驚くほどお互いに残酷にな<br />
　　　　ることでございます」                 <br />
裁判官　「なぜだろう・・・　？　」<br />
助　手　「わかりません」<br />
裁判官　「お前の知っている最初からそうだったのか　？　」<br />
助　手　「いいえ、二年ほど前、妻が産をいたしました。赤子は早産だという事で、三日ば<br />
　　　　かりで死にましたが、そのころから二人はだんだん仲が悪くなって行くのが私ども<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・182　――――――――　8――――――――――――――――</p>

<p>　　　　に知れました。二人は時々、ごくくだらない問題から激しい口論を起こします。し<br />
　　　　かし、被告は、どんな場合でも結局は自分の方で黙ってしまって、決して妻に対し<br />
　　　　て手荒な行いなどする事はございません。もっとも被告の信仰心がそれを許さなか<br />
　　　　ったでしょうが、顔を見るとどうしても、押さえ切れない怒りがすごいほどあらわ<br />
　　　　れていることもございます。で、私はあるとき、それほど不和なものならいつまで<br />
　　　　もいっしょにいなくてもいいだろう、と言ったことがございます」</p>

<p>　　　　　助手、深呼吸して</p>

<p>しかし、彼は妻には離婚を要求する理由があっても、こっちにはそれを要求する理由はないと答えました。<br />
　　　　　...　自分に愛されない妻が、だんだん自分を愛さなくなる。それは当然のことだ、<br />
　　　　こんなことも言っていました。彼がバイブルや説教集を読むようになった動機も<br />
　　　　それで、どうかして自分の心を和らげて、憎むべき理由もない妻を憎むという、<br />
　　　　むしろ乱暴な自分の心のため直してしまおうと考えていたようでした。妻もまた可<br />
　　　　哀そうな女なのです、と...　故郷の兄というのが放蕩息子で家はつぶれて無いので<br />
　　　　す。...　身寄りもなく不和でもいっしょにいるほかなかったのだとおもいます」<br />
裁判官　「で、ぜんたいお前は、あの出来事についてどう思う　？　」<br />
助　手　「誤りでした事か、故意でした事かとおっしゃるのですか　？　」<br />
裁判官　「そうだ」<br />
助　手　「実は、私もあの時以来、いろいろ考えてみました。ところが考えれば考えるほど<br />
　　　　　だんだんわからなくなってしまいました」<br />
裁判官　「なぜ」<br />
助　手　「なぜか知りません。おそらくだれでもそうなるだろうと思われます」<br />
裁判官　「では、あの瞬間にはどう思ったのか。どっちかと」<br />
助　手　「思いました。殺したな、と」<br />
裁判官　「そうか、そのときの奇術師の様子はどうだった。あわてた様子はなかったか」<br />
助　手　「少しあわてた様子でした」<br />
裁判官　「よろしい、尋ねることがあったらまた呼び出す」<br />
　　　　<br />
　　　　　助手、一礼して退席</p>

<p>語り手――　休廷します。　　　　<br />
公　判　開始</p>

<p>語り手　――　公判を開始します。後半は、被告人への質問を行います。被告人、前へ。</p>

<p>裁判官　「今、座長と助手とを調べたからそれから先をきくぞ」<br />
被　告　「はい――」<br />
裁判官　「お前は妻をこれまで少しも愛した事はないのか　？　」<br />
被　告　「結婚した日から赤子を産む時までは心から私は妻を愛しておりました」<br />
裁判官　「どうして、それが不和になったのだ」<br />
被　告　「妻の生んだ赤子が私の子でない事を知ったからです」<br />
裁判官　「お前はその相手の男を知っているのか　？  」<br />
被　告　「想像しています。それは妻の従兄です」<br />
裁判官　「お前の知っている男か　？ 」<br />
被　告　「親しかった友だちです。その男が二人の結婚を言い出したのです。その男から<br />
　　　　　私は勧められたのです」<br />
――――――――――――――――――　9　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．182</p>

<p>裁判官　「お前の所へ来る前の関係だろうな　?　」<br />
被　告　「もちろんそうです。赤子は私の所へ来て八月日に生まれたのです」<br />
裁判官　「早産だと助手の男は言っていたが・・・　? 」<br />
被　告　「そう私が言ってきかせたからです」<br />
裁判官　「赤子はすぐ死んだといういうが・・・」<br />
被　告　「死にました」<br />
裁判官　「何で死んだのだ」<br />
被　告　「乳房で息を止められたからです」<br />
裁判官　「妻はそれを故意でしたのではなかったのか」<br />
被　告　「あやまちからだと自身は申しておりました」<br />
裁判官　「妻はその関係(従兄)についてお前に打ち明けたか」<br />
被　告　「打ち明けません。私も聞こうとしませんでした。その赤子の死がすべての償いの<br />
　　　　ようにも思われたので、私自身できるだけ寛大にならなければと思っていました」<br />
裁判官　「寛大になれたか」<br />
被　告　「なれませんでした。赤子の死だけでは償いきれない感情が残りまなした。離れて<br />
　　　　いると時にはわりと寛大でいられるのです。ところが、妻が目の前に出て、そのか<br />
　　　　　らだを見ていると、急に押さえきれない不快を感じるのです」<br />
裁判官　「離婚しようと思わなかったのか」<br />
被　告　「したいとはよく思いました。しかし、それを口にしたことはありませんでした」<br />
裁判官　「なぜだ」<br />
被　告　「私が弱かったからです。妻は、前からもし離婚されれば、生きてはいないと申し<br />
　　　　ていたからです」<br />
裁判官　「妻はお前を愛していたのか」<br />
被　告　「愛してはいません」<br />
裁判官　「それならなぜ、そんなことを言ったのだ」<br />
被　告　「ひとつには生きていく必要からだと考えます。両親はもうなく、別れても行くと<br />
　　　　ころがないと思っていたからです」<br />
裁判官　「お前は妻に対し同情はしていなかったのか」<br />
被　告　「同情していたとは考えられません。妻にとっても同棲は苦痛だと思ったからです」<br />
裁判官　「それならなぜ、お前は思い切った態度がとれなかったのか」<br />
被　告　「いろいろなことを考えたからです」<br />
裁判官　「いろいろなこととは、どんなことだ」<br />
被　告　「自分が誤りのない行為をしょうということを考えるのです――しかし、結局その<br />
　　　　　考えは何の解決もつけてはくれませんでした」<br />
裁判官　「お前は妻を殺そうと考えたことはなかったか」<br />
被　告　「・・・・・」<br />
裁判官　「どうです、殺意は・・・・」<br />
被　告　「その前に死ねばいいとよく思いました」<br />
裁判官　「そして、そのあとに殺そうと考えたのか」<br />
被　告　「決心はしませんでした。しかし考えました」<br />
裁判官　「それはいつごろからか」<br />
被　告　「あの前の晩です。あるいは明け方です」<br />
裁判官　「その前に争いでもしたのか」<br />
被　告　「しました」<br />
裁判官　「何のことで」<br />
被　告　「くだらないことです」<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・182　――――――――　10――――――――――――――――</p>

<p>裁判官　「まあ、言ってみなさい」<br />
被　告　「食事のことで、けんかになりました。したくがおそいので」<br />
裁判官　「いつもより激しかったのか」<br />
被　告　「いいえ、しかしいつになくあとまで興奮していました」<br />
裁判官　「原因はあるのか」<br />
被　告　「近ごろ自分に本当の生活がないということを苛々していたからだと思います。そ<br />
　　　　　のせいか、あまり眠れませんでした。妻もそうだったと思います」<br />
裁判官　「起きてからは、二人はいつもと変わらなかったか」<br />
被　告　「はい、まったく口をきかずにいました」<br />
裁判官　「お前は、なぜ妻から逃げてしまおうとは思わなかったのか」<br />
被　告　「死んでしまったほうがよいと思うくらいなら、ですか」<br />
裁判官　「そうだ」<br />
被　告　「そのことは、どちらも、考えの外でした。実際殺してやろうという考えも、まだ<br />
　　　　　遠くでした」<br />
裁判官　「では、あの日は、殺意も計画もなかったのか」<br />
被　告　「どうかしなければという気持はありました。が、演芸が近くなるとその気持も失<br />
　　　　せました。私は何の心配もしていませんでした」<br />
裁判官　「そうか」<br />
被　告　「あの演芸は、少しでも他の考えが入るとできません。妻のことを考えたら、<br />
　　　　　あの芸は選ばなかったと思います。危険でない芸もしていましたから」　<br />
裁判官　「では、どのへんから考えるようになったのか」<br />
被　告　「あの晩のことは、よく覚えています。私は舞台にでると、いつものように紙を切<br />
　　　　　ってナイフの切り味を観客にみせました。まもなく厚化粧した妻が派手な中国服<br />
　　　　　を着て出てきました。私は、ナイフを手に妻と向き合いました。そのとき、はじ<br />
　　　　　めて自分の腕が信じられない気持がしたのです」<br />
裁判官　「どんなことでか」<br />
被　告　「前の晩のけんか以来、はじめて目を合わせたからです。その時、突然、妻のこと<br />
　　　　　が頭に浮かび、私は、この演芸を選んだ危険を感じたのです」<br />
裁判官　「しかし、それでも実演した」<br />
被　告　「はい、やめることはできませんでした。何かに操られているようでした」<br />
裁判官　「そのときの様子を詳しく」<br />
被　告　「私は無理に心を静め、最初に頭の上へ一本打ちこみました。ナイフはいつもより<br />
　　　　　ちょつと上へささりました。次に、肩の高さにあげた腕のわきの下に打ちこみま<br />
　　　　　した。投げるたびに指さきに何かこだわりを感じました。ナイフがどこに刺さる<br />
　　　　　かわからない気がして一本ごとにほっとしました。<br />
　　　　　　私は落ち着こう落ち着こうとしました。しかし、それがかえって心の動揺をさ<br />
　　　　　そいました。そんな気持を察したのか、妻が急に不思議な表情をしました。発作<br />
　　　　　的に激しい恐怖を感じたようです。予感したのでしょうか。わかりません。<br />
　　　　　　私は、目まいのようなものを感じました。が、そのまま力まかせに、ほとんど<br />
　　　　　暗やみめがけるようにあてもなく、ナイフを投げこんでしまったのです」</p>

<p>　　　　　　一瞬、沈黙</p>

<p>裁判官　「その瞬間、意識はあったのか」<br />
被　告　「とうとう殺したと思いました」<br />
裁判官　「それはどういうのだ。故意でしたという意味か」<br />
被　告　「そうです。故意でしたような気が不意にしたのです。しかしすぐに、これは事故<br />
　　　　　と見せかけることができるとも思いました」<br />
――――――――――――――――――　11　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．182</p>

<p>裁判官　「お前は巧みに人々を欺きおおせると思った」<br />
被　告　「はい、しかし、前の晩、ちらっと殺すということを考えた。これは故殺の理由に<br />
　　　　　なるだろうか。こんな考えも浮かび、だんだんにわからなくなってきました。私<br />
　　　　　は、急に興奮した気持になり、愉快でならなくなりました」<br />
裁判官　「いま、お前はどちらだと思う。故殺か、過失か」<br />
被　告　「自分には、わかりません。いまはただ、過失と我を張るより、どっちかわからな<br />
　　　　　いと言ったほうが、自分に正直だと思ったのです」<br />
裁判官　「だいたいにおいて本当の気持のようだ」<br />
被　告　「はい、ウソ偽りはありません」<br />
裁判官　「ところで、おまえには妻の死を悲しむ気持は少しもないのか」<br />
被　告　「まったくありません。私はこれまで妻に対し、どんな激しい憎しみを感じた場合<br />
　　　　にもこれほど快活な心持で妻の死を語りうる自分を想像したことはありません」<br />
裁判官　「もうよろしい、ひきさがつてよろしい」</p>

<p>話し手　――　それでは判決にはいります。</p>

<p>【この事件を、故意とみるか、事故とみるか】</p>

<p>争点　　＝　神経衰弱からくる被害妄想の結果か　→　精神鑑定は必要か　　<br />
　　　　　　 それとも完全犯罪を狙った犯行か　　→　状況証拠固め<br />
謎　　　＝　不仲のなか、なぜ危険演芸をつづけのか</p>

<p>検察側からみて　→　　　</p>

<p>弁護側からみて　→</p>

<p>裁判員の見方　　→　　</p>

<p>無罪（事故とみて）　　　→</p>

<p>有罪（完全犯罪とみて）　→</p>

<p>裁判長の判決　＝</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・182――――――――　12――――――――――――――――</p>

<p>ノンフィクション劇場　　柔道・町道場の灯を守って　土壌館物語<br />
連載3<br />
　おんぼろ道場奮戦記　</p>

<p>道場を引き受けるか否か</p>

<p>息子が柔道の道場に入門したことで、私は、ふたたび柔道をはじめることになった。一週間に一、ニ度、スポーツジムに通うつもりで道場に行って子どもたちと稽古した。健康管理にもなるので、私としは好都合だった。<br />
しかし、それは一時のことで、まさかここで柔道をつづけていくことになろうとは、夢にも思わなかった。私は、文学で身をたてることしか頭になかった。<br />
その私が、このオンボロ道場を譲り受ける事になったいきさつはこんなだった。それは、近づくアトランタオリンピックに沸く平成八年（1996）の五月はじめだった。<br />
このころ私は、妻の病気や、近くに住む義兄の入院もあって、決まった時間に道場に行くのが難しくなっていた。そんなとき道場主の望月先生が庭の植木を剪定中、脚立から落ちて入院した。道場は閉鎖となった。が、半年ほどして再開された。息子は、ふたたび通うようになった。私は、しばらく休んでいたが、ある日、久しぶりに道場に行った。子どもたちはまだ、だれも来ていなかった。薄暗い中に望月先生が柔道着姿でぽつ念と立っていた。私の顔を見ると「やあ」といっただけで、押し黙った。何か、考え事があるようだったので、<br />
「どうかしましたか」と、尋ねた。<br />
「うん、ちょつと」いつもは大声でかつ言語明瞭な先生だったが、このときはな<br />
ぜか小声で口ごもりながら頷いた。<br />
私は、からだの具合でも悪いかと<br />
「大丈夫ですか」と聞いた。<br />
「いやあ」先生は、首を振ったあと、落ちこんだ声でつぶやくように言っ<br />
た。「この道場、たたもうと思っている」<br />
「えっ、たたむって、道場やめるんですか」<br />
私は、驚いたふうをしてきいた。実際は、もしかしたら、とひそかに思っていた。<br />
息子から通う子どもが減ってしまって、いまは、息子を含めニ、三人きりだと聞い<br />
ていた。そんなことで、道場をたたむのも仕方がないことだと思っていたところだ。　　　　　<br />
「たたむって、どういうことでしょうか」私は、再度たずねた。<br />
「じつは、引っ越すことになってね」先生は、他所事のように言われた。まだ、ご自身でも、事実をしっかり受け止めていないようにも見えた。<br />
「はあ、そうですか」私は、実感のないまま頷くよりほかなかった。<br />
　先生のお宅が引っ越す。まったくの寝耳に水の話だった。先生の家は、この町で自動車修理工場を三代にわたって営んでいた。住まいは道場から歩いて二分とかからない高台にあった。それも三年前に改築したばかりである。<br />
先生は二代目で、いまは三代目の息子さんが事業主となっている。最近になって二十歳過ぎたお孫さんもどこからか帰ってきて手伝いはじめた。そんな家業安泰の話を聞いたばかりでもある。それに先生は、家業を息子さんに譲ってから道場にくることだけを老後の楽しみにしているようにみえた。</p>

<p>――――――――――――――――――　13　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．182</p>

<p>年齢も考えると、いきなりの引っ越し話は容易に信じかねた。<br />
「本当なんですか」<br />
私は、念を押すようにたずねた。<br />
「いやあ、ほんとうだ」<br />
先生は、大きく頷いた。それから、ちらっと周囲を見回すと、小声で急に転居することになった理由を話された。<br />
　それによると、先生が脚立転落事故で入院しているとき、息子さん夫婦が家業の自動車修理工場を、土地の広い郊外に移すことに決めてしまったというのだ。それで住まいも工場近くに移すことにしたらしい。<br />
「不意に言い出しやがってね。名義を変えたらこれだ。が、文句もいえんしね。引っ越すしかなくなっちゃったよ」<br />
明治生まれの、頑固一徹な先生も老いては子に従うしかないようだ。<br />
「それで、どうしょうかと考えているんだ」<br />
先生は、再びつぶやいてため息をついた。<br />
気の毒に思えたが、私が心配してもはじまらない。<br />
「そうですか、残念ですねえ」<br />
私は、そう答えるしかなかった。<br />
小さな町道場というのも、昔風でなんとなく気に入っていた。柔道ができる立派な武道館や広い体育館はあちこちにある。が、地元の子どもが通うとなると、やっぱり町道場に限る。その町道場がなくなると思うちょっと寂しい気がした。<br />
「まだ使えるからねえ」先生は、道場を見まわしながらひとりごちるようにつぶやいた。自分の手で建てた道場だけに、よほど未練があるのだろう。<br />
「もったいないですよねえ」私は相槌を打った。<br />
「だから、考えちゃうんだ」先生は、ため息混じりに何度も頷いた。なにか奥歯にもののはさまったような言い方だった。それで、追い打ちをかけるようにきいた。<br />
「解体業者に頼むんですか」<br />
「うーん、そうするしかしょうがないかもしらんが」先生は曖昧に言葉をにごした。そのあと、不意に私を見て、きっぱりした口調で言った。「どうだい、相談だが、きみがこの道場を引き受けてくれないか」<br />
「え！？ここをですか・・・」<br />
「なんとか、やってくれないかね」<br />
口に出したことで言いやすくなったのか先生は、頼み口調になった。自分で建てられた道場だけによほど愛着があるらしい。<br />
私は、心中を察して同情した。しかし、二つ返事で引き受けるわけにはいかなかった。この春手術した妻の病気も、気がかりだったし、友人が創刊した月刊誌の編集手伝いを引き受けたばかりだった。それに私がＰＴＡ会長を務める高校で、二十周年創立記念事業の実行委員長も兼務することになっていた。加えて、今年から、私が主催する読書会のお知らせ版として毎号十六頁のミニコミ紙の発行をはじめたのだ。そして、なによりも肝心の小説を書かねばならなかった。そんなかんだで、その話は到底無理のようにも思われた。しかし、その場で断りづらかったので<br />
「考えてみます」と、保留にした。<br />
町道場を引き受けるということは、その経営も引き受けるということになる。生徒が<br />
10人も20人といれば別だが、閑古鳥が鳴くいまの状態では、ほとんど赤字とみた。自動車修理会社の社長だったからできる道楽だが、ほとんど無収入の文筆家業の私には無茶な話だった。我家はほとんどが大学病院図書室に勤める妻の稼ぎで成っていた。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・182――――――――　14――――――――――――――――</p>

<p>二人の高校生</p>

<p>まったく引き受ける気はなかったが、考えてみますといった手前、一応、食卓で話題<br />
にした。徒手空拳の私が廃屋に近い赤字道場を引き受けることなど、とうてい有り得ぬ話だった。たとえ木の葉が沈み石が流れようと、である。<br />
ところが、家人の反応は意外なものだった。何を勘違いしたのか<br />
「引きうけなさいよ。いい話じゃない」と、あっさり言って熱心にすすめた。「こんな<br />
話はニ度とないわよ」<br />
彼女は柔道のことは、まったく門外漢だった。知っているのは、私が学生時代からや<br />
っているスポーツということと、自分の父親が若い頃やっていたということで好意的ではあった。が、黒帯の意味も知らなかった。もしかして、老先生が、相当な資産家で、親切から土地つきで譲ってくれるのではないか、そんなおとぎ話のようなことを想像したのかもしれない。とにかく、ずいぶん乗り気になった。<br />
しかし、家人が賛成してくれても私は、なかなか決心がつかなかった。断れば、家人<br />
から何故にと詰問があるだろうし、引き受ければ経済的問題に追い込まれるのは必至とみた。引き受けるべきか、断るべきか。ハムレットの心境がつづいた。<br />
道場主となれば、稽古だけしていれば済むというわけにはいかなくなる。実際その通りだった。そのときはわからなかったが、引き受けたとたん、ご近所問題や柔道組織のことで、いろいろ面倒なことが持ち上がった。<br />
しかし、そのときはまだ、知る由もなかった。私は、決めかねていたが、心のどこかで望んでいる自分もあった。本好きの少年が、書店主になることを夢みるように、柔道好きな者なら一度は道場主になってみたいと思う。坂本龍馬や千葉周作といった剣客が集った道場を持つことが私の少年の頃の夢でもあった。<br />
日本の柔道人口は二十万人、フランスは七十万人。この数字が示すように、いまや日本の柔道競技者は世界において減少国となりつつある。道場に通う生徒が少なくなっているのも当然といえる。現に、望月道場は、小学生二人だけと、まさに風前の灯であった。<br />
私が休んでいるとき高校生が二人入門していた。友人同士ということだが、高齢の先生と小学生だけの道場に失望してか、ずっと休んでいた。<br />
何日かして、道場に行ってみると、ちょうど二人が来ていた。一人は背が高い、私は164㌢だが、彼は180㌢はある。からだもがっしりした長髪の高校二年生。どこか不良ぽかった。もう一人は、中肉中背の高校生で、通っていた空手道場が面白くないので、と言った。ノッポ君は、野球部だったが、先輩とのいざこざがあって退部した。帰宅が早くなってブラブラしていたら母親に愚痴られた。それで、小学校時代の友人を誘って、入門したという。<br />
が、道場には小学生しかいない。老先生も、さすが相手は無理。そんなことで、道場にきても、プロレスごっこのようなことをしていたらしい。柔道が、どんなものかまったく知らなかった。「わざは、だいたい知ってますよ」と言った。柔道を簡単にみている口ぶりだった。柔道技は、知っていても稽古がなければ通用しない。<br />
「じゃあ、ちょつとみてあげよう」<br />
私は言って柔道着に着替えた。<br />
未経験者に柔道技をかけるほど楽なことはない。二人を順番に相手すると、膝車、隅返し、背負い投げ、払い腰で、ぽんぽん投げた。<br />
二人は、体が大きい自分たちが小柄なおっさんに、苦もなく投げられるのが納得いかなかったようだ。すぐに必死になって向かってきたが、手もなく畳の上に投げ転がされ、しまいには疲れきって息も絶え絶えに座り込んだ。<br />
「練習すれば、柔道わざは、だれでも、つかえるようになるよ」<br />
――――――――――――――――――　15　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．182</p>

<p>私は、笑って言った。<br />
　二人は、何もいわず大汗をふきながら飲み物を買いに外に出て行った。入れ替わりに老先生が様子をみにきた。結局、この日、子どもたちは、息子以外、誰もこなかった。私は、老先生に、道場の件は、引き受けるのは難しいと告げた。<br />
「そうか・・・」老先生は、つぶやいて帰っていった。小柄な背中が妙に寂しそうだった。<br />
　着替えて、玄関をでると、夕闇のなかで二人の高校生が待っていた。<br />
「なんだ、帰ったんじゃないのか」<br />
それには答えず、二人は神妙な顔でいった。<br />
「柔道、教えてください」<br />
「お願いします」<br />
二人は、かわるがわる頭を下げた。<br />
「困ったな」私は、苦笑して言った。「この道場、なくなるそうだ」<br />
「知ってますが、道場つづけて、柔道教えてください」<br />
二人は、なおも頭を下げた。<br />
　しかたなく私は、「わかった、わかった。なくなるまで教えるから」<br />
と、くつろぐほかなかった。作家を志してからいまだ、万年文学青年をつづけている私である。いくら家族が賛成してくれたからといって、小説を書くことならまだしも、一銭にもならない柔道にこれ以上深入りするには一家の大黒柱として後ろめたいものがあった。「柔「柔道などやっている暇があったら」こんな声を家族や親族からきけば、すぐにあきらめただろうが、家族も親族も妙に乗り気なのだ。「ぜひやってみたら」義父からも電話ですすめられた。引き受けるべきか、受けないべきか日々揺れる心境だったが、こんな折り、その迷いを決めさせる出来事があった。<br />
この時期、私は、ＮＨＫのあるドキュメンタリー番組作りに協力していた。米寿を迎えた元小学校教師が、五十歳になった、かっての教え子を訪ね歩く、という話で、私は郷里で開かれる三十余年ぶりの同級会の幹事を任せられていた。<br />
「道場で柔道をやっているところを撮らせてもらいたい」<br />
八十八歳の恩師について、全国にいる同級生一人一人を回っているテレビのスタッフが、そういって頼みにきた。たいていは職場であったり、自宅撮影であったりしたが、私は、自宅も団地建替えの引っ越し騒ぎで、郷里の方言でいう「ささらほうさら」(散らかって手のつけられない)状態で、とてもテレビに映せるものではなかった。それで、現在の私を紹介するには、柔道の稽古をしている絵しかなかった。<br />
そんなわけで私の現在は、道場で柔道を教えている、という、何かはっきりしないあやふやな設定で撮影されることになった。が、私には、道場引き受けを決心をつけさせる出来事となった。<br />
1996年11月24日ＮＨＫテレビ「日本点描」番組で「教え子たちの歳月」が放映された。私は、町道場で子どもたちと柔道をしている場面が流れた。道場の件は、必然的に、道場を引き受ける方向に動いていった。私は、ひょんなことから町道場の道場主を肩代わりすることになった。皆は、よい話だ、運が向いてきた。そういって喜んだ。<br />
しかし、世の中、そんなうまい話はない。すぐに私は、不動産の話は、簡単なことではないことを思い知ることになる。まったくの柔道バカとは、このことだった。</p>

<p>巨大な粗大ゴミ</p>

<p>十年通っていてまったく知らなかったというのも変だが、わたしはてっきりこの場所は老先生の土地だと思いこんでいた。ところがそうではなかった。　つづく<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・182――――――――　14――――――――――――――――</p>

<p>2011年後期ゼミ旅日誌<br />
□9月26日ゼミ　参加者7名＝椎橋萌美、會澤佑香、藤塚玲奈、春日菜花、杉山知紗、武田結香子、内田悠介。課題「私の夏休み」発表＝春日菜花「窓辺の光景」、藤原佑貴「何でも読んでやろう」。課題「なんでもない一日の記録」発表＝藤塚玲奈「サクランボとお婆さん。　課題「未来車内観察」発表＝武田結香子「10年後の私」。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月3日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題「私の夏休み」発表＝武田結香子「夢を見つけた夏」。課題「車内観察」掲載＝會澤佑香「寒い日」。課題『にんじん』感想・意見掲載＝椎橋、春日、杉山、武田、藤塚、會澤、内田。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月17日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題『にんじん』感想発表「失礼ながら」「尿瓶」「うさぎ」＝杉山、春日、武田。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月24日　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題『にんじん』感想発表「もぐら」「つるはし」「湯のみ」「ねこ」＝春日、杉山、武田。課題「車内観察」発表＝春日「工事中のホームで」。課題「日常観察」発表＝武田「家族」。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月31日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。テキスト『剃刀』「剃刀職人客殺害疑惑事件」模擬裁判＝武田・春日・杉山口演。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□11月7日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題「車内観察」発表＝杉山「幼馴染と携帯」。テキスト脚本口演＝武田・杉山・春日。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□11月14日ゼミ　参加者＝春日菜花。テキスト『兒を盗む話』「尾道幼女誘拐事件」についての＝春日。伊那谷、他についての雑談＝春日。ゼミ誌報告＝武田「印刷交渉成立」<br />
□11月21日ゼミ　参加者＝杉山知紗、春日菜花。課題「車内観察」発表＝春日「不幸な友」。<br />
テキスト『范の犯罪』読み。「尾道幼女誘拐事件」判決考。<br />
□11月28日</p>

<p>Ⅰ　ゼミ誌作成に関する今後の重要書類、以下2点の書類提出に注意<br />
1. 【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。<br />
2.　11月末までに印刷会社に入稿。<br />
3.　雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。<br />
4.　印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。<br />
ゼミ雑誌の納付日は、2011年12月12日です。厳守のこと。<br />
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />
編集室便り<br />
　　住所〒274-0825　船橋市前原西6-1-12-816　下原方<br />
　　メール：　TEL・ＦＡＸ：047-475-1582　 toshihiko@shimohara.net<br />
提出原稿は、メール、ＦＡＸでも受け付けます。(送信でもらえると二度手間と間違い打ちがなくなるので助かります)<br />
ゼミ評価は、以下を基本とします。<br />
出席日数　＋　課題提出（ゼミ誌原稿）＋α　＝　100～60点（Ｓ，Ａ，Ｂ，Ｃ）</p>

<p>11月は「児童虐待防止推進月間」<br />
厚生労働省は、11月を「児童虐待防止推進月間」として防止のための啓発活動を実施しています。その一環として、標語を募集していましたが、以下に決まりました。</p>

<p>守るのは　気づいたあなたの　その勇気</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
望月由太郎先生は東京の深川の方で町道場をひらいていた。家業の自動車修理工場が繁盛し、より広い敷地を求めて郊外のこの町に移ってきた。そして、この町でも道場をはじめたのだ。が、土地は借地だったのだ。<br />
「柔道好きな地主に話したら、田んぼを貸してくれたのだ」<br />
と、いった。<br />
なんでも二十年契約で借りているらしい。が、当の地主さんは、だいぶ前になくなり、代が代っていた。契約も、あと三、四年で切れるという。<br />
「なに、貸してくれるさ」<br />
望月先生は、あっさりいった。<br />
が、わたしは不安だった。いまどき、住宅街にある三十坪の土地を、ただ同然で貸してくれる殊勝な篤志家などいない。案の定、先生と訪れた地主さんのお店では、剣もほろろだった。私は、完全に怪しい人物とみられていた。<br />
「おじいちゃんがね、望月先生との関係で貸してたんですが、望月先生もいなくなるんじゃ、契約の継続の意思はありません」<br />
当然といえば当然の答えである。どこの馬の骨とも知れない中年男が、米寿の店子と突然やってきて、まだ道場をつづけたいから土地の契約を継続してくれといわれても、できぬ相談である。契約した途端に道場をやめて何かの商売をはじめるのかも知れないのだ。そんな事件もちょくちょくニュースある。それだけに、普通の地主なら、はなからうけつけなかったろう。そして、わたしが道場をつづけるという話もなかった。が、この町で代々続いた地主でもあり、酒屋や米屋を営んでいるというところから、せっかく長年つづけている道場を、契約者が引っ越すということでたたんでしまうというのも気の毒に思えたのか<br />
「契約の切れるまで、あなたを信用してお貸ししましよう」<br />
と、いってくれた。<br />
　望月先生に契約書をみせてもらうと、あと五年あった。この五年、長いのか、たった五年か。このあいだにわたしは作家としてデビューできるのか。先のことは、わからない。しかし、とにもかくにもわたしは、これからの五年間は道場主なのだ。一人でも多くの子供たちに柔道を教えたい。私は希望に燃えてオンボロ道場を引き継ぐことになつたのである。<br />
三　最初の生徒たち</p>

<p>たとえオンボロでも晴れて道場主となった私である。これまで通りぼんやりと稽古をしているだけではすまない。まずはじめに私がしなければならないことは生徒を増やす算段だった。私が休んでいるあいだ生徒はぐつと減っていた。このとき通ってくる生徒は小学生二人と、ノッポの清水君とヤセの宮澤君、この高校生二人きりだった。<br />
望月先生は、新聞の折りこみ広告をすすめてくれた。が、一回こっきりで二万も三万するうえ印刷代も馬鹿にならないので、やめにした。かわりに、手製の絵入りの看板を何枚か作って、公園や学校周辺に掛けてまわった。しかし、入門者はなかなかあらわれなかった。が、ある日を境に、入門者がふえた。<br />
まずはじめに三年生の保坂が友人を連れてきた。近くの自衛隊から二十六歳の山田青年が入門してきた。つづいて大学生の冨澤君が入門した。そして、つづいて小学二年生の佐野が入門した。佐野の家はお母さんがお琴の先生で、<br />
「きびしくやってください」<br />
が注文だった。<br />
　この家はお父さんも厳しそうで、大会で会ったときなどさかんに<br />
「びしびしやってくださいよ」<br />
と、はっぱをかけられた。<br />
　一気に四人もの生徒が増えたのである。全員で八人となると、オンボロ道場もさすがにぎやかになった。<br />
　私は、とくにこれといった指導方法は考えていなかった。楽しく柔道が練習できればいい。それが私のモットーであった。大学生の冨澤建作君も入門してきた。冨澤君は、いまどきめずらしいほとの礼儀正しい若者だった。<br />
　幸先のよいスタートとなった。以下が、そのときのメンバーである。</p>

<p>小学三年生　佐野貴則<br />
小学四年生　小林　保<br />
小学四年生　保坂知稔<br />
小学五年生　遠藤康弘<br />
高校二年生　宮澤圭輔　　　　白帯<br />
高校二年生　清水貴之　　　　白帯<br />
大学一年生　下原良太　　　　初段<br />
大学ニ年生　冨澤建作　　　　白帯<br />
自衛隊員　　山田慎一郎　　　白帯</p>

<p><br />
ときに平成六年、梅雨も明けた七月のことであった。世界は近づくアトランタオリンピックに沸いていた。<br />
そうして、この夏、日本柔道は、とかく批判的な結果に終った。が、私は、このような感想をもった。<br />
　　　　　　　　　　<br />
一九九六年（平成八年）八月七日　水曜日　朝日新聞　朝刊「声」欄</p>

<p>柔道の変化は自他共栄実現</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　船橋市　下原敏彦（四九歳）</p>

<p>　金三個、銀四個、銅一個。過剰なまでの<br />
期待のなかで日本代表の柔道選手たちはよ<br />
く戦ったと思う。帰国した選手たちに改め<br />
て拍手を送りたい。だが、すばらしい成果<br />
とは反対に柔道の試合に対する日本国内の<br />
評価には残念なものがある。<br />
「世界柔道と日本柔道とは違う」、このよ<br />
うな言葉を、よく耳にする。日本柔道の敗<br />
因は国際ルールにある、未熟な審判にある。<br />
メダルを八個もとったのに・・・こんな分<br />
析である。おまけに三十日本欄では柔道は<br />
「もはや『道』ではない」とまでさげすま<br />
れている。いずれも時代錯誤としか思えな<br />
い意見である。<br />
　ルールが日本にだけ不公平だったと思え<br />
ないし、勝利を素直に喜ぶ各国選手の態度<br />
も醜くはなかった。特に田村選手を破った<br />
無名のケー・スンヒ選手の礼の正しさには<br />
感動すら覚えた。<br />
　試合は勝つべき者が勝ち、負けるべき者<br />
が負けた。ただそれだけであった。そこに<br />
作為や理不尽など少しも感じなかった。<br />
　選手たちは皆、一生懸命、技を競いあっ<br />
た。それを二つの柔道やルールのせいにす<br />
るなど、選手を愚弄するものだ。それより<br />
柔道の変化は創始者嘉納治五郎の理念、自<br />
他共栄の精紳により近づいたとみるべきで<br />
ある。</p>

<p><br />
</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>文芸研究Ⅱ　下原ゼミ通信No.181-2</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.shimohara.net/archives/2011/11/no181-2.html" />
    <id>tag:www.shimohara.net,2011://1.169</id>

    <published>2011-11-21T09:11:04Z</published>
    <updated>2011-11-21T09:12:57Z</updated>

    <summary> 日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2011年（平成23年）11月21日発行 文...</summary>
    <author>
        <name>下原敏彦</name>
        
    </author>
    
        <category term="下原ゼミ通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.shimohara.net/">
        <![CDATA[<p><br />
日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2011年（平成23年）11月21日発行</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．181<br />
ＢＵＮＧＥＩＫＥＮＫＹＵ　Ⅱ　ＳＨＩＭＯＨＡＲＡＺＥＭＩ　ＴＳＵＳＨＩＮ<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　編集発行人　下原敏彦<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
9／26　10／3　10／17　10/24　10／31　11／7　11／14　11／21　11／28　12／5　<br />
12／12　1／16　1／23<br />
　　<br />
2011年、読書と創作の旅</p>

<p>11・21下原ゼミ</p>

<p>11月21日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室</p>

<p>1．	通信181配布　「前回ゼミ」報告</p>

<p>2.　ゼミ雑誌作成経過報告　　課題発表<br />
　<br />
　3.　尾道幼女誘拐事件模擬裁判（テキスト『兒を盗む話』）他2裁判</p>

<p>4.　名作読み・森鴎外『高瀬舟』（裁判関連） テキスト『范の犯罪』<br />
　　　　 </p>

<p>11・14ゼミ観察</p>

<p>　14日のゼミは、「尾道幼女誘拐事件」の模擬裁判と、名作から森鴎外の『高瀬舟』の読みと、その裁判用課題実施の予定だった。が、参加は、あいにく春日さんのみだったので先延ばしとした。ちなみに『高瀬舟』は、船中観察と殺害事件観察の合さったもの。<br />
ゼミ誌編集長の武田さんからは、「藤原印刷と話ができた。見積書は今週中に」との連絡があったと春日さんが報告。ゼミ誌納品の12月12日には間に合いそう。編集長の尽力に感謝するところである。杉山さんも所用あってらしい。<br />
春日さんと『竹取り物語』を事件仕立てにした「赤ちゃん誘拐事件」について、話し合った。竹ヤブにいた赤ちゃんを勝手に家に連れて帰り、届けもしないで育てることにした。このお爺さんとお婆さんの罪は・・・。ＨＰの模範解答は、誘拐罪適用ならお爺さん懲役3年、お婆さん2年。大切に育てたことで養子縁組が当てはまれば、無罪だった。春日さんは、役所に届けない点を重視して、無罪より有罪。但し書類送検とした判決。<br />
12月12日の合同発表会の出し物について、春日さんからは「剃刀職人客殺害疑惑事件」の模擬裁判は、どうかとの提案があった。本日21日開廷の「尾道幼女誘拐事件」、本読みの『范の犯罪』「ナイフ投げ美人妻殺害疑惑事件」も視野にするが、現在のゼミ参加者から、登場事物最小の「剃刀殺人」がいいのではとの意見。<br />
雑談で、立川市に住んでいたころのことを思い出した。もう40年も前になるだろうか。私は、数人の友人たちと暮らしていた池袋の下宿をでて立川の下宿屋に住むことにした。南口から多摩川に向かって徒歩10分程の住宅街だった。近くに県立立川高校、立川警察署、職業安定所などがあり河川敷の方には、市の図書館があった。他に大きな神社や養蚕試験場</p>]]>
        <![CDATA[<p>跡や、桑畑もあった。中央線と甲州街道に挟まれた狭い地区にだったが、なにか一つの社会を作っていた。この町のことを「遠い日の町」と題して作家Ｍ・Ｈ氏とのことを書いたことがある。この日、帰宅すると、教師をしていた下宿の大家の喪中が届いていた。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ.181――――――――　2　―――――――――――――</p>

<p>車内観察　<br />
不幸な友<br />
春日　菜花</p>

<p>電車に乗ってからも彼女は喋らなかったし、私も声をかけなかった。どうしようと考えるだけで、結局何もできないまま電車は走る。<br />
静かな車内で私の隣からは鼻を啜る音がする。私は横目で彼女を見ながら、この状況を如何に打破するかで頭が一杯だった。この空間で乗車しているのは、もちろん私たちだけではない。先程から好奇の目がちらちらと注がれているのにも気付いてはいるが、どうしようもない。<br />
「大丈夫？落ち着いた？」<br />
「うっ・・・」<br />
まずい、と一瞬にして後悔した。なんとかしようとしたのが間違いだったのか。<br />
治まりかけていた彼女の嗚咽は再び始まり、今まで素知らぬフリをしてくれていたおじさんまでもがこちらを見た。私は彼女と一度下車しようかとも思ったが、彼女は断固として動こうとしなかった。手を引いても、嫌だという風に首を横に振って立とうとしなかった。<br />
「ごめんね、帰る、ちゃんと帰れるよ」<br />
ハンカチで口元を押さえ、くぐもった声で彼女は言った。彼女は別に体調が悪いわけでも、怪我をしているわけでもない。けれど、不安定になってしまった心がどうにも彼女を動かさなくしている。<br />
彼女はこの電車に乗る前から泣いていた。駅で久しぶりに会った彼女は、私を見るなり突然泣き出してしまったのだ。私はなにがなんだかさっぱりわからない。じろじろとすれ違う人に見られながら、なんとか彼女をホームにあるベンチに座らせた。<br />
久しぶりに会った彼女だったが、どうしようと思考をめぐらせている内にある答えに辿り付いた。きっと、彼女はまたやってしまったのだろう。<br />
彼女は会う度に、いつでも楽しそうに恋を語る子で、悲しい結末を迎えている。<br />
「私が悪いの。むこうは忙しいのに、私ばっかり盛り上がって。わがままばかり」<br />
「・・・」<br />
「面倒くさいんだね、私って。いつもいつも、こんなことばかりで」<br />
どう答えたらいいのか全くわからなかった。でもその言葉を否定することは出来なかった。なぜなら、私もそう思ってしまっていたのだから。<br />
私の沈黙を肯定と取ったのか、それ以降彼女は口を閉ざしてしまった。<br />
無常（無情か）にも、電車は何の迷いもなく再び次の駅に向けて発車した。</p>

<p>□もしかして、この友人は悲劇のヒロインシンドロームかも知れませんね。失恋常習者の話ほど退屈なものはありませんね。ご苦労さまでした。文章に無駄なく、分かり易く、物語性もあって、いい観察作品になっています。</p>

<p>　チェーホフの短編作品をおススメします。チェーホフは、日用品、日常で見かけたものなど、ちょつとした出来事を数多く作品にしています。書いてはすぐに投稿していた。<br />
例えば1880～82年の2年間だけで、『隣の学者への手紙』『小説の中で、いちばん多く出くわすものは？』『二兎追う者一兎を得ず』『女学生ナージェニカの夏休みの宿題』『パパ』『わたしの記念日』『千一夜の情熱、あるいはおそろしき一夜』『リンゴのために』『車内風景』『裁判』『芸術家の妻』『逃した魚』『いまわしい話』『6月29日』『彼と彼女』など32話を雑誌や新聞で発表している。また1882～84年までは、『首になった』『失敗した訪問』『二つのスキャンダル』『善良な知人』『復讐』『新聞・雑誌の読者の考え』など実に114作品もの小話を発表している。（採用されなかったものは、その何倍もあるらしい）<br />
――――――――――――――――――　3　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．181</p>

<p>課題『異邦人』　カミュの『異邦人』は、1942年刊行され絶賛を博した。<br />
　母の死後、海水浴にゆき、女と関係を結び、フェルナンデルの喜劇映画を見て笑いころげ、やくざな友人の女でいりに争いに関わりあいになって、アラビア人を殺害した。裁判でその動機を「太陽のせい」と述べた。このムルソー容疑者の判決は如何に。</p>

<p>「太陽のせい」殺人事件</p>

<p>春日　菜花<br />
　<br />
【事件の推移】<br />
○月×日、海辺の砂浜で発砲事件が発生。被害者はアラビア人男性。<br />
身体に5発の銃弾が撃ち込まれ、即死。容疑者は旅行者の男性で銃声を聞き付けた友人と婚約者が発見した。警察では友人とその元恋人との関係も捜査中とのこと。</p>

<p>【起訴状】<br />
殺人罪として起訴する。</p>

<p>【検察の陳述】<br />
容疑者は友人と共に旅行中であった。友人は女関係で被害者のアラビア人グループから狙われていたとの事。元々銃の保有者は友人であったが、事件発生前に預かり、発生時は容疑者が所持。容疑者は正当防衛と主張。</p>

<p>【弁護人弁護】<br />
事件発生前に被告人とその友人達は、被害者のアラビア人グループと騒ぎを起こしていたのを地元民が確認しています。友人はその時にナイフで腕と口を抉られ大怪我をしました。もう一度喧嘩を起こそうとした友人を宥めた際に、被告人は銃を受け取りました。その後アラビア人と再び対面したとき、先方がナイフを突きつけてきたので身の危険を感じ、被告人は正当防衛で銃を撃ったのです。</p>

<p>【被害者関係者訴え】<br />
元はといえば、あっちが悪い。あっちが全部先にやってきたからやり返しただけだ。<br />
殴り合いをしたときあの男（容疑者）には手を出してない。なのにどうして復讐されなきゃならないんだ。</p>

<p>【被告関係者訴え】<br />
ムルソー君は何も悪くない。普段から主張の弱い男だ。だと言うのに、どうしてこんな男が誰かを殺そうだなんて思うのか。身の危険以外に発砲する理由なんてないだろう。喧嘩には全く無縁の男なのだから。</p>

<p>【裁判長判決】<br />
被告人を懲役1年執行猶予2年の刑に処す。</p>

<p>※『異邦人』は、評論集『結婚』や『裏と表』と共に、カミュのアルジェリャ期を形造る作品である。ここには、存在の「根源的不条理」とそれに拘らぬ「生への信仰」という二つのテーマが、フィナーレの主人公の絶叫へと向かって、しだいに力強く盛り上げられる。<br />
　　　　　　　　　　　訳者・窪田啓作　1954・8</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．181――――――――　4　――――――――――――――</p>

<p>テキスト『兒を盗む話』　争点、誘拐は、単に可愛さからか猥褻目的か</p>

<p>尾道幼女誘拐事件模擬裁判</p>

<p>裁判長　　　　＝　　　　　　　被告人　＝　　　　　検察側　＝　　　　　弁護人　＝　　<br />
証人（大家）　＝　　　　　幼女の両親　＝　　　　　被告人の父親　＝　　　　<br />
被告人の関係者　＝　　　　　　裁判員　＝</p>

<p>裁判長　開廷します。検察側は、事件の説明を行ってください。</p>

<p>検察・事件概要<br />
　12月30日　誓文払い最後の晩、金剛寺下の按摩の妻は、5歳になる娘を連れて祭にでかけた。が、大売り出しの人混みで娘が迷子になった。探したがわからず1時間後、近くの交番に届ける。2時間後、尾道署の巡査、地元警防団多数も加わり捜索するが、娘はようとして不明。両親、探偵を雇う。尾道署も事件・事故の両面で捜査本部を設置し捜査範囲を広げた。3日目、不明の女の子を連れた若者を見た、との目撃情報あり。警察、探偵、両親は若者が借りている家を訪ねる。娘は、若者の家にいて無事に保護。若者は当初、出刃包丁を持って抵抗しようとしたが、おとなしく逮捕された。<br />
裁判長　被告人の犯罪行為を検察側は、どのように捉えているか。簡潔に。<br />
検察側　（春日）衝動的な行動かも知れないが、計画性がなかったわけではない。殺そうとか、物騒なことを考えていたわけでもない。純粋にあの美しい女の子が欲しいと思っていただけなのだろう。幼い子に対する、まるで恋のような感情を抱いてはいけないわけではないが、それが正常だとも言い切れない。被害者の家族からすれば、異常・変態と思われても当然だろう。<br />
検察側　（武田）金剛寺という寺の下に住む按摩の娘（５）がいなくなった、と警察に連絡が入った。誓文払いの最後の晩から姿がないという。周辺に聞き込みをしたところ、どうやら若い男性と歩いていた、という。娘が嫌がっている様子でもなかった、という情報から顔見知りの相手を考え、最近治療に来ていた男の家へ向かう。やはり、娘は一緒にいた。男は出刃包丁を持ったが、襲いかかってくる気配もなく、その場で取り押さえた。<br />
裁判長　被告人の調書を報告してください。<br />
検察側　捜査員調書です。（春日）精神衰弱はしているものの、詰問にはしっかりと答えている。しかし誘拐の動悸は「ただ欲しいと思った」の一点張りである。誘拐したこの前に、別の少女を狙っていたのも明らかになっている。容疑者が何度も芝居小屋に通うのを目撃したとの証言も得ている。今回の犯行は計画性があり、加えて当初狙っていた子ではなく偶然見つけた顔見知りの子を衝動的に連れ去ったのには酌量の余地はないが、容疑者の精神状態を考慮する必要はあるかもしれない。<br />
検察側　捜査員調書です。（武田）仕事に行き詰まったA（容疑者）は、いろいろと試してみたものの、体の調子が治らない日々が続いた。ある日Aは芝居小屋で可愛らしい女の児を見た。その児を思う日が続き、"その児を盗みたい"という空想をした。しかし、その女の児に会えずにどうしようかと考えていたところに、自分が通っている按摩の娘を偶然見かけた。芝居小屋の児とは比較にもならなかったが、野趣を持ち、こちらも可愛かったので盗むこと（誘拐）を実行した。<br />
裁判長　事件の概要を、検察の立場からもう少し詳細に陳述してください。<br />
検察側　その日は祭りで、母親は買い物に気を取られていました。気付いたら少女は何処にもおらず、何度名前を呼んでも返事はありません。買い物を投げ出して慌てて辺りを探し回ったけれどいなかった。それは事実です。少女は父のところに最近よく来る客だというこ<br />
――――――――――――――――――　5―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．181</p>

<p>とを認識していたからこそ特に不振がることもなく、容疑者に大人しくついて行き、言うことを聞いていました。けれどいつまで経っても家に帰してもらえないことに気付いて、ようやく容疑者の真意に気付いたのです。少女に怪我はありませんでしたが、精神的恐怖を与えたのは言うまでもないでしょう。<br />
検察側　（母親の立場から）娘と誓文払いへ一緒に出かけ、ほんの少し買い物をしていた瞬間に娘はいなくなってしまった。まだ幼いから知らない人に無理矢理、であったならば泣き叫ぶはずなのに、近くからは泣き声もなかった。その日は最終の晩でもあったから人も多く、探せなかった。いくつもの不安定な条件が重なったところを狙った非常に悪質な行為。一つ間違えていたら、娘は帰ってこなかったかもしれない。<br />
裁判長　それでは弁護人は陳述してください。<br />
弁護人　（春日）祭りの中で偶然見つけた顔見知りの少女は、買い物に夢中になっている母親に必死に着いていっていました。これでは迷子になってしまうと、被告人は良心から自宅に連れ帰ったのです。もし本当に少女自身に目的があったならば、なぜ手をださなかったのでしょう。少女には怪我一つなく、健康状態もよかったのです。もしやましい想いがあったならば、2日の間無事でいるとは思えません。<br />
弁護人　（武田）仕事に行き詰まってしまい、そのイライラを唯一癒してくれたのは、芝居小屋で見たあの児だった。その快感を忘れることなどできず、もっと自分の近くにいて欲しい、と考える毎日だった。しかし出会うこともできず悩んでいたところによく通っていた按摩の娘がいた。ただ、小さな児を愛でて、自分の傍においておきたかっただけ。<br />
裁判長　次に被告人の訊問を行います。被告人は、氏名、住所、職業等を述べてください。<br />
被告人　文芸太郎、現住所は、広島県尾道町尾道6-1　20歳　職業は無職。<br />
裁判長　被告人は、いつからその住所に住んでいるのか。その前はどこにいたのか。<br />
被告人　三か月前からです。その前は東京にある実家にいました。<br />
裁判長　その東京の実家には、だれがいたのか。<br />
被告人　祖母と両親と二人の妹です。<br />
裁判長　この土地に来た理由は。ここに知り合いはいるのか。<br />
被告人　この土地は、はじめてです。知り合いは誰もいません。来た理由は、一人になって暮らそうと思ったからです。<br />
裁判長　なぜ一人になって暮らそうと思ったのか。<br />
被告人　父との不和です。<br />
裁判長　不和の原因は何か。<br />
被告人　私が学校を卒業したのに、就職せず家にいるからです。<br />
裁判長　なぜ働かないのか。どこか体に不具があるのか。<br />
被告人　からだは健康です。疲れやすい体質ではありますが。<br />
裁判長　ではなぜ？<br />
被告人　仕事は家で、やっております。<br />
裁判長　どんな仕事ですか？<br />
被告人　自分の仕事です。<br />
裁判長　自分の仕事とは？詳しく述べてください。<br />
被告人　小説を書いているのです。<br />
裁判長　もの書きで生計をたてているのか。<br />
被告人　いえ、一度もお金になったことはありません。それに、まだ書きあげていません。<br />
裁判長　つまり趣味ということだな。<br />
被告人　はい。<br />
裁判長　文学に入れ込んで仕事をしない。それでお父さんは怒っているのだな。<br />
被告人　はい、そのことでずっと不和がつづいていました。あの朝は、特に機嫌が悪く、いつもより激しく私をののしりました。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・181　―――――――　6――――――――――――――――</p>

<p>裁判長　どんなことを言われたのか。<br />
被告人　「貴様は、いったいそんなことをしていて将来、どうするつもりだ」「貴様のようなヤクザな奴がこの家に生まれたのは何の罰かと思う」わたしが、家にいる限り小さい妹たちの教育にも差し支える。こんなことも言われました。<br />
裁判長　それが理由で家出することにしたのか？<br />
被告人　はい<br />
裁判長　それでは事件について聞くぞ。答えたくなかったら答えなくてもよろしい。なぜあの女の子をさらおうと思ったのか。<br />
被告人　よくわかりません。たまたま、街で見かけたので・・・。<br />
裁判長　猥褻目的ではなかったのか。　<br />
被告人　ぜったいにそんな気持ちからではありません。寂しい気持ちはありましたが。<br />
裁判長　では、その点について検察側からの証言をお願いする。<br />
近所の人　（検察の立場・春日）被告人は変わった人です。私は割と近いところに住んでいますが、被告人は何にもない所で一人静かに暮らしています。でもふらふらと出かけることは多いんです。仕事もしてないみたいなのに、どうしてあんなに出かけるのか気になっていました。そうしたら、芝居小屋に足繁く通っていたんです。好きな役者でもいるのかとも思ってました。でも違ったんです。私一度気になって、その芝居を見に行ったことがあります。被告人の5人くらい横から見てました。最初はただ芝居を見ているだけだと思って、少し申し訳ない気持ちでしたが、私の感はあたっていました。被告人は芝居なんて見てませんでした。近場に住む裕福は家庭のお嬢さんをじっと見つめていたんです。あの子はそれはもう可愛らしい顔立ちをしていますから、見惚れるのも仕方ないでしょう。でも、被告人の目つきはそんなもんじゃありませんでした。まるで、一人の女性に恋するような恍惚とした表情だったんです。あんな小さな子に対してする目じゃありませんでした。<br />
近所の人　（武田）自分の欲求を満たしかかった、からといって盗んでいいなんてことには絶対にならない。ましてや相手は５歳の幼児。力でも言葉でも適わないことなど、一目瞭然。強者が弱者を支配しているに過ぎない。<br />
裁判長　それでは弁護人からの証言をお願いします。<br />
被告人の父親　（武田）やはり、アイツはロクなことをしない奴だった。他の同胞はとてもいい子ばかりなのに、どうしてアイツだけはヤクザに育ったのか、わからない。<br />
（春日）昔から阿呆なことをする奴でした。いつか何かしでかすのではないかと思っていたのです。その通りになってしまったことは、非常に残念です。<br />
（杉山）息子がまさかこんなことをするだなんて、思いもしませんでした。裁判員の方が幾度問うても答えてくれなかったように私がいくら「どうしてこんなことをしたのか」と聞いても同じ事でした。娘さん、娘さんのご家族には申し訳ないことをしました。<br />
被告人の母親　（武田）あの子がしている事を夫は認めませんでした。あの子が言い返して泣いたときに、気づいてあげればよかったのかもしれない。<br />
（春日）いつも夫に怒られていて、かわいそうだとは何度も思いました。きっとそんなことをするはずがないと信じていた分、今は女の子並びにご両親に頭を下げることしかできません。<br />
（杉山）私の息子が、こんなことをするはずはりません！きっとあの女の子の家族とか尋問した警官だとかが、でっち上げたに決まっています！ほら、裁判員の方も言っていたじゃありませんか。「神経衰弱」しているって・・<br />
被告人の妹　（武田）兄は真面目な人です。こんな事をしたなんて信じられない。<br />
（春日）きっと悪い人にそそのかされたか、心が疲れきってたかに違いありません。父はああ言いますが本当は優しく頼りになる兄なんです。<br />
（杉山）私が小さい頃、そういう目で見ていたかと思うとぞっとします。私も今は二人の子持ちです。そんな人が兄だなんて、認めません。赤の他人ですわ。<br />
――――――――――――――――――　7　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．181</p>

<p>被告の友人　（武田）彼は普通の青年だった。性格も穏やかでありあまり感情を全面に出さないような、そんな人間だった。ただ、ほんの少しだけ想像することが、他の人よりも強かっただけだと。<br />
（春日）かわった奴ではあったが、まさかそんなことをするとは到底思えなかった。惚れっ<br />
ぽい所もあったが、こんなことまでやるとは。<br />
（杉山）この話を聞いたときは驚きました。ずいぶん昔に会ったきり話したこともありません。だからといって犯罪をするようすでもなかったので・・・いや、人とはわからないものですねえ。<br />
被告の知人　彼とは、彼が東京を出奔する前、仲たがいしました。<br />
裁判長　　前とは、いつごろか。また、どんなことで仲たがいしたのか。<br />
被告の知人　二カ月ほど前です。仲たがいの理由は、忘れましが、たぶん、女のことだったかも知れません。<br />
裁判長　女の？男女関係のもつれがあったのか。<br />
被告の知人　いえ、彼が惚れっぽいので、忠告したのです。<br />
裁判長　どんな忠告をしたのか。<br />
被告の知人　次々と女性を好きになって、そのたびに断られ落胆しているので、気の毒に思い、惚れっぽいのもいい加減にせよ、と言ったのです。<br />
裁判長　そのことと、今回の事件とは関係あると思うか。<br />
被告の知人　わかりませんが・・・たぶん寂しかったからかも知れません。彼の、惚れっぽい性格も、いま思うと、それが事件の起因になったように思えるのです。<br />
裁判長　それでは裁判員の皆さんには、私見を述べてください。刑についても――。<br />
春日裁判員　被告人は精神衰弱しており、その寂しさや空しさからの犯行かもしれない。その点は細かい精神鑑定からの考慮もあるでしょう。しかし少女誘拐は決して良心からではないでしょう。本当にそうであったならば、どうしてすぐに家に連れて行かないのか。何故自宅に無理やり留まらせたのか。明らかに少女自身に目的があったとしか思えません。<br />
武田裁判員　身体、精神の衰弱から、まともな判断ができなくなったとはいえ、自身の欲求を満たしたいがためのこの行為は悪質。実刑2年６ヶ月くらいが妥当。<br />
裁判長主文・判決　（武田）　仕事に行き詰まり、その満たされない心持ちの解消方法が幼い女の児を愛でることだからといって、"盗んでいい"ということにはならない。人が沢山いる場所、時間を選び計画性のあるこの行為は許されるべきではない。たとえ、子に傷がなかったとしても、精神的には大きな負担をかけてしまっている。従って、実刑1年３ヶ月くらいが妥当かと思う。<br />
（春日）被告人は親から勘当や生活の中での精神疲労でいやしや、安らぎを求めていた。美しいものは心をいやす。しかしだからと言って人の子を盗むのを正当化できる訳がない。被告の調査からも、常習性が伺えるが精神状態を考慮し、被告を執行猶予２年とする。<br />
（杉山）判決、懲役６ヶ月（警察の精神病院にて）処する。<br />
幼女を誘拐した理由が猥褻目的ではなかった。誘拐した二日間、機会はいくらでもあったろうがそれをしていない。しかし幼女を騙し、両親のもとからさらっていったのは本人も認めた事実。また精神衰弱かつ、理由が安易だからこそ再犯が考えられる。</p>

<p><br />
最終判決　→　よって被告人は</p>

<p></p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・181　――――――――　8――――――――――――――――</p>

<p>執行猶予　　裁判の判決で、よく執行猶予という言葉を聞きます。ＨＰで検索しました。</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>――――――――――――――――――　9　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．181<br />
執行猶予について</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・181　――――――――　10――――――――――――――――</p>

<p>ノンフィクション劇場　　柔道・町道場の灯を守って　土壌館物語<br />
連載2<br />
　おんぼろ道場奮戦記　</p>

<p>私と柔道</p>

<p>　いらぬ節介から、柔道の町道場で子どもたちと一緒に柔道をはじめることになった。が、私の柔道歴は、心もとないものだった。<br />
　私が、はじめて柔道というものを知ったのは、小学校高学年の頃だった。私は、内気で運動も大の苦手だったが、人並みにヒーローには憧れていた。そのころ夢中だったものは、猿飛佐助の忍者ものや宮本武蔵の剣豪ものだった。<br />
柔道については黒澤明監督の処女作品『姿三四郎』も知らなかったし、冨田常雄原作の『姿三四郎』も読んでいなかった。柔道という言葉をはじめて耳にしたのは、そのころ国民的人気のあったプロレス中継の実況放送からではなかったかと思う。アナウンサーが、たびたび「この選手は柔道経験があります」とか、「これは、柔道技です」などと熱狂して叫んでいるのを聞いて、私は密かに柔道に憧れるようになった。<br />
私の郷里は、長野県の山村。木曽山脈の山ふところにある。山間の宿場町に豆腐屋があって、毎朝夕、豆腐屋の主人が自転車でラッパを鳴らして村の端からはしに豆腐を売って回っていた。主人は、お相撲さんのように大きな体をしていたが、温和な人柄で「なしの屋の鉄さ」と呼ばれ村人から親しまれていた。が、もう一つの顔を持っていた。戦前東京にいたとき講道館で柔道をやっていたという噂である。いつもにこにこしていたが、名古屋で暴漢を投げ飛ばしたという武勇伝もあって、私は、ひそかに尊敬していた。そんなことから、豆腐売りのラッパを聞くたびに柔道を、習ってみたい。そう思うようになっていた。<br />
だが、信州の山奥では、その夢は叶わなかった。村には、柔道の道場はなかったし、中学校にも、高校にも柔道部はなかった。<br />
　私は昭和四十年、日本大学農獣医学部に入学した。そのとき同学部の柔道部に入部した。柔道は、長年の夢だったが、初心者での入部は躊躇した。背中を押したのは、前年テレビ放映されていた青春ドラマだった。大学の柔道部員が主役で、柔道を通して成長していく熱血青春ものだった。「昨日、見つけた机の端に、誰が書いたか三つの言葉、真理、人生、ああ青春」この主題歌が気にいっていて大学に入ったら、是非、柔道部に入ろうと思っていた。新入生は、柔道経験者ばかりだったので、私は藤沢市内にあった町道場、石井道場に入門し、そこで受身を練習をした。大学の道場では、面白いほどポンポン投げられた。新入生は、ほとんどの部員が高校の柔道部で鍛えたものばかりで、目をつむってても、片手でも大丈夫だよ、と笑われた。でも、そんな彼らもいつのころからか、両手で組んで、本気で柔道をやるようになった。<br />
一番最初の試合は、水道橋にある経済学部道場で行われた学部対抗試合だった。歯学部四年生と当り、寝技で一本負けした。最初の勝ち試合は、中野区野方にある警察学校での試合。背負いでの一本勝ち、と記憶している。大学で稽古する傍ら、バイト先の毎日新聞社の柔道クラブに所属して、丸の内警察にある道場にも通った。<br />
大学三年の夏、学園紛争で、校舎は閉鎖された。授業ができなくて一般学生たちは困ったが、運動部の学生も困った。学園紛争は全国に飛び火し、多くの大学が授業不能に陥った。私は、友人と柔道着ひとつ持って日本を飛び出した。いろんな国の道場<br />
――――――――――――――――――　11　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．181<br />
をまわりながら柔道が盛んなフランスまで、行ってみようという計画だった。ナホトカからシベリヤ鉄道の経過もあったが、船にした。当時、外国旅行は、まだ船が主流だった。『なんでもみてやろう』にはじまって『アデウス日本』『西域潜行八年』など<br />
日本脱出本がベストセラーになっていた。<br />
一九六八年の夏、私は、横浜メリケン波止場からマルセーユ、横浜間の定期貨客船「ラオス号」1万3千㌧に乗船した。船には、いろんな国の若者が乗船していた。<br />
柔道修業から帰国するスイス人青年、アメリカ人のヒッピー、自転車で世界一周を目指す日本人の若者などなど。ほとんどが着の身着のままの無銭旅行だった。この時代、1ドル365円で国外持ち出し金は10万円までと決まっていた。<br />
途中、大学の先生から紹介された人を、カンボジアのプノンペンに訪ねた。元高<br />
崎経済大学長のＴ先生で、政府機関で経済顧問をしていた。縁は異なもので、私と<br />
友人は、そのままカンボジアに居座ることにした。<br />
当時、王制社会主義で鎖国政策をとっていたカンボジアは、東西冷戦を巧みに利用して国内の安定をはかっていた。しかし、その平和もベトナム戦争激化で、風前の灯だった。が、魅力ある国に見えた。私は、この国で農業の手伝いをすることに<br />
した。行き先はボコールという高原だった。長期ビザ許可を待つあいだ、のんびり<br />
プノンペンで過ごした。プノンペンには、講道館から派遣された柔道家がいた。警<br />
察、軍隊、フランス人相手に柔道を教えていた。柔道家のＯ氏は、豪放磊落な人だ<br />
ったが、大酒飲みが玉に傷だった。メコン岸辺のダンスホールで酔っ払い警官を何<br />
人も河に投げ込んだという武勇伝をもっていた。南方暮らしにすっかり退屈してい<br />
たので、私が柔道をやるとわかってたいそう喜んだ。夕方になると、私の宿舎にオ<br />
ートバイで迎えにきた。私は、後ろに乗って二人で各道場を回った。プノンペンに<br />
は、立派な道場が二、三ヶ所あって、大勢稽古していた。彼らはエリート層でこの<br />
国の将来を担う若者たちだった。一緒に稽古した彼らだったが、ポルポト時代、ほ<br />
とんど殺されてしまったと聞く。クーデター騒ぎで私は、一時帰国した。が、その<br />
後の内紛でカンボジアに戻ることはなかった。学校に戻るのもやめたので柔道は、<br />
講堂館で稽古することにした。その後、家庭をもったことで、柔道からは遠のいた。<br />
このように私の柔道歴は、頼りない半端なものだった。が、息子の入門で、ふたたび柔道着を着ることになった。</p>

<p>道場を引き受ける</p>

<p>　息子が柔道の道場に入門したことで、私も昔取った杵柄で、子どもたちと一緒に<br />
柔道をやることになった。が、妻の病気入院や、義兄の入院もあって、練習日に行<br />
くことが難しくなった。ある日、久しぶりに道場に行くと薄暗い中に老師範がぽつ<br />
念と立っていた。子どもたちはまだ、だれも来ていなかった。老師範が何かもの言<br />
いたげのようだったので、<br />
「どうかしましたか」と、尋ねた。<br />
「うん、ちょつとな」老師範は、頷いたあと、ためらいがちに言った。「この道場、<br />
たたもうと思っているのだ」<br />
「えっ、たたむって、やめるんですか」<br />
私は、驚いたふうをして声をあげた。実際は、もしかしたら、とひそかに思ってい<br />
た。息子から通う子どもが減ってしまって、いまは、息子を含めニ、三人きりだと<br />
いう。私も事情から、師範代を断ろうと思っていたので、道場をたたむのも仕方が<br />
ないことだと思っていたのだ。　　　　　つづく<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・181――――――――　12――――――――――――――――</p>

<p>2011年後期ゼミ旅日誌<br />
後期ゼミ前半も、残すところあとわずかとなった。13名と、手ごろな人数で出発した旅であった。が、旅路日誌をふりかえると惨憺たるものがある。1人不明、9名も有名無実状態である。今年は、大震災や福島原発事故があったりして、社会状況不安である。さまざまな家庭事情で、やむなく勉学できなくなる学生も多いという。現に、そうした相談もある。　<br />
それだけに、この現実もやむなしといったところだが、ゴールが見えてきたところで、参加できなかった人たちのために後期ゼミ前半を記録してみた。<br />
□9月26日ゼミ　参加者7名＝椎橋萌美、會澤佑香、藤塚玲奈、春日菜花、杉山知紗、武田結香子、内田悠介。課題「私の夏休み」発表＝春日菜花「窓辺の光景」、藤原佑貴「何でも読んでやろう」。課題「なんでもない一日の記録」発表＝藤塚玲奈「サクランボとお婆さん。　課題「未来車内観察」発表＝武田結香子「10年後の私」。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月3日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題「私の夏休み」発表＝武田結香子「夢を見つけた夏」。課題「車内観察」掲載＝會澤佑香「寒い日」。課題『にんじん』感想・意見掲載＝椎橋、春日、杉山、武田、藤塚、會澤、内田。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月17日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題『にんじん』感想発表「失礼ながら」「尿瓶」「うさぎ」＝杉山、春日、武田。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月24日　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題『にんじん』感想発表「もぐら」「つるはし」「湯のみ」「ねこ」＝春日、杉山、武田。課題「車内観察」発表＝春日「工事中のホームで」。課題「日常観察」発表＝武田「家族」。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□10月31日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。テキスト『剃刀』「剃刀職人客殺害疑惑事件」模擬裁判＝武田・春日・杉山口演。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□11月7日ゼミ　参加者3名＝春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題「車内観察」発表＝杉山「幼馴染と携帯」。テキスト脚本口演＝武田・杉山・春日。ゼミ誌編集＝武田。<br />
□11月14日ゼミ　参加者＝春日菜花。テキスト『兒を盗む話』「尾道幼女誘拐事件」についての＝春日。伊那谷、他についての雑談＝春日。ゼミ誌報告＝武田「印刷交渉成立」</p>

<p>Ⅰ　ゼミ誌作成に関する今後の重要書類、以下2点の書類提出に注意<br />
1. 【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。<br />
2.　11月末までに印刷会社に入稿。<br />
3.　雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。<br />
4.　印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。<br />
ゼミ雑誌の納付日は、2011年12月15日です。厳守のこと。<br />
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />
編集室便り<br />
　　住所〒274-0825　船橋市前原西6-1-12-816　下原方<br />
　　メール：　TEL・ＦＡＸ：047-475-1582　 toshihiko@shimohara.net<br />
提出原稿は、メール、ＦＡＸでも受け付けます。(送信でもらえると二度手間と間違い打ちがなくなるので助かります)<br />
ゼミ評価は、以下を基本とします。<br />
出席日数　＋　課題提出（ゼミ誌原稿）＋α　＝　100～60点（Ｓ，Ａ，Ｂ，Ｃ）</p>

<p>11月は「児童虐待防止推進月間」<br />
厚生労働省は、11月を「児童虐待防止推進月間」として防止のための啓発活動を実施しています。その一環として、標語を募集していましたが、以下に決まりました。</p>

<p>守るのは　気づいたあなたの　その勇気<br />
</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>文芸研究Ⅱ　下原ゼミ通信No.180</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.shimohara.net/archives/2011/11/no180.html" />
    <id>tag:www.shimohara.net,2011://1.168</id>

    <published>2011-11-14T11:57:35Z</published>
    <updated>2011-11-14T11:59:18Z</updated>

    <summary> 日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2011年（平成23年）11月14日発行 文...</summary>
    <author>
        <name>下原敏彦</name>
        
    </author>
    
        <category term="下原ゼミ通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.shimohara.net/">
        <![CDATA[<p><br />
日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2011年（平成23年）11月14日発行</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．180<br />
ＢＵＮＧＥＩＫＥＮＫＹＵ　Ⅱ　ＳＨＩＭＯＨＡＲＡＺＥＭＩ　ＴＳＵＳＨＩＮ<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　編集発行人　下原敏彦<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
9／26　10／3　10／17　10/24　10／31　11／7　11／14　11／21　11／28　12／5　<br />
12／12　1／16　1／23<br />
　　<br />
2011年、読書と創作の旅</p>

<p>11・14下原ゼミ</p>

<p>11月14日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室</p>

<p>1．	通信180配布　アンケート（授業評価）「前回ゼミ」報告</p>

<p>2.　ゼミ雑誌作成経過報告　　課題提出　　　司会進行指名<br />
　<br />
　3.　尾道幼女誘拐事件模擬裁判（テキスト『兒を盗む話』）他2裁判</p>

<p>4.　名作読み・森鴎外『高瀬舟』（裁判関連） <br />
　　　　 </p>

<p>11・7ゼミ報告</p>

<p>□	ゼミ誌作成進行報告　→　部数160部発行に決まる<br />
□	車内観察、発表　　　→　杉山知紗さん「幼馴染と携帯」<br />
　　　　評・「どこか懐かしさが伝わってくる」「自分の思いに重なる」佳品です</p>

<p>□『にんじん』「めんどり」「しゃこ「失礼ながら」「つるはし」戯曲編纂を口演<br />
□　尾道幼女誘拐事件・容疑者自白調書の読み<br />
□　配布『異邦人』前半コピー・赤ん坊誘拐事件（『竹取り物語』）</p>

<p>12・12の3ゼミ合同発表会について、4候補</p>

<p>後期前半最後12月１２日（月）ゼミは、3ゼミ合同発表会を行います。山下ゼミ、清水ゼミ、下原ゼミです。（以前はデザイン学科も参加）<br />
各ゼミで取り組んできたもの、学んだことを発表します。ちなみに昨年までの下原ゼミは、口演・紙芝居「少年王者」、寸劇で「曲芸師美人妻殺害疑惑事件」の模擬裁判を発表してきました。今年は、以下の出し物のなかから一つを選んで発表したいと思います。<br />
候補1.『にんじん』口演　→　観客に「にんじん」家の実態を知らせ、アンケート<br />
に答えてもらう。家族観察劇「この家庭をどうみるか。悪いのは誰か」<br />
候補2. 剃刀職人客殺害疑惑事件模擬裁判（テキスト『剃刀』）観客に判決とその理由。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>候補3.　尾道幼女誘拐事件模擬裁判（テキスト『兒を盗む話』）観客に判決とその理由<br />
候補4　ナイフ曲芸師美人妻殺害疑惑事件（テキスト『范の犯罪』）観客に判決とその理由<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．180――――――――　2　―――――――――――――</p>

<p>一日観察　<br />
風邪<br />
春日　菜花</p>

<p>朝目覚めた瞬間、違和感に気付いた。唾を飲み込むときの言いようのない不快感と、喉につかえる異物のようなもの。嫌な予感を抱きながら、試しにそっと声を出してみた。<br />
「あ゛......」<br />
枯れた声と変に震える喉。<br />
身体を起こして何度か咳をすると、掠れた音しか出ない。無理やり勢いをつけて咳をすれば、ズキリと喉が痛んで変な声も出た。鼻がつまっていたから口をあけて呼吸をしていたようで、舌が妙にざらついてそれもまた不快感を募らせた。<br />
そういえば何週間か前に友人が突然酷く枯れた声で学校に来ていたのを思い出す。ああ、自分もあの二の舞になってしまったのだ。彼はその日1日で何人もの友人に風邪をうつしたが、ここまで声が枯れた人はあまりいなかった気がする。<br />
先週の土曜から喉が痛くなり、熱が出て、下がったと思えば鼻が酷くなり、少しよくなったかと安心すれば今度はこれだ。今回で風邪のほとんどの症状を経験したことだろう。<br />
母親に挨拶をすると、哀れむような顔でこちらを見た。普通に喋れるのだが、声はガラガラに枯れていて自分の声がよくわからない。コップ1杯の水を一気に飲み干しても、喉の掠れと違和感は消えなかった。何杯か続けて飲み、今度はうがいをする。普段のうがいの時と明らかに喉の音が違った。<br />
「治ってないよね」<br />
「そうだねえ」<br />
ゲホッと喉から空気を吐き出す。それでも起き抜けよりは幾分かマシだった。<br />
喋り続けると喉が乾燥してズキズキと痛み出すのがわかったので、試しに1時間ほど喋らないでいた。しかしあろうことか、その後喋ろうとすると余計酷くなっていたのだ。一体どうしろと言うのか。<br />
このしゃがれた声は数日かけてやっと治ったが、その後は言わずもがな、止まらぬ咳が待っていた。</p>

<p>□風邪の症状を全部！ほんとうに不快ですね。この観察からよくわかります。</p>

<p>一日の記録　　　　　　　進化するオレオレ詐欺　　　　　　　　土壌館<br />
　減少傾向にあったオレオレ詐欺が、3・11以降また増加しているらしい。ニュースなどで、ちらと知っていたが、実感はなかった。先日、月1回開かれる市の民生児童委員協議会に出席したとき、話題がこの話になった。所轄の警察によるとなんとこの地区でのオレオレ詐欺は、未遂もあわせると昨年の10倍も増えているという。この日、出席した50人の委員なかでも電話経験者は数人いた。そのうちの二三人が、予防の為にと、そのときの手口を紹介した。最初に話したのは50前後の主婦。午前中の出来事だった。電話があってでると「オレ、いまコンビニにいるんだけど困ったことになった」という。何と、たずねようとすると、女の人がでて小声で「息子さんにわいせつ行為をされた」という。雑誌をみていたらスカートの中を盗み撮りしたのだという。そのあと夫と称する男がでて、ていねいに「息子さん、こんなことで新聞に名前が載ってはかわいそうです」という。示談ですまそうというのだ。彼女は、変と疑うより、息子ならやりかねないと思ったという。なにしろ普段も、ところかまわず携帯写真を撮っていた。最初の声も息子と疑わなかった。が、それでもとおもって息子に携帯して分かった。もし、連絡とれなかったらお金を受け取りにきた人に渡してしまうところだった。だれでもだまされてしまうと自信たっぷりに顛末を話した。<br />
――――――――――――――――――　3　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．180</p>

<p>課題『竹取り物語』ＨＰ　竹取り爺さんとその妻のお婆さんを裁くとどうなるか</p>

<p>竹やぶの赤ちゃん誘拐事件（見本練習）<br />
　【事件概要】<br />
竹取り爺さんが竹ヤブに行くと、赤ちゃんがいた。お爺さん勝手に連れて帰る。お婆さんたいそう喜んで、お玉と名付け二人で育てることにする。が、親の若夫婦は、ちょつとした隙にいなくなった我が子を必死で探す。警察は事件・事故の両面で捜査。赤ちゃんの行方ようとして知れず。3カ月後、通報で発覚。逮捕される。老夫婦の罪は？<br />
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />
杉山知紗</p>

<p>起訴状　→　未成年略取及び誘拐罪</p>

<p>検察陳述　→　老夫婦の供述が真実であるとは信じがたい。警察やその他施設に連絡しな<br />
かったのは意図的と感じる。<br />
検察の求刑　→　懲役６ヶ月、執行猶予二年。</p>

<p>弁護人　→　老夫婦はお玉ちゃんの誘拐ではなく保護が目的だった。また若夫婦も、それ<br />
ほど幼い娘を放置するのに落ち度がある。結果、無事であり、お玉ちゃんの両<br />
親もいたのだから無罪。</p>

<p>裁判員だったら　→　どちらが悪いとは言い切れない。たとえ好意からにしろ、やり方は<br />
いろいろあったはず。<br />
　　　　　　　　　―――――――――――――――――――――――<br />
春日菜花</p>

<p>起訴状　→　捨て子であっても、通報するのが正しい行動、いくら可愛かったと言えども<br />
その行為は話せるものではない。誘拐事件として告訴。</p>

<p>検察陳述　→　被害者の両親はピクニックに行き、少し目を離したスキに居なくなったと<br />
言っている。つまり赤ん坊が単体でいた訳ではないのは明らかである。<br />
求刑　→　書類送検？</p>

<p>弁護人　→　人気のないところで赤ん坊を一人置いておくなど、危険極まりない。<br />
老夫婦は良心から行動を起こしたに過ぎない。</p>

<p>裁判員だったら　→　捜査が出ているにもかかわらず名乗り出ないのは、言い訳が効かな<br />
いことだろう。これでは有罪になり得る。</p>

<p>―――――――――――――――――――――――――――――――――――<br />
ＨＰの判決</p>

<p>有罪の場合　→　未成年者略取及び誘拐罪、刑法224条に該当。よって<br />
　　　　　　　　竹取り爺さん（主犯）　→　懲役3年<br />
　　　　　　　　妻のお婆さん　　　　　→　懲役2年<br />
無罪の場合　→　大事に育てたので224条には当たらない。養子縁組として無罪。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．180――――――――　4　――――――――――――――</p>

<p>テキスト『兒を盗む話』　争点、誘拐は、寂しさからか猥褻目的か</p>

<p>尾道幼女誘拐事件模擬裁判</p>

<p>　10月×日　按摩の妻は、5歳になる娘を連れて祭にでかけた。が、出店の人混みで娘が迷子に。探したがわからず1時間後、近くの交番に届ける。2時間後、尾道署の巡査多数も加わり捜索するが、娘はようとして不明。両親、探偵を雇う。尾道署も誘拐・事故の両面で捜査本部を設置し捜査範囲を広げた。不明の女の子を連れた若者を見た、との目撃情報あり。若者は、近頃、東京から来て山の上に家を借りている。職業不詳。ときどき街をぶらつき、芝居小屋にも出入りしている。</p>

<p>裁判長　　被告人　　検察側　　弁護人　　証人（大家）　幼女の両親　　裁判員<br />
被告人の父親　　　　被告人の関係者</p>

<p>裁判長　開廷します。検察側は、事件の説明を行ってください。<br />
検察側　（春日）衝動的な行動かも知れないが、計画性がなかったわけではない。殺そうとか、物騒なことを考えていたわけでもない。純粋にあの美しい女の子が欲しいと思っていただけなのだろう。幼い子に対する、まるで恋のような感情を抱いてはいけないわけではないが、それが正常だとも言い切れない。被害者の家族からすれば、異常・変態と思われても当然だろう。<br />
検察側　（武田）金剛寺という寺の下に住む按摩の娘（５）がいなくなった、と警察に連絡が入った。誓文払いの最後の晩から姿がないという。周辺に聞き込みをしたところ、どうやら若い男性と歩いていた、という。娘が嫌がっている様子でもなかった、という情報から顔見知りの相手を考え、最近治療に来ていた男の家へ向かう。やはり、娘は一緒にいた。男は出刃包丁を持ったが、襲いかかってくる気配もなく、その場で取り押さえた。<br />
裁判長　被告人の調書を報告してください。<br />
検察側　捜査員調書です。（春日）精神衰弱はしているものの、詰問にはしっかりと答えている。しかし誘拐の動悸は「ただ欲しいと思った」の一点張りである。誘拐したこの前に、別の少女を狙っていたのも明らかになっている。容疑者が何度も芝居小屋に通うのを目撃したとの証言も得ている。今回の犯行は計画性があり、加えて当初狙っていた子ではなく偶然見つけた顔見知りの子を衝動的に連れ去ったのには酌量の余地はないが、容疑者の精神状態を考慮する必要はあるかもしれない。<br />
検察側　捜査員調書です。（武田）仕事に行き詰まったA（容疑者）は、いろいろと試してみたものの、体の調子が治らない日々が続いた。ある日Aは芝居小屋で可愛らしい女の児を見た。その児を思う日が続き、"その児を盗みたい"という空想をした。しかし、その女の児に会えずにどうしようかと考えていたところに、自分が通っている按摩の娘を偶然見かけた。芝居小屋の児とは比較にもならなかったが、野趣を持ち、こちらも可愛かったので盗むこと（誘拐）を実行した。<br />
裁判長　事件の概要を、被告人の立場からもう少し詳細に陳述してください。<br />
検察側　その日は祭りで、母親は買い物に気を取られていました。気付いたら少女は何処にもおらず、何度名前を呼んでも返事はありません。買い物を投げ出して慌てて辺りを探し回ったけれどいなかった。それは事実です。少女は父のところに最近よく来る客だということを認識していたからこそ特に不振がることもなく、容疑者に大人しくついて行き、言うことを聞いていました。けれどいつまで経っても家に帰してもらえないことに気付いて、ようやく容疑者の真意に気付いたのです。少女に怪我はありませんでしたが、精神的恐怖を与えたのは言うまでもないでしょう。<br />
――――――――――――――――――　5―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．180</p>

<p>検察側　（母親の立場から）娘と誓文払いへ一緒に出かけ、ほんの少し買い物をしていた瞬間に娘はいなくなってしまった。まだ幼いから知らない人に無理矢理、であったならば泣き叫ぶはずなのに、近くからは泣き声もなかった。その日は最終の晩でもあったから人も多く、探せなかった。いくつもの不安定な条件が重なったところを狙った非常に悪質な行為。一つ間違えていたら、娘は帰ってこなかったかもしれない。<br />
裁判長　それでは弁護人は陳述してください。<br />
弁護人　（春日）祭りの中で偶然見つけた顔見知りの少女は、買い物に夢中になっている母親に必死に着いていっていました。これでは迷子になってしまうと、被告人は良心から自宅に連れ帰ったのです。もし本当に少女自身に目的があったならば、なぜ手をださなかったのでしょう。少女には怪我一つなく、健康状態もよかったのです。もしやましい想いがあったならば、2日の間無事でいるとは思えません。<br />
弁護人　（武田）仕事に行き詰まってしまい、そのイライラを唯一癒してくれたのは、芝居小屋で見たあの児だった。その快感を忘れることなどできず、もっと自分の近くにいて欲しい、と考える毎日だった。しかし出会うこともできず悩んでいたところによく通っていた按摩の娘がいた。ただ、小さな児を愛でて、自分の傍においておきたかっただけ。<br />
裁判長　次に被告人の訊問を行います。被告人は、氏名、住所、職業等を述べてください。<br />
被告人　文芸太郎、現住所は、広島県尾道町尾道6-1　20歳　職業は無職。<br />
裁判長　被告人は、いつからその住所に住んでいるのか。その前はどこにいたのか。<br />
被告人　三か月前からです。その前は東京にある実家にいました。<br />
裁判長　その東京の実家には、だれがいたのか。<br />
被告人　祖母と両親と二人の妹です。<br />
裁判長　この土地に来た理由は。ここに知り合いはいるのか。<br />
被告人　この土地は、はじめてです。知り合いは誰もいません。来た理由は、一人になって暮らそうと思ったからです。<br />
裁判長　なぜ一人になって暮らそうと思ったのか。<br />
被告人　父との不和です。<br />
裁判長　不和の原因は何か。<br />
被告人　私が学校を卒業したのに、就職せず家にいるからです。<br />
裁判長　なぜ働かないのか。どこか体に不具があるのか。<br />
被告人　からだは健康です。疲れやすい体質ではありますが。<br />
裁判長　ではなぜ？<br />
被告人　仕事は家で、やっております。<br />
裁判長　どんな仕事ですか？<br />
被告人　自分の仕事です。<br />
裁判長　自分の仕事とは？詳しく述べてください。<br />
被告人　小説を書いているのです。<br />
裁判長　もの書きで生計をたてているのか。<br />
被告人　いえ、一度もお金になったことはありません。それに、まだ書きあげていません。<br />
裁判長　つまり趣味ということだな。<br />
被告人　はい。<br />
裁判長　文学に入れ込んで仕事をしない。それでお父さんは怒っているのだな。<br />
被告人　はい、そのことでずっと不和がつづいていました。あの朝は、特に機嫌が悪く、いつもより激しく私をののしりました。<br />
裁判長　どんなことを言われたのか。<br />
被告人　「貴様は、いったいそんなことをしていて将来、どうするつもりだ」「貴様のようなヤクザな奴がこの家に生まれたのは何の罰かと思う」わたしが、家にいる限り小さい妹たちの教育にも差し支える。こんなことも言われました。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・180　―――――――　6――――――――――――――――</p>

<p>裁判長　それが理由で家出することにしたのか？<br />
被告人　はい<br />
裁判長　それでは事件について聞くぞ。答えたくなかったら答えなくてもよろしい。なぜあの女の子をさらおうと思ったのか。<br />
被告人　よくわかりません。たまたま、祭であったので・・・。<br />
裁判長　猥褻目的ではなかったのか。　<br />
被告人　ぜったいにそんな気持ちからではありません。寂しかったからかもしれません。<br />
裁判長　では、その点について検察側からの証言をお願いします。<br />
近所の人　（検察の立場・春日）被告人は変わった人です。私は割と近いところに住んでいますが、被告人は何にもない所で一人静かに暮らしています。でもふらふらと出かけることは多いんです。仕事もしてないみたいなのに、どうしてあんなに出かけるのか気になっていました。そうしたら、芝居小屋に足繁く通っていたんです。好きな役者でもいるのかとも思ってました。でも違ったんです。私一度気になって、その芝居を見に行ったことがあります。被告人の5人くらい横から見てました。最初はただ芝居を見ているだけだと思って、少し申し訳ない気持ちでしたが、私の感はあたっていました。被告人は芝居なんて見てませんでした。近場に住む裕福は家庭のお嬢さんをじっと見つめていたんです。あの子はそれはもう可愛らしい顔立ちをしていますから、見惚れるのも仕方ないでしょう。でも、被告人の目つきはそんなもんじゃありませんでした。まるで、一人の女性に恋するような恍惚とした表情だったんです。あんな小さな子に対してする目じゃありませんでした。<br />
近所の人　（武田）自分の欲求を満たしかかった、からといって盗んでいいなんてことには絶対にならない。ましてや相手は５歳の幼児。力でも言葉でも適わないことなど、一目瞭然。強者が弱者を支配しているに過ぎない。<br />
裁判長　それでは弁護人からの証言をお願いします。<br />
被告人の父親　（武田）やはり、アイツはロクなことをしない奴だった。他の同胞はとてもいい子ばかりなのに、どうしてアイツだけはヤクザに育ったのか、わからない。<br />
（春日）昔から阿呆なことをする奴でした。いつか何かしでかすのではないかと思っていたのです。その通りになってしまったことは、非常に残念です。<br />
（杉山）息子がまさかこんなことをするだなんて、思いもしませんでした。裁判員の方が幾度問うても答えてくれなかったように私がいくら「どうしてこんなことをしたのか」と聞いても同じ事でした。娘さん、娘さんのご家族には申し訳ないことをしました。<br />
被告人の母親　（武田）あの子がしている事を夫は認めませんでした。あの子が言い返して泣いたときに、気づいてあげればよかったのかもしれない。<br />
（春日）いつも夫に怒られていて、かわいそうだとは何度も思いました。きっとそんなことをするはずがないと信じていた分、今は女の子並びにご両親に頭を下げることしかできません。<br />
（杉山）私の息子が、こんなことをするはずはりません！きっとあの女の子の家族とか尋問した警官だとかが、でっち上げたに決まっています！ほら、裁判員の方も言っていたじゃありませんか。「神経衰弱」しているって・・<br />
被告人の妹　（武田）兄は真面目な人です。こんな事をしたなんて信じられない。<br />
（春日）きっと悪い人にそそのかされたか、心が疲れきってたかに違いありません。父はああ言いますが本当は優しく頼りになる兄なんです。<br />
（杉山）私が小さい頃、そういう目で見ていたかと思うとぞっとします。私も今は二人の子持ちです。そんな人が兄だなんて、認めません。赤の他人ですわ。<br />
被告の友人　（武田）彼は普通の青年だった。性格も穏やかでありあまり感情を全面に出さないような、そんな人間だった。ただ、ほんの少しだけ想像することが、他の人よりも強かっただけだと。<br />
（春日）かわった奴ではあったが、まさかそんなことをするとは到底思えなかった。惚れっ<br />
――――――――――――――――――　7　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．180</p>

<p>ぽい所もあったが、こんなことまでやるとは。<br />
（杉山）この話を聞いたときは驚きました。ずいぶん昔に会ったきり話したこともありません。だからといって犯罪をするようすでもなかったので・・・いや、人とはわからないものですねえ。<br />
裁判長　それでは裁判員の皆さんには、私見を述べてください。刑についても――。<br />
春日裁判員　被告人は精神衰弱しており、その寂しさや空しさからの犯行かもしれない。その点は細かい精神鑑定からの考慮もあるでしょう。しかし少女誘拐は決して良心からではないでしょう。本当にそうであったならば、どうしてすぐに家に連れて行かないのか。何故自宅に無理やり留まらせたのか。明らかに少女自身に目的があったとしか思えません。<br />
武田裁判員　身体、精神の衰弱から、まともな判断ができなくなったとはいえ、自身の欲求を満たしたいがためのこの行為は悪質。実刑2年６ヶ月くらいが妥当。<br />
裁判長主文・判決　（武田）　仕事に行き詰まり、その満たされない心持ちの解消方法が幼い女の児を愛でることだからといって、"盗んでいい"ということにはならない。人が沢山いる場所、時間を選び計画性のあるこの行為は許されるべきではない。たとえ、子に傷がなかったとしても、精神的には大きな負担をかけてしまっている。従って、実刑1年３ヶ月くらいが妥当かと思う。<br />
（春日）被告人は親から勘当や生活の中での精神疲労でいやしや、安らぎを求めていた。美しいものは心をいやす。しかしだからと言って人の子を盗むのを正当化できる訳がない。被告の調査からも、常習性が伺えるが精神状態を考慮し、被告を執行猶予２年とする。<br />
（杉山）判決、懲役６ヶ月（警察の精神病院にて）処する。<br />
幼女を誘拐した理由が猥褻目的ではなかった。誘拐した二日間、機会はいくらでもあったろうがそれをしていない。しかし幼女を騙し、両親のもとからさらっていったのは本人も認めた事実。また精神衰弱かつ、理由が安易だからこそ再犯が考えられる。</p>

<p>最終判決　→　よって被告人は</p>

<p>新潟少女誘拐監禁事件（ＨＰ）<br />
以下の誘拐監禁事件は、日本全国に衝撃を与えた。犯人は、既に社会復帰しているかも<br />
2000年1月28日、新潟県柏崎市の加害者宅に別件（母親への暴力）で訪れた保健所職員が、中にいた女性を発見・保護に至り、発覚した。女性は小学校4年生だった1990年11月13日、新潟県三条市で下校途中に行方不明になっていた。実に9年2ヶ月にのぼる誘拐監禁事件であり、社会に多大な衝撃を与えた。保護されたとき、被害者の女性は19歳で、PTSDと診断され、監禁生活の影響で、同年代の女性に比べて運動能力も著しく低下していたが、後に自動車を運転できるほどにまで快復し、引き続き療養を受けながら生活を送っている。加害者（犯行当時28歳）の容疑である当初は未成年者略取罪、逮捕監禁致傷罪であった。未成年者略取罪と逮捕監禁致傷罪は観念的競合として逮捕監禁致傷罪の刑が上限になるとして、監禁致傷罪の懲役10年が上限になり、地裁判決では「犯行は法が想定していた刑期をはるかに越えた最悪のもの」と認定されるなど、罪刑法定主義の観点から刑罰の上限の問題が浮上した。検察が監禁致傷罪以外に別件である窃盗罪が立件されたが、監禁致傷罪と窃盗罪を併せた併合罪の処理が争点となり、最高裁まで争われた。また、検察側は論告で「未決勾留日数を1日でも算出すべきではない」として、長期服役を意図していたことを明白にしていた（判決では未決勾留日数は算出された）。男は懲役14年が確定し、服役中。9年2ヶ月もの長期間にわたって監禁して虐待した者が、たった14年の懲役で許されるのか...という激しい世論が起こり[要出典]、その後の厳罰化への一石となった事件である。加害者が、長期間の引きこもりであった事も、話題のひとつとされた。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・180　――――――――　8――――――――――――――――</p>

<p>ノンフィクション劇場　　柔道・町道場の灯を守って　土壌館物語</p>

<p>　おんぼろ道場奮戦記</p>

<p>平成十年（1998）一月十五日の早朝、私は目を覚ますとすぐに窓を開けた。昨夜、テレビの天気予報は関東地方に大雪注意報をだしていた。はたして団地の五階から見る外の風景は、白一色の雪景色だった。昨夜のうちから降り出したのか、相当に積っていた。そうして、いまも視界がきかぬほど、こんこんと降りしきっていた。牡丹雪だった。<br />
まずい道場がつぶれる！私は、急いで、ジャンパーを引っ掛けると、玄関に突進し雪の中に飛び出していった。<br />
道場は、我が家から自転車で、七、八分、徒歩で十数分の距離の所にある。いつもは自転車だが、このときは、雪が二十㌢近く積もっていたので歩いて行く他なかった。休日で早朝の、しかも大雪の住宅街は、無人の街のようだった。雪だけが、あとからあとから降りつづいていた。コウモリ傘は、すぐに重くなった。人も車も行った形跡のない路地は歩きずらかった。私は、傘の雪を払いながら一足ごと進んだ。<br />
こんなに降っていては、もう道場はつぶれているかも知れない。そんな不安でいっぱいだった。が、雪のせいで思うようにすすめなかった。私は、もどかしい気持ちで歩いていった。やがて、角を曲がると道場が見えてきた。二階建て民家の間に挟まれた、見るからにみすぼらしい木造平屋建ての道場は降りしきる雪のなかに懸命に建っていた。大丈夫だった。私は、ひとまずほっとした。が、すぐに、つぶれるのは時間の問題か、と危惧した。トタン屋根に降り積もった雪の重みで、道場全体が歪んでいたのだ。<br />
道場に入ると、降雪被害は一目瞭然だった。天井は、あちこちが破れ、雪解けの水がそこかしこに滴り落ちていた。壁のベニヤ板は膨らんだり、ねじれたりして、あちこちが破損し、そこから雪が吹きこんでいた。まるで廃屋のような道場内の光景に私は慄然とした。そして、茫然自失となって玄関の土間に立ちつくしていた。<br />
が、これ以上積もったら、確実に道場はつぶれる。不意にそんな恐怖に襲われ、早速に屋根の雪を下ろすことにした。私は、急いで折りたたみ梯子を担いで外に出た。が、どこに梯子をかけようかと迷った。と、いうのも道場は敷地いっぱいに建てられていて、隣家の裏庭からでないと梯子をかけられなかった。道場の両隣の民家は、左側に老夫婦、右側に夫婦と息子が住んでいた。三人住まいの右側の家は、音にやかましく、受け身をしているとよく板壁越しに「うるさい！」と怒鳴ってきた。左側の老夫婦は、なにも言わなかったが、昔、現場監督をしていたという、こわもてオヤジだった。どちらの庭を借りるにも逡巡した。が、こわもてオヤジの庭を選んでチャイムを押した。<br />
「雪だろ」オヤジは、私をみるなり乱暴に言った。「かまわねえから入っておろしな」すべてはお見通しといった顔だ。私は、その親切に何度も礼を言って庭に入った。人情に触れた思いがしてうれしかった。はしごをかけて一番上まで登ってみると、トタン屋根の上は厚い雪原となっていた。すでに中ほどは重さでか凹んでいた。<br />
まずいぞ！私は絶望的な気持ちになった。が、屋根にあがるわけにはいかなかった。上がったら最後、ペシャンといくことは確かだった。仕方なく、物干し竿で作った雪かきで梯子にのぼったまま屋根の雪をかきおろすことにした。案外、うまくいった。私は、梯子をずらしながら屋根の雪をおろしていった。だが、雪は後から後から降り続き、まったく無駄な抵抗のように思えた。軍手の中の手は、すでに感覚なかった。<br />
しかし、私はやめるわけにはいかなかった。いつまでも機械的に腕を動かしていた。どれだけ過ぎたろうか。<br />
――――――――――――――――――　9　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．180</p>

<p>「父さん」<br />
不意に下で呼ぶ声がした。見下ろすと息子の良太が立っていた。<br />
「おう、手伝いにきたのか」<br />
私は、にわかにうれしくなった。二人でやれば、もっと雪が下ろせるかも知れない。<br />
「ちょつとくたびれた。交代するか」私は、手を止め下を見た。<br />
「母さんが、もうやめろと言ってた」息子は、怒り口調で言った。「やむのを待てって」<br />
「バカいえ！もうちょつとだ」私は怒鳴って言った。「はしごを抑えてろ」<br />
「ほんとに、母さんが危ないからって・・・」<br />
良太は、そう言いながらも渋々、はしごを押さえた。<br />
私は、屋根の雪をかきつづけた。手が疲れてくると私がおりて、良太が昇って雪をかいた。しばらくして、私は今日は、息子にとって重大な日だったことに気がついた。大雪騒動ですっかり忘れていた。<br />
「そうだ！今日は、成人式じゃないか　！」私は、吃驚して叫んだ。<br />
「そうなんだけど・・・知ってたわけ」<br />
「忘れてた」私は、あわてて言った。「もういい時間、まだ間に合うんだろ」<br />
「うん、まあ」<br />
「それなら早く行け」私は、大声で言った。<br />
「もうやめろよ。おれ、ほんとに知らないからな」<br />
良太は、そう言い残して雪の中に消えていった。成人式は、市民ホールか綜合体育館で開かれるらしい。が、いまの私にとっては関心外だった。<br />
　一人になった私は、なおも屋根の雪をおろしつづけた。雪は、容赦なく降り続いていた。もう道場は潰れるしかない。わたしは半ばあきらめて手を止めた。そうしてぼんやり目の前の雪をながめた。脳裏に道場での今日までのことが走馬灯のように浮かんだ。</p>

<p>その一<br />
息子の良太が小学一年生になった日。入学式が終った後、家族全員で道場に向かった。<br />
半年前、東京の品川から越してきた。周辺を散歩しているとき偶然、通った住宅街の<br />
一角に柔道の道場を見つけた。壁にトタンを打ちつけた平屋建ての建物が民家の間に押<br />
し込まれるようにして建っていた。掘立小屋同然のみすぼらしさに、何だろうと近寄っ<br />
て見ると「講道館柔道練習所」「望月道場」と書かれた古びた二つの板看板がかかってい<br />
た。埃っぽいガラス窓を覗くと畳が敷いてある。三十畳ばかりの広さか。<br />
こんなところにオンボロだが柔道の町道場がある。いまどき町道場は珍しい。東京に<br />
いたときときどき水道橋の講道館に稽古に行っていた私は、思わず感動した。玄関の戸<br />
に生徒募集の貼り紙があった。<br />
「ここに通ってみるか」良太に聞くとあっさり「うん」と頷いた。<br />
　そんなことで、小学校に入ったら入門させることにした。<br />
　道場主の家は近くにあった。訪ねてみると、小柄なお婆さんが出てきた。道場主の母<br />
親だろう、と想像しながら用件をつげると彼女は家の中に向かって<br />
「先生、先生」<br />
と、呼んだ。ごそっと物音がして、小柄のご老人がでてきた。白髪で、耳がやけに大き<br />
いのが印象的だった。こちらも多分、道場主の父親かなにかだろうと思っていると、老<br />
人は、き大きなギョロ目でじろりと見ると聞いた。「入門ですか」<br />
老人は道場主だったのだ。そのとき望月由太郎先生は、七十七歳だった。柔道ができる<br />
だろうか。そんな心配がよぎった。が、十人くらい小学生が通っているというので入門<br />
させることにした。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・180　――――――――　10――――――――――――――――</p>

<p>　私は良太を送っいったとき、ときどき外から練習を見物した。私の他に二三人の子の親が迎えがてら見にきていた。<br />
望月先生の教えかたは厳しかった。礼儀もうるさく注意していた。そのころ生徒は小学生だけだった。子どもたちは先生の前では緊張しているようにみえた。見学の親たちも「やはり礼儀がよくなっていいです」と話し合っていた。が、しばらくしてあることに気がついた。子どもたちの態度のよさは表面上だけだった。望月先生がちょっとでも目を離すと、一気にたががはずれたようにふざけあっていた。これもかれも先生がお年で、体で柔道を教えていないせいと思われた。「やっぱり、じかに指導<br />
してくれる人がいないと無理だねえ」<br />
迎えにきた親たちとこんな会話をかわすようになった。<br />
　私は、柔道経験はあったが、講道館から遠くなったことで、もう柔道は卒業した。柔道着を着ることもないだろうと思っていた。が、稽古に熱が入らない子どもたちをみているうちに、私も一緒にやってみようという気持ちになった。大人が一緒にやれば子どもたちもやる気になるのではないか。息子のためにも、自分の健康のためにも、やってみようと思った。<br />
　私は、押し入れから柔道着を引っぱり出し道場に入っていった。<br />
道場で、私が一緒に受身をはじめると、子どもたちは、大喜びした。大人が一緒に練習をするのが、よほどうれしかったようだ。私が昔取った杵柄で、回り受身や、飛び込み受身をやってみせると目を丸くして驚いた。道場主の望月先生から、これからもやってくれるよう頼まれた。その頃、私はフリーライター開店休業中だったので、迎えに行ったとき、子どもたちと一緒に柔道をやることにした。<br />
昭和五十九年五月のことであった。</p>

<p>その2</p>

<p>　いらぬ節介から、柔道の町道場でボランティアとして子どもたちと一緒に柔道をはじめることになった私だが、私の柔道歴は、心もとないものだった。<br />
　私は昭和四十年、日本大学農獣医学部柔道部に入学したとき同学部の柔道部に入部した。冨田常雄の『姿三四郎』を愛読していたこともあるが、前年テレビ放映されていた熱血青春ドラマの影響もあった。大学の柔道部が舞台だった。「昨日、見つけた机の端に、誰が書いたか三つの言葉、真理、人生、ああ青春」この主題歌が気にいっていて、大学に入ったら、絶対、柔道部に入ろうと思っていた。<br />
一番最初の試合は、水道橋にある経済学部道場で行われた学部対抗試合で歯学部四年生と当り、寝技で一本負けした。最初の勝ち試合は野方にある警察学校との試合で背負いでの一本勝ち、と記憶している。大学で稽古する傍ら、バイト先の毎日新聞社の柔道クラブに所属、丸の内警察の道場にも通っていた。大学三年の夏、学園紛争で、校舎は閉鎖された。授業がなくて学生たちは困ったが、運動部の学生たちも困った。<br />
私は、柔道着ひとつ持って日本をとびだした。いろんな国の道場をまわりながら柔道が盛んなフランスまで、行ってみようという計画だった。一九六八年の夏、私は、横浜めりけん波止場からマルセーユ、横浜の定期貨客船「ラオス号」に乗船した。途中、大学の先生の知人がいるということで、カンボジアのプノンペンに寄った。鎖国政策のカンボジアは、ベトナム戦争激化で、内紛寸前だったが魅力ある国に見えた。私は、この国で農業の手伝いをすることにした。行き先はボコールという高原だった。長期ビザ許可を待つあいだ、のんびりプノンペンで過ごした。プノンペンには、講道館から派遣された柔道家がいた。警察、軍隊、フランス人相手に柔道を教えていた。　次回へ<br />
――――――――――――――――――　11　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．180</p>

<p>新　聞　このたび『ランボー全集』が刊行されたとのニュース</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
Sensation（サンサシオン）</p>

<p>夏の爽やかな夕、ほそ草をふみしだき、<br />
ちくちくと穂麦の先でつつかれ、小路をゆこう。<br />
夢みがちに踏む足の、一あしごとの新鮮さ。</p>

<p>　　　　　　　話もしない。ものも考えない。だが、<br />
僕のこころのそこから、汲めどつきないものが湧きあがる。<br />
さあ、ゆこう。どこまでも。ボヘミアンのように。<br />
自然とつれ立って、――　恋人づれのように胸をはずませ・・・・</p>

<p>（金子光晴訳）</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・180――――――――　12――――――――――――――――</p>

<p>ゼミ雑誌『旅路報告』作成経過</p>

<p>ゼミ誌は、ゼミ一年間の成果の証です。全員で協力して完成させましょう。テーマは、日常です。掲載作品は、課題から「車内観察」「何でもない一日」、自由創作です。</p>

<p>Ⅰ　ゼミ雑誌作成軌跡<br />
　　　5月25日　ゼミ誌ガイダンス　武田編集長<br />
5月29日　武田編集長より提案。自由創作も視野に<br />
6月　６日　モチーフ『日常』、内容＝課題・自由創作　頁300（一人20枚）<br />
　　　　　　業者＝藤原印刷　写真・図案は無し<br />
6月13日　ゼミ誌内容欠席者にメール、5名返信、武田報告<br />
6月20日　題、レイアウトについて　<br />
6月27日　題公募<br />
7月4日　題「旅路報告」に決定<br />
10月3日　表紙デザイン決定<br />
10月17日　自由創作希望者7名　提出5名<br />
10月24日　ゼミ誌原稿締め切り<br />
11月　8日　藤原印刷に連絡</p>

<p>Ⅱ.　ゼミ誌作成に関する重要書類、以下の3点の書類提出に注意</p>

<p>1.【①ゼミ雑誌発行申請書】所沢／出版編集室に期限までに提出　完了<br />
2.　6月6日ゼミ雑誌題・型・頁・業者・内容（案）決まる。　　完了<br />
3.　10月24日、ゼミ誌原稿最終締め切り。<br />
4.　印刷会社を決める。藤原印刷に決まる。レイアウトや装丁は、相談しながらすすめる。<br />
5.【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。<br />
6.　11月半ばまでに印刷会社に入稿。（芸祭があるので遅れないこと）<br />
7.　雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。<br />
8.　印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。</p>

<p>ゼミ雑誌の納付日は、2011年12月15日です。厳守のこと。</p>

<p>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />
編集室便り<br />
　　住所〒274-0825　船橋市前原西6-1-12-816　下原方<br />
　　メール：　TEL・ＦＡＸ：047-475-1582　 toshihiko@shimohara.net<br />
提出原稿は、メール、ＦＡＸでも受け付けます。(送信でもらえると二度手間と間違い打ちがなくなるので助かります)<br />
ゼミ評価は、以下を基本とします。<br />
出席日数　＋　課題提出（ゼミ誌原稿）＋α　＝　100～60点（Ｓ，Ａ，Ｂ，Ｃ）</p>

<p>11月は「児童虐待防止推進月間」<br />
厚生労働省は、11月を「児童虐待防止推進月間」として防止のための啓発活動を実施しています。その一環として、標語を募集していましたが、以下に決まりました。</p>

<p>守るのは　気づいたあなたの　その勇気</p>

<p>名作・森鴎外『高瀬舟』</p>

<p>機織り職人弟殺害及び自殺幇助疑惑事件<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　名前</p>

<p>【事件の推移】客観的に「どんな事件だったか」起訴状</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
【容疑者の調書】を創作してください</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>【検察の陳実】を作成してください。容疑者は、介護が面倒になって殺した。</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>【弁護側の陳実】作成、無罪の勝ち取りを目指した内容</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>【証人の証言】近所の婆さん</p>

<p></p>

<p></p>

<p>【証人の証言】西陣の機織りの同僚　登場しないので想像で</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>【裁判員としての私見】自分が裁判員だったらを考えて</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>求刑は</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>文芸研究Ⅱ　下原ゼミ通信No.179-2</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.shimohara.net/archives/2011/11/no179-2.html" />
    <id>tag:www.shimohara.net,2011://1.167</id>

    <published>2011-11-07T07:43:39Z</published>
    <updated>2011-11-07T07:46:43Z</updated>

    <summary> 日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2011年（平成23年）11月7日発行 文芸...</summary>
    <author>
        <name>下原敏彦</name>
        
    </author>
    
        <category term="下原ゼミ通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.shimohara.net/">
        <![CDATA[<p><br />
日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2011年（平成23年）11月7日発行</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．179<br />
ＢＵＮＧＥＩＫＥＮＫＹＵ　Ⅱ　ＳＨＩＭＯＨＡＲＡＺＥＭＩ　ＴＳＵＳＨＩＮ<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　編集発行人　下原敏彦<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
9／26　10／3　10／17　10/24　10／31　11／7　11／14　11／21　11／28　12／5　<br />
12／12　1／16　1／23<br />
　　<br />
2011年、読書と創作の旅</p>

<p>11・7下原ゼミ</p>

<p>11月7日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室</p>

<p>1．	通信179配布　出欠　連絡事項「前回ゼミ」報告</p>

<p>2.　ゼミ雑誌作成経過報告　　課題提出　　　司会進行指名<br />
　<br />
　3.　家族観察『にんじん』口演で「にんじん」家族解明に挑戦。</p>

<p>4.　模擬裁判「尾道誘拐事件」「太陽のせい殺人事件」など<br />
　　　　 </p>

<p>藝祭明けに藤原印刷と交渉</p>

<p>ゼミ誌『旅路報告』作成計画　12・12刊行を目指して順調<br />
　ゼミ誌『旅路報告』作成に見通し、と武田編集長報告。編集作業は、原稿提出で順風満帆とはいかなかった。が、現在まで12名の原稿が、出揃った。ゼミ誌はこの12名で刊行することに決定。藝祭明けには印刷会社と交渉に入る。作業に当たったのは、武田編集長を中心に、春日編集委員、杉山編集委員の3名。当初は、全員参加のゼミ誌づくりだったが、それぞれに予定がつかない2011年だったようだ。それだけに不安もあった。が、10・31の報告で締切日に納入できる可能性がより強くなった。ご苦労様です。<br />
モーパッサンの名作を読む<br />
　先週は、模擬裁判関連でモーパッサン（1850-1893）の短編『狂人』を読んだ。面白い短編作品を書ける小説家は世界広しといえど、そうはいない。サキ、Ｏ・ヘンリー、『猟人日記』のツルゲーネフ。チェーホフと枚挙はないが、人間の本質を簡潔に描くことや、物語のまとめのうまさにおいてモーパッサンに勝る作家はいない。文豪の作家活動は30歳から40歳までの、たったの10年間だが、そのあいだに360編にも及ぶ短編、中編を書いている。他に7巻の長編、3巻の旅行記、2作の戯曲、詩集1冊などがある。<br />
第二回　剃刀職人客殺人疑惑事件裁判、結審<br />
　第二回公判の「床屋客殺人疑惑事件」の模擬裁判は、先週、結審した。裁判は、休廷明けの弁護団の陳述からはじまった。無差別殺人として無期懲役を要求したのに対し弁護側は、職業上の過失致死として、執行猶予つき有罪刑を押し出して論戦した。結果、武田裁判長は、</p>]]>
        <![CDATA[<p>「よって、この事件は有罪とし、懲役6年とする」で結審した。<br />
「尾道幼女誘拐事件」を読む（テキスト『兒を盗む話』）<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．179――――――――　2　―――――――――――――</p>

<p>車中観察　</p>

<p>幼馴染と携帯<br />
杉山　知紗</p>

<p>向かいのホームに、懐かしい顔が見えた。小学校で別れたきりの友達だ。うんと長かった髪は短くなっていたのは、肩に掛けられたテニスバッグですぐに納得した。向こうはまだこちらに気付いてはいない。<br />
　彼女は携帯を両手で握り、難しい顔をしていた。昔からそんな表情をしばらくしていると唇が突き出て眉間にしわを寄せ始めるのが癖だったのだけれど、今でもそれは同じようだった。思わずくすりと来る笑いをごまかすように、つられて携帯を取り出した。何をするということはない。ただ携帯を言い訳に、何度か画面を通り越して彼女を見ていた。メールを待っているのか、何か問題でもあったのか。表情は変わらぬままで、唇はどんどん鋭くなる。<br />
　いずれどちらの電車もやって来た。結局彼女は一度もこちらを見ることはなかった。それが寂しくもあったけれど、気付いてもらう術なんていくらでもあったのにやらなかったのは私だ。胸を張って、あの頃の私より成長した自分を見せられる自信なんて、なかったのだ。携帯をポケットに戻して、車両に乗る。彼女も携帯から視線を離さずに乗るから危なかった。窓越しに吊革を掴もうとして一度空をつかむのまで見て、私はまた一人笑ってしまいながら席に座る。<br />
　やがて電車が動き出したとき、ようやく彼女は顔を上げた。こちらの車両を見てはいたが、目が合ったかどうかは分からない。しかし、密やかに笑っているように見えた。メールが来たか、解決したか。なんとなくほっとした私の携帯が震える。<br />
「久し振り　ぼんやりしてるとき口ぽかーんって開けているの　変わってないね　ばーか」<br />
　メールを読み終えて、はっと顔を上げても彼女がいるはずもなく景色が流れていくだけだ。私は何度かメールを読み直した後、返信を打つ。<br />
「久し振り　うるさいよ　あんたも眉間にしわ寄せたり唇突き出すのやめなよ　ばーか」<br />
　推敲のち、メールを送る。<br />
「久し振り　うるさいよ　あんたも唇突き出したりしておあいこだよ　ばーか」<br />
　そして、携帯をしまう。</p>

<p>□成長した幼友達、面と向かって声をかけるのは、どこか恥ずかしい。でも、メールはお互い昔のまま。ほろ苦くも懐かしい青春の一断面。そんな普遍の深層心理描写いいですね。</p>

<p>ある一日の記録　土壌館日誌<br />
秋季市民柔道大会の一日</p>

<p>　11月3日、秋季市民柔道大会が開催された。私の町は郊外の50万都市。柔道の競技者は子供から大人まで350人くらいか。土壌館は毎年参加している。が、今年は、練習生激減で少なかった。いまどきの子どもは野球、サッカーなどあって忙しいのだ。朝、8時、私鉄の駅で、保護者と行かない小学生二人を待つ。電車を乗り継いで会場の武道センターに8時40分に着く。監督の大学生は、先に来て待っていた。審判の師範代の先生も参加。<br />
9時30分大会がはじまった。総理になった野田さんは、市内の高校柔道部ＯＢということで、春の大会まで毎回、律義に顔をだしていたが、むろんもう来れないし、来ることはないだろう。秘書が挨拶した。試合結果は、小学一年女子一回戦敗退、四年生一人が敢闘賞、五年生敗退、キャプテン六年生欠場。中高生善戦で、土壌館に関係する選手の成績はメダル無しだが敢闘賞5だった。大会が終わったのは午後4時過ぎ。<br />
――――――――――――――――――　3　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．179</p>

<p>家族観察『にんじん』子ども時代の謎に口演で挑戦</p>

<p>　家族観察として名作『にんじん』のなかで「子ども時代」をほぼ読み終わった。だが、なにかすっきりしない。いったい、この作品は何なのだろう。隣近所には、幸福そうに見える「にんじん」一家。しかし、末息子の「にんじん」の手記による家庭観察は、母親の「にんじん」いじめに尽きる。つまり3人の子どものうち末っ子の「にんじん」だけに母親が辛くあたる、いわゆる児童虐待作品なのだ。しかし、妙なのは、そのことで「にんじん」は、へこたれたり悲しんだりしていない。「どうしてボクだけが」と悩むこともない。そればかりか「にんじん」の行動がこの作品を明るい面白いものにしている。<br />
　ジュナールの「にんじん」は世界的にも有名な作品ですが、この一家の謎は、いまだ解明<br />
されていない。劇にもなり人気を博した作品だが、依然として謎のままである。下原ゼミでは、読み合うことで謎解きに挑戦しているが、より真相に近づくために読み終えた作品を<br />
戯曲にしてみました。口演することによって、「にんじん」一家の謎が少しでも浮き彫りにできれば幸いである。（参加不足の場合一人2役で）Ｑ＆Ａでは印の説明をしてください。</p>

<p>登場人物　　5名　他1名（声）<br />
　<br />
末っ子にんじん　・・・・・・・・・・・・・・・・</p>

<p>母親ルピック夫人　・・・・・・・・・・・・・・・</p>

<p>父親ルピック氏　・・・・・・・・・・・・・・・・</p>

<p>兄フェリックス　・・・・・・・・・・・・・・・・</p>

<p>姉エルネスチーヌ　・・・・・・・・・・・・・・・</p>

<p>ナレーション　・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />
――　一幕　――<br />
ナレーション<br />
　夜の「にんじん」家の居間。兄のフェリックスと姉のエルネスチーヌはテーブルで本を読んでいる。にんじんは、テーブルの下で遊んでいる。ルピック夫人が入ってくる。</p>

<p>ルピック夫人　　きっとそうだわ、またオノリーヌはニワトリ小屋の戸を閉め忘れたんだわ。<br />
　　　　　　　　フェリックス、おまえ、戸を閉めてきてくれるかい？<br />
フェリックス　　（本を読んだまま）ぼくがここにいるのは、ニワトリの面倒をみるためじ<br />
ゃないよ。<br />
ルピック夫人　　だったらエルネスチーヌ、おまえどうだい？<br />
エルネスチーヌ　やだわ、お母さんたち、あたし、こわくって！</p>

<p>ナレーション　　二人とも、読書に夢中のふりをする。ルピック夫人は、困り顔でおろおろ<br />
するが、不意に妙案をえたのか手を打つてテーブルを見る。</p>

<p>ルピック夫人　　そうだったわ、あたしったら、なんて間が抜けてんだろう！なぜ気がつか<br />
なかったのかしら。にんじん、ニワトリ小屋を閉めにいっておいで！<br />
ナレーション<br />
（ルピック夫人は、末の子に「にんじん」という愛称をつけている。髪が赤く、顔はそばか<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．179――――――――　4　――――――――――――――</p>

<p>すだらけだったからだ）にんじんはテーブル下からおずおず顔をだす。</p>

<p>にんじん　　　　でも、お母さん、ぼくだってこわいよ。<br />
ルピック夫人　　なんですって　？　大きなくせに　！　冗談をいうんじゃないよ。さあ、<br />
早くおゆき！<br />
エルネスチーヌ　知ってるわよ、お羊みたいに大胆なくせに！<br />
フェリックス　　こいつには、こわいものなんかないさ。こわい人だっていないもの。</p>

<p>ナレーション　　おせじに、にんじんは得意になる。臆病な心と戦う。ルピック夫人は元気<br />
づけるために叱る。</p>

<p>ルピック夫人　　にんじん、行かないと平手打ちだよ！<br />
にんじん　　　　い、行くよ。だったら、あかりぐらいは照らしてね。<br />
ルピック夫人　　とんでもない。さ、早く行っといで。<br />
エルネスチーヌ　私、あかり持っていてあげる。</p>

<p>ナレーション　　彼女はついてきて廊下の端に立った。</p>

<p>エルネスチーヌ　ここで待っているわ。</p>

<p>ナレーション　　しかし、強い風があかりを消してしまうと、急に恐ろしくなって逃げる。<br />
不意に真っ暗になった庭をにんじんはへっぴりごしで歩いていった。</p>

<p>にんじん　　　　静かしろよ。 !　ぼくだだぜ！</p>

<p>ナレーション　　彼は戸を閉め、一目散で居間に逃げ帰ってくる。兄も姉も、素知らぬ顔で<br />
読書している。母親は、にんじんをみる。<br />
ルピック夫人　　にんじん、これからは毎晩、おまえが閉めに行くんだよ。</p>

<p>―――　二幕　―――<br />
Ｑ．一幕を観て、この一家をどう思ったか。</p>

<p>Ａ．①ふつうの家族　　　　　②なにか変</p>

<p>Ｑ．何か変なら、誰が</p>

<p>Ａ．①兄が　　　②姉が　　　③母親が</p>

<p>Ｑ．母親が変なら、彼女のどこが？</p>

<p>Ａ．①子どもを平等にみていない　　　②怒りっぽい性格が</p>

<p>Ｑ．にんじんは、これを書いて、何を言いたかったのか</p>

<p>Ａ．①損な役回りの自分　　②自分の勇気。　　③母親の専制<br />
　<br />
　③母親に嫌われているところをみせるため。　④たんに一家のある夜の風景</p>

<p><br />
――――――――――――――――――　5―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．179</p>

<p>Ｑ．「にんじん」について、どう思う　（『めんどり』のこの作品で）</p>

<p>Ａ．①へんな子ども　　　②ふつうの男の子　　　③かわいそうな子　　④嫌な子</p>

<p>―――　三幕　―――</p>

<p>ナレーション　　「にんじん」家の台所。父親のルピック氏、夫人、兄のフェリックス、姉<br />
のエルネスチーヌ一家総出で『しゃこ』の料理をはじめている。<br />
　　　　　　　　『しゃこ』（やまうずら）ルピック氏が今朝、猟に行って獲ってきた。<br />
　　　　　　　　　テーブルの上に獲物の二羽の『しゃこ』を袋からだす。二羽は手傷を<br />
うけただけで、まだ生きていて、バタバタしている。</p>

<p>ルピック夫人　　フェリックス、おまえは石盤に、獲物の数をお書き。エルネスチーヌは、<br />
羽むしりよ。「にんじん」おまえは、殺しの役目。しっかり殺しよ。今日<br />
の一番の特権だよ。<br />
にんじん　　　　（小声で）ぼく、いやだなあ・・・・</p>

<p>ナレーション　　「にんじん」は、嫌がりながらも、なぜこの役目をいいつけられたのか考<br />
える。そして、以下の結論に達す。自分が血も涙もない心の持ち主で、万<br />
人周知の冷酷さをもちあわせているからだ。<br />
しかし、やっぱり嫌だ。それでのろのろしている。</p>

<p>ルピック夫人　　なぜ早く殺（や）ってしまわないんだい？<br />
にんじん　　　　お母さん、ぼく、石盤書きのほうにしてほしいよ。<br />
ルピック夫人　　石盤はおまえには高すぎる。<br />
にんじん　　　　それなら羽むしりがしたいな。<br />
ルピック夫人　　それは男の子のすることじゃないよ。</p>

<p>ナレーション　　にんじんは2羽のしゃこを手にとる。</p>

<p>ルピック夫人　　ほら、そこで締めて。<br />
エルネスチーヌ　そう、頸のところを、羽を逆さにして―――。</p>

<p>ナレーション　　にんじんは二羽つかんではじめる。</p>

<p>ルピック氏　　　一ぺんに二羽か、驚いたやつだな！<br />
にんじん　　　　はやく片づけたいもの。<br />
ルピック夫人　　神経質ぶるんじゃないよ。心のなかじゃ楽しんでいるくせに。</p>

<p>ナレーション　　しゃこは、暴れる。ぜったいに死にたくないのだろう。にんじんは、手こ<br />
ずって、怒りだす。者この足をつかんで、靴で頭を蹴とばす。頭蓋骨が砕<br />
けてしゃこは動かなくなる。</p>

<p>フェリックス　　驚いたな！情け知らずめ！<br />
エルネスチーヌ　なさけ知らず！　情け知らず！<br />
ルピック夫人　　手際のいいつもりなのさ。ああ、かわいそうなもんだね。あたしがこんな<br />
ふうにかきむしられるんだったら、ああ、考えただけでもぞっとするよ。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・179　―――――――　6――――――――――――――――</p>

<p>ルピック氏　　とても見てはいられん。外の空気を吸ってくる。<br />
にんじん　　　終わったよ！<br />
ルピック夫人　これじゃ汚らしくってしょうがない。<br />
フェリックス　ほんとうだ、いつもよりうまくできなかったな。</p>

<p>なんとも、そうぞうしい「にんじん」家の台所風景だが、ここでみえるものは何か。</p>

<p>Ｑ．この作品の感想</p>

<p>Ａ．①ひどい家族　　　②普通の家族　　　③腹の立つ家族</p>

<p>Ｑ．ひどい話なら、どんなところが</p>

<p>Ａ．①殺し屋をにんじんに押し付け親　　　②にんじんの殺し方</p>

<p>Ｑ．殺し屋の役目は不当か</p>

<p>Ａ．①不当でない　　　②不当だ　　　　②べつに問題ない</p>

<p>Ｑ．不当でないなら、その理由は</p>

<p>Ａ．①にんじんしかできないから　　②石盤書きと羽むしりは無理だから</p>

<p>Ｑ．「しゃこ」の状況なら、あなたはどんな役目</p>

<p>Ａ．①早くらくにしてやりたいので殺し屋　　②石盤書きが楽なので石盤（つまらない仕事）</p>

<p>　　③羽むしり（これも、すぐあきるしごと）　</p>

<p>　一見、「にんじん」だけが損な役回りにみえるが、兄も姉もほんとうはやりたくて仕方がない。でも、怖いのと臆病で、できない。そんな推察もできます。</p>

<p>――　四幕　――</p>

<p>ナレーション　　裏の畑で、兄のフェリックスとにんじんがつるはしを使って畑仕事をして<br />
いた。二人は近過ぎた。兄が振り下ろしたつるはしの先がにんじんのひた<br />
いを一撃した。血が吹き出たのをみて気の弱い兄は、気絶した。部屋に運<br />
び込まれ大騒ぎとなる。ペットに寝込んだフェリックスをルピック氏、ル<br />
ピック夫人、姉のエルネスチーヌが心配そうにのぞきこんでいる。額の傷<br />
を布でまいた「にんじん」も皆の後ろからのぞきこんでいる。</p>

<p>ルピック氏　　　塩はどこだ。<br />
ルピック夫人　　よく冷えた水を少しおくれ、このこめかみを冷やしてやらなきゃあ。<br />
ルピック氏　　　（振り向いてにんじんに）えらい目にあったなあ。<br />
エルネスチーヌ　バターをくり抜いたみたいだわ。きずのところ。<br />
ルピック夫人　　おまえ、注意できなかったのかい。バカな子だね。</p>

<p>Ｑ．皆が「にんじん」の傷を心配しないのは、なぜ？ </p>

<p>Ａ．①にんじんは肉体的・精神的に強いから　　　②潜在的に嫌われているから<br />
――――――――――――――――――　7　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．179</p>

<p>Ｑ．この話の感想</p>

<p>Ａ．①にんじんがかわいそう　　　　②ユーモア話　　　　　③よくある家族の話</p>

<p>――　五幕　――</p>

<p>ナレーション　　朝のにんじんの部屋。にんじんはベッドで朝寝坊している。ルピック夫人<br />
が入ってくる。鼻をくんくんさせる。</p>

<p>ルピック夫人　　なんて変な臭いがするんだろうね！<br />
にんじん　　　　（起きて）お早う、お母さん。<br />
ルピック夫人　　ちょっとおみせ！<br />
ナレーション　　ルピック夫人、にんじんのベッドからシーツをはぎとり、臭いをかぐ。<br />
にんじん　　　　ぼく、病気だったんだよ。尿瓶がなかったんだもの。</p>

<p>ナレーション　　にんじんは、こういうのがおねしょをしたときのいちばんの言いわけだと<br />
思った。が、図星だった。ほんとうになかったのだ。用意するルピック夫<br />
人が忘れたのだ。</p>

<p>ルピック夫人　　嘘つきもの！嘘つき。</p>

<p>ナレーション　　ルピック夫人、あわてて部屋を飛び出していって尿瓶を隠しもってくると<br />
ベッドの下にすべりこませる。そして、にんじんにピンタをくらわせる。</p>

<p>ルピック夫人　　みんな、起きといで。こんな子どもをもつなんて、いったい、なんの巡り<br />
合わせだろう？</p>

<p>にんじん　　　　お母さん、ぼくベッドでスープ飲んでいい。<br />
ルピック夫人　　（怒りを押えて）しょうがないねえ、まったアホなこだよ。</p>

<p>ナレーション　　ルピック夫人はスープわ持ってくると、おねしょのシーツのところに行っ<br />
て、すくってスープ椀に入れる。それをにんじんに飲ませる。</p>

<p>ルピック夫人　　ああ汚らしい、おまえは食べたんだよ、ほんとにたべたんだよ。それもじ<br />
ぶんのやつをね。昨夜のやつをさ。<br />
にんじん　　　　そんなことだと思っていたよ。</p>

<p>Ｑ．母親は、なぜ尿瓶を忘れたことを話さないのか。</p>

<p>Ａ．①おねしょを叱るのに示しがつかないから　　②忘れたのが恥ずかしいから</p>

<p>Ｑ．にんじんはおねしょをほんとうに飲ませられたように書いているが。</p>

<p>Ａ．①おねしょおおすための方便　　　②ほんとうに飲ませた　　　</p>

<p>Ｑ．母親の行為をどう思うか</p>

<p>Ａ．①異常だ　　　②おねしょをなおすためには仕方がない　<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・179――――――――　8――――――――――――――――</p>

<p>志賀直哉『兒を盗む話』初出　大正3年4月『白樺』</p>

<p>　先週、犯罪心理観察としてテキスト『兒を盗む話』を読みました。授業では、この作品を「尾道幼女誘拐事件」として模擬裁判にします。<br />
文芸研究なので専門の法律知識に囚われないで自由に、自分自身の感性で考えください。狙いは、現在実施されている裁判員制度を知ることと、想像力を高める為です。一時に、容疑者になり、捜査官にもなり、検察官、裁判官、弁護士、証人にもなります。</p>

<p>尾道幼女誘拐事件</p>

<p>尾道署管轄　広島地裁取扱い事件</p>

<p>尾道署は、三日前届け出のあった幼女失踪に関して、民間機関と協力して捜査をつづけていたが、本日、午後三時、失踪していた幼女を尾道市内において無事保護した。幼女は、東京からきた無職男に軟禁されていた。よって本件は「尾道幼女誘拐事件」とし、一緒にいた男を逮捕した。容疑者は、ただちに管轄所内の取調室に連行された。</p>

<p>容疑者の目的は何か</p>

<p>本犯罪の目的は何か。幼女誘拐から、猥褻目的が第一にあげられる。第二に、寂しかったから。第三の営利目的は、幼女の家庭環境から考えにくい。まず、尾道署の最初の取り調べでは、男は、このように述べた。（草稿より）</p>

<p>【幼女誘拐事件・被告人の自白調書】<br />
　<br />
　私は五つになるその女の子を盗んだ。しかし三日目にもうあらわれて、巡査が二人と探偵らしき男が一人と、その後ろに色の浅黒い肉のしまった四十ばかりのその子の母親と、これだけが前の急な坂を登ってくるのを見たときには私は、苦笑した。そして赤面した。<br />
　が、私はちょっと迷った。やはりできるだけの抵抗はやってみろ。いまもし素直に渡してしまうくらいなら最初からこんなことはしなくてもよかった。こう思うと急いで部屋の隅の行李（こうり）からから出刃包丁をだして、それを逆手ににぎって部屋の中に立った。そのとき女の子は次の三畳間でぐっすり寝込んでいた。<br />
　しかし私は結局、出刃包丁を振り回すことはしえなかった。その気になれない。実際それほどの感情は出刃包丁をだすときから自分にはなかったのである。そして私は尋常に縄にかかった。女の子はそのまま母親に連れられていった。<br />
　警察署での訊問は簡単だった。私はその女の子がどんなことを申し立てたか聞きたかったが、これは知ることができなかった。<br />
　翌日、私はそこから汽車で3時間ばかりかかる県庁所在地の地方裁判所へ回された。それから3日目に私は法廷へ引き出された。そのときは私の経歴でも、仕事でも、また血統でももう大概向かうで調べてしまったらしかった。その結果は裁判官は、私は気違いと鑑定したらしかった。私は、初めの調べと一緒に健康診断を受けることになっていた。審問に対しては私は、なるべく簡単な答えで済まそうと務めた。<br />
　裁判官は、繰り返し繰り返し私の盗んだ目的を聞いたが、私は同じこときり答えなかった。<br />
「可愛く思ったからです。貰（もら）いたいといっても、もらえないと思ったからです」といった。<br />
　若い医者も色々と聞いた。私は聞かれることだけにただ簡単な返事をした。<br />
――――――――――――――――――　9　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．179</p>

<p><br />
　医者は、気違いではないといった。ただよほど烈しい神経衰弱にかかっていると報告した。<br />
「烈しい神経衰弱というものが、こんな非常識なことをさせるものですか」と裁判官が聞いた。<br />
「もちろん、いくらもあることです」<br />
　こういう二人の問答からも、またいったいに裁判官や医者やその他の人々までも私に好意を持っているということが感じられた。少なくも普通の罪人に対するとはよほど変わった心持で調べているということがわかった。事件そのものに露骨な目的を持っていないこと、私にまったく悪びれた様子のないこと、それらが皆に好意を持たしたらしかった。<br />
　私は裁判の結果を想像した。私は法律のことは知らなかった。しかしよく新聞などで見る示談とか、刑の執行猶予とか、そんなことだろうと思った。<br />
　東京からは誰が来るか。父が来るか、叔父が来るか、それとも友達が来てくれるか。誰にしろ、この結果はきっと、そんなことにしてくれるだろうと思った。私はにぎっていた出刃包丁をついに振り回す気になれなかったように、この出来事もそれだけの結果で終わるだろうと思うと、罪せられるのを望むのではないが呆気ない気がした。<br />
　東京を出る二ヶ月ほど前のことだった。私は私の最も親しい友達の一人と仲たがいをした。同時に私はある若い美しい女を恋した。<br />
　初めてその女と会って1時間しないうちに私は珍しく何年ぶりで、甘ったるい恋するような心持になってきた。それは女が私に好意を持っていると思い込んだのも一つの力だった。<br />
その席には親しい友達が3人いた。なかでも一番仲のよかった一人が、私のその心持を見ぬくことから、快くない気持の上の悪戯を私に仕掛けた。私はそれでその友に腹を立った。　　　その女を恋する心持とその友を憎む心持とが私の胸で燃えあがった。たんちょうな日を続けていた私にはそれがいい心持だった。<br />
　私は三四日して一人でその女に会いに出かけた。私はそのとき美しいイリュージョン（幻影）を作っていった。ところがそれはその場で1時間しないうちに見事に打ち崩されてし<br />
まった。苦しいが涼しいような快感があった。<br />
　私は間もなくまた別の美しい女に出合った。美しい肉体をしてコケティツシな表情を持った女だった。ソーダー水に氷を入れて、それを電燈に透かしながら振ると風鈴のようないい音がする。女はそんなことをしながら度々それへ美しい唇をつける。そして仕舞いに飲み干す。で、酔えばいっそう美しくなった。襟から頬へかけていっそうに白くなった。それよりも眼が美しくなった。唇もいい色になる。だんだん調子が浮気っぽくなる。これも人を惹きつけた。<br />
　私はこの女をとても補足しがたい奴と一人決めていた。私は三四度続けてあった。すると、案外補足しがたいという気がしなくなった。しかし結局は前の女でしたことを再びこの女で繰り返したに過ぎなかった。私はまた単調な生活に帰ってしまった。もう仲たがいした友達に対してもそれほどの怒りは感じられなくなった。何となくいらいらしながら物足らない心持で一日一日を無為に過ごしていた。（以下完成作品冒頭に続く）</p>

<p>（発表時の末尾）<br />
　翌朝ぼんやりと障子の硝子越しに前の景色を見ている時だった。巡査や女の子の母親が前の坂道をこの方を見い見い登ってきた。母親は興奮からか恐ろしい顔をしていた。私には逃げようという気は少しも起こらなかった。私は赤面した。そして苦笑した。私はしまいまで進ませた出来事を途中で笑い出すようなことはことはしたくないと思った。私は出刃包丁を持ち出した。しかし、かって人の顔（あるいは犬でも馬でも）を真正面から殴った経験のない私には出刃包丁を逆手ににぎったものの、それで身がまえする気にはなれなかった。私は恐ろしく平凡な姿勢で出刃を持ったまま突立っていた。<br />
　母親と女の子は抱き合って泣いた。母親は泣きながら激しく私を罵った。私は黙って立っ<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・179――――――――　10――――――――――――――――</p>

<p>ていた。母親は娘を抱いたまま私の後ろにへきて、私の背中をドンと強く突いた。巡査がしきりとそれをなだめた。<br />
　私は警察へ曳かれた。それからの経験は総て初めての経験であるが、私は学校時代に何かでこんな経験をしたような気がした。<br />
　　<br />
　私には気違いじみた気分は少しもない。しかし裁判官がそれに近いものと解しようとするのを反対する気はない。<br />
　私は多分近日許されてここをでるだろうと思う。それから私はどこへ行こう？やはり東京へ帰るより仕方がなさそうだ。もうあの町に行くこしはできない。東京へ帰らないとすれば、どうするだろう。私はまた同じような生活に落ちていかなければ幸せである。もし同じ生活が繰り返ってくれば私は今度は、更に容易に同じようなことを起こし兼ねないという気がするから・・・・・・・・女の子はどうしているだろう？</p>

<p>以上が、逮捕後、犯人が話した事件の動機・事件の推移・事件の顛末である。</p>

<p>【告訴・簡単な事件のあらまし】<br />
　<br />
　男が寂しさから通いつけの按摩の幼女を、買物途中の母親の目を盗み、言葉巧みに誘拐し、二日間連れ回したり、自宅に監禁した。幼女が帰りたいと泣いても無視した。動機不明。猥褻か、身代金目的、一時的な神経衰弱が考えられる。</p>

<p>課　題　次の事件について、検察の陳述と弁護側の弁論、裁判員の量刑を</p>

<p>「太陽せい」殺人事件模擬裁判（カミュ『異邦人』）</p>

<p>アルベエル・カミュ年譜</p>

<p>・1913年、アルジェリアに生まれる。労働者の家庭。父親は、早くに亡くなる。<br />
・1936年、アルジェ市の国立大学哲学科を卒業。文学と演劇を目指して各種職業を。<br />
・1940年、「パリ・ソワール」紙の記者としてパリに。ナチドイツの占領下に。アルジェに<br />
　　　　　　逃れ、私立学校の教師をしながら文学活動。<br />
・1942年、『異邦人』が刊行。一躍文壇の第一線に。<br />
・1960年、自動車事故で急逝。47歳。</p>

<p>『異邦人』について</p>

<p>　この作品は、評論集『結婚』や『表と裏』と共に、カミュのアルジェ期を形造る作品である。ここには、存在の「根源的不条理」とそれにも拘わらぬ「生への信仰」という二つのテーマが、フィナーレの主人公の絶叫へ向かって、次第に力強く盛り上げられる。主人公のあらゆる行為が、カメラという非情な眼と、極度に乾燥した文体とに描き出されていることにおいて、30年代の小説家(例えばモリャック)と異なり「不条理」の認識が、にも拘わらず「生への信仰」をともなうところに、『嘔吐』のサルトルと相隔たる。カミュにとって「生への絶望なしに、生への愛はありえない」と同時に「精神性がモラールを追放し、希望の全くの欠如から幸福が生まれ、精神が自らの理由を肉体のうちに認める瞬間にこそ、至上の智慧が在する」のだから。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　1954月8月　訳者・窪田啓作</p>

<p>――――――――――――――――――　11　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．179</p>

<p>ＨＰ見本「竹取り物語」　　ホームページにあった模擬裁判です。</p>

<p>こちらは、子供のいない老夫婦が、竹ヤブで見つけた赤ん坊を勝手に家に連れて帰り自分の子どもとして育てた事例です。模擬裁判で判決を出してください。</p>

<p>老夫婦赤ん坊誘拐事件模擬裁判</p>

<p>【事件概要】</p>

<p>2011年5月10日、所沢市内在住の若夫婦は、長女「お玉」ちゃん（生後3カ月）を連れたピクニックに出かけた。夫婦は、秩父山麓の竹ヤブ付近で、休憩した。が、夫婦がちょつと目を離した隙に赤ん坊がいなくなった。二時間後、夫婦は秩父署に捜索願を提出した。秩父署は、地元消防団と管轄署員300名で、付近一帯を捜査した。が、発見できなかった。秩父署は、誘拐事件も視野に引き続き捜査を行うとともにビラを配布、情報収集にあたった。が、赤ちゃんの行方はようとして不明だった。8月15日、「近所の老夫婦の家に見慣れない赤ん坊がいる」との通報があり、捜査員が出向いて尋ねると、不明の赤ちゃんと判明した。<br />
老夫婦の夫（80）は、５月10日、タケノコ採りに山に行った。竹ヤブに赤ん坊がいたので捨て子と思い連れ帰った。が、赤ん坊があまりにもかわいかったので、妻タケ（78）と相談して育てることにした。</p>

<p>この事件、老夫婦の罪は裁判ではどうなるか？</p>

<p>例・有罪の場合<br />
被告　竹取の爺さんとその妻の婆さん<br />
被告は幼女を竹やぶで発見し、そのまま３ヶ月に渡り自分の子供として育てた疑いがある。<br />
これは、未成年者略取及び誘拐罪（刑法224条）に該当する。<br />
よって、竹取の爺さん被告を<br />
「懲役3年」 <br />
婆さん被告を<br />
「懲役２年に処する」</p>

<p>例・無罪主張の場合の弁護<br />
略取（りゃくしゅ）とは、暴行、脅迫その他強制的手段を用いて、相手方を、その意思に反して従前の生活環境から離脱させ、自己又は第三者の支配下に置くことをいう。誘拐（ゆうかい）とは偽計・誘惑などの間接的な手段を用いて、相手方を従前の生活環境から離脱させ、自己又は第三者の支配下に置くことをいう。<br />
竹やぶの翁の行動は明らかに<br />
「暴行、脅迫その他強制的手段を用いて、相手方を、その意思に反して従前の生活環境から離脱させ、自己又は第三者の支配下に置くこと」にも「誘拐（ゆうかい）とは偽計・誘惑などの間接的な手段を用いて、相手方を従前の生活環境から離脱させ、自己又は第三者の支配下に置くこと」にも当たらないため「未成年者略取及び誘拐罪」を適用するのは難しいと思われる。<br />
「自分たちの子供として育てることにした」という記述も見られるため養子縁組を行ったものと思われる。よって無罪！</p>

<p><br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・179――――――――　12――――――――――――――――</p>

<p>ゼミ雑誌『旅路報告』作成経過</p>

<p>ゼミ誌は、ゼミ一年間の成果の証です。全員で協力して完成させましょう。<br />
ゼミ誌は、目下ゼミ雑誌編集長・武田結香子さんのもと春日菜花さん、杉山知紗さんらの協力で入稿の段階まですすんでいます。　　</p>

<p>Ⅰ　ゼミ雑誌作成進行の軌跡<br />
　　　 5月25日　ゼミ誌ガイダンス　武田編集長<br />
5月29日　武田編集長より提案。自由創作も視野に<br />
6月　６日　モチーフ『日常』、内容＝課題・自由創作　頁300（一人20枚）<br />
　　　　　　業者＝藤原印刷　写真・図案は無し<br />
6月13日　ゼミ誌内容欠席者にメール、5名返信、武田報告<br />
6月20日　題、レイアウトについて　<br />
6月27日　題公募<br />
7月　4日　題「旅路報告」に決定<br />
10月　3日　表紙デザイン決定<br />
10月17日　自由創作希望者7名　提出5名<br />
10月24日　原稿締め切り　12名提出　1名無し<br />
10月31日　12名の原稿打ちとレイアウト<br />
11月　7日</p>

<p>Ⅱ.　ゼミ雑誌の納付日は、2011年12月12日です。厳守のこと。<br />
　　【ゼミ雑誌発行申請書】【②見積書】【③請求書】</p>

<p>Ⅲ.今後の作成手順</p>

<p>1.　印刷会社・藤原印刷と交渉と入稿。レイアウトや装丁は、相談しながらすすめる。<br />
2.【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。<br />
3.　雑誌が刊行されたら、12月12日出版編集室に見本を提出。<br />
8.　印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。</p>

<p>祝・杉山さんの作品第10回江古田文学賞を受賞　！！<br />
10月15日に開かれた最終審査で、杉山知紗さん作『へびとむらい』が見事選出されました。おめでとうございます。<br />
　受賞作品は、こんど刊行される『江古田文学　78』に掲載される。<br />
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />
編集室便り<br />
　　住所〒274-0825　船橋市前原西6-1-12-816　下原方<br />
　　メール：　TEL・ＦＡＸ：047-475-1582　 toshihiko@shimohara.net<br />
提出原稿は、メール、ＦＡＸでも受け付けます。(送信でもらえると二度手間と間違い打ちがなくなるので助かります)<br />
ゼミ評価は、以下を基本とします。<br />
出席日数　＋　課題提出（ゼミ誌原稿）＋α　＝　100～60点（Ｓ，Ａ，Ｂ，Ｃ）</p>

<p><br />
テキスト・志賀直哉『兒を盗む話』</p>

<p>尾道幼女誘拐事件<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　名前<br />
【被告の家族の証言】</p>

<p>父親の証言</p>

<p></p>

<p></p>

<p>母親の証言</p>

<p></p>

<p></p>

<p>妹の証言</p>

<p></p>

<p>【知人・友人の証言】</p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
判決とその理由（主文）</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>老夫婦赤ちゃん誘拐事件模擬裁判</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　名前<br />
【事件概要】</p>

<p>2011年5月10日、所沢市内在住の若夫婦は、長女「お玉」ちゃん（生後3カ月）を連れたピクニックに出かけた。夫婦は、秩父山麓の竹ヤブ付近で、休憩した。が、夫婦がちょつと目を離した隙に赤ん坊がいなくなった。二時間後、夫婦は秩父署に捜索願を提出した。秩父署は、地元消防団と管轄署員300名で、付近一帯を捜査した。が、発見できなかった。秩父署は、誘拐事件も視野に引き続き捜査を行うとともにビラを配布、情報収集にあたった。が、赤ちゃんの行方はようとして不明だった。8月15日、「近所の老夫婦の家に見慣れない赤ん坊がいる」との通報があり、捜査員が出向いて尋ねると、不明の赤ちゃんと判明した。<br />
老夫婦の夫（80）は、５月10日、タケノコ採りに山に行った。竹ヤブに赤ん坊がいたので捨て子と思い連れ帰った。が、赤ん坊があまりにもかわいかったので、妻タケ（78）と相談して育てることにした。</p>

<p>起訴状（どんな罪で）</p>

<p></p>

<p></p>

<p>検察陳述　</p>

<p></p>

<p></p>

<p>検察の求刑は</p>

<p></p>

<p>弁護側の弁論（無罪を主張）</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>【裁判員としての私見】自分が裁判員だったらを考えて</p>

<p></p>

<p></p>

<p>ノンフィクション劇場　　おんぼろ町道場奮戦記</p>

<p>土壌館物語</p>

<p>平成十年（1998）一月十五日の早朝、私は目を覚ますとすぐに窓を開けた。昨夜、テレビの天気予報は関東地方に大雪注意報をだしていた。はたして団地の五階から見る外の風景は、白一色の雪景色だった。昨夜のうちから降り出したのか、相当に積っていた。そうして雪は、いまも視界がきかぬほど、降りしきっていた。牡丹雪だった。<br />
まずい道場がつぶれる！私は、急いで、ジャンパーを引っ掛け、家を出ると、団地の階段を駆け下りて雪の中に飛び出していった。<br />
道場は、我が家から自転車で、七、八分、徒歩で十数分の距離の所にあった。いつもは自転車だが、このときは、雪が二十㌢近く積もっていたので歩いて行く他なかった。休日の早朝で、しかも大雪ときている。住宅街は、無人の街のように静かだった。ただ雪だけが、あとからあとから降っていた。コウモリ傘は、すぐに重くなった。私は、払いながら進んだ。こんなに降っていては、もう道場はつぶれているのかも知れない。そんな不吉な予感に襲われた。が、歩を速めても雪のせいで思うようにすすめなかった。私は、もどかしい気持ちで歩いていった。角を曲がると道場が見えた。民家の間にある見るからにみすぼらしい木造平屋建ての道場は降りしきる雪のなかに懸命に建っていた。大丈夫だった。私は、ひとまずほっとした。が、すぐに、つぶれるのは時間の問題か、と思った。トタン屋根に降り積もった雪の重みで、道場全体が歪んでいたのだ。<br />
道場に入ると、降雪被害は一目瞭然だった。天井は、あちこちが破れ、雪解けの水がそこかしこに滴り落ちていた。壁のベニヤ板は膨らんだり、ねじれたりして、あちこちが破損し、そこから雪が吹きこんでいた。まるで廃屋のような道場内の光景に私は慄然となった。<br />
これ以上積もったら、確実に道場はつぶれる。なんとかしなければ。そんな危機意識に煽られたが、焦燥するばかりで実際は、何をすればよいのかわからなかった。私は、玄関の土間に茫然自失となって立ちつくした。<br />
とにかく屋根の雪を下ろさなくては。私は、のろのろと行動を起こした。隣家の庭に入らせてもらい、そこからはしごをかけて上った。ゆるやかな傾斜の屋根には、すでに相当に雪が積もっていた。早くなんとかしなければ。私は気が急いた。が、屋根にあがるわけにはいかない。せめてひさしの辺りの雪でも、と、物干し竿で作った雪かきで雪を書き落とした。だが、後から後から降り続く雪に、まったく無駄な抵抗のように思えた。しかし、私にできる対策は、雪下ろしをすることしかなかった。<br />
雪はかいもかいても後から後から降り積もった。軍手の中の手は感覚なかったが、私は雪下ろしの手を休めなかった。どれだけ過ぎたろうか。<br />
「父さん」<br />
不意に下で呼ぶ声がした。見下ろすと息子の良太が立っていた。<br />
「おう、手伝いにきたのか」<br />
私は、うれしかった。二人でやれば、だいぶ雪が下ろせるかも知れない。「交代でやればなんとかなる」私は喜んでたずねた。<br />
が、息子の返事は<br />
「母さんが、やめろと言ってた」だった。<br />
「バカいえ！」私は怒鳴った。「はしごを抑えてろ」<br />
「ほんとに、母さんが危ないからって・・・」<br />
良太は、そう言いながらも渋々、はしごを押さえた。<br />
私は、屋根の雪をかきつづけた。手が疲れてくると私がおりて、良太が昇って雪をかいた。しばらくして、私は今日は、息子にとって重大な日だったことに気がついた。大雪騒動ですっかり忘れていた。<br />
「今日は、成人式じゃないか　！」私は、大声で叫んだ。<br />
「そうなんだけど・・・」<br />
「もういいお前は行け」と良太をかえした。<br />
「おれ、もう知らないからな」良太はそう言い残して雪の中を帰っていった。<br />
市民ホールかどこかの箱物で開く成人式に出席するらしかった。<br />
　一人になった私は、はしごをのぼっていってなおも屋根の雪をおろしつづけた。雪は、容赦なく降り続いていた。周囲が見えなかった。もう道場は潰れるしかない。<br />
わたしは半ばあきらめながらも、それでも雪を掻きつづけた。手がかじかんできた。頭がぼんやりしてきた。降りしきる雪のなかでこの道場にはじめて来たときのことや引き継ぐことになった今日までのことが次々と思い出された。</p>

<p><br />
息子の入門</p>

<p>良太が小学一年生になった日。入学式が終った後、家族全員で道場に行った。二年前、<br />
東京の品川から越してきた。散歩しているとき偶然、通った住宅街の道筋に柔道の道場を見つけた。トタン屋根の掘立小屋が、住宅街の民家の間に建っていた。<br />
「講道館柔道練習所」「望月道場」古びた二つの板看板がかかっていた。こんなところにオンボロながら柔道の町道場がある。いまどき町道場は珍しい。生徒募集の貼り紙があった。「ここに通ってみるか」と、良太に聞くと「うん」と頷いた。そんなことで、小学校に入ったら入門させることにしていた。<br />
道場主の家は近くにあった。訪ねてみると、お婆さんが出てきた。道場主の母親だろう、と想像しながら用件をつげると彼女は家の中に向かって<br />
「先生、先生」<br />
と、呼んだ。<br />
　ごそっと物音がして、小柄のご老人がでてきた。白髪で、耳がやけに大きい。こちらも多分、道場主の父親かなにかだろうと思っていると、老人は、大きな目でじろりと見ると言った。<br />
「入門ですか」<br />
　そのとき望月由太郎先生は、すでに七十七歳であった。柔道をおしえられるだろうか。そんな心配がよぎった。はたして、その心配は的中した。<br />
　私は良太を送っいったとき、ときどき外から練習を見物した。そのころ十人くらいの子どもが習いにきていた。私の他に二三人の子の親が迎えがてら見にきていた。<br />
望月先生の教えかたは厳しかった。礼儀もうるさく注意していた。そのころ生徒は小学生だけであった。子どもたちは先生の前では緊張しているようにみえた。見学の親たちも「やはり礼儀がよくなっていいです」と話し合っていた。が、しばらくしてあることに気がついた。子どもたちの態度のよさは表面上だけだった。望月先生がちょっとでも目を離すと、一気にたががはずれたようにふざけあっていた。これもかれも先生がお年で、体で柔道を教えていないせいと思われた。「やっぱり、じかに指導</p>

<p>してくれる人がいないと無理だねえ」<br />
迎えにきた親たちとこんな会話をかわすようになった。<br />
　私は、柔道経験はあったが、そのころは、もう柔道は卒業した。柔道着を着ることはないと思っていた。が、稽古に熱が入らない子どもたちをみているうちに、私も一緒にやってみようという気持ちになった。大人が一緒にやれば子どもたちもやる気になるのではないか。息子のためにも、自分の健康のためにも、やってみようと思った。<br />
　私は、押し入れから柔道着を引っぱり出し道場に入っていった。<br />
道場で、私が一緒に受身をはじめると、子どもたちは、大喜びした。大人が一緒に練習をするのが、よほどうれしかったようだ。私が昔取った杵柄で、回り受身や、飛び込み受身をやってみせると驚いた。道場主の望月先生からは、これからもやってくれるよう頼まれた。その頃、私はフリーライター開店休業中だったので、引き受けることにした。<br />
　次の日から、私はボランティアで子どもたちの指導をすることになった。昭和五十九年五月のことであった。</p>

<p><br />
心もとない柔道歴</p>

<p>　いらぬ節介から、柔道の町道場で師範代としてボランティアをはじめることになった私だが、私の柔道歴は、心もとないものだった。<br />
　私の柔道歴は、およそこんなところである。<br />
一九六五年四月に神奈川県藤沢市にある石井道場に入門。これが、私の柔道経験<br />
のはじまりだった。十八歳のときである。同じ年、東京世田谷にある日大農獣医学部柔道部に入部。一番最初の試合は、水道橋にある経済学部道場で行われた学部対抗試合で歯学部四年生と当り、寝技で一本負けした。最初の勝ち試合は野方にある警察学校との試合で背負いでの一本勝ち、と記憶している。大学で稽古する傍ら、バイト先の毎日新聞社の柔道クラブに所属、丸の内警察の道場にも通っていた。大学三年の夏、学園紛争で、校舎は閉鎖された。授業がなくて学生たちは困ったが、運動部の学生たちも困った。暇になった。<br />
私は、柔道着ひとつ持って日本をとびだした。いろんな国の道場をまわりながら柔道が盛んなフランスまで、行ってみようという計画だった。オランダのヘーシンクの道場で柔道ができれば。途中、国に帰って道場を開くというスイス人の青年と一緒だった。カンボジアのプノンペンに講道館から派遣されていた柔道家がいた。警察、軍隊、フランス人相手に柔道を教えていた。Ｏ・Ｔ先生は、たった一人で外地にいたこともあって、私が現れたことを大層喜んでくれた。柔道はめっぽう強かったが、大酒飲みが玉に傷であった。メコンの河岸にあるダンスホールで酔って大暴れして、何人もの警官を投げ込んだという武勇伝をもつていた。夕方になるとＯ先生の運転するバイクの後ろに乗って、各道場を回った。日本人はめずらしいので、休む暇ないくらい稽古をした。私はずっとプノンペンに留まってもよいと思ったが、一九七０年のクーデター騒ぎで出国した。帰国したあと、再度プノンペン入りを窺がっていたが、内乱は広がるばかりで、結局は断念することになった。その後、私は、業界紙記者になったが、週に何日か講道館で汗をかいた。業界紙記者を辞めたとき、柔道とも縁を切った。それが、息子が小学校に入学して、再び柔道をはじめることにしたのである。なんとも心もとない柔道歴だが、これも因縁である。<br />
私を支えていたのは、柔道の創始者嘉納治五郎の柔道理念だった。　　　つづく</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>文芸研究Ⅱ　下原ゼミ通信No.178</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.shimohara.net/archives/2011/10/no178.html" />
    <id>tag:www.shimohara.net,2011://1.166</id>

    <published>2011-10-31T06:18:36Z</published>
    <updated>2011-10-31T06:20:10Z</updated>

    <summary> 日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2011年（平成23年）10月31日発行 文...</summary>
    <author>
        <name>下原敏彦</name>
        
    </author>
    
        <category term="下原ゼミ通信" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.shimohara.net/">
        <![CDATA[<p><br />
日本大学芸術学部文芸学科　　　　　2011年（平成23年）10月31日発行</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．178<br />
ＢＵＮＧＥＩＫＥＮＫＹＵ　Ⅱ　ＳＨＩＭＯＨＡＲＡＺＥＭＩ　ＴＳＵＳＨＩＮ<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　編集発行人　下原敏彦<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
9／26　10／3　10／17　10/24　10／31　11／7　11／14　11／21　11／28　12／5　<br />
12／12　1／16　1／23<br />
　　<br />
2011年、読書と創作の旅</p>

<p>10・31下原ゼミ</p>

<p>10月31日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室</p>

<p>1．	通信177配布　出欠　連絡事項「前回ゼミについて」　司会指名</p>

<p>2.　ゼミ雑誌作成報告　原稿提出状況　名作『狂人』モーパッサン<br />
　<br />
　3.「剃刀職人殺人疑惑事件」模擬裁判　休廷明けから開始</p>

<p>4.　テキスト読み『兒を盗む話』　事件概要と「犯人の調書」書き<br />
　　　　 </p>

<p>10・24ゼミ誌原稿締め切り　！</p>

<p>ゼミ誌『旅路報告』創作・課題で構成　200頁弱の雑誌か</p>

<p>　今年のゼミ成果であるゼミ誌作成は、原稿締め切りを9月26日から最大限に延期してきたが、およその見通しがついたことから武田編集長は、10月24日を最終締切日に決定した。<br />
　ゼミ誌は、自由創作と併せて課題の「車内観察」「一日の記録」から構成される。現在の状況は、12名の原稿は整っているが、残り1名が依然として不明である。他に自由創作が1名未提出となっている。が、今後の作成手順から、24日を最終締切とした。<br />
　ゼミ誌概要は、以下の通り<br />
サイズ　→　文庫本　　　　内容　→　自由創作　課題（車内観察・一日の記録）<br />
題名　　→　『旅路報告』　表紙デザイン　→　春日菜花<br />
頁数　→　約150頁　字数12000字程度<br />
今後の手順　芸祭（11・3）前までに印刷会社（藤原印刷）と交渉、11月末までに校正を終え、入稿する予定。12月11日までに刊行。12日、納品。</p>

<p>　武田編集長は、以上の手順で進める予定でいます。校正や交渉など多忙になります。杉山知紗・春日菜花編集委員の他、手伝える人は、協力してください。</p>

<p>第二回　剃刀職人客殺人疑惑事件裁判<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>先週行われた初公判で、剃刀職人の殺人疑惑事件に対し、懲役5年の判決が下りたが、これを不服として第二回の公判が実施された。が、弁護人陳述で、休廷となった。本日の休廷明けは、検察の陳述からはじめます。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．178――――――――　2　―――――――――――――</p>

<p>家族観察　家族観察として、『にんじん』を読みすすめてきた。これまで読み終えた話は、日本でいえば小学生時代の出来ごとに当たる。そんなことで、一区切りとして、この、ちょつと普通ではない（世間からは模範的かもしれない）家族について、またこうした環境のなかで育った「にんじん」の性格について考察してみたい。</p>

<p>『にんじん』とは何か</p>

<p>「めんどり」「しゃこ」「犬」「いやな夢」「失礼ながら」「尿瓶」「うさぎ」「もぐら」「つるはし」「湯のみ」までのからみえてきたもの</p>

<p>　小説『にんじん』は、家族に愛されなかった一人の少年の成長記だとすると、「めんどり」から「湯のみ」までの少年の心は、どのように育ったのか。<br />
　郊外に田畑を持ち、ニワトリやうさぎなどの家畜を飼い、お手伝いさんを雇っているルピック家は、上流とまではいかないが、中流以上の堅実な一般家庭である。厳格な父親ルピック氏は、大手企業に勤めるセールスマン、母親のルピック夫人は口うるさいがしっかり者の専業主婦。お利口そうな中学生らしい兄と姉。話はこの5人家族。近所の評判はわからないが、さして問題ある家庭とは思えない。が、物語は、いきなり<br />
「にんじん、これからは毎晩、おまえが閉めに行くんだよ」<br />
の衝撃的な兄弟差別からはじまる。『めんどり』での話だ。</p>

<p>にんじんの性格をどうみるか<br />
　<br />
この話は、夜になってお手伝いのお婆さんオノリーヌが閉め忘れた鶏小屋の戸を誰がしめに行くか、という話である。母親は、最初から「にんじん」を指名したわけではない。<br />
「そうだったわ、あたしったら、なんて間が抜けているんだろう！」と、言いながらも、はじめは、まず年上の子どもから聞いている。兄と姉は、本を読んでいるふりをしているというズルさはあるが、ルピック夫人に、特別、「にんじん」虐待の意志があるとは思えない。末っ子の「にんじん」は兄や姉と比べると、ふだんのわんぱくぶりから暗闇など怖がらない、強い勇気ある性質とみたのかも知れない。その証拠に、「にんじん」は、断らない。本当に怖かったら、泣いてでも断るはずである。最近は子どもの数が減り、兄弟も少ないが、二人以上いれば、家庭内のいやなことは、要領の悪い方が引き受けることになる。『めんどり』では、「こいつには、こわいものなんかないさ」のおだてにのってしまうが。親としては、こんなとき、いつも誰を行かせるか頭を悩ますなら、あまり嫌がらない子にしておくのが無難である。そんなわけで、ニワトリ小屋の戸閉まりは「にんじん」ということになる。<br />
　『めんどり』にみる「にんじん」は、要領の悪いお調子もの、といったところか。この話だけでみれば、母親の欠点は、用事を終えて帰ってきた「にんじん」をほめなかったところにある。面倒が勝ってほめるのを忘れてしまったところにある。以後、このボタンの掛け違いは、一話ごとに大きくなっていく。<br />
「寅さん」になりつつある「にんじん」<br />
　『しゃこ』も、似たような話である。誰でも、生き物を殺すのは好かない。これから食べる『しゃこ』ならなおさらだろう。それも瀕死の『しゃこ』なのだ。その点、兄や姉、ルピック夫人の反応は正常と思える。兄は、たとえ羽むしりは「それは男の子のすることじゃない」といわれようが、断固やらないだろう。が、「にんじん」はここでも、逃げることはない。損なことにも立ち向かう。にんじんは、そんな勇気ある子どもなのだ。が、その行為は他者の眼からは、なかなか理解されない。早くも『しゃこ』で、にんじんは、家族のなかで変わり者、外れ者になりつつある。　以下は次号</p>

<p>――――――――――――――――――　3　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．178</p>

<p>第二回公判「剃刀職人客殺害疑惑事件」模擬裁判</p>

<p>休廷</p>

<p>　　裁判長・・・・・・・・・・武田結香子　　　<br />
弁護士・・・・・・・・・・春日菜花　　　<br />
検　察・・・・・・・・・・杉山知紗　　　　<br />
証人　被害者家族・・・・・・・・・　出席者　　（春日）　　<br />
証人　お梅・・・・・・・・・・・・　出席者　　（杉山）　　<br />
証人　錦公・・・・・・・・・・・・　出席者　　（春日）　　<br />
証人　山田の女中・・・・・・・・・　出席者　　（杉山）　<br />
証人　治太公・・・・・・・・・・・　出席者　　（春日）　　<br />
証人　源公・・・・・・・・・・・・　出席者　　（杉山）<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（）内は、出席者無しの場合</p>

<p>休廷中、再認</p>

<p>事件推移　1909年10月24日午後10時24分頃、麻布四角交番へ近くの「辰床」の店主芳三郎（28）が客を殺したと自首した。勤番の山田巡査が「辰床」へ駆けつけると、客用椅子に所航太さん（23）が首から大量の血を流して死んでいた。死因は、出血死。凶器は、「辰床」の商売用の剃刀。遺恨なし。業務上過失致死と無差別殺人の嫌疑。</p>

<p>警察報告　警察で取り調べた捜査官からの報告。（事件感想と調書）</p>

<p>武田結香子捜査官<br />
【事件評】<br />
犯人はそんなにも意地を張りたかったのか、ということしか思わない。自分のプライドを傷つけたくがない為に、無茶をして、全てを失ってしまった哀れな男。</p>

<p>【容疑者調書】<br />
俺には仕事に誇りを持っていた。これが俺にとっての天職だった。わずかの髭だって残さない。評判だってよかったんだ。具合が悪かろうと、道具の調子が悪かろうと、俺が失敗するはずがないんだ。気がついたら、あいつの首から地が溢れていたんだ。俺は殺してない俺が間違えることなんてないんだ。</p>

<p>春日菜花捜査官</p>

<p>【事件評】<br />
いくら名人だといえども、病には勝てない。出来の悪い弟子のかわりに病気の身体に鞭打ち、自分で仕事を引き受ける。それは芳三郎の意地でもあり、客からの信頼に応えるためだったのだろう。神経質なほどきっちりしたいというのに、熱のせいで手が上手く動かない。かなりもどかしい思いだったはずだ。しかもそのせいで事故まで起こしてしまったのだから、余計決まりが悪い。</p>

<p>【容疑者調書】<br />
何が起こったのか、全てが瞬き一つの間の出来事でした。<br />
その日は流行り風邪をひいて、熱まで出ていたものですから頭が朦朧としておりました。<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信Ｎｏ．178――――――――　4　――――――――――――――</p>

<p>けれどお客の足は止まりません。弟子二人は正直頼りがいがない。私がやらずして、誰がやれたでしょうか。熱のせいで手が動きにくい、そのせいで上手く剃ることが出来ない。何もかもうまくいかない状況に、嫌気が差しました。<br />
男の喉に赤い珠が浮かんだ瞬間、今までの客の顔が浮かびました。一度も傷つけたことなどなかったのに、何が起こったのか訳がわからなくなり、気付けば男の喉仏に剃刀をつき立てていました。全てが疲労感に襲われ、私はそこで気を失ったのです。</p>

<p><br />
開　廷　裁判再開</p>

<p>裁判長　　それでは開廷いたします。弁護人、休廷前の陳述に相違ないか。何か言い漏らし<br />
たところがあったら、つけ加えてください。</p>

<p>弁護人　　ありがとうございます。先程も申しましたが、事件は、弁解の余地はありません。<br />
被告は、事件以来、後悔の念にさいなまれながらも深く反省し被害者のご冥福と<br />
ご家族の皆様にお詫び申し上げる毎日であります。<br />
　　　　　ただ事件に関しましては、風邪熱による体調不備と、素行の悪い奉公人のことで<br />
の精神疲労、加えて、完璧な職人意識などにより、正常な精神状態を完全に欠い<br />
ていました。それ故に、本事件は、職業上による過失致死罪に当たるのではと判<br />
断致しました。よって、本件は実刑ではなく執行猶予付き判決と、当分の間の店<br />
の営業停止を要求します。</p>

<p>裁判長　　それでは検察の陳述をお願いします。初めに検察1（春日）からどうぞ</p>

<p>検察　　　はい。私共の捜査でわかっていることを申し上げます。まず被告は<br />
（春日）他者に強いられた訳でもなく、自分の意思で殺したことを自覚している。それに被害者の首の傷はどう考えても作為的なものです。（被告の妻は）自分で殺したと言って、警察に行くのを見ております。そのときの被告は、足取りはしっかりしていたし、意識もハッキリしていた、と言っております。被告人の妻が証人です。</p>

<p>裁判長　　被告人の妻、前に。</p>

<p>裁判長　　いま、検察側が申したことは真実か。</p>

<p>お梅　　　は、はい。熱のために異常ではありましたが、確かに、殺したことについては、<br />
自分でわかっていました。四つ角の交番へ悪びれることなく入っていきました。</p>

<p>お梅　　　（春日）とても仕事の出来る状態ではありませんでした。何度も止めたのですが、<br />
あの人は聴く耳なんて持ってはくれませんでした。剃刀を磨ぎ損ねたときなんて、<br />
肝が潰れたかと思うくらい吃驚したんです。泣いたって、聴いてはくれませんで<br />
した。自分がやらなきゃ誰がやる。自分の仕事に誇りを持っていました。そのせ<br />
いで変に意地を張ったんです。こんなことになると分かっていたならば、弟子二<br />
人を使ってでも布団に縛り付けておけばよかった。<br />
――――――――――――――――――　5―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．178</p>

<p><br />
検察　　（春日）身に覚えがなければ動揺しているはず。<br />
よって、精神状態を考慮しても懲役十年を求刑します。</p>

<p>裁判長　　次に検察2（杉山）にお願いします。</p>

<p>検察2　　はい、それでは私共の捜査を報告します。<br />
　　　　　（杉山）近頃の被告は常に不満が募っていた。十年もの間、客の顔に傷ひとつつ<br />
けたことのない腕を持ち誠実でいるはずが使いたちは言うことは聞かぬし風邪<br />
を引き仕事が上手くいかずからの"八つ当たり"だったのだ。奉公人の証言をお<br />
願いします。</p>

<p>裁判官　　奉公人前に。名前は</p>

<p>錦　公　　きんこうです。二年前から「辰床」で見習いとして働いています。</p>

<p>裁判長　　近頃の被告は、どんな様子だったか。</p>

<p>錦　公　　（杉山）ええ、親方には申し訳ありませんが、近頃はやっぱり苛ついていたと見<br />
えます。それを仕事の出来でなんとかこらえていたような節はあります。</p>

<p>検察2　　すると、こんどの事件は不満の爆発ということか。場所は室外と室内で違うが、<br />
本質的には秋葉原事件と同じと思うか。</p>

<p>錦　公　　へえ、よくわかりませんが、むしゃくしゃして起こした、そのように思います。</p>

<p>検察2　　すると、相手は、（杉山）誰でも良かったということですね。違う客が被害者に<br />
なっていた。その可能性もあったと思うのですね。</p>

<p>錦　公　　へえ。</p>

<p>検察2　　証言の通り、本件は不特定多数の人が被害者に成り得た事件です。<br />
よって（杉山）これは通り魔殺人同等とみなし、禁固7年を求刑する。</p>

<p>裁判長　　次は3人目の検察です。</p>

<p>検察3　　（武田）つけてしまった傷は小僧どもがつけてしまうような二、三里のものだと、<br />
自覚しているにもかかわらず、更に深く傷つけたのは許されることではない。<br />
これが殺人でなければ、何が殺人といえますか。<br />
被害者には、何の落ち度もありません。たまたまあの夜、近所にあった、あの店<br />
に行った。ただそれだけなのに主人の気分で殺されてしまう。あたら23歳の身<br />
空で理不尽に人生を終えさせられてしまった。そんなことが許されますか。被害<br />
者青年の心ちゅうはいかに。また前途有望な息子を突然に失ったご両親やご家族、<br />
友人たちの嘆きと怒りはいかばかりか。<br />
裁判長！被害者家族、関係者の証言をお願いします。</p>

<p>裁判長　　許可します。被害者関係者は前に。</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・178　―――――――　6――――――――――――――――</p>

<p><br />
被告人母親　　（春日）素行は良くなかったかもしれません。いつでも遊んでいましたから。<br />
でも親思いのとても優しい子でした。親の身からしたら、かけがえのない息<br />
子です。跡取りです。こんな理由で奪われるなんて納得いきません。無期懲<br />
役で、死ぬまで償ってもらいたい。</p>

<p>被告人母親　　（杉山）ええ、ええ。あの子が亡くなっただなんて今もまったく信じられま<br />
せん。あの子はあたしの次男坊で、人当たりが良くって友人も多い良い子で<br />
した。それにお国のことも小さいときからよく考えていて、大きくなったら<br />
兵隊になって人を守るんだって・・・そんないい子が。</p>

<p>被告人母親　　（武田）あの子はこれからが一番楽しいところだったのを一瞬にして、奪わ<br />
れたのです。人間として成長し、まだ芽吹いたばかりのところを踏みつぶさ<br />
れたのです。最近は遊びに行くことも増えてはいましたけれど、仕事も、一<br />
生懸命取り組む、優しい子だったんです。</p>

<p>検察　　　　　被害者は、親思いのやさしい前途ある若者でした。何故に床屋で殺されなけ<br />
ればならないでしょうか。被告と言い争うようなことがあったでしょうか。<br />
被害者は、はじめて入った店で、しかも店にいた被告の妻、奉公人の証言で<br />
は、上機嫌だったといいます。何一つ落ち度のない若者を、その日の自分の<br />
感情だけで殺した。被害者は通り魔にあったようなものです。いや、通り魔<br />
よりたちは悪いと思います。通り魔なら、警戒心を持って歩くこともできま<br />
しょう。が、被害者は、まったくの無防備で椅子に横たわっていたのです。<br />
被告を完全に信頼しきっていたのです。そんな若者を殺害するのは、容易い<br />
ことだったでしょう。被告は客の信頼をも裏切ったのです。本来なら、その<br />
情け知らずの残忍の犯行と親思いの被害者の前途を鑑見て、被告人に死刑を<br />
求刑したいところですが、病気と心労があったということで、無期懲役を求<br />
刑します。</p>

<p>裁判長　　　弁護人からの反論は。</p>

<p>弁護人1　　（春日）被告人は生真面目で、良い加減なことはしない人です。風邪や弟子の<br />
ことで相当精神疲労していました。そのため、適切な判断と処置が行えなかっ<br />
たのです。</p>

<p>弁護人2　　（杉山）あの時の被告人は、インフルエンザでありました。正常な判断などで<br />
きる状態でなく、手が震えるほどであったのからもあきらか。</p>

<p>弁護人3　　（武田）彼は高熱だったのにもかかわらず、店に立ったのです。これは、まだ<br />
未熟なこの職人のために、店の主としての責任を持っていたのです。</p>

<p>弁護人　　　風邪熱と心労、加えて生真面目性格が加担し、被告をその瞬間だけ心神耗弱、<br />
あるいは心神喪失状態に陥れた。その結果の事故とみるのが客観的判断ではな<br />
いかと思います。そのことを証明するため、部外者の証言をお願いします。</p>

<p>裁判長　　　よろしい。店の関係者以外の証人は、どうぞ。</p>

<p>山田の女中　山田で女中をしております。<br />
――――――――――――――――――　7　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．178</p>

<p><br />
裁判長　　あの日、「辰床」にはいったのか。</p>

<p>女中　　　はい、お昼ごろ行きました。旦那さまが、明日の夜、旅行に行くので剃刀の砥ぎ<br />
を頼まれました。</p>

<p>裁判長　　そのときの被告はどうであったか。</p>

<p>女中　　　お店は、混んでいて、小僧さんから「明日では」といわれました。が、どうして<br />
もと頼むと、奥の方で親方の「兼、やるぜ！」と叫ぶ声がしました。いつもと声が違うので、なんとなく風邪でもひいているのかと思いました。それで、少し心配になりました。</p>

<p>裁判長　　で、剃刀は、砥いでもらったのか。</p>

<p>女中　　　用事の帰りに寄ってみると、できているというので、もらって帰りました。その<br />
とき、親方は、風邪で寝ていたと聞きました。主人に話すと「珍しいことがある<br />
もんだ」と言って試しに使ってみました。</p>

<p>裁判長　　剃り具合はどうであったか。</p>

<p>女中　　　あまり切れなかったようです。主人が申すには、「このところ大忙しのようだか<br />
ら、砥ぐ手に狂いができたのではないか。親方に一度使ってみてもらえ」と、こ<br />
とづかりました。「辰床」さんは、疲れていたんです。それで、あんな事故を起<br />
こしてしまったのです。</p>

<p>裁判長　　これで検察、弁護側の陳述は終わります。陪審員は、私見を述べてください。</p>

<p>春日陪審員　自分で殺したと、しっかり自覚しており、意識混濁の様子もない。何より傷口<br />
の形状から偶発性はありえません。よって被告人は有罪でしょう。精神状態を考慮しても、行なった事実は明らかです。</p>

<p>武田陪審員　どんな理由があろうと、人を殺したことに間違いはないから有罪にすべき。</p>

<p>杉山陪審員　仕事の出来でこらえていたのならば、普通ならなおのこと、今は無理だと分か<br />
るはず。その判断すらもままならぬがやはり精神的に問題だったのだ。同情は<br />
したいが、人殺しは人殺し。しかしやはり殺人でなく業務上過失致死。</p>

<p>裁判長　　　（春日）被告人を懲役十年に処す。</p>

<p>裁判長　　　（武田）まったく殺す動機がなかったとしても一人の命を奪ってしまったこと<br />
に変わりはない。よって判決は有罪、懲役５年の実刑判決。</p>

<p>裁判長　　　（杉山）目に見えて明らかならば被害者、周囲の人々にも業務上過失致死で6<br />
年。（実刑）正常な判断が下せぬにしても、やはり誇りを持っていた仕事なら、こういったこともしっかり向き合うべき。</p>

<p>判決　　よって被告人を懲役10年（春日）、5年（武田）、6年（杉山）に処する。　　　　　　<br />
文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・178――――――――　8――――――――――――――――</p>

<p>ノンフィクション劇場　　おんぼろ町道場奮戦記</p>

<p>土壌館物語</p>

<p>平成十年（1998）一月十五日の早朝、私は目を覚ますとすぐに窓を開けた。昨夜、テレビの天気予報は関東地方に大雪注意報をだしていた。はたして団地の五階から見る外の風景は、白一色の雪景色だった。昨夜のうちから降り出したのか、相当に積っていた。そうして雪は、いまも視界がきかぬほど、降りしきっていた。牡丹雪だった。<br />
まずい道場がつぶれる！私は、急いで、ジャンパーを引っ掛けると、団地の階段を駆け下りて雪の中に飛び出していった。<br />
道場は、我が家から自転車で、七、八分、徒歩で十数分の距離の所にあった。いつもは自転車だが、このときは、雪が二十㌢近く積もっていたので歩いて行く他なかった。休日で早朝の、しかも大雪の住宅街は、無人の街のようだった。ただ雪だけが、あとからあとから降っていた。コウモリ傘は、すぐに重くなった。私は、払いながら進んだ。こんなに降っていては、もう道場はつぶれているのかも知れない。そんな不吉な予感に襲われた。が、歩を速めても雪のせいで思うようにすすめなかった。私は、もどかしい気持ちで歩いていった。角を曲がると道場が見えた。民家の間にある見るからにみすぼらしい木造平屋建ての道場は降りしきる雪のなかに懸命に建っていた。大丈夫だった。私は、ひとまずほっとした。が、すぐに、つぶれるのは時間の問題か、と思った。トタン屋根に降り積もった雪の重みで、道場全体が歪んでいたのだ。<br />
道場に入ると、降雪被害は一目瞭然だった。天井は、あちこちが破れ、雪解けの水がそこかしこに滴り落ちていた。壁のベニヤ板は膨らんだり、ねじれたりして、あちこちが破損し、そこから雪が吹きこんでいた。まるで廃屋のような道場内の光景に私は慄然となった。<br />
これ以上積もったら、確実に道場はつぶれる。なんとかしなければ。そんな危機意識に煽られたが、焦燥するばかりで実際は、何をすればよいのかわからなかった。私は、玄関の土間に茫然自失となって立ちつくした。<br />
とにかく屋根の雪を下ろさなくては。私は、のろのろと行動を起こした。隣家の庭に入らせてもらい、そこからはしごをかけて上った。ゆるやかな傾斜の屋根には、すでに相当に雪が積もっていた。早くなんとかしなければ。私は気が急いた。が、屋根にあがるわけにはいかない。せめてひさしの辺りの雪でも、と、物干し竿で作った雪かきで雪を書き落とした。だが、後から後から降り続く雪に、まったく無駄な抵抗のように思えた。しかし、私にできる対策は、雪下ろしをすることしかなかった。<br />
雪はかいもかいても後から後から降り積もった。軍手の中の手は感覚なかったが、私は雪下ろしの手を休めなかった。どれだけ過ぎたろうか。<br />
「父さん」<br />
不意に下で呼ぶ声がした。見下ろすと息子の良太が立っていた。<br />
「おう、手伝いにきたのか」<br />
私は、うれしかった。二人でやれば、だいぶ雪が下ろせるかも知れない。「交代でやればなんとかなる」私は喜んでたずねた。<br />
が、息子の返事は<br />
「母さんが、やめろと言ってた」だった。<br />
「バカいえ！」私は怒鳴った。「はしごを抑えてろ」<br />
――――――――――――――――――　9　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．178</p>

<p>「ほんとに、母さんが危ないからって・・・」<br />
良太は、そう言いながらも渋々、はしごを押さえた。<br />
私は、屋根の雪をかきつづけた。手が疲れてくると私がおりて、良太が昇って雪をかいた。しばらくして、私は今日は、息子にとって重大な日だったことに気がついた。大雪騒動ですっかり忘れていた。<br />
「今日は、成人式じゃないか　！」私は、大声で叫んだ。<br />
「そうなんだけど・・・」<br />
「もういいお前は行け」と良太をかえした。<br />
「おれ、もう知らないからな」良太はそう言い残して雪の中を帰っていった。<br />
市民ホールかどこかの箱物で開く成人式に出席するらしかった。<br />
　一人になった私は、はしごをのぼっていってなおも屋根の雪をおろしつづけた。雪は、容赦なく降り続いていた。周囲が見えなかった。もう道場は潰れるしかない。<br />
わたしは半ばあきらめながらも、それでも雪を掻きつづけた。手がかじかんできた。頭がぼんやりしてきた。降りしきる雪のなかでこの道場にはじめて来たときのことや引き継ぐことになった今日までのことが次々と思い出された。</p>

<p><br />
息子の入門</p>

<p>良太が小学一年生になった日。入学式が終った後、家族全員で道場に行った。二年前、<br />
東京の品川から越してきた。散歩しているとき偶然、通った住宅街の道筋に柔道の道場を見つけた。トタン屋根の掘立小屋が、住宅街の民家の間に建っていた。<br />
「講道館柔道練習所」「望月道場」古びた二つの板看板がかかっていた。こんなところにオンボロながら柔道の町道場がある。いまどき町道場は珍しい。生徒募集の貼り紙があった。「ここに通ってみるか」と、良太に聞くと「うん」と頷いた。そんなことで、小学校に入ったら入門させることにしていた。<br />
道場主の家は近くにあった。訪ねてみると、お婆さんが出てきた。道場主の母親だろう、と想像しながら用件をつげると彼女は家の中に向かって<br />
「先生、先生」<br />
と、呼んだ。<br />
　ごそっと物音がして、小柄のご老人がでてきた。白髪で、耳がやけに大きい。こちらも多分、道場主の父親かなにかだろうと思っていると、老人は、大きな目でじろりと見ると言った。<br />
「入門ですか」<br />
　そのとき望月由太郎先生は、すでに七十七歳であった。柔道をおしえられるだろうか。そんな心配がよぎった。はたして、その心配は的中した。<br />
　私は良太を送っいったとき、ときどき外から練習を見物した。そのころ十人くらいの子どもが習いにきていた。私の他に二三人の子の親が迎えがてら見にきていた。<br />
望月先生の教えかたは厳しかった。礼儀もうるさく注意していた。そのころ生徒は小学生だけであった。子どもたちは先生の前では緊張しているようにみえた。見学の親たちも「やはり礼儀がよくなっていいです」と話し合っていた。が、しばらくしてあることに気がついた。子どもたちの態度のよさは表面上だけだった。望月先生がちょっとでも目を離すと、一気にたががはずれたようにふざけあっていた。これもかれも先生がお年で、体で柔道を教えていないせいと思われた。「やっぱり、じかに指導<br />
――――――――――――――――――　11　―――――  文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ．178</p>

<p>してくれる人がいないと無理だねえ」<br />
迎えにきた親たちとこんな会話をかわすようになった。<br />
　私は、柔道経験はあったが、そのころは、もう柔道は卒業した。柔道着を着ることはないと思っていた。が、稽古に熱が入らない子どもたちをみているうちに、私も一緒にやってみようという気持ちになった。大人が一緒にやれば子どもたちもやる気になるのではないか。息子のためにも、自分の健康のためにも、やってみようと思った。<br />
　私は、押し入れから柔道着を引っぱり出し道場に入っていった。<br />
道場で、私が一緒に受身をはじめると、子どもたちは、大喜びした。大人が一緒に練習をするのが、よほどうれしかったようだ。私が昔取った杵柄で、回り受身や、飛び込み受身をやってみせると驚いた。道場主の望月先生からは、これからもやってくれるよう頼まれた。その頃、私はフリーライター開店休業中だったので、引き受けることにした。<br />
　次の日から、私はボランティアで子どもたちの指導をすることになった。昭和五十九年五月のことであった。</p>

<p><br />
心もとない柔道歴</p>

<p>　いらぬ節介から、柔道の町道場で師範代としてボランティアをはじめることになった私だが、私の柔道歴は、心もとないものだった。<br />
　私の柔道歴は、およそこんなところである。<br />
一九六五年四月に神奈川県藤沢市にある石井道場に入門。これが、私の柔道経験<br />
のはじまりだった。十八歳のときである。同じ年、東京世田谷にある日大農獣医学部柔道部に入部。一番最初の試合は、水道橋にある経済学部道場で行われた学部対抗試合で歯学部四年生と当り、寝技で一本負けした。最初の勝ち試合は野方にある警察学校との試合で背負いでの一本勝ち、と記憶している。大学で稽古する傍ら、バイト先の毎日新聞社の柔道クラブに所属、丸の内警察の道場にも通っていた。大学三年の夏、学園紛争で、校舎は閉鎖された。授業がなくて学生たちは困ったが、運動部の学生たちも困った。暇になった。<br />
私は、柔道着ひとつ持って日本をとびだした。いろんな国の道場をまわりながら柔道が盛んなフランスまで、行ってみようという計画だった。オランダのヘーシンクの道場で柔道ができれば。途中、国に帰って道場を開くというスイス人の青年と一緒だった。カンボジアのプノンペンに講道館から派遣されていた柔道家がいた。警察、軍隊、フランス人相手に柔道を教えていた。Ｏ・Ｔ先生は、たった一人で外地にいたこともあって、私が現れたことを大層喜んでくれた。柔道はめっぽう強かったが、大酒飲みが玉に傷であった。メコンの河岸にあるダンスホールで酔って大暴れして、何人もの警官を投げ込んだという武勇伝をもつていた。夕方になるとＯ先生の運転するバイクの後ろに乗って、各道場を回った。日本人はめずらしいので、休む暇ないくらい稽古をした。私はずっとプノンペンに留まってもよいと思ったが、一九七０年のクーデター騒ぎで出国した。帰国したあと、再度プノンペン入りを窺がっていたが、内乱は広がるばかりで、結局は断念することになった。その後、私は、業界紙記者になったが、週に何日か講道館で汗をかいた。業界紙記者を辞めたとき、柔道とも縁を切った。それが、息子が小学校に入学して、再び柔道をはじめることにしたのである。なんとも心もとない柔道歴だが、これも因縁である。<br />
私を支えていたのは、柔道の創始者嘉納治五郎の柔道理念だった。　　　つづく</p>

<p>文芸研究Ⅱ下原ゼミＮｏ・178――――――――　12――――――――――――――――</p>

<p>ゼミ雑誌『旅路報告』作成経過</p>

<p>ゼミ誌は、ゼミ一年間の成果の証です。全員で協力して完成させましょう。テーマは、日常です。掲載作品は、課題から「車内観察」「何でもない一日」、自由創作です。</p>

<p>ゼミ雑誌編集長　→　武田　結香子さん　　<br />
ゼミ誌副編集長　→　藤塚　玲奈さん　　<br />
　　　　　　ゼミ誌編集委員　→　他ゼミ員全員</p>

<p>Ⅰ　ゼミ雑誌作成進行報告<br />
　　　5月25日　ゼミ誌ガイダンス　武田編集長<br />
5月29日　武田編集長より提案。自由創作も視野に<br />
6月　６日　モチーフ『日常』、内容＝課題・自由創作　頁300（一人20枚）<br />
　　　　　　業者＝藤原印刷　写真・図案は無し<br />
6月13日　ゼミ誌内容欠席者にメール、5名返信、武田報告<br />
6月20日　題、レイアウトについて　<br />
6月27日　題公募<br />
7月4日　題「旅路報告」に決定<br />
10月3日　表紙デザイン決定<br />
10月17日　自由創作希望者7名　提出5名</p>

<p>Ⅱ.　ゼミ誌原稿、最終締切日10月24日（月）</p>

<p>Ⅲ.　ゼミ雑誌の納付日は、2011年12月15日です。厳守のこと。<br />
　　ゼミ雑誌発行申請書】【②見積書】【③請求書】</p>

<p>1.【①ゼミ雑誌発行申請書】所沢／出版編集室に期限までに提出　完了<br />
2.　6月6日ゼミ雑誌題・型・頁・業者・内容（案）決まる。　　完了<br />
3.　10月24日、ゼミ誌原稿最終締め切り。<br />
4.　印刷会社を決める。藤原印刷に決まる。レイアウトや装丁は、相談しながらすすめる。<br />
5.【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。<br />
6.　11月半ばまでに印刷会社に入稿。（芸祭があるので遅れないこと）<br />
7.　雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。<br />
8.　印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。</p>

<p>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />
編集室便り<br />
　　住所〒274-0825　船橋市前原西6-1-12-816　下原方<br />
　　メール：　TEL・ＦＡＸ：047-475-1582　 toshihiko@shimohara.net<br />
提出原稿は、メール、ＦＡＸでも受け付けます。(送信でもらえると二度手間と間違い打ちがなくなるので助かります)<br />
ゼミ評価は、以下を基本とします。<br />
出席日数　＋　課題提出（ゼミ誌原稿）＋α　＝　100～60点（Ｓ，Ａ，Ｂ，Ｃ）</p>

<p></p>

<p>テキスト・志賀直哉『兒を盗む話』</p>

<p>尾道幼女誘拐事件<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　名前<br />
【事件の推移】について書いて下さい。客観的に「どんな事件か」</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>【容疑者の調書】を創作してください</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>【検察の陳実】を作成してください。被害者の言い分を</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
【弁護側の陳実】を、なんとかして無罪の勝ち取りを</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>【証人の証言】検察の立場から（何人でも）</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p><br />
【証人の証言】弁護側（何人でも）</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>【裁判員としての私見】自分が裁判員だったらを考えて</p>

<p><br />
</p>]]>
    </content>
</entry>

</feed>

